タヌポンの利根ぽんぽ行 上曽根の水神宮

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利根町の水神宮 目次



関連リンク


利根町の水神宮では、押付新田の水神宮と押付本田(布川)の水神宮に続いて
3番目に訪れたのが、上曽根の水神宮。
他の2ヵ所もそうでしたが、この上曽根の水神宮にたどり着くのもなかなかたいへんでした。
クルマでは入り込めないような細い道の途中に、まるで隠れるかのようにひっとりと・・・。

でも、それに近づくための入口などの雰囲気はタヌポン好み。
水神宮の前には前に直進する道と左右に走る、いずれも細い道がありますが、
直進は行き止まりで、最初、訪れたときは神社から見て右手の道からでした。

その右手の道の入口からは、2つの祠が離れたところから見えて、なにかありそうな感じ。
それを目指して歩いてきたら上曽根の水神宮が見つかったというわけです。

しかし、逆の左方向からは、その入口がなにか民家の私道のような感じですから、
ちょっと探し当てるのは難しいと思います。

たどりつくための最初の目印は、竹垣。その角から進んで行くと、奥に2つの祠と3つの石塔類、
そしてそのすぐ先の左手に水神宮境内への入口の石段が見つかるでしょう。


2014年初夏、主に石造物の再調査で訪問。
目当ての石仏が消失しているという、奇妙な体験をしましたが、
ほかのものをひととおり再確認・再撮等を行い、全般的に修正・追記しました。
→ 若干の石塔の分類名を修正追記。2014年夏以来8ヵ月ぶりのサイト更新!(15/03/19)


利根町西部マップ

入口と境内の主な施設

水神宮へのアクセス

水神宮入口

上の利根町西部マップで、
上曽根の水神宮の北と南に
東西に走る道路が描かれていますが、
水神宮は、北の道幅の広い道路に
面しているのではないのです。
南の細い道路に面しているのです。

その南の道の西側の入口が、
左の民家の竹垣のところです。
樹木のトンネル?を進むと
水神宮にたどりつく直前に
左手に祠が2つ見えてきます。
その紹介は、後半の
水神宮そばの祠など にして、
ここでは一気に
水神宮の前まで進みましょう。

水神宮入口

写真の右手に見える石段が水神宮の入口。
さきほどの西からの道から水神宮を通り越して
その少し先から水神宮を振り返って右手に見たところ。
逆の東の入口から来れば
こういう見え方になるというわけです。

水神宮正面

水神宮入口

これが、上曽根の水神宮の入口です。
6段ほどの石段の上。
水神宮の神額のある鳥居。
その奥に、水色に染められた
本殿が見えます。

おや、入口右脇に、
なにか石碑のようなものがあります。
それから見てみましょうか。

三峯講供養塔1

入口右の三峯山の石碑 三峯山の石碑左上拡大

石段の脇には、
上部に「三峯山」と記された石碑があります。

三峰神社は山岳登拝型の神社で、祭神は、
神代七代の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と
伊邪那美命(いざなみのみこと)、天照大神を
祀ったものと言われています。

三峰山は埼玉・山梨の境、「雲取山・白岩山・妙法ヶ岳」の三つの峰を総称したもので、
江戸期に天台修験の場となり仏堂も建ち、
仏教色の強い三峰講が生れました。明治に
仏堂が廃棄され神社が復活しましたが、
江戸期造立の「三峯山」と記された石塔類は、
「三峯講供養塔」に分類されるようです。

(15/03/19 修正追記)

「三峯講供養塔」の上部から中央右にかけて、ウメノキゴケで見辛くなっていますが、濡れ雑巾で拭いてみると、
左上に、「文久四年甲子孟春」が見えます。孟春とは初春の意ですが、陰暦の正月を指します。
文久四年は2月30日改元で元治元年、正月なのでここではまだ文久時代。すなわち、文久4年(1864)1月の建立です。

本体: 高129cm、幅90cm、厚19cm。

三峯山の石碑下部拡大

この石碑は、中央以下に細かく人名が記されています。
この石碑を造立・奉納した人たちの連名碑と思われます。
約40数名。判読できるものを右に列記します。

ここには、飯島利庸墓碑と飯島君之墓銘 で紹介した
「飯島利兵衛」の名が登場します。
同一人物か、もしくは代替わりした人物と思われます。
また本コンテンツ後半の石仏関連で、
願主等で登場する人物名も見えます。

