タヌポンの利根ぽんぽ行 大房集会所周辺

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目  次


更新経過

大房地区に関して、古道研究されている根本さんより数多くの新発見情報をいただきました。
なんどか同地区を訪問し、タヌポンが怠っていた名家への直接訪問等を通じて、
新規項目「薬師堂」「二十三夜塔」「大野邸の庚申塔」「文間小学校と来迎院」を追記。
(16/06/24)


2013年より石造物データをページ末に掲載するため
各コンテンツを順次見直ししていくことにしました。
この一環で2016年、本コンテンツも石仏の詳しい再調査をしました。
震災前後で変化していることが、前回の再編成で気が付かなかったものもありました。

今回の更新では、叙述の関係で、新たに次の4編を中心に構成し直しました。
「道祖神」・「集会場と大師近辺」・「集会場寄り石仏」・「道祖神寄り石仏」。
ただし、東もしくは西からという順番ではなく、
位置的にはランダムな説明となりますのでご注意ください。(16/06/01)


大房地区は何回か訪れていたのですが、コンテンツ制作は最後のほうになってしまいました。
なかなか由緒等が記されている『利根町史』などの文献が見つからなかったからです。
そうした状況は現在もさほど変わりなく、写真だけの紹介にとどまっている項目も多々あります。

でも、そうこうしているうちに、石仏の設置場所が変化したり、また東日本大震災も勃発。
昔より多少は知識も得たりしているので、あらたに再撮し、目次変更等で再構成してみました。(12/05/14)


最初に「道祖神」を発見、次にその先の県道の近くに集会所を見つけました。
その間には、大師堂や地蔵菩薩塔、大きな墓碑、他に石仏等々がたくさん置かれています。
道祖神を神社とするには規模が小さいうえ、付帯施設は仏教関連のものばかりです。
かといって、大房集会所の敷地というには、縦に間延びしているような形です。
したがって、神社境内の施設とか、集会所敷地内の云々という説明ではなく、
便宜上、タイトルを「大房集会所周辺」とし、各項目独立した展開で構成しました。(06/06/23)


利根町北東部マップ

このコンテンツでは、主に大房地区の北、大房集会所とその周辺のポイントを紹介します。

大房の道祖神

大房の集会所は、県道・立崎羽根野線から西に少し入ったすぐのところですが、
道祖神は、県道から1本内側(西南側)の道路から、集会所のほうへ向かう入口に建っています。

大房の道祖神 鞘堂

神明鳥居

神明鳥居

小さめの神明鳥居が、隣家の塀に隣接して立っています。
神額もなので、当初は道祖神と言うことが分かりません。

本体: 高194cm、幅126cm、厚13cm。

上右は、本殿の鞘堂。扉を開けて中を見たいのですが、
扉はどうもかんたんには動きそうもありません。
ガタゴトとまるで泥棒のようなまねもできません。
何回か覗いてみたこともありましたが、
雑草が長く伸びているときもありました。
(掃除などはどうやってやるのだろう?)

仕方なく、上方の格子のわずかな隙間から、
奥の本殿の祠を覗いて内部を撮ったのが下の写真です。

石祠の内部に「道」という文字が見えます。
これで、この鳥居等が道祖神と推定できます。
他に頭文字が「道」の神社が思い当たりませんので。

道祖神堂宇内部

本殿石祠

2016年再調査のとき、ダメもとと、思い切って格子扉を持ち上げてみると・・・なんとびっくり動きます!
ということで、以下、左から石祠正面、右側面、左側面。堂宇の中にあるから、さすがに保存状態がよく美しい石祠です。

正面「道祖神」、右に「須賀坪 女人講中」、左に「文化十三丙子二月吉日」。文化13年(1816)2月の造立。
須賀(坪)というのは、大房のこの辺りの小字名でしょうか。本体: 高60cm、幅41cm、厚25cm。

本殿石祠 本殿石祠右側面 本殿石祠左側面

大房集会所と大師

大房集会所

大房集会所

左が、県道に近い集会所の建物。
写真では見にくいですが「大房集会所」の看板も出ています。

集会所建物の左手には駐車スペース、
その奥には民家との境界の金属製の柵があり、
以前はその手前に5基ほどの石仏が並んでいましたが、
もっと東に設置し直されたようです。
ただし、大震災のためというのではなく、
移動は震災以前に行われたようです。
これらは、のちほど紹介します。
集会場寄りの石仏

