タヌポンの利根ぽんぽ行 中谷集会所近辺

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目   次


更新経過

石造物データ掲載のため再調査をしましたが、
この地区は2015年夏に1度目を行ない、更新をしないままになっていました。
なぜか、ここはいつもそうなってしまいます。ポイントが南北に分散しているせいかも。
2016年になって、さらに連続3日間の調査を経てようやく。
土中に埋まった石仏の掘り起しや、銘文読み込みに時間がかかりました。

如意輪観音の刻像塔、十六夜塔、十九夜塔が数多く見られました。(16/06/21)


下記のような経過をたどって、本中谷地区のコンテンツは、比較的遅れてUPしましたが、
今回の目次変更ほか6年ぶりの更新再構成でも、やはり最後のほうになってしまいました。
見所が南北に分散していて、内容も神社だけとかに分類できないので、
まとめるのが少々難しい面もあったからです。でも、なんとか・・・。

左の目次に記しましたが、本コンテンツは、大別して4つの地域別に分かれています。
・中谷地区南東/南野原集会所地区
・中谷地区中央/上中谷集会所地区
・中谷地区北東/下中谷正福寺跡近辺
・中谷地区北東/道祖神

(12/08/09)


コンテンツにまだUPしていなくても利根町のめぼしいポイントはほぼ訪れていたつもりでした。
中谷地区のそれをまとめようとしてふと思ったことは、「集会所」はないのかしら?

そこで調べてみると、なんとちょっとした盲点のような箇所に
集会所とほかにも稲荷神社があるらしいことが分かりました。

それは探索後半で見つけた無量寺東隣の 三峯神社 から
さらにもう少し東に行ったところにあるようです。(下記利根町中南部マップ参照)
南野原集会所と呼ばれているようですが、どうもここは見落としていましたね。

ところが、さらにもうひとつ、北のほうに上中谷集会所というのもあることに気付きました。
集会所といっても特に神社や史跡などない場合もありますが、果たしてどうなのでしょう。
さっそく訪ねてみることに。すでに撮影済みの未掲載素材がまだいくつかあるというのに・・・。(06/05/06)


利根町中南部地区マップ

本コンテンツの紹介スポット中谷地区は、マップ中央から右の箇所です。

南野原集会所と稲荷大明神

南野原の稲荷大明神

稲荷神社鳥居とポール

当初ここへは三峯神社前の路から行ったのですが、
細かい脇道がいろいろあり、結構、迷いました。
利根川土手のほうから訪ねると意外と早く分かるかも知れません。
ところが2012年現在、まだ土手のほうが大震災の後遺症なのか
工事中の箇所が多く、さらに行き着きにくい場所と化しています。

というわけで、当初も、現在も、たどり着くには迷いますが、
半円弧状の道路区域の少し奥まったところに、赤い鳥居を!

これは、だれしも見上げますね。幟旗を立てるポールが
すっくと上空に伸びています。

南野原集会所

稲荷神社本殿に向かって右脇には南野原集会所の建物、
その裏手にブランコなどがある小さなスペースがあります。
詳細地図上では「南野原集会所」となっていますが、
『利根町史』では「中谷沖坪集会所」となっています。
この辺りの旧地名が中谷沖坪というのでしょうね。

集会所建物

宗忠鳥居

鳥居

鳥居は、鉄製朱塗りの神明系、
宗忠鳥居です。6年前の写真では、
塗り替え直後か輝いていましたが
現在はさすがに少しくすんでいます。

奥に本殿が見えますが、
それまでが短いながらも参道
ということになりましょうか。

金毘羅大権現を合祀

下が流れ造りの本殿ですが、ここの特徴は、神社2社を合祀した造りになっていることです。
次項目の写真で紹介するように、向かって左に金毘羅大権現、右に稲荷大明神を祀っています。

本殿

この合祀本殿が造られたのが
改築記念碑(後述参照)にあるように
昭和19年(1944)ということですが、
それ以前は果たしてこの同じ地所に
両方の神社があったのかどうか。
どちらが先か後か等々、
由緒沿革は不明となっています。

本殿

祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と大物主命(おおものぬしのみこと)。どちらがどちらの祭神であるかは明白です。
すなわち、倉稲魂命(宇迦之御魂神)は稲荷大明神、大物主命は金毘羅大権現です。これは全国共通なのですね。
大物主命は大国主命(おおくにぬしのみこと)の和魂(にぎみたま)と言われています。

和魂とは

神の御魂(みたま)には、「荒魂」(あらみたま)と「和魂」(にぎみたま)と言う2つの働きがあると言います。
荒魂は荒ぶる魂で、天変地異・戦争などを引き起こす魂であるのに対し、和魂とは、平和で穏やかな魂。
和魂にはさらに、収穫をもたらす「幸魂」(さきみたま)と不思議な奇跡をもたらす「奇魂」(くしみたま)の2種類があります。

左は金毘羅大権現

金毘羅大権現 金毘羅大権現石祠左側面

本殿内部の左。
金毘羅大權現」の石祠と
神額が置かれています。
右写真は石祠の左側面。

石祠表面上部には「象頭山写」とあり、
四国の金毘羅神社総本社からの勧請を
意味しているものと思われます。

石祠左側面は、ちょっと難解。
文政丒十二亗十二月吉辰」。
文政12年(1829)12月の造立という意味。
問題は「丒」と「亗」および「吉辰」。
丒は丑の異体字であり、亗は歳の異体字。
吉辰(きっしん)とは吉日と同義の言葉です。

本体: 高34cm、幅23cm、厚16cm。

右は稲荷大明神

稲荷大明神

本殿内の右は乱雑になっていますが、
神棚のような木製の本殿と、その前に、
ミニチュアのキツネが飾ってあります。

キツネの額

キツネの額 キツネの額

タヌポンが気に入ったのはこのキツネの彫刻。
本殿そのものより価値があるのでは・・・などと。

本殿全体を外から見ただけでは見えませんが
中の稲荷大明神上部に掛けられています。

鈴 鈴

あと、手に取ってさわれるところに鈴があるのも、なんかいいですね。

本殿装飾

紅梁

朱塗りの本殿に紺の帯、そして金の装飾。
(←)紅梁部分の龍神や、獅子の木鼻(↓)なども意外と豪華です。

木鼻 木鼻

改築記念碑

改築記念碑 改築記念碑背面

本殿左手前に東向きに建てられている石碑。
稲荷大明神 金毘羅大權現 改築記念碑
と記されています。もちろん本殿の改築です。
碑陰に「寄附芳名」と「昭和十九年二月建之
昭和19年(1944)年2月の造立銘があり、
約100名の協賛者の名前が刻まれています。