なお、「下ソ子」は下曽根です。

全景写真右下は石碑を支えている単なる石のようです。
石碑の裏面はおそらく何も記されていないと思いますが、
とても動かして確かめられる重さではありません。

□□□□□□□□兵衛
□□□□□□□仁右エ門
□□□□□□野左エ門
□□□□□□□吉右エ門
□□□□□同□□□門
□□□□□豊島□□門□□□鈴木甚兵衛
□□□□□同□□右衛門□□□豊島庄左エ門
□□□□□伊左エ門鈴木嘉左エ門
□□□□□傳左エ門□□□栗原喜左エ門
□□□□□□□□友藏□□□鈴木清左エ門
□□□□□鈴木□□忠吉□□□鈴木五左エ門
□□□□□鈴木宇右エ門□□□武藤又兵衛
□□□□□清左エ門隠居矢口權兵衛
□□□□□飯塚小左エ門□□□鈴木曽兵衛
□□□□□仲村久左エ門□□□仲村文左エ門
□□□□□飯島利兵衛□□□利兵衛隠居
□□□□□菅田七左エ門飯島嘉兵衛
□□□□□鈴木忠右エ門□□□勝村權右エ門
□□飯嶌忠兵衛□□□五良兵衛
□□□□飯塚治良左エ門□□川村庄兵衛
□□□□大谷六兵衛□□□飯塚三五左エ門
□□□□石橋伉右エ門
□□□□大谷伊右エ門□□□醫東山大光経
下ソ子□ □巻島庄右エ門
ヨコスカ□□大工橘藏


鳥居

鳥居

一見、神明系の鳥居のように
見えましたが、明神鳥居ですね。
サイドが垣根に隠れていました。

この鳥居もそうなのですが、
上曽根の水神宮の由緒・沿革等は、
町史に記載されていません。
不詳ということではなく、
なにか記録があるのかも知れません。
ただ、水神宮というからには、
水波能売命(みずはのめのみこと)が
祭神であることだけは確実です。

神額

下の左右の神額には5年の年月のちがいがあります。水の文字などがかすれていますが、材質のせいもありますね。
ところで、どうも神額の文字、「宮」なんかあまり上手ではないような・・・。そうでもないのかな?失礼しました。
書家の 杉野東山 書などの篆額はさすがに達筆だと思うのですけれど・・・。

神額 5年前の神額

本殿

本殿

拝殿・本殿と別れているわけではなく、
本殿のみの施設といっていいでしょう。

以下で分かるとおり、横のラインの美しい流れ造りです。

ちなみに、この本殿の前に段々が付いていますが、
人が上るためのものではなく飾りのようです。(当り前か)
段のいちばん下が地上から50センチほどの高さにあるし、
それに足をかければ頭が屋根につかえます。

おばかなタヌポンは一瞬、上ってもいいのかなと・・・。
しかし、そんなことをしたらきっと本殿は壊れてしまうでしょう。
危ない、危ない・・・。ときどきヘンな誘惑にかられて困ります。

流造の本殿

紅梁と屋根に「水」の文字

本殿正面上部の紅梁には「水」の文字をかたどった彫刻がなされています。また、屋根のサイドにも「水」の文字。

草書体「水」

ただし、屋根の文字は、楷書体ではなく、草書体のくずした文字に見えます。

紅梁 屋根に「水」

水神大宮

水神大宮の額

本殿奥上部にはべつの額が。
水神大宮とあります。
これは、なんと読むのでしょう。
すいじんたいぐう?もしくは、すいじんだいぐう?

向かって左横、いや右横にも額が・・・。

本殿左

水色の文字で記された額ですね。徹底して「水神宮」の水色にこだわっていますね。
ほかの額も水神宮と思いますが、ひとつはもう消えてしまっています。石か金属製で彫らないと結局、かすれてしまいますね。

本殿左横 本殿左

本殿右

右横にも3つの額がありますが、もうほとんどかすれて読めません。
ひとつだけ「罔象女命」と読めるのは、まさしく水神社の共通の祭神である水波能売命(みずはのめのみこと)の別字ですね。

本殿右横 本殿右

本殿下の石祠

本殿下石祠

本殿の祭壇(人が登れる大きさではありません)の真下をのぞいてみると
なんと、これこそご神体ともいうべき石祠がひっそりと安置されていました。
では、上の祭壇の中にはなにがあるのでしょうか?
ああ、見てみたい、と思いましたが、開けられないようです。