2つの大師堂

2つの大師堂とその周辺

道祖神と集会所の中間にあるのが、
2つ並んだ大師堂。

大師堂と断定できるのは右ですが、
左もおそらく大師堂ではないかと。

大師堂が並立している場所は、
利根町にはほかにもあります。

この大房集会所の大師以外では、
以下、6ヵ所あります。

2堂そばの地蔵や石塔についても
ここで、見てみましょう。

大師45番(大師右)

大師45番 大師45番札

45番の札が付いていますので、
四郡大師であることが分かります。
左の堂と比べて、
木鼻等装飾も美しく施されています。

2体の大師像

左の写真は安置されている2体の大師像。
左のほうの像は、まるで子供のような体型と風貌ですね。
どういう意味合いがあるのでしょうか。

右の像の台石には、朱文字で「大房」と記されています。

左本体: 高17cm、幅19cm、厚11cm。
右本体: 高34cm、幅30cm、厚19cm。

額

左は上部に掲げられた額です。
四五番伊豫国・・・」。あとは読みにくいですね。
でもだいじょうぶ。これが御詠歌であることは分かっています。

四国八十八ヶ所霊場 第45番札所・海岸山 岩屋寺(いわやじ)
所在地は、愛媛県上浮穴郡久万高原町七鳥1468
御詠歌は、以下。
大聖の 祈る力の げに岩屋 石の中にも 極楽ぞある

ほんの少し違いますが、まあご愛嬌というところ。
書した人は、「当村 年寄□」以下、
名前が読みづらいですね。

札所塔

45番大師堂の右には、ちょっと難物です。下部に「2番札所」とだけ読めますが、以前に撮ったものなど見比べると・・・。
下左から、正面、右側面、左側面。正面は「正観世音坂東二番札所」とあるようです。上の大師45番とはまったく違います。

本体: 高65cm、幅24cm、厚14cm。

札所塔 札所塔右側面 札所塔左側面

右側面も、下部にかすかに見えるのは「大房村 來迎院 願主 大野勘左エ門」。
これは!つまり、この塔は、来迎院に元々あったもののようです。来迎院は現在廃寺で、文間小学校敷地となっています。
ということは、来迎院が、坂東三十三所[聖観音(=正観音)]写し巡礼の第二番札所だったということでしょう。
また、ここにある仏教系石造物は、おそらくそのほとんどが、来迎院にあったものではないでしょうか。

左側面は上部に「安永十辛丑」、途中不明で下部に「十八夜講中」。
安永10年(1781)に願主は大野勘左エ門(大房は大野さんがおおいのう)で、十八夜講中によって造立されたものです。
ちなみに安永10年は4月2日に改元されて天明元年となりますので、途中不明部分の造立月はそれ以前かと思われます。

写し巡礼の四郡大師は文政元年(1818)からですが、もっと前は西国・秩父・坂東などの写し巡礼が盛んだったのでしょう。
「写し巡礼の札所」という同様の趣旨の塔ですので、近年、四郡大師堂の隣りにこの塔が遷移されたのでしょう。

札所塔

倒れていた巡拝塔1巡拝塔2 を立て直す再チャレンジのついでに、
この塔の前面を濡れタオルで擦ってみました。

タイトル左右に、仮名のような文字が断片的に見えます。
立よりて あま乃い□と□ □□□□□ □□たのむ □□・・・・

もしかすると、と坂東観音霊場第2番岩殿寺の御詠歌を調べると、
たちよりて 天の岩戸を おし開き 仏をたのむ 身こそたのしき

おそらくこれが彫られているのでしょうね。

大師左

左大師堂 左大師堂大師像

札所番号に関してはなんの情報もナシです。
この堂はどこかの堂を遷したものでしょうか。

堂の中はやはり大師像のようで、
大師堂であることは間違いないようです。

本体: 高28cm、幅27cm、厚19cm。

さて、この堂宇の左に、大きな石3個と、
地蔵塔が見えます。それらを以下紹介します。

力石

力石

「力石」と呼べるほど巨大というわけではありませんが、まあ、そこそこ重そうです。
銘文はなさそうですが、裏返して見ているわけではないので・・・。

奥: 高29cm、幅60cm、厚32cm。
中: 高30cm、幅50cm、厚37cm。
前: 高26cm、幅51cm、厚38cm。

地蔵菩薩塔

地蔵菩薩塔

よく言われる「首なし地蔵」です。
ホラーの対象で、横溝正史の小説にも出てきそうですが、
地震などで確率的に地蔵菩薩塔はこうなるように思われます。
倒れて首のところで折れやすいし、それが転がって紛失しやすいし・・・。