ただし改築と合祀が同時かどうかは不明。
既に合祀済みの本殿の改築かも知れません。

とすれば、元々の稲荷大明神と、
金毘羅大権現の2社の神社が、
それぞれいつごろ創建(勧請)され、
いつ合祀されたのかも不明なわけです。

なお、碑陰末尾に「石工 大塚兼吉」。

本体: 高180cm、幅60cm、厚7cm。
台石: 高34cm、幅120cm、厚44cm。

以下、碑陰の詳細。

                昭    和    十    九    年    二    月    建    之 
  沖中谷          一金十五円 田上  安 一金二円    田口源次郎  一金二円五十銭 青山峻之助 早尾  一金十五円 杉本 清助
  一金百円   細谷  中 一〃十円  岩戸 虎雄 一〃仝     福田国三郎  一〃仝     小暮  貞 川原代 一〃十円  村山  実
寄 一〃仝    大谷光次郎 一〃仝   山中 志ん 一〃仝     杉野 儀行  一〃仝     青山仙之助 竜ケ  一〃仝   鈴木 昌三
  一〃仝    岩戸 政一 一〃仝   岩戸 信次 一〃仝     飯塚 忠雄  一金一円    杉山  隆 サキ  一〃仝   渡井  廣
  一金三十五円 杉山 七郎 一〃仝   石川  孝 一〃仝     目本  昭  一〃仝     青山 春吉 中田切 一〃仝   槝井 くら
  一〃三十円  橋 秀雄 一〃仝   飯嶋巳之助 一〃仝     飯塚 一郎  立ア            小林  一金五円  岩瀬 とも
  一〃仝    蛯原 一郎 一〃仝  海老原秀太郎 一〃仝     吉浜 のふ  一金五百円   山形 正吉     一〃仝   野口 章滋
附 一〃仝    稲葉 喜六 一〃五円  青谷 米吉 下中谷坪           一〃二十円   岩戸  弘 竜ケ  一〃仝   香取 當可
  一〃仝    須  戝 一〃仝   岩戸 一男 一金五円    海老原壮三郎 一〃二十六円  山形酉之助 サキ  一〃仝   伊藤きく代
  一〃仝    青谷 とく 一〃仝   山口三千年 一〃仝     石塚芳之助  一〃五円    土屋 富次     一〃仝   和歌森ひさ
  一〃二十円  仝 誠次郎 一〃仝   大関 す川 一〃仝     直井  平  一〃仝     大越水之助 鋳  一〃仝   後藤 百治
  一〃五円   岡嶋 はま 一〃仝   福田コ之助 一〃仝     大越 邦吉  立ア下               一〃仝   片岡 敏雄
芳 一敷地十五坪 岩戸 政一 一〃仝   北村 善造 一金三円    近藤 志ノ  一金十円    山形 七郎     一〃仝   下田 茂一
  切戸坪          一〃仝   山中 長吉 一〃二円    橋壽太郎  一〃五円    石川 光晴     一〃仝   小倉 菊松
  一金五十円  山中安五郎 上中谷坪        一〃仝     須精次郎  一〃仝     山形 浦吉     一〃仝   野 由造
  一〃四十円  岩戸長之助 一金五円  飯塚 金次 一〃仝     近藤 ノら  一〃二円    石川  肇 布川  一金二円  須藤徳太郎
  一〃三十円  山中  進 一〃仝   山中 惣造 一〃仝     橋敬三郎  一〃仝     永井廣之助 中町  一金二十円 野口  勲
名 一〃三十円  仝  忠雄 一〃三円  飯塚 平三 一〃仝     岡野 政雄  一〃一円    赤尾津与一     一金三円  大谷幸次郎
  一〃二十円  仝   清 一〃仝   鬼沢 栄吉 一〃仝     石塚  源
  一〃仝    山中  茂 一〃仝   福田酉之助 一〃一円五十銭 齋藤  政  早尾  一金三百円 坂本 かつ     石工
  一〃仝    大関金之助 一〃仝   岩戸  敬 一〃仝     竹本 利士  大平  一〃五十円 藤代 兼吉      大塚兼吉
  一〃十五円  田上 省三 一〃二円  大野 勇吉 一〃仝     仝  秀吉  惣新田 一〃二十円 石井庄一郎

手水1

ここには、新旧2基の手水があります。そのひとつは、本殿を挟んで上の改築記念碑の反対側にある下の手水。

手水1 奉の異体字

表面は「奉納」ですが、奉は左のような異体字。
下左は右側面で「山形正吉」とあります。
立崎の人で、改築記念碑・碑陰の寄附芳名では、
一金500円も寄附した最大の奉賛者です(上記赤字部分)。
ちなみに昭和初期の貨幣価値は米価基準では、
1円=2000円。500円は100万円となります。

下右は左側面。「昭和十九年一月吉日」とあり、
昭和19年(1944)1月で、改築記念碑より1ヵ月前ですが、
社殿改築事業と連携した造立と思われます。

本体: 高33cm、幅82cm、厚34cm。

手水1右側面 手水1左側面

手水2

さて、もうひとつの手水は、参道右手奥の大師堂(後で紹介)の右隣りにあり、大師堂に付属しているかのように見えます。

手水2

表面は「奉納」上に「万人講」とありますが、
左側面に「大正四年五月建之」大正4年(1915)5月の造立。
前記手水よりは若干古いですが、大師堂、稲荷、金毘羅あるいは、
合祀後の稲荷のいずれに付帯した設備かは不明です。

下左の右側面には、施主もしくは願主4名の刻銘。
蛯原泰治 須悦太郎 岩戸判四郎 䂖川時次郎
䂖は石の異体字。石工のお遊びのようなものですね。

本体: 高18cm、幅63cm、厚25cm。

手水2右側面 手水2左側面

境内の石祠・石仏

入口の2基

手水1右側面

さて、稲荷大明神境内には、
入口鳥居から参道脇等にかけて
いくつかの石塔が並んでいます。

まずは、鳥居脇の2基から。
写真の右が入口。欅の大樹を挟んで、
2基の石塔が参道を面して立っています。

札所塔

入口の鳥居すぐ右脇にあるのが、「四国第六番」と記された石塔。さて問題は、この塔が後述の四郡大師と連動したものか、
まったく別の単独の巡拝記念の塔なのか、ということです。四郡大師の一環なら表面は「新四国第六番」と言うべきでしょう。

札所塔 札所塔左側面

表面右には、「阿波國安樂寺寫シ」とあり、
その下に「發起人」として、以下4名の名前。
橋みつ 大谷きん 細谷なを 岩戸伴四郎

阿波国安楽寺とは、以下を指します。
「四国八十八ヵ所霊場 第六番札所 安楽寺」

左側面を見ると、「大正三年十一月建之」。
大正3年(1914)11月の造立ですが、
四郡大師発足はそれより約1世紀も前。

この場合は四郡大師の流れとは別に、
発起人たちが6番札所のみの写し巡礼塔を
別次元で建てたというところでしょうか。

本体: 高59cm、幅22cm、厚16cm。

写し巡礼とは

「写し巡礼」とは、四国霊場や西国巡礼など、居住地からは手軽に行くことができない遠方の巡礼地を、身近な場所に
モデルとして造り、近隣の多くの人に巡礼の機会を与えることを目的に開設された模擬巡礼霊場を巡ることを言います。
上記のように四国の6番札所の安楽寺の土を持ち帰り、それを埋めて造った記念の巡拝塔が模擬霊場となるわけです。

水神宮1

水神宮1 水神宮1左側面

上記札所塔の左、欅の大木の根元には、
水神宮の石祠があります。
石祠表面に「水神宮」と彫られています。

左側面には辛うじて、以下が読み取れます。
文政八酉年 十二月吉日」、
文政8年(1825)12月の造立。

本体: 高57cm、幅39cm、厚28cm。

参道左右に13基

下の写真は境内の右手奥から参道を真横に見たところ。この右奥に本殿があります。

参道左右に13基

写真の奥に並んでいるのは、入口の鳥居から入って
左手に並んでいるもの。ポール立てのようなものや
台石のみのものもあり、それらを除いて6基あります。

写真手前は、参道に対して後ろ向きになっていますが、
草や土中に埋もれているものも含めて、7基見えます。

これらは神道よりも仏教系の石仏が多く見られますが、
稲荷大明神境内に当初から存在していたのかは疑問です。
近くに廃寺となったお寺でもあったのでしょうか。
また参道の左右の場所の立地的な面や並び方や向きなど
なにか意味があるのかどうかもよく分かりません。

以下、これらを奥の石塔群から順に紹介します。
中央の手水は前述しましたので除きます。

参道左6基

参道左6基

『利根町史』には、道祖神 宝暦9年
(1759)ほか8基、とありますが、
いつもながら数が合いません。

はたして、この6基のなかに、
宝暦9年の道祖神があるかどうか。
以下、左から見ていきます。

庚申塔1

庚申塔1

足元に三猿、中央に、邪鬼を踏みつけた青面金剛が刻像された庚申塔です。
青面金剛は1面6臂。上の手は刀剣と法輪、真ん中は合掌、下は弓矢。

右下に「享保十二未天 十一月吉日」、左下に「道行七人」の文字が見えます。
すなわち、享保12年(1727)11月の造立。
「道行」は、一般には「同行」が多いですが、音が合っていればよし、ということで、
庚申塔が「道教」と関係しているから、というのは考えすぎでしょうね。

上部に「日月雲」、左右の文字の下に、「二鶏」も彫られています。

本体: 高83cm、幅34cm、厚18cm。

十九夜塔1

十九夜塔1

光背右に、「奉造立十九夜供養二卋安樂」。
半跏思惟の如意輪観音を刻像した典型的な十九夜塔です。
二世安楽とは現世と来生の安楽を願うもの。

左に「元禄十五壬午八月吉日」「同行十一人」、
元禄15年(1702)8月の造立です。

本体: 高69cm、幅35cm、厚22cm。

十九夜塔2

十九夜塔2

光背右に、「拾九夜念佛供養」、「敬白」が見えます。
これも前記同様、如意輪観音刻像の典型的な十九夜塔。

左には「于時貞享元天甲子十月吉日」「同行廿四人」。
貞享元年(1684)10月の造立。
ちなみに「于時」とは、「ときに」と読み、
銘文で年号の前に記す慣用句のようなものです。

