タヌポンの利根ぽんぽ行 利根町の鎌倉街道−1

TOP・探訪目次>利根町の鎌倉街道-1


利根町の鎌倉街道 目次



関連リンク


更新経過

▼ 本サイト開設まもない2005年春に鎌倉街道の第1弾を掲載し、
引きつづいて「鎌倉街道-序」から「鎌倉街道-7」までの全編を同年秋にUP完了。
その後は、各編に、新発見記事や誤謬訂正などの追記を重ねてきました。

▼ 2015年になり石造物データ作成のため、全編での再調査を他項目とともに
予定していましたが、そんな折、とても貴重な情報を入手することができました。

▼ サイトから知り合った利根町在住の日本画家 石村雅幸氏 より、鎌倉街道の清掃などを
日頃からボランティアで行われている 根本敏明氏 を紹介していただきました。
なんと根本氏はこのサイトを見てタヌポンが見つけられなかった石碑等を、
探し出して教えてくださったのです。

▼ それは、根本氏所属のボランティア団体・リスタート(リーダー小松照雄氏)の努力により、
新たに整備されたルート上で見つかったものです。

リスタートの皆さんが定期的に雑草や竹などの伐採を行なってくださっているからこそ、
いつ来てもタヌポンが街道をスムーズに歩くことができたわけでした。
また、街道のほとんどの敷地は公道ではなく個人の所有地であり、
多くの地主の方々の了解をもらった上での活動をされています。
タヌポンはただそれらの恩恵を何も知らずに探索をつづけていたことになります。
所有者の方々、そして清掃をされているリスタートの皆さん、そして今回、
諦めかけていた石碑等の情報をご案内くださった根本さん、さらに石村さん、
皆さんに、この場をかりましてお礼申し上げます。

▼ 上記の経緯のもとに、新ルート発見の情報および石造物を含めた再調査を行い、
少しずつ更新を重ねていきたいと思っています。
とりあえず、まずは利根町の鎌倉街道−1から更新。(ボリュームがあるのでたいへん)。
新ルートの紹介は後日。既掲載部分でも、相当変更修正があります。(15/06/09)

→ 新ルート紹介コンテンツ UP!「利根町の鎌倉街道−8」(15/06/30)


鎌倉街道って、いったいなに?→ 鎌倉街道 序 参照。(05/03/14)


鎌倉街道。
そのようなものがタヌポンの棲む利根町にあろうとはいままで思ってもみませんでした。
というより、鎌倉街道そのものの存在をいままで知らなかったのです。
蛟蝄神社 探索の帰路で「あれっ、これはなに?」と入り込んだアナザーワールド。
それが鎌倉街道でした。(ここでは、利根町の奥山〜押戸地区を中心に紹介)
神社の案内看板でちらっと見かけただけなのにそのすぐあとで見つけられるとは・・・。

タヌポンにとって幸運だったのはそれが真冬の季節であったこと。(その理由は本編 幸運 で)
そして不運なのかどうかは分かりませんが、このテーマはあまりにも膨大で、
もし満足できるようなコンテンツをそろえるにはたいへんな時間と労力の必要性を感じます。
果たして怠惰で浅学なタヌポンにできるのかどうか。重い課題を抱えてしまいました。
でも少しずつ、探索していきたいと思います。(05/03/05)


鎌倉街道地図

鎌倉街道は利根町の北東・文間地区にあります。利根町は広いのでそこまで行くことはサイト開設までありませんでした。
この未知の道に出会ったのは 蛟蝄神社 探索の日。(参考:利根町全体図
神社は上の地図の東方にあり、そこから文間小学校近辺を経由して、帰路である西のもえぎ野台方面に向かっていました。
その途中、八幡宮の前あたりまできたときです。その入口がぽっかりと開いてタヌポンを誘っていたのです。

右か、左か

☆ 本コンテンツは全編 RPG ゲーム風にちょっと探検気分で記述しました。「おふざけ」もありますのでご容赦ください。

鎌倉街道入口

この光景を目にして人は何を思うでしょうか?右と左。それぞれに何かしら奥に誘う怪しい気配がしませんか?
タヌポンも思わず足を止めてしまいました。そして迷いました。迷いはふたつ。