地震直後は、こういう塔のことより人や家・家財等が優先されますし、
フォローする経済力・余力のある村なら後日なんとかするでしょうが、
だいたいがほおっておかれてしまうでしょう。
現代のようにセメントなどがない時代は、しばらくそばに置いてあるのが関の山。
ですから、一見不気味ですが、長い年月が経てば自然な姿ともいえます。

こういう丸彫りの地蔵菩薩塔に特有の、銘文なし。
いつ、だれが、どんな目的で造立したのか、いっさい不明です。

この塔は、本来別の台石もしくは五輪塔の一部などを
2基ほど下に積んで高くしているような・・・。

本体: 高103cm(肩から上の蓮台まで)、幅50cm、厚47cm。

集会場寄りの石仏

集会場寄りの石仏

集会場寄り、といっても、以前の話。
いまは集会場と大師堂の間ですが、
大師堂に近いところへ移動しました。

例の2番の 札所塔 のすぐ右。
ここに4基の石仏が並んでいますが、
よく見ると、いちばん右にも、
直角に右向きにもう1基あります。

以下の写真は、2005年撮影のもの。集会所の建物の左に柵があり、以前はその柵の前に5基設置されていました。
でも、並び方は上の現在とはちょうど逆のようです。では、1基ずつ見てみましょう。

供養塔4基+1基遠景 供養塔4基+1基近景

十九夜塔1

十九夜塔1

光背右上に「十九夜念佛供養」とあります。
そして刻像されているのが半跏思惟の如意輪観音とくれば、典型的な「十九夜塔」。

左上には「正徳六丙申天壬二月十八日」。
すなわち正徳6年(1716)の閏2月18日の造立。
ちなみに正徳6年は6月22日改元で享保元年となります。
また「壬」2月の「壬」は「うるう」で、閏の文字を使わない場合もあります。
十九夜塔の場合、造立日が、9月19日もしくは10月19日をよく見かけます。
この場合2月ですが、前日の18日となっているのはちょっと違和感があります。
この日付が気になるのは、十六夜塔など十九夜塔以外では、
日付はなく吉日・吉祥日等がほとんどだからです。というより、
十九夜塔に限って、十九日と限定して刻まれていることが多いのです。

右下に「同行四拾人」そして、小さくて読みづらいのですが、
中央最下部に「施主浄□」とあります。僧侶の名前のような感じです。
□部分の1文字分は、おそらく固定されたときに埋まってしまった?
そうだとすると、せっかくの設置ですから注意していただきたいところ。

本体: 高92cm、幅46cm、厚29cm。

十六夜塔

十六夜塔

これも半跏思惟型の如意輪観音の刻像塔ですが、
光背右上から「奉造立如意輪観音菩薩」に続いて「十六夜供養」とあります。
十九夜ではなく、十六夜塔ですが、十六夜塔の本尊は本来は如来や聖観音です。
当地区利根町の「なんでも如意輪観音」の傾向がここにも表れています。

光背左上から「寛文五乙巳天十月十六日」、
すなわち寛文5年(1665)10月16日の造立。江戸初期寛文時代の塔は貴重です。
ここでは吉日ではなく16日まで明記されていますね。

ほかに、頭部の左右に「敬白」が見えます。
また左下の「□房村」は「大」の文字が削られて見えません。
その下に、同行者の人数等が記されているようですが読み取れません。
この塔は、光背右端部等にも、文字がいくつかありそうなのですが・・・。

本体: 高109cm、幅49cm、厚27cm。

十九夜塔2

十九夜塔2

これも、片膝立て・頬杖スタイルの「半跏座思惟型」の如意輪観音刻像塔。
石仏の如意輪観音では2臂が多いのですが、
これは、宝珠や払子(ほっす)など持ったりして6臂です。