本体: 高71cm、幅35cm、厚25cm。

道祖神1

道祖神 道祖神石祠左側面

表面は風化が激しく何も見えません。
ところが左側面を見ると・・・。
宝暦九夘十月吉日」とあります。
これは、宝暦9年(1759)10月の造立。

ということは、『利根町史』にある、
道祖神 宝暦9年(1759)と一致します。
他のどの石祠・石仏も宝暦9年のものはなく、
形から見ても、これが道祖神と思われます。

本体: 高39cm、幅24cm、厚12cm。

水神宮2

2段重ねの余分の台石隣りは石祠。表面上部に「水神宮」とあります。左側面(下右)には「明和九壬辰十月吉日」。
明和9年(1772)10月ですが、この年は大火等頻発し「迷惑な年」として11月16日に安永と改元。その直前の造立です。
さて、問題は下中央の右側面。石祠が固定されているため、真横から見られないことと文字自体がぼやけています。
惣和賀□志中屋村」としか判読できません。最後は「中谷村」と思うのですが、その前が意味がまったく不明です。

本体: 高53cm、幅39cm、厚28cm。

水神宮2 水神宮2右側面 水神宮2左側面

地蔵菩薩塔1

下左から、正面、右側面、左側面。地蔵の刻像塔ですが、水神宮同様左右との幅が狭く側面の文字が読みづらいです。
右側面は、上段に「願主 高橋泰助」「丗ハ人 青谷常藏 稲葉コ治」。下段は「丗ハ人 細谷□□ 石川□□ 大関稔
左側面も「明治十四□□□□」明治14年(1881)造立だけで後半が剥落欠損もあって読めません。

地蔵菩薩塔1 地蔵菩薩塔1右側面 地蔵菩薩塔1左側面

本体: 高51cm、幅21cm、厚12cm。

参道右7基

参道右7基

参道右、と言っても参道向きではなく、
逆向きに立っています。

実はこの写真、参道左右に13基
同日に撮ったもの。
見比べると少し違います。
どこが変化しているか分かりますか?

そうです。
左から2番目の地蔵の刻像塔が、
ちゃんと全体像が見えます。
この時間差は約1時間半。
この塔を掘り出して
立ち上げるのに要した時間です。
汗を掻き、苦労しましたが、
その甲斐もありました。
でも、もう1基、は、さすがに
くたびれてやめました。いつか・・・。

ここの7基はいずれも台石がないので、当初はもっと上に立っていたのでしょうが、時の経過で沈んでしまったのでしょう。
掘り起こすのはたいへんですが、それ以前に、周囲の雑草をまず刈り取らねばなりませんでした。これがまた手強く・・・。
まあ、愚痴はともかく、左から順に見ていきます。

墓塔1

墓塔1

中央に戒名のような文字。
三□□淡大阿闍□」と「沙室貞□」の2つ。
阿闍とは「阿闍梨」と続きそうなので、これは僧侶の墓塔と考えられます。
左右にいずれも「天保」の文字。
左は「天保四巳□□」で、天保4年(1833)以降の造立と思われます。

機会があれば、これも掘り起こして調べてみたいところですが・・・。

本体: 高27cm(下部土中)、幅29cm、厚19cm。

十六夜塔1

十六夜塔1

よくぞここまできれいに掘り出せた、と自画自賛。
光背右上に「十六夜念佛供養 同行十七人」とくっきり。
十六夜塔と判明しましたが、刻像されているのは地蔵菩薩。
阿弥陀・大日如来か聖観音が十六夜塔の本尊ですが、まあよくあること。

さて、問題は左上の欠損。「□栄七庚寅天 十月十六日
7年で庚寅の年は、宝永7年もしくは明和7年。
この場合、七の上の字が栄と読めそうなので、
宝永7年(1710)10月16日造立と確定しました。

本体: 高55cm、幅28cm、厚18cm。

墓塔2

墓塔2

中央に「良正折言念法子」。
法子とは仏門に帰依する人の戒名に付けられるものなので、
これも僧侶、もしくはそれに準じる人の墓塔かと思われます。

左右には「寛保元酉天 十月二十五日
すなわち寛保元年(1741)10月25日歿ということでしょう。

下部の浮彫は僧侶の墓である卵塔を意味しているのでしょうか。
この塔も、もう少し下部を掘り下げてみたいところですが・・・。

本体: 高58cm、幅31cm、厚13cm。

十六夜塔2

十六夜塔2

これも、十六夜塔1 とほぼ同様。
光背右に「拾六夜講 同行十四人
地蔵菩薩の刻像も同様ですが、この場合は、合掌しています。

光背左は「寛保元辛酉十月吉日
すなわち、寛保元年(1741)10月造立ですが、
これは前記の墓塔と同年同月。
この塔の成就を見て、良正折言念法子が亡くなったのか、
それとも、良正折言念法子が歿した後に・・・これはないですね、
「吉日」の十六夜塔をすぐ建てるのはおかしいような気がします。
それとも、これら2基はまったく関係のないもの?
いや、やはりこの同じ場所にある以上、
関連性のあるものとするのが自然でしょう。

本体: 高53cm、幅28cm、厚18cm。

墓塔3

墓塔3

こういう板碑型のものは、江戸初期の古いもので、
概ね墓碑・墓塔が多く見られます。
この塔もおそらくその類と思われますが、
銘文が、下部左右の「寛文七年 四月十日」しか読み取れません。
寛文7年(1667)4月10日が命日の墓塔と推定。

しかしこの塔の場合、下部をもう少し掘り起こしたとしても、
明瞭な情報が得られる可能性は少ないように思えます。

本体: 高47cm、幅34cm、厚16cm。

十九夜塔3

十九夜塔3

1面6臂の如意輪観音を刻像した、これも典型的な十九夜塔。
栄杳并逆修 通常2臂の頬に当てた手と降魔を表す下に抑えた手以外は、
未敷の蓮華と法輪、如意宝珠そして数珠を持っているようです。
光背最上部から右に「爲拾九夜念佛」とあり、最下部には「二丗安楽也」。

左上には「寛文九天」「十月十九日」、
寛文9年(1669)10月19日と古い造立です。
左最下部に「中谷村施主廿一人」が見えます。

本体: 高58cm、幅34cm、厚19cm。

十六夜塔3

十六夜塔3

これは2臂の如意輪観音を刻像していますが、十六夜塔です。
最上部「キリーク・サク・サ」の種子の下に「奉供養」、
そしてすぐ右に、「十六夜二世安楽所」と続きます。

さらにいちばん右には、「維持延宝六戊午天」、
中央を挟んで左に「十月十六日」。
延宝6年(1678)10月16日の造立です。

この塔には光背左右の中央から下部にかけて、
「逆修」とかなにか多くの文字が雑然と彫られているようですが、
どうもうまく判読できません。
機会があれば、時間をかけて磨いてみたいと思います。

本体: 高66cm、幅35cm、厚19cm。


南野原の大師

ここにも大師がありました。番号札はついていません。でも、最初の訪問時、驚いたのは堂の中に安置されている大師像。
右は、最初、1体が鏡に写っているのかと思いましたが、全部で3体あるようです。でも、右の2体は向き合っている?

大師 大師像

下は2012年以降の写真。位置が少し変わりました。雪だるまのような形の石は、五輪塔の一部?よく分かりません。
しかし、注目したいのは、位置が変わったもう1体の像。台石に「觀覺光音」と彫られています。これは・・・。

3体の大師像 五輪塔

観覚光音

観覚光音 観覚光音の台石

観覚光音(かんかくこうおん/1711−1783)とは、取手にある長禅寺の幻堂禅師の法弟であった僧侶です。実は、安永8年(1779)6月に、観覚光音によって、新四国相馬大師霊場88ヵ所(相馬霊場)が開設されました。安永3年(1774)6月、四国霊場の第1番阿波国霊山寺より「お砂」を持帰り、長禅寺境内に相馬霊場第1番を設置以来、安永8年までの5年間で、下総国と四国を往復し、88の札所を完成させました。(『取手市史寺社遍』)

▼ これは驚きました。四郡大師の堂に、なぜ相馬大師設立者の像が安置されているのでしょうか。
しかも、この像の台石の左側面には「第八十八番」と彫られています。四郡大師の88番は無論、徳満寺です。
まさか、この大師堂が、四郡大師200ヵ所の一部ではなく、相馬大師88ヵ所のひとつということではないですよね?