本殿右横

下の石祠には、中央に「水神宮」、
右に「享保七寅天十月吉日」。
享保7年(1722)の建立。相当、古いものですね。

石祠のサイズを測りたいのですが、
近くに寄れないのでこれは概算でしか・・・。

本体: 高76cm、幅40cm、厚46cm。

御歩射(おびしゃ)

御歩射

1月末に訪れたとき、境内左手の石祠類のところに、
弓矢と的が置かれていました。
まったく同じ日に、同じものを 押付新田の水神宮 でも見ました。
的は竹の上に薄い紙を貼っただけの簡易なもので、
その中心が射られた様子で穴が開いています。
これは、御歩射(おびしゃ)の神事が、
ここでも、すでに行われて終了しているということですね。
1週間ほど早く来ていれば2ヵ所で見ることができたのですね。

ちなみに、御歩射(おびしゃ)とは、以下参照。
御歩射

手水

神木の手前にある手水。サイドには山にウの字(ヤマウ?)の屋号マークが付いています。商人からの奉納でしょうか。
右は1月末、朝とても冷え込んだ日の撮影。3時頃でしたが、手水の形の氷が、5ミリくらいの厚さでまだ残っていました。

手水 手水と氷
手水左側面

左は、手水の左側面。
2行ほど縦に何か文字が見えるのですが、
2行目の「酉九月吉日」はなんとか見えますが、
1行目はどうにも判読できません。
冒頭は「明」かなとも思いますが、明治・明和・明暦・・・。

本体: 高33cm、幅69cm、厚35cm。台石: 高14cm。

神木?など

紹介がこんなにあとになりましたが、実は、この境内に訪れて、最初に驚いたのがこの巨木。
境内自体があまり広くないせいもあってか、とてつもなく大きく見えます。神木だと思いますが、欅でしょうか。
→ やはりケヤキでした。幹周3m77cmは、利根町の一本立ち巨木で23位にランク。

上記データは、利根タブノキ会「利根町の巨木とタブノキ」によります。

神木 神木
樹木 樹木

ほかにも、この境内には、
本殿の背後に大きな樹木が何本かあります。
押付新田の水神宮もそうでしたが、
棕櫚の樹などもなぜか植えられていますね。
また、境内の左手には、
巨木の倒木などもありました。
もともと巨木に囲まれていたところに、
神社を建てたのでしょうか。

鳥居前の農道

鳥居

水神宮だからでしょうか。
水色の色彩がやけに印象的な
上曽根の水神宮でした。

前に直進できそうな
小路が見えますが、
農道で行き止まりのようです。

境内の石祠・石塔類

境内左の石祠・石塔類

境内左手を見ると・・・
この写真手前にある、四角いコンクリートもそうですが、
(おそらく祭礼時の幟を立てるための土台と思われます)
何と言っても、背後の十九夜講中の石柱が目に付きます。
この写真ではそんなには見えませんが、
近くで見ると、バカデカイです。どうして?

十九夜塔

十九夜の供養塔 十九夜の供養塔側面

表面は「十九夜講中」。
十九夜の供養塔ということだと思いますが、
大きさはともかく、上部の丸い穴は?
ポールを横に立てるのもおかしいし・・・。
十九夜ということだから、
あのなかにろうそくを立てて常夜燈に、
ということなんでしょうか?
ほかでは見たことないしなあ。

右側面は、「安政六己未秊秋」、
安政6年(1859)秋の建立。
でもこれ、ほんとにでかいですよ。
後ろの石祠が小さく見えますからね。

ちなみに「秊」は年の異体字。
季節の季ではなく、ネンと読みます。

本体: 高145cm、幅42cm、厚29cm。

不動明王塔

不動尊

左奥にある「不動尊」は、不動明王(ふどうみょうおう)、
梵語(サンスクリット)アチャラ・ナータで、
一般には「お不動さん」の名で親しまれています。
十九夜塔と同様、仏教系ですね。
どうしてこれらは、水神宮の境内に?