光背右上から「奉供養拾九夜」「念佛講中」「爲二世安楽」。
やはり、十九夜塔です。爲二世安楽とは現世・来世の安楽を願うもの。

左方には「寛文九己酉天 九月十九日」と「大房村同行四十六人」。
これも貴重な寛文9年(1669)9月19日の造立。

本体: 高100cm、幅47cm、厚25cm。

十九夜塔3

十九夜塔3

この像は、立像ですが、「聖観音」でしょうか。
こんどは如意輪観音ではなくても「奉造立十九夜念佛供養二世安楽所」とあり、
十九夜塔ということになります。前々掲 十六夜塔 とはまったく逆のケース。
刻像された観音像の種類よりも、銘文を重視して塔の名称分類をします。

光背左方に「延宝七己未七月十九日」とあり、延宝7年(1679)7月19日の造立。

ほかに「同行八十人」の下に「足立順西」とあります。
足立順西とは、やはり来迎院の僧侶だったのでしょうか。

本体: 高77cm、幅37cm、厚25cm。

墓塔1

墓塔

さてもう1基、前の4基とは直角の向きに建てられています。
これは、あきらかに4基とは趣が違います。
だからこそ、別格で置かれているのでしょうが・・・。

風化で文字等、ほとんど読めません。
上部には戒名のような文字、下部に日付が並んでいるように見えます。

たとえば、日付だけなら、右から、
元禄三庚午年二月四日
寛文十二丁子年二月十□日
元禄三庚午年六月十七日
元禄七甲戌天十月廿八日

元禄7年(1694)以降に造立された墓塔と思われます。

本体: 高72cm、幅35cm、厚25cm。

道祖神寄りの石仏

道祖神寄りの石仏8基

道祖神の背後のほうにも8基ほど石塔が置かれています。

左から3基は、ほとんど同様な形態のもので、
西国秩父坂東云々の銘文が見えますが、
その右には、またしても観音像の刻像塔などが見えます。
集会場寄りの石仏と位置を変えているのには
なにかわけがあるのでしょうか。

上記の疑問はさておき、左写真は、実は、
2011年2月23日撮影のもの。
この日付は、大震災の直前ですね。
そして2016年現在、これらの再調査のために訪れると・・・。

道祖神寄りの石仏8基2016年

しばらく訪問していなかったので、
全8基あることを失念していました。

左端に倒れている2基を
単なる石材と思って、
残りの6基だけを調べていました。
帰宅して、見比べて、あれっ?と。

やっと2基のことに気付いて再び訪問。
ところが、この2基は重くて・・・。
立てようにも安定性は悪いし、
左端の1基は重くて持ち上がりません。

→ しかしこのままでは・・・。
ということで3度目のチャレンジ。
で、以下。

道祖神寄りの石仏8基2016年3度目

2度目の時は、空腹時で、
力がでませんでした。
3度目の正直で、なんとか。

仮留の石を噛ませておきましたが、
震度3以上だと、また倒れるかも・・・。

巡拝塔1

巡拝塔1

この塔は4面すべてに文字が刻銘されています。左写真が正面。
下の写真は、左から、右側面、左側面、背面。

正面最上部に阿弥陀三尊をあらわす種子、キリーク・サク・サの梵字が刻まれ、
その下に「西國秩父坂東供養塔」とあります。
西国三十三所・秩父三十四所・坂東三十三所、計百所の観音霊場、
それらをすべて巡った記念として造立した「巡拝塔」もしくは「百番塔」です。