▼ 調べてみると、観覚光音には、相馬霊場は四国の吉野川沿いの霊場を坂東太郎利根川に移すという構想があったとか。
そこには、なんと布川の徳満寺も構想に入っていたと言います。しかし、徳満寺側がそれには賛同しなかったようです。
現実に相馬大師開設から少し遅れて、文政元年(1818)に、徳満寺を中心に四郡大師が開設されました。
徳満寺の相馬大師不参加の理由は、当時は、布川の方が人口も多く街の規模も取手以上に栄えていたためと思われます。
余談ですが、現在は、すっかり逆転してしまって、布川住民としては、ちょっと悔しいですね。

▼ さて、南野原地区も利根川がすぐそばを流れています。この大師堂の所属がどちらかは調べておかないとだめですね。
でも、堂内に、よく見かける四郡大師の貼紙がしてあるようなので、まず十中八九相馬大師ではないと思います。
ちなみに相馬霊場88番は無論、取手長禅寺です。四郡大師の発祥等については、惣新田コンテンツの 四郡大師とは 参照

観覚光音像: 高29cm、幅21cm、厚13cm。大師左奥: 高26cm、幅28cm、厚14cm。大師右奥: 高25cm、幅24cm、厚17cm。

鳥居再び

さて、南野原集会所、稲荷大明神を後にし、中谷地区のもうひとつの集会所、上中谷集会所に向かいます。

鳥居の外は利根川へ

入口を振り返ると、鳥居の中、水田の向こうに
利根川の土手が小さく、しかし、輝いて見えました。

土手の景色 土手の景色

上中谷集会所と道祖神

分かりにくい上中谷集会所

上中谷集会所を見つけるのも少し手間取りました。県道脇の農道のような路地、その袋小路の奥にあるのです。
いろいろ右往左往したあげく、取手東線の中谷の信号から、ほんのわずか東に行ったところにその袋小路を見つけました。
30m先も進めば行止りになるような通りでしたが、突き当たった左にそれらしき建物があります。
行ってみると、やはりそこが上中谷集会所でした。左下写真の左手に見える路地が右折してきた道。
集会所の手前までは、他には見所のない集会所だけの敷地かなという感じが強かったのですが・・・。
集会所の前を奥に進んで行くと・・・何かが見えてきました。

あれは、大師の祠!ああ、寄ってみてよかった、と思いました。そして、たどり着いたのが以下の空間(右下画像)。

上中谷集会所 上中谷集会所

以下は、2016年の再調査時。入口の道路は舗装され、錆びついていた道祖神の鳥居が朱色に塗り替えられていました。

上中谷集会所 上中谷集会所

上中谷の道祖神

鳥居の奥に見える2基は、左が青面金剛王と記された石塔、右が道祖神の石祠です。
共用の鳥居に見えますが、青面金剛王は庚申塔で鳥居のないものが一般ですから、この鳥居は道祖神用のものでしょう。

道祖神の鳥居 道祖神の鳥居2012年 道祖神の鳥居2006

『利根町史』1992年撮影の写真では石祠類しか写っていませんが、2012年時は、錆付いた鉄製の神明鳥居があります。
この鳥居も、上右下の写真のように、2006年時は、錆はなくきれいでした。本体: 高166cm、幅101cm、厚28cm。

道祖神石祠

道祖神の祭神は、久那戸神(くなどのかみ)。しかし、この石祠は、目視や写真だけでは道祖神である根拠が不明です。
右側面に見える文字も、「仲谷□組 女人講中」だけ。左に至っては「□二□十二月□□」では分からないも同様。
でも、この石祠の風化は、色具合といい、芸術品のような風合いがありますね。本体: 高49cm、幅34cm、厚23cm。

道祖神石祠 道祖神石祠右側面 道祖神石祠左側面

庚申塔2

庚申塔2 庚申塔2右側面

青面金剛王」と記された、文字塔の庚申塔。
表面右に「寛政四壬子年」左は「九月吉日
つまり、寛政4年(1792)9月の造立。
右側面には「講中十六人」とあります。

青面金剛だけでも十分なのに「王」が付く、
なぜか利根町は「青面金剛王」ばかりです。

本体: 高60cm、幅23cm、厚20cm。

上中谷の大師

集会所敷地に入っていちばん手前にあるのが、大師堂。
こちらの大師も南野原集会所と同様に番号が不明ですが、中の大師像にまたしても興味深い点を発見。

大師 大師像

右の像の顔というか頭部、いや胴のほうもどうなって(あれっ?しゃれではありません)いるのでしょうか?

木彫りの大師像?

木彫りの大師像?

この不可解な大師像?を調べに再訪問しました。

どうも、頭部は木彫りで、顔というよりシャモジのような・・・。
胴体は、可憐な動物模様の布をまとっていますが、厚みは感じられません。
なにか大きな木のスプーンに帽子を被せて布をまとわせたという感じです。

まとった布の中を確かめてみたい、そんな誘惑にかられましたが、自重。

最初に見たとき、奥は薄暗いので、幽霊のような不気味さがありました。
だから、あんな子犬のマークの衣装をまとわせたのかも?
由緒のある像なのかも知れませんが、あまりぞっとしないものでもあります。

木彫りの大師像2016

→ 2016年再調査時、左の通り。
帽子も衣装も剥ぎ取られて・・・
えっ?タヌポンはやってませんよ!

石仏鞘堂

石仏鞘堂

大師堂より少し大きめの鞘堂が
大師堂に並んで建てられています。
2012現在は左の様子ですが、
2006年は新築のような感じでした。

中を見ると全8基の石仏がぐるりと
半円弧状に並んでいましたが、
その中心の祭壇には
見慣れない石仏が置かれています。

書かれた文字を読みたいのですが
探索当初は読めませんでした。

なお、この狹い場所に8基もあり、
それぞれが固く固定されています。
そのため石塔の側面・背後を見るのは
なかなか難しいものがあります。

勢至菩薩塔

勢至菩薩塔

いったいこれは何でしょう?訊ねてみたいのですが、いつもだれもいないのです。
いままで利根町のこうした史跡や神社、集会所を訪ねているのですが、
何かイベントがある場合以外は、タヌポンはほぼ99%、人に会ったことがありません。
土日・祭日がほとんどとは言え、とくに集会所関連ではいままで1人もなしです。
これも、巡りあわせがあるとも思いますが、不思議と言えば不思議です。
こんなとき「人に聞かず自分で調べなさい」という天啓があるように思うのです。

梵語・阿弥陀三尊

→ 後日、このサイトを見ていたら閃きました。
これは、大平神社の宝篋印塔横須賀の廻国塔 で紹介した
梵語の文字=種子のようです。
下のふたつのうちのひとつ。勢至菩薩ではないでしょうか。
種子だけで「塔」と呼べるものか分かりませんが、
とりあえず「勢至菩薩塔」としておきましょう。

本体: 高39cm、幅31cm、厚6cm。

そのほかの石仏を以下、左から順に見ていきます。

子安観音塔1

子安観音塔1 子安観音塔1右側面 子安観音塔1左側面

未敷の蓮華(みふのれんげ)を左手に持ち、右手に赤子を抱いて乳を与える姿はまさに子安観音。
右側面は鞘堂正面から眼に入りますが、「女人講中(講中は剥落)」と子安観音に符合する組織。
左側面を見ると「文久三亥年八月□□」。文久3年(1863)8月の造立が分かります。本体: 高66cm、幅26cm、厚18cm。

※ 余談ですが、女人講中の下の文字部分は、石仏固定の過程でセメントが過剰に塗られ、消えています。
なるべく文字が消えないような配慮ができないものかと、他のケースでもときどき思います。
また、大震災で倒れた石塔等を直すのにも天地が逆だったり、後ろ向きに設置されている例もいくつか見かけます。
倒れたまま放置されているところより、心ある方が多い地域であるだけに、最後の仕上げにも・・・と思います。

庚申塔3

庚申塔3

上部左右に「日月雲」が描かれています。
下部に三猿が彫られているので庚申塔と分かります。
ほかには、「奉造立」という文字が中央上にかすかに読めます。
左下にも文字が若干見えますが、意味ある判読ができません。

この形で線刻だと、寛文期前後の古いもののようにも思えますが、
造立年が読み取れません。まさか、裏面にあるとは思えませんが・・・。

本体: 高84cm、幅34cm、厚17cm。

十五夜塔

十五夜塔

最上部に「種子キリーク」が彫られています。
光背右上から「奉待十五夜講中」とありますが、
刻像されているのは、十五夜の主尊ではない如意輪観音像。
利根町に数多いパターンではあります。
ちなみにキリークは如意輪観音ではなく、阿弥陀如来か千手観音。
このあたりもいい加減というか、おおらかなところがあります。

