タヌポンの利根ぽんぽ行 無量寺と中谷南の神社

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目   次


更新経過

2013年より石造物データをページ末に掲載するため
各コンテンツを順次見直ししていくことにしました。
無量寺周辺の再調査は2015年8月に行い、若干の追記・修正を加えました。
(15/08/24)


利根町役場から東に3kmほど行くと利根浄化センターがあり、
そこからさらに東に少し行ったところにちょっと変わった空間があります。

本堂とかそれらしき建物が何もないのに「無量寺」と呼ばれているところです。
ここがいいヘラブナ釣り場だったことをご存知でしょうか。
無量寺といっても、寺の姿は、以前も現在もありません。
ただ「無量寺の沼」と呼ばれる、直径20mほどの沼が何年か前まであったのです。

その沼がいつのもにか消えてしまい、そのほかには何もなかった(と思っていた)土地に、
久しぶりに訪ねてみると、標石や立派な観音像(→ 如来像でした)が建っています。

標石には、「浄土宗光明山 無量寺」とありますが、
この「形のないお寺」には分からないことばかり・・・。

また、この無量寺の跡地の東隣りにあるのが三峯神社。
無量寺沼のことばかり気になっていて
すぐ近くにこんな神社があることに長らく気が付きませんでした。

さらに、三峯神社の南、土手沿いに盲点と思われる水神宮を発見!
今度こそ、利根町最後の鳥居発見!(と思いますが・・・)
(12/09/14)


利根町中南部地区マップ

無量寺と三峯神社は、マップの南、利根浄化センターの東にあります。

無量寺

無量寺の沼

無量寺入口

▼ もうかれこれ30年前になりますか、
利根町に引越してきた当初、
ヘラブナ釣りをよくしました。

▼ 当時、釣り雑誌に紹介されていた
地元の釣り場が「無量寺の沼」。
当時の地図では、それはどうも
「セイコーロッド試釣池」と記されて
いるところが該当するようでした。
セイコーとは釣具メーカーです。
さっそく行って見ると、
野外の釣堀みたいなところで
けっこう釣り人でにぎわっていました。

▼ 無量寺というお寺の建物等が
どこにあるのかなどとは
そのとき気にもしませんでした。

▼ 沼の中央を横切って桟橋が架かっていて、桟橋の端には垂木が設えてあり竿受金具などが設置できとても釣り易く、
また、管理されている釣り場なのに野外の雰囲気が楽しめるのですっかり気に入りました。
さほど美しくはなくとも、簡易トイレなどもそばにあり、女性も釣りが楽しめるのです。
(釣り人に女性が少ないのは、トイレの関係がかなりの比重を占めているとタヌポンは思います)

▼ ヘラブナの形は20センチ前後とあまり大きくはないのですがそこそこ枚数があがり、
日曜などは朝から夕方までのんびりと過ごすことができました。
ちなみにヘラブナはその名の通りヘラ・・・平たい魚のせいか、釣果は1枚、2枚と数えます。
また、ヘラブナ釣りコンテストでは枚数ではなくトータルの重さ、kgで判断します。
その釣り場には、いちど夕方、タヌポンの奥さんと娘が見物がてらクルマで迎えにきてくれたこともあります。

消えた沼、現れた観音様?

如来像

▼ ところが、何年か経って、
気に入りのカーボンロッドの竿の
穂先を壊して以来、釣りから
少し遠ざかってしまいました。

▼ 同時に、ちょうどその頃、
ドラクエ2が発売された頃で、
タヌポンは初めてRPGゲームを知り、
すっかりはまってしまったのです。
もっぱら休日がゲーム三昧となって、
釣りはそれ以来、ご無沙汰で、
いまも再開されていません。

▼ そうこうしている間に、どうも
無量寺の沼がなくなっていることを、
風の噂か何かの機会に知りました。

▼ なぜ?いい釣り場だったのに。セイコー社の経費が削減されて維持管理できなくなったのでしょうか。
無量寺だから無料というわけでもなかったのでしょうが、多少なら料金は払ってもいい、などとも考えていました。
でも、この釣具のセイコー社が本当にこの沼に関連しているのか、だれが管理者なのかも実はよく分かりません。