右側面に「安永七戌九月吉日」、つまり安永7年(1778)9月の造立。
下に5名「大野判七 地脇源左エ門 高野勘エ門 佐藤佐治エ門 石上碊エ門」。

左側面5名「大野要吉 山ア林蔵 坂本彦左エ門 菊地治兵衛 大野勘エ門」。

裏面にも7名が列記。「寺田茂兵衛 大谷忠左エ門 石上佐五エ門 大野元七 坂本彦左エ門 高野專助 大塚弥兵衛

本体: 高89cm、幅25cm、厚18cm。

巡拝塔1右側面 巡拝塔1左側面 巡拝塔1背面

巡拝塔2

上部に種字と「奉納西國秩父坂東供養塔」。この塔も前記とほぼ同様の巡拝塔。下左から、正面、右側面、左側面。

巡拝塔2 巡拝塔2右側面 巡拝塔2左側面

右側面には「大房村」として以下3名列記。「大野勘右エ門 地湧源左エ門 坂本重左エ門

左側面「文政九戌三月吉日」で、文政9年(1826)3月の造立。

本体: 高65cm、幅27cm、厚18cm。

三山百番塔

上部に大日如来の種子アーンクの梵字、その下に、「湯殿山月山羽黒山西國秩父坂東供養塔」と長い名前です。
出羽三山に加え、西国・秩父・坂東の各霊場を巡拝した記念の塔です。左から、正面、右側面、左側面。

三山百番塔 三山百番塔右側面 三山百番塔左側面

右側面に「天保十三寅七月吉日」とあり、天保13年(1842)7月の造立。
左側面は、一部地中に隠れていたので少し斜めに倒して、泥を拭って確認。真ん中がちょっと読みづらいですが…以下。
大房村 地湧源左ヱ門 大野勘右ヱ門 坂本重左ヱ門
おっと!この3人のメンバーは前記 巡拝塔2 の構成員と全く同じですね。しかも前の文政9年から約16年後。
ということは、上記後16年間で出羽三山詣でをプラスしてこれを造立した、ということでしょうか。いやはやお大尽です。

本体: 高63cm、幅27cm、厚18cm。

十五夜塔1

十五夜塔1

光背右上に「奉供養十五夜講」で、十五夜塔ですが、
十五夜塔も十六夜塔と同様に主尊は、大日如来・阿弥陀如来や聖観音であって、
如意輪観音ではありません。
それなのにここでも如意輪観音が彫られているのが、利根町の特徴。

左上に「明和九辰十一月吉日」で、明和9年(1772)11月の造立。
おもしろいことに明和9年は火事風水害等多く「迷惑な年」ということで、
11月16日に安永に改元されています。11月1日から15日までの間の造立?

光背右下に「須賀坪中」とあります。
この時代からすでにここは大房村須賀と呼ばれていたようです。

本体: 高80cm、幅30cm、厚17cm。

墓塔2

墓塔2

地蔵菩薩が刻像された塔ですが、
光背左右に2名ずつ、子供の戒名と命日が彫られています。

右から「秋草童女」「宝永四□□七月十四日
加光童子」「宝永四丁亥八月十四日
左に「紅□童女」「□□□□月四日
照壽童女」「宝永六己丑二月二十六日

宝永6年(1709)以降に建てられた墓塔のようですが、
宝永4年から6年の2年間で4名、なにか流行り病にでも罹ったのでしょうか。

本体: 高46cm、幅26cm、厚14cm。

時念仏塔

時念仏塔

光背右上に「御時供養仏」とあり、
禅定印をふんだ「大日如来」の立像が刻像されています。
趣旨は、徳満寺の時念仏塔 や、布川神社の時念仏塔 と同様の塔と思われます。

光背下部左上に「安永五申 正月十五日」とあり、安永5年(1776)正月の造立。

光背下部左右に「施主大房村中」と「同念佛講中」が刻まれています。

本体: 高67cm、幅28cm、厚17cm。

十五夜塔2

十五夜塔2

光背右上に「十五夜講中」とあり十五夜塔ですが、
刻像されているのは「馬頭観音」のように思われます。
十五夜塔の本尊は馬頭観音ではなく、
聖観音・阿弥陀如来などなので、ちょっと言えばヘンです。
馬を大事にしていた人たちの思いがあるのでしょうか。

左に「安永二巳十月吉日」とあり、安永2年(1773)10月の造立。

本体: 高69cm、幅27cm、厚20cm。

十九夜塔4

十九夜塔4

奉待十九夜講中」とあります。
半跏思惟・如意輪観音の典型的な十九夜塔で、この地区ではもう4基目です。

光背左には「安永八亥十二月吉日」で、安永8年(1779)12月の造立。
下に「廿人」、20人は同行者の人数でしょう。

本体: 高50cm、幅26cm、厚17cm。


その他、道祖神の背後には、個人所有と思われる巨大な慰霊碑らしき石碑が建てられていたり、
大震災前後の写真を見比べると消失している同様の石碑が気になりますが、ここでの紹介は割愛します。