  1. ここに入るか入らないか
  2. 入るとしたらどちらから入るか

どうして迷うのか。ここに入ると何か膨大な未知の世界が待ち受けているような気がしました。
ここにくるまでに 蛟蝄神社 などでいろいろ写真を撮ってしまって、もうデジカメのバッテリもメモリも乏しくなっていたのです。
ここに入ってしまうと、残ったデジカメの余力では到底、一度では撮りきれないだろうという予感がしました。

▲ ああ、2005年当時は貧弱な初期のデジカメでした。現在は一眼レフですが、コンパクトデジカメの進歩はすごいものがありますね。

貧弱なデジカメの乏しい残量ですが、しかし、すべてを後日にというのでは余りにも惜しい気がします。

こんなとき RPG ゲームのダンジョン攻略のクセが出てしまいます。すべてを網羅するために。
何となく「ボスキャラ」に遠そうな左のほうから先に攻略する、というものです。比較的短時間で攻略できそうだからです。
これはまさしく正解だったのですが・・・。

入口遠景

鎌倉街道入口遠景

鳥居が見えるほうの入口は、
後で調べて知った「八幡宮」境内で、
あっけなく探索は終わりました。

ちなみに鳥居にもどこにも
八幡宮の名は記されていません。
(後日の調査で、本殿石祠に
八幡宮」を見つけました)

八幡宮でほどよい探索を終えて
日を改めて次回は右の「洞窟」を、
などと最初、考えていましたが、
2.3カットの撮影では物足りません。

八幡宮の内部から右に、
洞窟入口からの本線の道に出られる
脇道を見つけて決心がつきました。

バッテリーやメモリはともかくとして、
「行けるところまで行ってみよう」と。

八幡宮境内から入口を見る

▲ 上の写真は2007年8月時。
現在2015年は、このようなカットは撮ることはできません。というのは・・・。

← 左写真は、八幡宮境内から入口方向を見たシーン。
もえぎの台に続く宅地造成が拡大し、入口前に新築の民家が立ち並びました。
鎌倉街道がすぐ前のお宅はうらやましいですね。

幸運

ところで、入口の立て札看板には「ハチにちゅうい!」とありました。
後で考えてみればハチもそうですが、マムシなどのヘビもとても怖い存在。冒頭でタヌポンが言った幸運とはこのことです。
この発見が春以降であったら、もしかすると入るのを断念していたか、もしくは危険な目にあっていたかも知れないのです。
それほど中は異次元の世界でした。冬のこの時期は、危険な動物のことを気遣う必要はないのが救いで、
中に入り先に進む決心がついたのも、このことが少し要因としてはあったかも知れません。先に八幡宮から紹介します。

八幡宮

数段の石段を登ると、入口は鳥居です。中を覗くと、左手にスダジイの大樹が鎮座し、その右手奥に何かありそうです。
まずは、鳥居とその周辺を見てから、境内の中を調べてみることにしましょう。下の写真右は鳥居右柱の裏面。

鳥居

八幡宮鳥居 八幡宮鳥居右柱の裏面

神明系ではなく明神鳥居(→ 狸の巻物 鳥居の簡単な見分け方 参照)です。神額は付いていません。コンクリート製。
右柱の正面に「奉納 荒井芳太郎」。その裏面(上右写真)には「荒井まつ 昭和二十八年 當村 □□」が彫られています。
奥山村の荒井氏夫妻(推定)により昭和28年(1953)に建立奉納されたものですが、裏面最後の小さな2文字が難読。
ただし、八幡宮そのものは昭和28年より以前から存在し、鳥居は後から建てられたものと言えます。

▲ 初めての訪問時は、上記の銘文など調べることもなく、よくわからないまま「ふーーーん」という感じで見ていました。
鳥居の中を覗いてみても、通常の社殿のような建物はありません。奥に見えるのは、石の祠(ほこら)というものでしょうか。

余談: タヌポンより浅学なうちの娘も幼児の頃から「ほこら」という言葉を知っています。休みの日に、RPG 狂の父のそばで、ドラクエを体験していたからです。そんな理由では、とてもほこれません。祠の漢字はおそらく書けないでしょう(笑)。「あるひ、ローレシアのおしろにひとりのきずついたへいしが、たどりつきました。だいしんかんハーゴンが、ムーンブルクのおしろを・・・」などと小学低学年の娘がかきなぐったノートの切れ端を見た「ドラクエに関心のない」タヌポンの奥さんは「この子はもしかして天才作家に?!」と狂気乱舞。「作家じゃなくて錯覚です」と説明、苦笑せざるを得ないタヌポンでした・・・。