▼ ちょうどその頃、無量寺沼の近くに浄水センターがあり、そこが設備を整備したらしいとか、別の公園ができたから
沼がなくなったとか曖昧な話を聞きましたが、いい竿を買って釣り再開というほどまでの意欲はでてこないので、
沼がなくなったという噂の真偽も確かめもせず、そのまま、またしばらくほうっておいていました。

▼ その後、ようやくゲームに少し飽きがきて、久し振りに釣りを再開してみようかと思い、
2004年の夏、このサイト開設時にバイクに乗って近くを探索しながら沼を探してみましたが、やはり見つかりません。
どこだったか記憶が不確かなのですが、どうもほんとうに沼がなくなっているようです。
もう無量寺沼での釣りはできない、ということなのでしょうか。

▼ 一度しか行っていないタヌポンの奥さんもよく分からないと言っています。
そこで、よく行く「ますだや」というそばやさんの若主人に聞いてみると・・・。

(※この店のラーメンは昔風中華そばでたいへんおいしいです。そば、うどんも単品で頼むととてもおいしいごはんが付いてきてオトク)

数年前にあの沼から「観音様」が出てきて、それで、池を埋めて観音様を祀ったそうですよ。

(彼は沼とも池とも言いました)

ヘェーーー?観音様?

▼ で、それではということで道を聞いたりして再度、訪ねてみました。
そしてようやく見つけました。しかし、すっかり変わっていました。あの沼はもう跡形もありません。
そのかわり無量寺というきれいな石碑が建っています。そして、大きな観音様が・・・。

▼ 敷地に・・・境界標がうってあるのは墓地の販売をしているのでしょう。売約済みと書いてある立札もあります。
タヌポンは、自分の墓とかそういうものには何のこだわりもないのですが、沼がいまもまだあったとしたら、
また、あの世でも釣りができるなら、こんなのんびりした墓地がいいな、などと一瞬思いました。

墓地 墓地

さて、分からないことばかりです。

続・無量寺

2005年3月に上記のコンテンツを作って半年ほど経ちました。
分からないことは依然として多いのですが、無量寺の寺がそもそもどうしてないのかとか、住職はどうなのかということは、
無量寺に関連する町史の記述で分かりました。また、何もなさそうな墓地ですが、1.2ヵ所、ポイントも見つけました。
沼の埋め立てに関するいきさつは相変わらず分からないのですが・・・。

建立と焼失

無量寺は利根町の中谷というところにあります。
これは江戸時代に 円明寺 のある立木の人たちが切り開いた土地だと言われています。
ということで、中谷の住民はほとんどが円明寺の檀家の人たちでした。
そんななかで、寛文3年(1663)に新利根川が掘り割られました。
中谷の人は大きな川をひとつ越えなければ円明寺に行くことができなくなりました。
当時の新利根川がどの程度の川幅があったのか分かりませんが、
橋を架けることはたいへんなことだったのだと思います。

余談ですが、もう何年もひどい渋滞が続いている利根町布川と我孫子市布佐を結ぶ栄橋に関して、近隣の第2栄橋の建設をだれしもが願っているのですが一向に架橋の話に進んでいません→ 06/04/18 いつのまにか第2栄橋こと 若草大橋 が開通していました

そこで、寛文6年(1666)に円明寺内の無量院を中谷に移して建ててお寺としました。
それが無量寺なのです。(ああ、やっとひとつ氷解)
分寺しましたが、葬式などはあくまでも本寺の円明寺で執り行うということが決まっていたそうです。
このとき無量寺を開基したのは良真了伝和尚といいます。
ところが、これが、戦後、昭和52年(1977)に出火し全焼してしまいました。
そしてついに廃寺となってしまったのです。当然、住職は現在おられないわけです。

以上のことが利根町史に記されています。宗派は、浄土宗で、円明寺の末寺だったということですね。

では、沼は?
これも町史に中谷の飯塚一郎さん、同民子さんの次のような面白い話が掲載されています。

水の中に赤い鳥居

無量寺のそばに無量寺沼があります。切れ所沼ですがいつできたかははっきりしません。
沼の真ん中まで泳いでいって水にもぐると赤い鳥居が見えるそうです。
なお、沼の北側にある数軒の家をキレドの家と呼んでいます。
またこのあたり近辺の地名は、利根町中谷切戸と呼ばれています。