薬師堂

この項下部 民家のお堂 と記した記述は、ここが「薬師堂」と確認できる前までのものです。

2016年、堂の所有者の海老原氏とお話しする機会を得て、やはり薬師三尊と十二神将を祀った(現在は別)薬師堂と判明。
氏によれば、元々は別の場所にあったが、町の皆さんがお参りできるよう道路に面したところに堂宇を設置した、とか。

薬師三尊と十二神将

左から、月光菩薩(右脇侍)、薬師如来(中尊)、日光菩薩(左脇侍)の各像。中尊から見ての右脇侍・左脇侍と呼称します。

月光菩薩像 薬師如来像 日光菩薩像

下は、薬師三尊を信奉する者を守護するという十二神将。(参考→ 十二神将)

十二神将 十二神将

これらの作品には、
多少、保存状態に難点はありますが、
海老原氏の話では仏師・杉山林哲の作とか。

ああ、と納得しました。
これが不明だった大房の薬師堂にある、
杉山林哲、文政5年(1822)の作品でしたか。
杉山林哲 参照。

昨今、盗難が多いようなので、
厳重に別の個所に、安置されているとのこと。
利根町の財産ですので
大切にしたいものです。

(16/06/23 追記) (16/06/11 撮影)

さて、海老原氏から、大房四つ角の交差点から龍ケ崎方面に向かう途中にある「道標」の石塔の情報を聞きました。
さっそく訪問してみると、後半で説明する道標を兼ねた「二十三夜塔」でした。これも、まったく今まで気が付きませんでした。
また、大房の水神宮 石祠に記された「海老原市右エ門」はまさにこの海老原氏のご先祖様とのこと。

民家のお堂(以下、薬師堂判明前の記述)

民家のお堂

立崎羽根野線より内側の道を
集会所前から押戸方面に進むと、
すぐ左手に青紫色の垂れ幕が
かかっている少し大きめのお堂が
見つかりました。

大師堂かなと思ったのですが、
札所番号や共通の貼紙等もなく、
どうもそれらしき感じがしません。

また、しっかりと施錠されていて
中をよく見るわけにはいきません。

鰐口と鈴

鰐口と鈴

さらに、堂の上部を見ると、鰐口と鈴の両方が付いています。

これでは、神道系・仏教系の判別もできません。
とは言っても、神道は鈴、鰐口だから仏教系とか、
断定できないことのほうが多いのですが・・・

神道系・仏教系と言えば、
以下の格子の隙間からやっと撮った内部の写真を見ても、
ちょっと不可解なことが・・・。

神社本殿?薬師如来?

お堂内部

これは、お堂内部に安置されているものの上部の写真。
これだけを見ると、神社の本殿のようにも見えます。
ところが・・・。

お堂内部

下のほうを見ると、何か十二神将関連らしい像が見えます。
これを見ると、中央には「薬師如来」像があるのかも、
などと想像してしまいます。
もしそうなら、この場合は仏教系で、「薬師堂」の建物と言えます。

鰐口や鈴といい、本殿や十二神将といい、
どうも、この堂はいったい何なのか、気になるところです。
十二神将関連らしい像にしても、本体とは無関係の
単なる添え物に過ぎない場合もあるでしょうし・・・。

だれかに尋ねようにも、いつ行ってもほとんど人通りがなく、出会うのは別のところから来て走り抜けていくクルマくらい。
また、立派な門構えの邸宅が多く、何回か「ごめんください」と大声を上げてもだれも出てきてくれない雰囲気もします。

それでも以前、いちどだけ、そこから少し離れたところで、2人の年配の婦人に会い、尋ねたことがあります。
「あの、紫の幕の張られた建物はなんですか」
「ああ、あれねえ」と、婦人Aが答えたあと、2人はお互いに目で合図し、うなずく(えっ、なにかいわくあり?)。そして、
「よく分からないのよ」
「大師さまではないですよね」
「大師さまではないわね」と、婦人A。婦人B、うなずく。
「道祖神・・・とか」
「ああ、そう言ってたかも」と、婦人Aが婦人Bを見る。婦人B、うなずく。ちょっとあやしいので、
「薬師如来・・・観音様とかそういうものでは?」
「そうそう、そうだったかも」婦人Bは、さきほどからずっと目線は右斜め下のまま、ニコニコしてうなずくばかり。