当初、八幡宮は、八幡太郎義家で有名な清和源氏の開祖、源義家に関わる神社なのだろう、などという浅薄な認識で、
日本中に数多くあるということは知っていましたが、「祭神」という概念すらよく理解していませんでした。

ちなみに、八幡神(やはたのかみ、はちまんじん)は、Wikipedia では、以下のように説明されています。

日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏などの全国の武家(平安時代〜鎌倉時代など)から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも呼ばれる。所謂神宮寺であることが特徴である。(注: ほんだ・・・は「ほむだ・・・」とも書きます)

▼ 八幡宮の祭神・由緒等は、本殿石祠の項目で説明します。先に鳥居のすぐ左にある石祠について以下、紹介します。

道祖神1(鳥居脇)

鳥居脇の道祖神1

鳥居左の柱の左斜め1mほど後方に小さな石祠が建っています。(下写真参照)
雑草が繁茂しているときなどは、つい見逃してしまいそうな位置にあります。

石祠中央に「道祖神」が刻まれ、その左右に「寛政十戊午」「九月吉祥日」、
すなわち、寛政10年(1798)9月の造立。

本体: 高48cm、幅24cm、厚18cm。

鳥居と道祖神1

境内

自然に囲まれているというよりも、一般の神社境内と異なって、まさに「自然と一体化した」境内です。

八幡宮境内

左は2015年再調査時の写真ですが、
右手前の手水はこのときに新発見。
その奥に一対の常夜燈があり、
右の常夜燈は大樹の2つの根元に
抱え込まれるように置かれています。

さらに奥、左に2基の石祠が並び、
その右に石垣のような台石の上に、
本殿石祠が建っています。

鎌倉街道の名にふさわしい八幡宮。
もしかすると、あの源頼朝も、ここで
武運長久を祈願したかも知れません。

まずは、本殿石祠から、
祭神と由緒等についても紹介します。

本殿石祠

ひときわ高い石垣状の台石上に設置されている石祠が、この八幡宮の本殿です。
祭神は、誉田別命(ほむだわけのみこと)つまり応神天皇で、これは全国1万とも2万ともいわれる八幡神社共通の神。

本殿石祠

応神天皇と神功皇后および媛神をあわせて八幡三所の大神とされ、
媛神を仲哀天皇や宗像三女神としたり武内宿禰を合祀する八幡宮も。
応神天皇と神功皇后、仲哀天皇の関係は以下。数値は天皇の代。
日本武尊 ━┯━布多遅能伊理毘売命
      仲哀天皇(14) ━┯━ 神功皇后
            応神天皇(15)

本殿石祠内部

左は石祠内部の「八幡宮」。

本  体:
高87cm、幅72cm、厚68cm。
台石上:
高38cm、幅69cm、厚68cm。
台石下:
高100cm、幅91cm、厚93cm。

本殿石祠 本殿石祠

左2番目の写真は、台石の裏面。
ちょっと読みづらいのですが、
明治十九戌年 四月吉日建立之」、
明治19年(1886)4月の造立です。

ただし、八幡宮の由緒としては、
「建久年中(1190〜)に鎌倉街道の傍に建立」と、『利根町史』にあります。
祭礼、1月15日5人組で当番廻り持ち、
とありますが、現在も行われている?
建久年中とはなにが出典でしょうか。

境内社

境内社

本殿石祠の左隣りにある2基の石祠は、
別雷神社(左)と金毘羅大権現(右)。

どちらも八幡宮の境内社と想定されます。

別雷神社

上の左の石祠。一般的には「わけいかずち」神社と呼びます。下写真は、左から石祠正面、右側面、最後に左側面。
正面石祠内部に「別雷神社」、台石には「四季講」が彫られています。
右側面は「卋話人 荒井喜与治 坂本富治」、鳥居にも「荒井」氏の名がありました。
左側面「明治十五年十月日」で、明治15年(1882)10月の造立です。