この石碑、建立年が記されていません。
碑の裏面かなと思って、よいしょと起して、
覗いてみましたがなにも記されていない様子。

そのかわりというか、建立関係者の名前が、
以下写真のように石碑の下部にずらりと25名、列記されています。

ちなみに、名前で、「エ」はア行、「ヱ」はワ行をあらわすのですが、
この銘文では上段に「エ」が使用されていて、脈絡がありません。

本体: 高72cm、幅48cm、厚12cm。

不動尊石碑下部

勘兵ヱ□□又兵ヱ
甚兵ヱ□□小左ヱ門
仁右エ門權兵ヱ
勘右エ門四郎兵ヱ
伊左エ門久右ヱ門
八右エ門利兵ヱ
庄左エ門嘉兵ヱ
喜左エ門權右ヱ門
嘉左エ門五郎兵ヱ
□□三五左ヱ門
宇右エ門忠兵ヱ
五左エ門次郎右ヱ門
□□□□□佐右ヱ門

光明真言塔

読誦塔

中央に「奉供養光明真言百萬遍
右に「文化十三丙子二月吉祥日」、
左に「十九夜講中」。

文化13年(1816)2月建立ですが、
十九夜講中とあるので、これも「十九夜塔」と呼ぶべきものかも知れません。
当初、光明真言を百万遍唱えた記念のものなので「読誦塔」の一種としましたが、
『日本石仏事典』の分類法では「光明真言塔」が独立して存在しています。

同様のものが押付本田の水神宮にもありました。
詳しくは その項目 を。

本体: 高77cm、幅38cm、厚20cm。

(15/03/19 修正追記)

石尊大權現

石尊大権現 石尊大権現

さて、読誦塔の右隣りにある石祠ですが、
当初、冒頭の「石」が判読できないばかりか、
石尊大權現」という存在も知らなかったため、
まったくお手上げの状態でした。

それが、撮った写真を拡大してよく見てみると、
小御嶽」や「大天狗」「小天狗」の文字。
これにより、「石尊大權現」と判読できたのですが、
はなしはそれだけで終わりません。
いろいろおもしろいことが分かりました。

大山阿夫利神社

この石祠は、中央に「石尊大権現」と記され、その左右に「大天狗」「小天狗」と書かれています。
一般に石尊大権現といえば、神奈川県の「大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)」を指すのだそうです。
この神社関連の石碑にも、石尊大権現・大天狗・小天狗と記されているそうです。
これだけなら、大山阿夫利神社のことを付記すれば、この石祠の説明となるわけなのですが、
石祠の頭のほうに「小御嶽」が付いている場合、まったく別の神社の話になってしまうというのです。

小御嶽神社

小御岳神社(こみたけじんじゃ)とは、標高2340メートルの富士山5合目に現在も実在する神社です。
ここに勧請された富士太郎坊という天狗が、小御嶽石尊大権現で、昔は、石尊大権現と呼ばれていたというのです。
神仏習合時代はそうでしたが、それが、明治初めの神仏分離令により、小御岳神社と公称したというわけで、
小御嶽が付記された石尊大権現は、「大山阿夫利神社」ではなく、「小御嶽神社」を指す、ということになります。
なかなかおもしろい話ですね。石尊大権現にも2種類あるということなのですね。

磐長姫命

さて、小御嶽神社ですが、その祭神は、大山祗命の長女の磐長姫命(いわながひめのみこと)を主神としています。
富士浅間神社の主祭神が木花開耶姫(このはなさくやひめ)で、富士山5合目にある小御岳神社の主祭神が磐長姫命。
この2人は大山祗命の娘で姉妹なのですね。しかも、磐長姫命は醜女(しこめ)、妹の木花開耶姫は美人と言われています。
この大山祇神の娘2人が、現在の皇室の直系にあたる瓊瓊杵尊に嫁した顛末が古事記の記述にあります。

磐長姫命は、大山祗命の命により、木花開耶姫とともに天孫である瓊瓊杵尊の元に嫁ぐのですが、
醜かったことから父の元に送り返されました。父の大山祗命は怒ります。
磐長姫命を嫁がせたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように、
木花開耶姫は天孫が花のように繁栄するようにと誓約を立てたからであるとし、
長女磐長姫命を送り返されたことで、天孫の寿命が短くなるだろうと予言したということです。

ということで、上曽根の水神宮の境内にある「石尊大権現」は、祭神が磐長姫命ということになります。
ややこしいですから、石尊大権現などと呼ばずに、小御嶽神社と呼べばいいのでは?