とまあ、こんな調子で、結局、なんのヒントもなく、まったく分からずじまいに終わりました。

大房の水神宮

上記堂宇から押戸方面に少し進んだ先を左折して小さな路地に入ります。路地突き当たりT字路までのちょうど中間地点。
南下する方向から見て右手路端に小さな石祠を見つけました。これが、大房の水神宮。下左から、正面、右側面、左側面。
当初、見つけたときは「宮」の文字半分が地中に隠れていましたが、現在でももう少し地中に埋まっている様子です。

水神宮 水神宮右側面 水神宮左側面

石祠正面に「水神宮」とあります。大房地区は河川から離れているせいか、水神宮はこの1基のみです(2016年5月現在)。
右側面は下部推定ですが「海老原市右エ門」でしょうか。左側面に「天保五午年」。天保5年(1834)の造立です。

本体: 高48cm、幅43cm、厚25cm。

街角の石祠2

街角の石祠2

集会所道祖神鳥居前の道を
こんどは逆に南に下っていくと、
Y字路に差し掛かります。
その角の民家の庭先に
2基の石祠が並べて祀ってありました。

右側の石祠は真ん中から真横に
まっ二つに割れたものを
丁寧につなぎ合わせたようでしたが、
大震災で再度、割れたのを、
再び修繕したような感じです。

しかし、これらは風化も激しく
よく眺めて調べてみましたが、
正体がなんであるか不明です。
道祖神というところでしょうか。

唯一、左石祠の左側面の銘文だけ、
以下のように判読できました。

街角の石祠2左石祠の左側面

左の石祠の左側面です。以下のように刻まれています。

 享保三年
願主大房村中
 戌五月吉日

享保3年(1718)5月、大房村中による造立です。

「戌」の字が「伐」に見えて「伐5月とは?」と、意味が分かりませんでした。
享保3年が戌年なので符合しましたが、本来この時代は、
享保三戌年、の順に刻銘するところではないでしょうか。

石祠左本体: 高52cm、幅28cm、厚29cm。石祠右本体: 高54cm、幅36cm、厚26cm。

二十三夜塔

大房四つ角交差点から少し北の地点

通称「大房四つ角」と呼ばれる信号のある交差点。
そこから北、龍ケ崎方面に少し進んだ左手。
電信柱の陰に石塔が見えました。
ここは盲点というか、「眼中になかった」というか、
まるで注意をして見ていませんでした。

海老原氏は道標と言われていましたが、
最初に目についたのが「二十三夜塔」の文字。
そういえば利根町では、
二十三夜塔と道標を兼ねた石塔がほかにも・・・。
どこだったかな?(→ 蛟蝄神社奥の宮周辺

正面中央に「二十三夜塔」その左右に「安政三丙辰年 十一月吉日」。安政3年(1856)11月の造立です。
右側面は、「左り どうせんだ ふじ志ろ ミち」。道仙田(現・龍ケ崎市)、藤代(現・取手市)方面を指しています。
左側面は、「右 りうがさき つちうら みち」。当時の一般的な龍ケ崎方面および土浦の方角です。
塔の向きや銘文を考慮すると、この塔があった場所は、三叉路だったのでは、と根本さん。(明治の迅速図で確認=根本氏)
最近、根本さんにいろいろご案内いただき、海老原氏宅訪問も彼が「こんにちわ」と声をかけて・・・。いや助かってます。

本体: 高65cm、幅30cm、厚19cm。

二十三夜塔 二十三夜塔右側面 二十三夜塔左側面

(16/06/24 追記) (16/06/15 撮影)

大野邸の庚申塔

大野邸の庚申塔

ここも、「根本さん情報」によるもの。

大房共同墓地 でも述べたように、大房はあちこちに「大野さん」。
このお宅もそのひとつ。
根本さんが邸宅の裏の道路から2基の石塔を発見し、
表に廻り、大野邸に訪問された由。
その後、タヌポンに案内していただきました。

これも、いままでまったく気が付きませんでしたが、
仮に気が付いても、邸の中なので、
門戸を叩くまではしなかったかも知れません。
掲載には不適な場合もありますし・・・。

一目見て、いずれも庚申塔であることが分かりました。そういえば、このコンテンツでは庚申塔は初めて。大房には少ない?