左には、「寛政六寅十月吉日」で、寛政6年(1794)10月の造立。
月見としては、陰暦10月15日はちょっと寒いでしょうか。

本体: 高72cm、幅29cm、厚19cm。

十六夜塔4

十六夜塔4

この塔も上部に種子サがあり、これは聖観音を意味しています。
そして、光背右上に「十六夜供養塔」とあり、
聖観音は十六夜塔の本尊でもありますので、合致しています。
ところが、刻像されているのは、やはり半跏思惟型の如意輪観音。
これが、利根町に実に多いケースです。

光背右下には「同行拾七人」、
左には「安永二巳九月吉日」、安永2年(1773)9月の造立です。

本体: 高88cm、幅36cm、厚19cm。

十九夜塔4

十九夜塔4

当初、文字がまったく読めないので、濡れタオルで擦ってみると・・・。
右に「奉建立十九夜」、左に「寛文十庚戌年八月日」。
寛文10年(1670)8月造立の古い十九夜塔と判明しました。

刻像されているは、十九夜の本尊である如意輪観音。1面6臂です。

本体: 高97cm、幅39cm、厚30cm。

十九夜塔5

十九夜塔5

最上部に、聖観音の種子サが彫られていますが、右上部が剥落欠損。
全体的に読みづらいので、これも濡れタオルで擦ると・・・。

右上は、「□□□体二世 安全」と「同行十五人」。
左は「貞享元甲子」の下に「十九夜」。

妙な位置に刻銘されていましたが、十九夜塔と判明。
種子は異なりますが、刻像されているのは本尊の如意輪観音。
貞享元年(1684)の造立です。造立月は不明。

右上欠損部分、想定ですが、「奉造立一体二世安全」かも知れません。

本体: 高63cm、幅32cm、厚21cm。

子安観音塔2

左から、正面、右側面、左側面。ちょっと曖昧ですが、赤子を抱いているように見えるので、子安観音塔としました。
右側面は「天保九戊戌二月」で、天保9年(1838)2月造立。左側面「中谷村」。

本体: 高69cm、幅27cm、厚22cm。

子安観音塔2 子安観音塔2右側面 子安観音塔2左側面

以上、如意輪観音・子安観音・女人講・・・全体的に、安産祈願など女性特有の信仰が強く感じられるコーナーでした。


さて、南野原・上中谷の2か所の集会所関連内容は以上ですが、中谷地区ではほかにもいくつかポイントを見つけました。
以下は、2集会所へ訪問する前に、既に調べていたスポットです。

下中谷正福寺跡近辺

ここは、取手東線の北に並行して中谷地区を走る道路の途中。歴史民俗資料館から北に上って交差した地点を過ぎた辺り。
当初ここが下中谷の正福寺跡であることを知らなかったため、「民家庭先の云々」といったもどかしい説明をしていました。
正福寺 は徳満寺の末寺。護国山正福寺として天和2年(1682)に建立されましたが、現在廃寺となっています。

民家入口から見える大師など

写真の砂利道は、ちょっと広いけど、
恐らく行止りではないでしょうか。
右に路は続いていかないのでは?
そうすると、ここは民家の敷地、
庭先ということになります。

どうします?手前の石仏などはともかく
奥の大師まで足を運んで
写真を勝手に撮ったりするのは
まずいのではないでしょうか?
大師堂に見えるのも民家固有の
氏神という場合もありますし・・・。

でも、行っちゃいました。
見通しのよいところでしたから、
何か質問されたら当然答えますし・・・。

なお、写真の右手に見える石塔も
気になりますが、それは後半で。

奥まで進んで見てみると、大師には25番の札がついています。民家の中にも番号付きの大師があるのでしょうか。
それとも、これは、短い袋小路とはいえ、公道?


☆ → 2016年再調査時、左手の民家より声がするので、ご在宅と思い、調査の承諾を得るために声をかけました。
奥さまが出てこられて、説明を聞いていただき、快く調査を了解していただいたほか、ショベルなどの工具も持ってこられて、
「あなた、力ないわね」と、埋まっていた石仏の掘り出しも手伝ってくださいました。まことに恐縮です。
元は正福寺でしたが、現在はそのお宅の敷地となっているとのこと。以前は不法に侵入していたことになりますね。


石仏3基プラス1

上の写真と下左は2006年時で4基見えます。下右は2012現在。ちょっとちがいます。石仏の数が減っています。
2基減っているようですが、いちばん左のは右の写真に写っていないだけで存在しています。喪失したのは1基だけ。
こんどは、入口に近い右から見ていきます。

石仏3基プラス1 1基紛失

地蔵菩薩塔2

地蔵菩薩塔2

いちばん右は、地蔵菩薩塔。
こうした丸彫りの地蔵は、蓮台などがない場合、
ほとんど文字の刻銘がないので、地蔵というしかありません。
造立年が知りたいところですが・・・。

本体: 高98cm、幅28cm、厚20cm。

十六夜塔5

十六夜塔5

初期の写真では、草に埋もれていますし、かなりウメノキゴケが生えています。
少し雑草を取って、ウメノキゴケも剪定ハサミの先で削ってみました。
他人の家の庭先で断りもせず、こんなことしていていいのか、といつも思いながら。

結果、以下のことが判明しました。
右に「十六夜供羪佛 下中谷講」。左に「安永八年九月吉日」。
安永8年(1779)9月造立の判読は、剪定ハサミの功績です。

2016年時、この塔ももう少し掘り下げて、正確な本体高を知りたいところでしたが、
もう1基の掘り出しで精一杯でした。

刻像されているのは、やはり如意輪観音。
本来、十九夜塔や十七夜塔の本尊なのですが・・・。

本体: 高50cm、幅29cm、厚21cm。

六地蔵塔(現在持主宅に)

六地蔵塔

今回の更新前のコンテンツでは「庚申塔」などと記していました。
更新前のチェックで気が付き、再撮して修正しようと思っていたのですが、
なんとこの1基だけ、見事に消失しています。
気になる1基だったのにどこに消えたのでしょう?
しかたなく過去撮った写真のトリミングですが、どう見ても六地蔵ですね。

→ 2016年時、この塔は持主が引き取ったと判明。

子安観音塔3

刻像塔

これも過去の写真ですが、地中の埋まり方は現在も同様です。
上から少しだけ雑草を掻き分け、見てみると、
左は観音像の頭部、右は未敷の蓮華(みふのれんげ)と判明。

おそらく、如意輪観音・子安観音の刻像塔と思われるのですが、
さすがに、これを掘り起こすのは持ち主の承諾が必要でしょう。
掘り起こす場合、それを掘り起こしただけでは済みません。
やはりしかるべき位置に固定設置するのが礼儀というもの。
ちょっとそこまでは難しいですね。

→ ついに、そのときが訪れました、2016年初夏。以下。

子安観音塔3 子安観音塔3左側面

これが、敷地の奥さまに手伝っていただき、
掘り起こした石塔。

やはり想像したとおり、
赤子を抱いた子安観音塔でした。

左側面に「明治十四秊十二月日」、
明治14年(1881)12月の造立。

ちなみに「秊」は「季」とは別字。

上記は、ネンと読み、年の異体字です。
年の字恰好からは想像もつかない文字です。
季節の季のように、キとは読みません。
明治初期の石工は、流行りなのか
なぜか好んでこの字を彫っています。

本体: 高62cm、幅26cm、厚17cm。

大師25番

25番大師

これが25番の札がついた大師堂。

以前撮った写真では、堂の下には奇妙な石仏がありました。
詳しく見るのが何か憚れるので撮影して早々に退散しました。

2012年時、その石仏は、大震災の影響か
後方に倒れているようです。
今回は思い切ってよく調べてみようと思っていたので、
これは困りました。

大師25番札 25番大師像

左大師本体: 高36cm、幅30cm、厚23cm。右大師本体: 高34cm、幅25cm、厚18cm。

大師堂下の石仏

大師堂下の石仏

諦めきれないタヌポンは、再度訪問して、挑戦してみました。
何をって、石仏を引っ張り起こして直に調べてみることです。
そのためには、タヌポンの巨体を大師堂の下に潜り込ませなければなりません。
何も暑い真夏の炎天下で、汗だくでやることもないのですが・・・

重くて(カラダも石仏も)とても動かせないようなら諦めるつもりでしたが、
刻像された膝辺りの部分に手をかけて引っ張ると少しずつ動かせます。

何とか台座の手前まで引っ張り、破損しないよう少しずつ起しました。
そして、表面の埃等を取り除いて撮ったのが左写真。

錫杖のようなものを右手に持った僧侶もしくは地蔵の刻像塔のようです。
真ん中に「月妙」とか、その左には「幻妙」などの文字が見え、
都合3名分の名前と日付がそれぞれの名の横に記されているようです。