タヌポンが釣っていたあの沼のなかに赤い鳥居が見える?うわーーーっ、なんか恐い感じですね。

ちなみに「切れ所沼」とは川の堤防等が洪水で決壊し、水が窪地を作りたまってできた沼をいいます。
無量寺沼は新利根川の切れ所沼なのでしょうか、それとも利根川本流のそれなのか。
あるいは、昔、この地を流れていたという鬼怒川が決壊してできた沼なのでしょうか。

ガマ? アヤメでした

現在の沼が消失した無量寺敷地は鉄柵で囲まれていますが、柵に沿ってガマのような水草が群生しているようです。
もう沼がないのに枯れないで残っているのでしょうか。

失礼いたしました。ガマではなくアヤメでした。(どうも、植物は勉強・精進が足りませんね・・・)

四郡大師

ここにも四郡大師の堂が建っていました。でも番号札は付いていません。

四郡大師 大師像

大師像本体(左): 高39cm、幅27cm、厚19cm。本体(中): 高40cm、幅37cm、厚20cm。本体(右): 高41cm、幅29cm、厚20cm。

六阿弥陀石塔

六阿弥陀石塔

この無量寺に六阿弥陀詣での石塔が建てられていました。
無量寺は浄土宗のお寺なので阿弥陀仏に縁が深いわけです。

南無阿弥陀仏の六文字にちなんで、
阿弥陀如来を安置する六か寺を
巡拝しようとするのが「六阿弥陀詣」です。

無量寺のそれは、後から作られた柵のすぐ内側で
外に向かって建っています。
柵が近すぎるし、これではそばの樹木などの陰でよく見えません。
敷地の境界のこともあるのでしょうが、
もう少し配慮があってもいいのではないかというのが実感。
史跡を残すのであればきちんと見えるようにしてもらいたいものです。
石塔には両サイドにも細かい銘文が彫られていますが、
樹木などにより、これらを精密に撮ることはまず不可能です。

草木をいったん掻き分けようやく写真に撮りましたが、
石塔の下部の文字がどうしても読めません。
左の写真も、実は上部で合成したものです。

『利根町史』と照らし合わせると・・・。

六阿彌陀木餘如来

と書かれているようです。
「木余(きあまり)」とは、仏像を彫った木の残りの先端部分をいいます。

本体: 高165cm、幅35cm、厚22cm。

「総州六阿弥陀詣」「木余如来無量寺」参考。

新・無量寺

社寺号標石

無量寺

2006年7月に、
このご近所に住んでおられる
ハンドルネーム「琉」さんより
ぽんぽこBBS にコメントをいただき、
集会所の存在や無量寺のいきさつ等
いろいろ教えていただきました。

たいへん遅くなりましたが
集会所など掲載することにしました。

「琉」さん、
その節はありがとうございました。
また掲載が遅くなりすみませんでした。
この場を借りまして
お礼とお詫びを申し上げます。どうも。

上写真は、「浄土宗 光明山 無量寺」だけ刻された社寺号標石。廃寺後の造立としたら、なにかむなしい感じです。

本体: 高240cm、幅67cm、厚48cm。台石: 高51cm、幅121cm、厚92cm。

集会所

右手は集会所

「琉」さんのお話しでは、
この写真右手に写っている集会所の建物あたりが
無量寺沼があった場所で、
現在の墓地は「篠竹とか色々茂っている藪」
だったかも知れないそうです。

また、このあたりから桟橋
(ヘラブナ釣りをするための足場になります)
が伸びていたらしいとも言われています。

集会所の敷地では、何かほかに
石塔などはないかと見渡しましたが、
新しく造成されたものらしく、
ブランコほか遊戯施設しか見つかりませんでした。

「琉」さん情報の要旨

(補足:「琉」さん自身は他県出身で、無量寺の情報源はご主人とそのお母様のようです)

ということで、いろいろなことが分かりました。「琉」さん、ありがとうございました。どうも。

また、なんと後述の「三峯神社への寄贈が記された額」は、「曽祖父ちゃんが書きました」ということです。驚きましたね。

白い紫陽花

「琉」さんは、紫陽花と芙蓉がとてもきれいと
おっしゃられていましたが、そのとおりで、
敷地の右側に白い紫陽花を発見しました。
(クリックすると花の拡大)