庚申塔1

庚申塔1 庚申塔1左側面

青面金剛王」が刻まれた文字塔。
またしても、青面金剛に王が付いています。
利根町ではもしかすると100%に近い確率?
現利根町の行政区画が江戸時代のそれとは
イコールではないにしてもちょっと不思議。
もう少しで利根町全地域のデータが
完成するので、検証してみる予定です。

左側面に「寛政十二庚申八月吉日」。
60年に1度の庚申の年です。
寛政12年(1800)8月の造立。

本体: 高88cm、幅37cm、厚20cm。

庚申塔2

庚申塔2

中央に1面4臂の青面金剛の像容、下部に三猿が彫られた庚申塔。
持ち物は三又の戈と羂索および弓矢とシンプルで、
ショケラも持たず、邪鬼も踏んでいません。

たいへん残念なのは、光背左上のいちばん大事な部分が欠損していること。

光背左上は、「□□天四月朔日」。
□□部分が造立年が刻まれていた個所。
これでは「・・・年4月1日造立」としか言えません。
思わず欠損部分が落ちていないか2基の周囲を見回してみましたが・・・。

光背右上も少し欠損していて、
□□村中諸衆 敬白」しか読めませんが、
「村」の上の文字の一部から判断するとこれは「房」と推定。
したがってここは「大房村中諸衆」と思われます。

しかし、上部欠損は残念。像容から推定して、
江戸中期、1700年代のものではないかと思いますが・・・。

本体: 高99cm(上部欠損)、幅58cm、厚20cm。

(16/06/24 追記) (16/06/15 撮影)

文間小学校と来迎院

さて、根本さんナビで大房地区を探訪していたとき、彼が「こんなところにも」と案内してくれたのが、文間小学校の裏門入口。

寄贈記念碑

寄贈記念碑

裏門とはいえ、縄も張ってあり勝手に侵入したらいけないのですが、
裏門すぐ右手、ブロック塀脇にあるので、とりあえず写真だけ撮っておこうと。

記念碑のようですが、下部が土中に少し埋まっています。
ちょっと掘ってみたい誘惑にかられましたが、それは正式に調査を依頼してから。

銘文は表面だけにあり、「寄贈」、そして「大野六□□」とまたしても大野さん。
さらに、「明治三十一年□□」と造立年。本体: 高45cm(下部土中)、幅31cm、厚8cm。

明治31年(1898)とは、当時は文間小がここに存在していたのかどうかとか、
「寄贈」とは何を寄贈したのか、何のためにそうしたのか、と疑問は尽きません。

これは、文間小学校(もしくは来迎院)の沿革について調べてみないと。

そこで、以下『利根町史』第7巻「明治初年当町域の小学校」より抜粋。

・・・(中略)・・・[文間村]旧村は、押戸、大房、立木、奥山の四か村である。学制の発布にともない、押戸村と奥山村を連合して押奥小学校が押戸村の真言宗根本寺に、大房小学校が大房村の来迎院に、立木小学校が吉浜善之助宅地内にそれぞれ設立された。明治17年(1884)に学区の改定が行なわれ、押戸村と大房村は相馬郡長沖新田の長沖小学校、立木は中谷小学校の学区域に編入されたが、明治22年の町村制施行によって文間村が誕生し、文間小学校が大字大房の来迎院に仮設開校された。時の村長山田利重郎はじめ村民は寄付金を醵出して校舎を新築すべく努力を重ねた結果、明治32年(1899)1月15日に新校舎が落成した。・・・以下略・・・

上記で以下のようなことが分かります。そして、タヌポンのいつもの当てずっぽうを。

▽ この寄贈記念碑が建った明治31年は、来迎院敷地内の文間小学校新校舎が落成寸前のときであった。
▼ ということは、小学校といえば桜の木。新校舎落成を祝って「大野」さんが「桜の苗木を寄贈」したのではないでしょうか。

(16/06/24 追記) (16/06/15 撮影)


(16/06/24・16/06/01 追記再編成) (13/10/09 追記) (12/05/14 追記再構成) (06/06/23) (撮影 16/06/15・16/06/11・16/06/01・16/05/18・16/05/16・12/04/25・11/02/23・10/03/21・06/06/04・05/09/17・05/07/03・05/06/04)


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