ということは、これは戒名や没年等記した墓塔ではないかと推定しました。
このように勝手に石仏を起こしたことがよかったのかどうか分かりませんが、
いつかまた再訪問して様子を見てみようと思っています。

本体: 高55cm、幅27cm、厚15cm。

馬頭観音塔2基

上記の民家?のすぐ左隣りの家の金網塀の外に石塔を発見。いつも西から東へ進んでいたので気が付きませんでした。
逆向きにバイクで走っていて発見。近づいてみると、どうも左の石塔はなぜか裏返しになっています。直します。

中谷の民家 中谷の民家に石塔

表面にひっくり返したほうから先に見ていきます。結論から言うと、どちらも馬頭観音塔でした。

馬頭観音塔1

馬頭観音塔1

中央に「馬頭觀世音
右に、「宝暦五亥天」、左に「二月二日」。
つまり、宝暦5年(1755)2月2日の造立。

本体: 高44cm、幅24cm、厚7cm。

馬頭観音塔2

馬頭観音塔2

中央に「馬頭觀世音菩薩
右に、「宝暦十二午天」、左に「四月吉日」。
つまり、宝暦12年(1762)4月の造立。

この2基の馬頭観音塔は、いわば同じ施主(願主)もしくは親戚による、
ちょうど7年の新旧の造立なのでしょうね。
馬頭観音塔を続けて2基も建てるということは、
きっと大切な愛馬がいたのではないでしょうか。

本体: 高40cm、幅23cm、厚13cm。

弘庵直江翁墓碑銘

さて、この項目最初の「石仏3基プラス1」の写真の右手の敷地(おそらく正福寺跡)に見える石塔(墓塔)ですが、
そのすぐ右に大きな石碑が建てられています。それが、下の「直江弘庵の墓碑」。右下は石碑の上部の拡大写真。

本体: 高167cm、幅148cm、厚20cm。台石上: 高37cm、幅140cm、厚44cm。台石下: 高19cm、幅166cm、厚66cm。

弘庵直江翁墓碑銘 碑表上部篆額

直江弘庵は、文政3年(1820)中谷生まれ、明治10年(1877)に他界。享年58でした。遠祖は左馬助(さまのすけ)といい、
中谷村が雑草や茨で鬱蒼としていた寛永のころ(1624−1644)この地を開墾、領主の土井侯より1町歩を賜りました。

弘庵は4代も続いた医家の当主で、仁術に徹し、謝金の多寡を問わないことなどで名声高く、医業のかたわら営む私塾には
子弟が数百人にも及んだと言います。11歳のときから4年間成田汶水(ぶんすい)に習字を学び、さらに国学・漢学を修行、
18歳から2年間、同村の磐戸清実(いわときよざね)に師事して算学を学びました。(→ 磐戸清実墓碑 参照)
医学は、天保12年(1841)から弘化2年(1845)まで、布川の茂謙斎に学び翌年弘化3年(1846)に開業します。
維新後は勧農方を勤め、明治6年(1873)には千葉師範学校の試験に合格、中谷学校の教員になりました。

弘庵は子供が男女それぞれ4人と子福者でしたが、男子は次男の真佐雄を残して早世しました。
ちなみに、直江真佐雄之碑 が蛟蝄神社奥の宮境内に残されています。

なお、この弘庵の墓碑は、明治12年(1879)10月上澣(=上旬の意)の建立。

銘文

比較的読みやすいので、白文を書き起こしました。
下の写真はその一部です。「処」「秋」等異体字も少々。

弘庵直江翁墓碑銘

翁以明治十年十月十三日没葬於其廬西北先塋之次享
年五十八門人追慕欲立石以報其思来請余為銘余恒不
好作墓碑文何者碑版金石之文所以表其徳業傅不朽苟
非其人而稱揚過實殊為失體今翁則有其徳誼不可以不
表者余爰敢辞乃叙曰翁諱真盾初稱要人後改三五左衛
門直江氏號弘庵又竹外下総相馬郡中谷邨人邨往昔蓁
荊鬱塞為狐兎巣窟絶無民屋呼曰内野外野寛永中高祖
左馬助君諱正信開墾為邨領主土井侯嘉其擧複田一町
考通僊君諱延貞妣齋藤氏及翁四世業醫名噪遠近翁好
学善書刀匕之暇教誨子弟前後不下數百人其道以孝弟
廉恥為先其視病者誠心処之治而不誇功不問謝全多寡
可謂徳誼純摯不負仁術之名矣配糸賀氏正男女各四人
仲日真佐雄承家伯叔季皆夭女三適人一在家銘曰潜跡
草莽不游他邦藥石回生文学啓蒙吁若人兮身卑徳隆
明治十二年十月上澣      秌場祐撰并書篆額


白文の読み下しをしようかと思ったのですが、上記の最初の説明と重複するので、それ以外の部分を説明します。
まず、この文章を記したのは、門人から依頼された 秌場祐 という人で、上部の篆額も書いています。(秌は秋の異体字)
来請余為銘 以下、(門人が)来て余(秋場祐)に銘を為すを請うが、秋場は、恒に墓を作るを好まず、などと言っています。
その理由は、碑文は其の徳業を表し不朽に伝えるもので、実体のない称揚をしてしまうと失体と為す、からというわけです。
なかなか勿体ぶった言い様ですが、弘庵翁なら徳誼があり、記さないわけにはいかない、という強調をすることになります。
医者として「其の病者を視るに誠心之に処し、治して功を誇らず、謝金の多寡を問わず、徳義純摯(じゅんし)と謂う可し」。
仁術の名に負(そむ)かざる、と称賛しています。秋場祐とは書家と思いますが、どういう人なのかは、資料が見つかりません。

▼ 弘庵墓碑左手に立っている長い石塔は、「故陸軍・・・直江七之助の墓」とありますが、戦没者と推定される七之助とは?
墓塔の裏面に「明治34年(1901)云々〜」と記されているので、早世した弘庵の子息のひとりかも知れません。

下總諸家小傅と直江弘庵

江戸後期の下総地域の文化人名鑑のような小冊子を見つけました。これに、直江弘庵が掲載されています。

下總諸家小傅 下總諸家小傅

『下總諸家小傅』とは

天保癸卯つまり14年(1843)に
女貞園によって上梓された、
縦19.5cm、横12.5cm、およそ
50ページ程度の小冊子です。

下総の利根川中下流域の村々で
「會香功勲」のあった人々の小伝を
集め、50音別に記録したもので、
その人数はちょうど100名。
序、跋、奥付等が無いため、版元や
著者の女貞園については不明。
(やはり、女性なんでしょうか?)

表2に「下總諸家小傅一集」とあり、続集が想定されますが、現在でも「二集」以降は、まだ見つかっていないようです。
50音順なので、わが利根町の赤松宗旦がトップバッターで記されています。わずか2行ですが・・・。
しかし、100名のうち布川からは7、大房から6、中谷は3、押戸2、上曽根・下曽根・立崎・横須賀各1と、
利根町からは総計22人が名を連ねています。中谷の3のうち2名が、直江楚興(弘庵)・楚正(求馬)の兄弟です。
(『下總諸家小傅』の詳細については、成田山仏教図書館で写真撮影してきましたので、後日特集する予定です)

68番、直江楚興(弘庵)、69番、直江楚正(求馬)

下總諸家小傅と直江楚興・楚正

左写真の中央。上部に赤丸を付けて区別しています。

中谷の直江楚興藤原氏通稱ハ要人、竹外と
號す、また篁庵、甘遂居の諸號あり、国學を奉
ず、かねて刀圭を修む尤産理眼治に精し

要人や竹外の号は前記の銘文にもありましたが、弘庵はなく、
篁庵、甘遂居などの号が記されています。楚興というのも号?
刀圭は、1 薬を調合するさじ。2 医術。また、 医者。(Yahoo!辞書)

竹外の弟楚正通稱ハ求馬、梅外と號す、国學
をもはらにすかたハら唫哦を好む

弘庵の弟とありますが、楚正、求馬、梅外は『利根町史』では
見たことがありません。蛟蝄神社 直江真佐雄之碑 は弘庵の次男。
唫哦の唫=吟で、和歌のこと。直江家は文化人が多いですね。

下中谷共同墓地と直江家

直江家といえば、いつも気にかかっていたことがあります。それは、県道取手東線を布川から郷土資料館へ行く手前の墓地。
左が下中谷の共同墓地。資料館から県道をはさんで北西方向。県道に面し、周囲は水田に囲まれた小さな一角です。