石尊大権現石祠右側面

左は、石祠の右側面。
文政十三寅年二月吉日
文政13年(1830)2月の建立。

その下は以下の台石の右側面です。

石尊大権現台石右側面

十九人
は台石表面の「講中」に
続くものと思われます。

願主」は、
清右エ門」と
三左エ門」。

本体(台石含):
高89cm、幅46cm、厚46cm。

三峯講供養塔2

三峯山の石祠 三峯山の石祠左側面

水神宮入口石段右にもあった「三峯山」。
台石には「講中」。
左側面には「安政四丁巳年六月吉日」。
安政4年(1857)6月の建立。

読み辛いのがその下の台石部分。
以下、拡大して見ます。

三峯山の石祠台石左側面

世話人」5名の名前ですが、
欠損して読めない部分があります。

喜左エ門
□左エ門
清左エ門
五左エ門
權兵エ

本体(台石含): 高92cm、幅46cm、厚37cm。

石灯籠

御宝前」とあれば、灯籠と思いますが、肝心の「火袋(ひぶくろ)」の部分が欠損しています。これでは役立たずですね。
写真中央は左側面で「文化四卯十二月吉日」。つまり、文化4年(1807)12月の造立。
右は背面に刻まれた文字。「大森村 久右衛門」。大森とは現在の印西市大森のことでしょうか。
難物は久右衛門の左に見える文字。これは宿題です。

石灯籠 石灯籠左側面 石灯籠背面

本体(火袋欠損): 高90cm、幅46cm、厚29cm。

力石

力石

「力石」と思われる大きな石が、
十九夜塔 の真後ろの草むらに隠れていました。
銘は彫られていないので詳細はわかりませんが、
琴平神社の力石 と同様のものと思われます。

本体: 高26cm、横25cm、縦62cm。

仏塔など

下左が2005年当時。境内右手の奥のほうに7基ほど確実にあったのです。それが、詳細を調べようとしたら・・・。
右のように跡形もなく消えてしまっています。せっかく、このために訪問したのに・・・。

ほか石仏 消えた石仏

ちょっと諦められなくて、水神宮を出て、裏手の畑で仕事をされていた婦人にたずねてみました。すると・・・。
なんと「最近、荒らされてしまった」。つまり、盗まれた可能性があるとか。
もし、そうなら、とても残念なことです。しかし、全基運ぶのはちょっとたいへんなのでどうなのでしょう?
なにかの間違いでどこかに保管されているのかも知れません。その可能性について、婦人は・・・
「ここの管轄が早尾の天神様なのでもしかしたらそこに・・・」ということでしたが、早尾天神社にはありませんでした。
上曽根の水神宮が早尾天神社の管轄というのがちょっと意外な感じがしました。

上記仏塔、移転先判明

移転した石仏

上記は盗難ではなく、すぐ近隣の農家?の農地に
移転されていたことが判明しました。
これも 鎌倉街道の新ルート 発見でお世話になった
根本さんが発見し、場所を教えてもらいました。

ようやくその場所を訪問して、左のように。
ただ、これらはすべて戒名等が彫られた墓塔でした。
従って詳細は割愛させていただきます。

(16/04/29 撮影および追記)

水神宮そばの祠など

水神宮へ向かう道

右手は、例の竹垣。
あの道を少し進んでいくと、
ほら、左手に、
祠のようなものが見えてきますね。
その先には、なにか石塔らしきものが
立っているのも見えます。

あれが、水神宮かどうかは、
最初は、分かりませんでしたが、
何かがあることは確かです。
近づいてみましょう。

2つの祠と3石塔

近づいてみると、それは四郡大師らしき祠が2つと、3つの石塔でした。水神宮という感じではないですね。
下右の写真は、2つの祠を同時にと、これでもせいいっぱいバックして撮ったのですが、ムリでした。
幅2mもない小路で、反対側は垣根になっているのです。何年か後に一眼レフを持ってきましたが、やはりダメです。

見えてきた祠 祠ふたつ

左は子安観音塔

子安観音の祠

左の祠です。中をのぞいてみると・・・。
子供を抱いた観音様のような石像が安置されているようです。
これは、四郡大師ではないですね。子安観音塔でしょう。

子安観音
子安観音右側面 子安観音左側面

試してみるものですね。
格子からなんとか石仏の左右側面を
撮ることができました。

右側面は「女講中十三人
左は「天保四巳正月吉日」。
天保4年(1833)正月の造立です。

さすがに、サイズを測るのはムリでした。

右は四郡大師18番

大師祠

右の祠はやはり四郡大師のようです。
上部に新四国18番と題して、詩のような言葉が記された額が掲げられています。
これも、文字が少しかすれていてはっきりと読めません。
また、内部には、大師の像が安置されていました。

かすれた文字は御詠歌と判明!