観音像も再撮しようと思ったのですが、
ちょうど像の前あたりが2基ほど
新しいお墓の造成工事中でした。

観音ではなく如来塔

阿弥陀如来塔

観音様の話ばかり出ていたので、
敷地中央に立っているこの塔を観音像と思い込んでいました。

しかし、よく見ると、この像は、
右手を施無畏印、左手を与願印にしています。
施無畏与願印(せむい・よがんいん)という印相です。

施無畏印: 右手の5指をそろえて伸ばし、手のひらを前に向けて、肩の辺に上げる。
与願印: 手を下げ、掌を正面に向けた印で、仏の慈悲を表わす。左手が多い。

これは信者の願いを叶えようというしるしで、
観音ではなく、如来(阿弥陀如来もしくは釈迦如来) のもの。

無量寺は浄土宗ですから、阿弥陀如来塔というべきでしょうか。

本体: 高240cm、幅80cm、厚48cm。台石: 高90cm、幅100cm、厚100cm。

磐戸清実墓碑

墓地の如来像の左斜め前に、ほかの新築の墓と比べて少し年代がかった墓碑が建っています。これが「磐戸清實墓」碑。

磐戸清実墓碑

磐戸清実(いわときよざね)は算学家で、
この墓碑は、多くの門弟たちによる筆子塔です。
墓碑の裏面(下写真)には、
安政二年乙卯八月廿四日死享齢八十四
同三年丙辰十月 建石

とあり、安政2年(1855)に磐戸清実が84歳の長寿を全うし、
翌安政3年(1856)10月に
この碑が建てられたことが記されています。
通称、宇七、号は楓風。

磐戸清実墓碑裏面

ところで、余談ですが、当時の算学・和算というのはどのようなレベルのものだったのでしょうか。
和算と言えば、関孝和(?−1708)やその『発微算法』が有名ですが、磐戸清実は幕末の人ですからそれより進歩していた?
例えば、ニュートンやライプニッツなどの域まで達していたかどうか。明治の末年には和算は完全に過去の遺物となったようですが、幕末はまだ実学としても有用だったのでしょう。

辞世の歌

磐戸清実墓碑左側面 磐戸清実墓左側面拓本

墓碑の左側面(向かって右)には、
磐戸清実の歌が1首彫られています。辞世の歌?

この頃は 旅の営(いとなみ) 憂からしよ
弥陀の浄土へ 行くとおもへは


本体: 高78cm、幅36cm、厚36cm。
台石: 高30cm、幅57cm、厚58cm。

(左拓本は、『利根町の文化学芸碑』より)

下総諸家小伝と磐戸清実

下総諸家小伝と磐戸清実

天保14年(1843)に女貞園が上梓した『下總諸家小傅』(以下『小傅』)に、
磐戸清実が、磐戸楚光の名で掲載されています。

『下總諸家小傅』

『小傅』は、利根川流域の文化人列伝とも言えるもので、
流山から銚子に至るまで、とくに布川・布佐河岸中心に、
俳諧・国学・医師・和歌・挿花ほか多種に亘って、
秀でた人物を50音順に100名取り上げています。
磐戸楚光は16人目に挙げられています。


中谷の磐戸楚光、通稱は宇七、楓外と號す。ま
た攝園ともいふ。俳諧を嗜む。また算術をよ
くす。發句に云「手なれねば 不出来がちなる
粽かな」「卋にとほき 山家やふゆを 衣うつ」

ここでは、清実の名は記されず、楚光とあり、
攝園の号も記されていますが、同一人であることは確かです。
粽=ちまき。卋=世の異体字。
(13/10/21 追記)

台石・算弟中

磐戸清実墓碑台石

墓碑台石表面には、門弟の筆子塔を示す「算弟中」銘があります。

下の3枚の写真は、上から台石の右側面(墓碑に向かって左)、
台石裏面、そして台石左側面(墓碑に向かって右)。

台石右側面の「中谷 三五左ヱ門」 は、直江弘庵、
(→ 弘庵直江翁墓碑銘 参照)、
「上曽根 利兵ヱ」 は、飯島利庸(としつね)、
(→ 飯島利庸墓碑と飯島君之墓銘 参照)。
この2人も、磐戸清実の門人だったということです。