下中谷共同墓地 直江家の墓

ここに、直江家の墓があり、直江弘庵の父である、直江延貞の辞世の文章を刻んだ筆子塔があります。
延貞没後のもので、寿像碑ではありません。延貞が弘庵の父であることは前述の弘庵(秋場佑撰)の碑文に記されています。
すなわち「考通僊君諱延貞」(考は通僊君、諱は延貞)とあります。考(こう)とは、亡くなった父の意味です。母なら、妣(ひ)。

直江延貞の筆子塔

上右写真の区画で、左奥にある古い墓碑が筆子塔。下左からその正面、右側面、左側面。正面は、「直江延貞墓」。

直江延貞の筆子塔碑表 直江延貞の筆子塔右側面 直江延貞の筆子塔左側面

右側面は、
天保九年戊戌正月四日死年五十」。天保9年(1838)正月4日没で、享年50。
十五年甲辰正月 教子等封」。天保15年(1844)教子等が、これを建立しました。
没後7年目ですので、七回忌の折に建てたものと思われます。

直江延貞の筆子塔左側面拓本

前右写真は、塔の左側面に、直江延貞の辞世の文が彫られていますが、
正面から撮れない写真ではさらに読みづらいので、『利根町の文化学芸碑』の拓本をお借りします。

雄心乎子等者継目杼
念事不果命死之悔左

これは、ちょっと読み方が難しいですね。通常の変体カナとも少しちがうような・・・。
「雄心を子らは継めど、念う事果せず、命死(ほろぶ)の悔しさ」
40代の頃にもう死期を予感したのでしょうか、やりたいことができないまま死ぬのは・・・
と無念さが表れています。

読みづらさの要因は、『利根町の文化学芸碑』の解説によれば、
万葉集に用例の多い助字の乎(を)・者(は)・目(め)・杼(ど)・之(の)・左(さ)等の多用のせいとか。
そういえば弘庵の弟、直江楚正も国学を専らにす、と『下總諸家小傅』に記されていましたが、
直江一家は、代々国学に明るかったようです。


本  体: 高73cm、幅33cm、厚33cm。
台石上: 高22cm、幅51cm、厚50cm。
台石下: 高27cm、幅71cm、厚63cm。

古峯神社の石祠

弘庵の墓碑とその背後の物置の間、わずか1m足らずの隙間に、なんと石祠が建てられているのを発見しました。
まさか、こんなところに何もないよねえ、と覗いてみたら・・・「古峯神社」と記されています。これはおそらく利根町唯一。
右側面は「下組講中」。中谷の下組でしょう。左側面には、「明治二十一子年十月立」明治21年(1888)10月の造立銘、
『利根町史』の正福寺の項目に、古峯神社の石祠、明治22年建立とありますが、「子」の銘もあるので読み間違いでしょう。

本体: 高62cm、幅40cm、厚28cm。

古峯神社石祠 古峯神社石祠右側面 古峯神社石祠左側面

栃木県鹿沼市に、日本武尊を祀る古峯神社があり、日光の開祖でもある勝道上人の修験道修行の場であったといいます。
古峰ヶ原(こぶがはら)は修験者達の休息場で、その後天狗の社として関東・東北各地で信仰を集めるようになります。
とくに明治に入り1880年代以降、開通した蒸気機関車が火の粉を撒き散らすようになり、茅葺きの民家が多かったため、
羽扇を持つ天狗が火防(ひぶせ)の霊験大として信仰を急速に集めるようになったといいます。(Wikipediaなどより)

近藤君寿蔵碑

近藤邸庭入口と寿蔵碑 近藤君寿蔵碑

この碑は、弘庵直江翁墓碑銘 前の同じ通りに
面した邸内にあります。いつもこの通りには、
歴史郷土館から北上してすぐ右折してしまい、
この碑には気が付きませんでした。
もし、左折していればすぐのところに、
この碑のある近藤邸があったわけです。
個人邸内に碑があるということなので、
あまり積極的ではなかったのですが、
思い切って、訪ねてみることにしました。

広々とした入口には門もなく、開放的、
とても大きな庭が通りから見渡せます。
くだんの碑も入口のすぐ左に見えます(←)。

いちおうお断りしてと奥の玄関に向かい
何度か声をかけましたがお留守のようです。
人の気配がありません。碑の撮影だけなら、
と勝手に判断して撮らせていただきました。


今回は、碑の間近で、銘文を少し細密に撮ることができましたので、ここから写真拡大して銘文を書き起こしました。
後半で白文を紹介しますが、注釈箇所は赤で、以下、論述で引用する部分を青で強調してあります。

近藤君寿蔵碑

さて、「近藤君寿蔵碑」ですが、近藤君というのは近藤直蔵。
寿蔵碑とは、生存中に門弟などが建てる記念碑で、
通常、還暦の60歳でというケースが多いようです。
近藤直蔵も、文政5年(1822)生まれで、
明治14年(1881)2月の建立は、まさに還暦の年。

この碑は門弟が建てたわけですが、銘文を作成したのは、
中村正直。撰という言葉は、選ぶという意味のほかに
文を作る、編集するという意味も含まれています。
そして、中村正直の文を清書したのは、中根聞で、
左の「近藤君寿蔵碑」の隷書の額も中根聞です。
(碑の高さが2m近くもあるので仕方なくローアングルです)

本体: 高191cm、幅171cm、厚15cm。台石: 高47cm、幅130cm、厚51cm。

近藤直蔵とは、どういう人であったかは、以下の白文と読み下し文でおおよそのことは分かりますがそれは後にして・・・。

今回、銘文を書き起こしているときに、いろいろな疑問を感じました。たとえば、
この碑文を「撰」した中村正直や中根聞という書家と、近藤直蔵とはどんな関係だったのでしょうか。
まずは、この2人の経歴から先に調べてみましょう。

中村正直

天保3年(1832)江戸麻布に生まれる。明治24年(1891)没。啓蒙思想家、教育者。16歳で昌平黌に入り、教授方を経て文久2年(1862)佐藤一斎の後を継いで御儒者となった。昌平黌寮で彼の机の前の畳が目立ってくぼんでいたほど、日夜勉学に励んだという。慶応2(1866)年江戸幕府留学生の取締役として英国に留学。帰国後J.S.ミルの『自由之理』(1872)等を訳出し、明治初期の啓蒙に大きく貢献。明治6年(1873)キリスト教の黙許を政府から引き出すのに貢献、7年には自らも洗礼を受ける。8年東京女子師範学校長、14年東大教授。晩年には仏教者との交際を深めて仏教と儒教を融合する心境に。文学博士、貴族院勅選議員。(朝日日本歴史人物事典より抜粋)

中根聞

天保2年(1831)江戸生まれ、大正3年(1914)没、享年84。一般には中根半嶺(なかねはんれい)で知られる。幕末−明治時代の医師、書家。江戸に出て名声を得た書家、中根半仙の子。幕府の医学館でまなび、父の職をついで越後高田藩の侍医兼書道師範となった。隷書を得意とし、関雪江(せつこう)とならび称される。明治40年(1907)の日本書道会創設につくした。名は聞。字は公升。(日本人名大辞典ほか)

この2人が同じ江戸の生まれであることから、2人は元より接点があったように思われます。あくまでも推定ですが。
中村正直が、自分が「撰」した文を書にするよう中根聞に依頼したのは、中村正直自身だったのではないでしょうか。
この2人は以前から知己で親しかったが、近藤直蔵とは、それほどではなかった。そんなような気がします。
それは、碑文の後半に 視君少時 とあるからです。
この主語は中村正直、君は近藤直蔵。少時とは、わずかなとき。つまり中村正直は近藤直蔵をよく識らないということです。
では、近藤直蔵と中村正直の橋渡しをしたのは、中根聞?このほうが中村正直よりは可能性はあるかも知れません。

いっぽう、碑文には、寺田林直黒川艮平 が出てきます。彼らも優れた人物で、利根町を支えてきた文化人です。
(→ 黒川艮平、寺田林直は、折戸庵の句碑 等参照)が、彼らは近藤直蔵の師であり、寿蔵碑を造る立場が逆です。

tanupon の勝手な推測は、縣令の 河瀬秀治 あたりではなかったかと思います。碑文に入っている名はほかにはありません。

河瀬秀治は、明治5年(1872)共立校を建て、中谷校の教員に近藤直蔵を抜擢、その信頼は子の台吉にも及びます。
政治家ならば、東京にもツテがあり、直蔵の還暦祝いで中村正直と中根聞の起用に一役買って出たことが想像されます。