これは、18番札所共通の御詠歌で、以下。
子をうめる その父母の 恩山寺 とぶらいがたき ことはあらじな
ちなみに、四国88ヵ所18番札所は、母養山恩山寺(ぼようざん・おんざんじ)。
御本尊は薬師如来、ということです。(11/03/11 追記)

額 大師像
文字の消えた番号札

四郡大師に札所番号はないかと見てみたら・・・。
なんと札がかかっています。
しかし、これも文字がかすれて読めません。
さわっていると、上部の釘もさびていて、札が取れかかっています。

ここには、数値が確かに記されていたものと思われます。
さて、それは、何番?
額に表示された新四国18番とは、
必ずしも一致しない場合があるので、
簡単には18番と断定できません。

大師18番判明

大師18番判明

2014年の再調査で新事実が判明しました。
まったく期待していなかったのですが、
番号札もいつのまにか新しくなっていたようです。
やはり18番でした。そうでないと困るのですが・・・。

また、台石には願主ほかの銘文も。
當村
願主 武藤又兵衛
世話人 五左エ門 宇右エ門

武藤又兵衛さんは、三峯山の石碑 でも登場、
また以下で紹介する石仏でも建立者となっています。
この地区の有力者ですね。

四郡大師は、文政元年(1818)に霊場200ヵ所造り終えたということなので、この大師像もそのころの造立でしょうか?

本体: 高49cm、幅29cm、厚20cm。台石上: 高14cm、幅36cm、厚24cm。台石下: 高19cm、幅47cm、厚30cm。

二十六夜塔など3基

いちばん右が二十六夜塔。二十六夜塔などいわゆる月待講についてはまた別の企画で説明したいと思います。
真ん中は、出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)と秩父・西国・坂東が記されています。巡礼に関する供養塔ですね。
そして左の石塔は、二十六夜講と記されています。右端の塔と関連があるのでしょうか。
右の写真はこれら石塔と祠の位置関係。この右手のほうに水神宮の入口があります。

二十六夜塔など3基 二十六夜塔など3基

二十六夜塔1

二十六夜塔1

地蔵菩薩の刻像を中心に、右に「二十六夜講 同行十七人」とあります。
二十六夜塔の本尊は一般に愛染明王とされていますが、
地蔵菩薩の場合もあるのですね。

左には「寛延二巳十月吉日 願主 西運」とあります。
寛延2年(1749)の「二」は「三」に見えるのですが、それだと巳年になりません。

願主の西運とは僧侶の名前のように思われます。

本体: 高62cm、幅27cm、厚16cm。

三山百番塔

巡拝塔 巡拝塔背面

上部に大日如来をあらわす種子、
アーンクがあります。その下に
湯殿山 月山 羽黒山」の出羽三山、
さらに「西國 秩父 坂東」の百観音霊場。
それらの巡拝記念「供養塔」です。

裏面には、「天保十五甲辰二月吉日
當村 武藤又兵衛建之」。
天保15年(1844)2月の建立です。

本体: 高87cm、幅37cm、厚11cm。
台石: 高17cm、幅54cm、厚56cm。

二十六夜塔2

二十六夜塔2 二十六夜塔2背面

二十六夜の文字塔です。

裏面は、前記巡拝塔と全く同様、
天保十五甲辰二月吉日
當村 武藤又兵衛建之」。
天保15年(1844)2月の建立です。
一瞬、勘違いして同じカットを
撮影したのかと思いました。
武藤又兵衛氏は、同時期に2基も造立できる経済力のある人物のようです。

本体: 高90cm、幅57cm、厚19cm。
台石: 高24cm、幅87cm、厚40cm。


(16/04/29・15/03/19・14/06/18・11/03/11 追記) (11/02/03 再構成) (05/07/23) (撮影 16/04/29・14/06/16・14/06/14・11/01/28・09/03/17・05/07/17)


本コンテンツの石造物データ → 上曽根の水神宮石造物一覧.xlsx (15KB)