磐戸清実墓碑台石右側面

[台石右側面]
押戸 久左ヱ門 助左ヱ門
中谷 三五左ヱ門 源兵ヱ 作兵ヱ 弥平ヱ 元治
上曽根 利兵ヱ 又兵ヱ
福木 清兵ヱ 忠兵ヱ 茂兵ヱ

磐戸清実墓碑台石裏面

[台石裏面]
立崎 長右ヱ門 惣兵ヱ 茂右ヱ門
羽中 作左ヱ門 次良兵ヱ 宇兵ヱ 作右ヱ門
   作兵ヱ 喜傳治 貞蔵 太七 富治

磐戸清実墓碑台石左側面

[台石左側面]
布川東 庄兵ヱ
生板 弥五左ヱ門
馬場 庄左ヱ門 左兵ヱ 藤右ヱ門
布鎌新田 弥右ヱ門
竜崎上町 又八
立木 吉左ヱ門
大徳北河原 五兵ヱ

(13/04/29 追記・13/04/27 撮影)

三峯神社

無量寺の前の道を南東の方角に下ってしばらく行くと、左手に、樹木が生い茂った塚のような場所が見えてきます。
その先に白い鳥居が見えます。それが三峯神社です。下左は2012年春、右は樹木が少し剪定された2015年夏時。

2012年三峯神社へ 三峯神社2015年

宗忠鳥居

三峯神社鳥居

利根町中谷切戸にある三峯神社は
由緒は不詳となっています。

祭礼は9月19日ということですが、
現在は行われていないようです。

『利根町史』には木造とありますが、
鳥居は鉄製のようです。
町史編纂後に、再建されたのでしょう。
いちばん上の笠木の反りがなく
真っ直ぐ(反り増しがない)で、
神額はありませんが額束があり、
さらに笠木は島木と呼ばれるもので
2重になっていませんので、
神明鳥居系「宗忠鳥居」と分かります。
狸の巻物・神社境内の設備・鳥居の見分け方 参照)

拝殿

拝殿

社殿は木造、瓦葺です。

中に、平成15年(2003)5月寄贈が
記された額(下写真)があるので
その頃、補修されたのでしょうか。

額

鈴 鈴

鳥居に神額がないかわりに、
拝殿上部に「三峯神社」が記された
木製の額があります。

その背後から、
小ぶりの5個ほどの鈴が
上部から下がっています。

本殿

扉は施錠されてはいないので、自由に開けることができます。また、そうしないと賽銭もあげられません。

祭神 本殿石祠左側面

しばらくぶりで訪れたら、本殿内はすっかりカラフルになっていました。これは千羽鶴でしょうか。
さて本殿石祠は、表面に「三峯山」、左側面に「明治六癸酉年十一月吉日」。つまり、明治6年(1873)11月の造立。

本体: 高59cm、幅43cm、厚29cm。

三峯神社の祭神

三峯神社の祭神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)と日本武尊(やまとたけるのみこと)。
これは埼玉県秩父にある三峯神社の社伝によると、第12代景行天皇の御代、日本武尊の東征のときに
創世2神(伊邪那岐命・伊邪那美命)の神徳による東国平定を祈念して秩父に設営されたことに始まるということです。
その後、景行天皇が上総国巡幸に際し、神社を囲む白岩(しらいわ)、妙法(みょうほう)、雲採(くもとり)の三山を賞して
三峯の称号を贈ったと伝えられています。

本殿内に「御眷属守護」と記されたお札があり、脇にキツネのミニチュアが飾られています。
稲荷神社の象徴のキツネですが、ほかの神社でも眷属になるのですね。三峯神社は典型的な山岳登拝型の神社ですが、
ここ利根町は平地、どちらかというと稲作など豊作祈願ということでキツネを眷属としたのかも知れません。

道祖神

道祖神 道祖神石祠左側面

本殿に向って左手前、入口鳥居背後に
道祖神」の石祠があります。
ここはいつも逆光で撮影はうまくいきません。

道祖神とは、災難から守るという意味では
外向きに建てるものと思っていましたが、
これは本殿のほうを向いています。
いわゆる「北向き」となっていますが、
あえてこの向きにしたのでしょうか。

石祠左側面は「明治廿一年九月廿五日」。
明治21年(1888)9月25日と、
比較的、近年の造立です。

本体: 高47cm、幅40cm、厚23cm。

手水

手水

本殿に向って右に手水があります。
かなり凝った書体で、「奉献」と彫られています。

周囲の石は、力石というには少々小さ目でしょうか。

下は左から、右側面、左側面。
右側面は「當村 願主 山中久吉」、
左側面は、「明治十四年辛巳十一月旬□」、
最後の1.2文字が不明ですが、
明治14年(1881)11月の造立でしょう。