この推定はさておき、中村正直の撰文には、近藤直蔵をまさに「晴耕雨読」の聖人のように褒め称えています。
漢の 児寛(げいかん)、晋の 皇甫謐、明の 呉康齋。これらはまさに典型的な在野の賢人。近藤直蔵は、
釋耒就師(農具をすてて師に就く)自分中村正直とちがい、帯経而鋤(経典を携えて鋤を持つ)人と称しているのです。

▼ 余談ですが、現代において、このように門人から尊敬されて、還暦のころに寿蔵碑を建ててもらえるケースは?
えーと、まず、教え子(もしくは尊敬してくれている若者)が周囲に大勢いないとダメですね。
また、60歳までに、尊敬されるべき業績を数多く残していないとダメですね・・・いやー、聞いたことありませんね。
昔より、寿命が延びたせいなのか、教育の格差が狭まったからなのか・・・。ともかく、tanupon は満場一致で落選です。

でも、心配は要りません(かな?)この碑文の冒頭でも、中村正直が嘆いているではないですか。
「ああ、今の世は、師弟関係は日に日に薄まり、わたしはこうした状態はもう元にもどらないのではないかと憂いている、
その点、この近藤君とその門弟たちの絆は素晴らしい。それはもう得難いものではないだろうか」
利根町の中谷から立木、大房にかけての私塾の層の厚さとその信頼関係は、
東京人を羨ましがらせるほどの得難いものになっていたのではないでしょうか。(それなのに、いまは・・・)
これら利根町のいにしえの文化人の業績を、未来に伝えていくのが利根町住民の・・・まあ、こんなところで、碑文の紹介に。
中根聞の書ですが、隷書は前述ローアングル写真の額部分だけで、下の碑文は普通の楷書体のようです。

碑表

近藤君寿蔵碑

近藤君寿藏碑銘  東京  中村正直撰
嗚呼今世師弟之誼日以偸薄吾憂其蕩然不返也
如近藤君及其門人豈易得哉君名直藏姓近藤氏
字季邦文政五年生于下総国北相馬郡中谷村父
曰安清邃算法多従學者母市田氏有三男二女君
長子也性孝順幼好學師寺田林直毎日歸自校則
服事稼穡及壯為里正師伊豫人黒川艮平益研學
明治五年縣令河瀬秀治建共立校於區内三所君
選為中谷村校教員誘迪子弟極懇篤八年罷職其
子臺吉代之明治十三年三月君又選為學務委員
今年六十門人將立碑以表師恩請余文余以其事
之關于世教欣然諾之囚系以辭曰
  帯経而鋤  漢有児寛  晋皇甫謐  耕讀倶勤
  明呉康齋  夙志聖賢  弟子甚衆  並往于田
  雨被簑笠  春耕夏  耒耜為封  共談乾坤
  嘆今之人  釋耒就師  學未及成  田卒汗
  游手浮食  有何異哉  視君少時  先賢同歸
明治十四年二月      中根聞書并隷額

読み下し文

近藤君寿蔵碑銘  東京 中村正直撰
嗚呼、今世の師弟の誼(よしみ)、日々に以て偸薄。吾、其の蕩然として返らざるを憂う也。近藤君及び其の門人の如きは豈得易き哉。君名は直蔵、姓は近藤氏、字は季邦。文政五年下総国北相馬郡中谷村に生る。父は安清と曰う。算法に邃(ふか)く、従って学ぶ者多し。母は市田氏、三男二女あり、君は長子也。性は孝順幼くして学を好み、師は寺田林直。毎日校より帰れば、即ち稼穡に服事し、壮ずるに及び里正たり。師の伊豫人黒川艮平に益々研学し、明治五年県令河瀬秀治共立校を区内三所に建てるや、君を選び、中谷村校教員と為す。子弟を誘迪極めて懇篤し、八年職を罷む。其の子台吉代の明治十三年三月、君又選ばれ学務委員となる。今年六十、門人将に碑を立て、以て師恩を表す。余は文を請くる。余其の事を以て之に関わる。世に欣然之を諾わせしむ。因みに系わるに辞を以て曰く。
 経を帯びて鋤く。漢に児寛有り、晋の皇甫謐、耕読倶勤め、明の呉康斉、夙に聖賢を志し、弟子甚だ衆し。並びて田往く。雨に蓑笠を被り、春に耕し夏に耘(くさぎ)り耒耜にて封ぜしむ。共に乾坤を談じ、今之れ人の嘆ずる。耒を釈(す)てて師に就けど、学未だ及びも成らず。田を卒(お)え莱に汗する、游手浮食と、何くんぞ異有らん哉。君を視ること少時(しばし)。先賢と帰を同じうす。
明治十四年二月    中根聞書并隷書

tanupon 訳注

※ 偸薄(とうはく): 人情が薄いこと。薄情なこと。(三省堂 大辞林)
※ 偸薄(とうぜん): 流されたようにあとかたもないさま。(Kotobank)
※ 邃(すい): 奥ふかい。深遠である。
※ 稼穡(かしょく): 穀物の植えつけと、取り入れ。種まきと収穫。農業。(Kotobank)
※ 誘迪(ゆうてき): 誘い、教えみちびく。すすむ。
※ 経(けい): 経書のこと。儒学の経典。四書、五経など。
※ 児寛(げいかん):前漢・千乗郡千乗県の人。漢の武帝の時に御史大夫となった儒者。(Wikipedia)
※ 皇甫謐(こうほひつ): 西晋の著述家。再三の仕官のさそいをことわって著述に専念した。(Kotobank)
※ 呉康斉(ごこうさい): 明の人。科挙の学問にこだわらず、それでも何度か官に推薦されたことがあったが、断り続けた。
※ 耒耜(らいし): 中国古代の代表的農具。本来はともに手労働による耕起、除草、作溝を兼ねた農具。(Kotobank)
※ 乾坤(けんこん): 1.易の卦の乾と坤。2.天地。
※ 莱(らい): 雑草の名。あかざ。草が茂った荒れ地。

中谷の道祖神

上の民家2軒の前の道をさらに少し東に進むと、右手に、これも民家の敷地の一角に道祖神の鳥居が見えてきます。

台輪鳥居

6年ぶりで再訪問した2012年、鳥居等全体が改築されていました。前は木造の明神鳥居でしたが、石造りの台輪鳥居に。
柱裏面に「平成二十二年五月吉日建之」。大地震前、平成22年(2010)5月の建立。本体: 高196cm、幅226cm、厚30cm。

中谷の道祖神 中谷の道祖神鳥居裏面
旧中谷の木造道祖神

以前の様子は、左の写真。
この手作り感。いびつなバランス。
木造の親しみやすさがたまらない、
などと感想を述べていましたが、
新しくなった現在は、とても立派です。

東日本大震災の1年前の改築ですが、
地震後だったら、木造の鳥居は倒れていたかも・・・。

本殿

道祖神本殿 道祖神本殿石祠右側面

道祖神の祭神は久那戸神(くなどのかみ)。
本殿中の石祠には、「天明五乙未年 十月吉日」とあり、天明5年(1785)10月造立が分かります。
『利根町史』では「中谷村下宿女講中」による建立とありますが、右側面は「中谷村」だけ。
左側面、見忘れかも→ (後日確認しましたが銘文は何もなしでした)。

本体: 高40cm、幅29cm、厚22cm。

難解なお札

本殿入口に貼られていたお札ですが、難解です。読み方ですが、「てんにちおおみかみ・やくさいゆう」でしょうか。

難解なお札

天日大御神禴祭攸

まず「天日大御神」ですが、これを「天照大御神」ではなく、
現存する伊丹市の「天日神社」との関連で考えてみると、
主祭神は、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)。
天孫降臨 の邇邇芸命(ににぎのみこと)の父神に当たります。
しかし、「天日大御神=天忍穂耳命」かどうかは不明です。

また、難字の「禴祭」(やくさい)ですが、夏祭りの意味のようです。

「攸」は、辞書によれば、水の流れる様の意味で、
中国では頭のいい人の名前によく使われています。
三国志好きなら、まずは「荀攸」「許攸」「司馬攸」など。

立崎上坪と中谷の道祖神

左は、中谷の道祖神の位置関係。
写真の「中谷・福木方面」に少し進んだ左に25番大師があります。

すぐ近くにもうひとつ道祖神の鳥居を発見しましたが、
それは 立崎地区 に入るのでその項目で紹介します。


(16/06/21・13/09/02・13/04/27・13/04/26・12/08/28 追記) (12/08/09 追記再構成) (06/07/14 追記) (06/05/06) (撮影 16/06/19・16/06/18・16/06/17・15/08/10・13/08/26・13/08/22・13/04/27・12/08/28・12/08/04・12/04/25・09/04/02・07/06/16・06/10/28・06/05/05・05/08/14)


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