本体: 高18cm、幅61cm、厚27cm。

手水右側面 手水左側面

大樹

大樹

神木がどれかは分かりませんが、
三峯神社の境内と周囲には、
大きな樹木が数多く立ち並んでいます。
暑い夏でも、ちょっとした木陰をつくってくれます。

中谷の水神宮

上記、三峯神社前をさらに南に下り、上水センターの脇から、今度は細い砂利道を利根川土手沿いに東に少し行くと・・・。

中谷の水神宮

もう利根町の鳥居は
2012年6月の立崎道祖神の発見 で、
調べ尽くしたと思っていたのに、
その3ヵ月後にもう1基見つかりました。

蛟蝄神社の宮司さんに
教えてもらったのです。

でも、来てみて思いました。
「これは分からないなあ」。
利根川の土手をバイクで走って、
「たんねんに脇見運転(よくない行為)」
しながら見ていかないと見落とします。

この分だと他にもまだあるかのも
と思ってしまいます。
が、恐らくこれが最後の1基かと・・・。

鳥居

神明系の鹿島鳥居です。金属製。建立日は記されていませんが、腐食等がないので、それほど古くはないようです。

本体: 高170cm、幅186cm、厚10cm。

中谷の水神宮鳥居

宮司さんに聞いているので、
「水神宮」と分かっていますが、
神額もないし、教えてもらわないと
道祖神かもと思ってしまいます。

2015年再調査のとき、初めて、
本殿石祠の笠の部分に、
水神宮」の銘に気づきました。

水神宮石祠笠部分拡大

本殿石祠

本殿石祠 本殿石祠裏面

小さな敷地の奥の真正面にあるのが、
水神宮の本殿石祠です。
前述のように笠の中央部分に、
縦に「水神宮」とあります。

表面台石には、「中谷村講中」「布川村」銘。

裏面右に造立年が記されています。
天保三壬辰歳」は天保3年(1832)。

有の異体字

造立年の左にある文字。
十有一月吉辰」。
有が左のような異体字です。
吉辰(きっしん)とは吉日と同義。
つまり、11月吉日ということです。
なかなか凝っていますね。

祭神は、水神宮すべての共通の神、
水波能女命(みずはのめのみこと)。

本体: 高69cm、幅54cm、厚54cm。台石: 高16cm、幅48cm、厚48cm。

小さな境内と庚申塔群

小さな境内と庚申塔群

小さな境内の短い参道。
でも、その両脇にそれぞれ4基ずつ、
石仏が並んで建てられています。

2015年再調査の時、
側で草刈をされていた方にお聞きしました。
なんでも、この辺りは、東日本大震災のとき、
液状化で、30cmも地盤沈下したとのこと。
大切な田畑は無論のこと、この境内の修復整備も、
たいへんな作業だっただろうと思います。

ほとんど庚申塔のようですが、
向かって右手の列手前から順に
以下、紹介します。(台石だけのものは省略)

なお、草刈の方の話では、これらの石仏は、元々は無量寺境内にあったもので、廃寺となったときにここに遷されたようです。

庚申塔1

右列最初は、青面金剛の刻像塔。以下、左から、正面、右側面、左側面。

庚申塔1 庚申塔1右側面 庚申塔1左側面

青面金剛は、1面6臂で、上は右手に三又戟、左に法輪、中央は右に剣、左にはショケラを提げています。
下は定番の弓と矢。石塔上部は日月雲の浮彫、正面を向いた邪鬼の頭部を踏みつけ、その下には三猿も見られます。

右側面には「中谷切戸坪講中」とあり、下部に「徳右ヱ門 徳左ヱ門 長兵衛」。
この3人の名は他の庚申塔でも、ほぼ共通して記されています。中谷村切戸坪の代々の有力者ということでしょう。

左側面は「天保十五辰年十一月吉日」、つまり天保15年(1844)11月の造立。
ちなみに、この年は12月に改元して、弘化元年となります。改元直前の造立です。

本体: 高67cm、幅28cm、厚20cm。

不明の塔

不明の塔 不明の塔左側面

この塔は正面等、風化欠損が激しく、
まったく文字等が読めません。

左側面は、「中谷切戸坪講中
(上記は背面が剥落欠損しており、推定)
世話人 コ右ヱ門 コ左ヱ門 長兵ヱ

形と共通の世話人などから推定すると、
おそらくは庚申塔の文字塔と思われますが、
この情報だけではなんとも断定できません。

本体: 高65cm、幅29cm、厚19cm。

馬頭観音塔

馬頭観音塔

これも風化の激しい石塔です。
光背右上の「馬頭観音」の文字だけ読めます。
馬頭観音の刻像塔ということしか分かりません。

本体: 高69cm、幅28cm、厚19cm。

庚申塔2

右列いちばん最後は、「青面金剛王」の文字塔です。もちろんこれも庚申塔の一種。下左から、正面、右側面、左側面。

庚申塔2 庚申塔2右側面 庚申塔2左側面

正面左右に「寛政四壬子年九月吉日」。つまり寛政4年(1792)9月の造立。
右側面には「上中谷村」、左側面は少し読みづらいですが下方に「講中十四人」が見えます。

本体: 高61cm、幅24cm、厚15cm。

▼ さて、左列を見てみます。入口鳥居に近いほうから・・・。いちばん手前には台石だけがありこれは省略します。

廻国塔

表面中央上部左右に「奉納」縦に「大乘妙典六十六部日本廻國」。左右に「天下和順」「日月清明」。典型的な廻国塔です。

廻国塔 廻国塔右側面 廻国塔左側面

廻国塔とは、日本66ヵ国の霊場に経典を納めて廻るもの。上中央は右側面、最後は左側面。
右側面「中谷村 覚者 元良」は、廻国行者の名前と思われます。元々中谷村出身の行者とも推定されます。

左側面は「文化十三丙子年三月吉日」。文化13年(1816)3月の造立。

本体: 高61cm、幅25cm、厚18cm。

庚申塔3

利根町に多い「青面金剛王」の文字塔。正面左右には「嘉永四亥年正月吉日」つまり嘉永4年(1851)1月の造立。
下左から、正面、右側面、左側面。上部には、日月雲の浮彫もあります。

庚申塔3 庚申塔3右側面 庚申塔3左側面

右側面に「中谷村切戸講中」、左側面は「世話人 山中長兵ヱ 岩戸徳左ヱ門 岩戸徳右ヱ門」。
お馴染みの名前の3人ですが、幕末のせいか、この頃には苗字も付いています。

本体: 高66cm、幅27cm、厚19cm。

庚申塔4

上部が約半分欠損していますが、これも「青面金剛王」の文字塔と推定できます。下左から、正面、右側面、左側面。

庚申塔4 庚申塔4右側面 庚申塔4左側面

正面左右は「□□元年」「□月吉日」が分かりますが、元年だけではなんとも造立年は推定できません。

右側面は、「世話人 コ右ヱ門 コ左ヱ門 長兵ヱ」、左側面は「切戸坪講中」と、ほぼ上記と同様な条件です。

本体: 高40欠cm、幅27cm、厚19cm。

庚申塔5

最後の4基目も、青面金剛が刻像された庚申塔。下左から、正面、右側面、左側面。

庚申塔5 庚申塔5右側面 庚申塔5左側面

青面金剛の像容は1面6臂で、三又戟・法輪・剣・弓矢・ショケラを持ち、やはり邪鬼を踏み、下には三猿も描かれています。

右側面は「中谷切戸坪講中」。その下は欠損していますが「世話人 コ右ヱ門 コ左ヱ門 長兵ヱ」と推定。
左側面は「天保十五辰年十一月吉日」で、天保15年(1844)11月の造立。あれれ・・・これは・・・!

上記の情報は、右列筆頭の 庚申塔1 とほぼ同一ですね。同じものを2基、同時期に造立したものと考えられます。
しかし、風化の度合いが随分とちがいます。置かれていた位置等でコケなどの付き方が相当変わるものなのでしょう。

本体: 高65cm、幅28cm、厚19cm。

ここには、庚申塔が多く、よく見かける如意輪観音の十九夜塔などが1基も見当たりませんでした。
それらは女人講での造立が多いので、この地区では女性のニーズ・経済力等があまり高くなかったとも考えられます。



(15/08/24・13/10/21・13/04/29・12/09/14・12/08/03 追記再構成) (07/06/17・06/05/05・06/05/01・05/09/11・05/03/13 追記) (05/03/09) (15/08/23・15/08/08・13/04/27・12/09/13・12/04/29・11/02/16・07/06/16・06/09/10・06/09/02・06/05/05・05/09/10・05/08/13・05/07/31・05/02/12 撮影)


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