本体: 高56cm、幅42cm、厚29cm。台石: 高18cm、幅37cm、厚28cm。

別雷神社石祠 別雷神社石祠右側面 別雷神社石祠左側面

京都の加茂別雷神社と同神を祀る神社。雷は「神鳴り」、別雷は若雷で、若々しい活力をもった「神鳴り」を意味しています。
別雷神は上賀茂・下鴨両社の祭神である建角身命(たけつねみのみこと)の孫であり、
同じく祭神となっている玉依姫命(たまよりひめのみこと)の子と言われています。

ややこしいのですが、この賀茂の玉依姫命は、神武天皇の母である玉依姫命とは別の女神です。
また、建角身命は、神武天皇東征の際、紀州熊野から大和への道案内をし、八咫烏(やたがらす)の称号を受けた人物。
→ 本サイト「狸の巻物」 神代の物語10.神武東征 賀茂建角身命の項目参照

金毘羅大権現

金毘羅大権現 金毘羅大権現左側面

右の石祠は「金毘羅大権現」、
台石には「當村中」とあります。

左側面に「天保二辛卯正月吉日」とあり、
天保2年(1831)正月の建立。
この時代は、1月を用いず正月と書きます。
(旧暦では「正月」が正式名、「1月」が異名)

祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)。

本体: 高58cm、幅46cm、厚29cm。
台石: 高16cm、幅26cm、厚25cm。

常夜燈

本殿石祠と境内社の2基の石祠の手前に、一対の常夜燈が置かれています。これは同時に設置されたものと思われます。

常夜燈(左) 常夜燈(右)

左右の常夜燈の正面。
左の燈は表面が少し剥落していますが、
いずれも「奉納御寶前」と刻まれています。

笠の形が異なって見えますが、どちらも同形。
左が正しい置き方、右は大樹の根元のため、
便宜上、笠を縦に置いたようです。
見た目の笠の位置で以下、法量を記します。

左本体: 高76cm、幅42cm、厚30cm。
右本体: 高74cm、幅28cm、厚42cm。

常夜燈(左)裏面 常夜燈(右)裏面

これは左右の燈のそれぞれの裏面。
いずれも「天保三辰三月吉日」で、
天保3年(1832)3月の造立。

常夜燈(左)右側面 常夜燈(右)右側面

こんどは、2基のそれぞれ右側面。

左はやはり少々欠損していますが、
右の常夜燈の文字は鮮明です。


□□願主荒井与右エ門
□□□□□長沼藤兵ヱ

ここにも、荒井氏が登場しています。

この右側面と上記裏面の表記で、
まずこの2基が対で同時期に造立された、
と断定してもいいでしょう。

問題は、次の左側面。

常夜燈(左)左側面

左が、常夜燈(左)の左側面。

おそらく右の燈にもまったく同様の文字が彫られていると思いますが、
残念ながら、左側面は大樹の陰に隠れて見ることができません。

左の常夜燈は風化が進んでいるので、
下部の方に以下の文字しか判別できませんでした。
上部になにか文字が彫られているのかどうかも判然としません。

□□□右エ門
□□エ門
□□ヱ
利右エ門

いつか右の燈を少し動かして、文字を確認してみようかと思っています。

→ さっそく見てきました。なんと、左とはメンバーが異なっているようです。

常夜燈(右)左側面

刻まれていた文字は以下の通り。
案の定、左の燈より克明に見えたまではよかったのですが、
以下は、左とはまったく異なる名前です。

□□□□源兵ヱ
□□□□□□□□
世話人長左エ門
□□□□横スカ
□□□□□□□□義兵ヱ

北方は、現龍ケ崎の北方、大平は、当地区のずっと西、
そして、横須賀も西南の村。
つまり、ここには奥山村以外の世話人の名前が列記されていることになります。
ということは、前記、左の燈の名はおそらく奥山村の世話人たちではないでしょうか。

火袋

2基の常夜燈の間に箱のようなものが1基置かれています。
常夜燈にある火袋だけがとれたもののように見えます。

もう1基あれば数が合いますが、これだけです。
前述の常夜燈のものなら、高さはその分高くなります。

本体: 高17cm、幅19cm、厚19cm。

手水

手水

この手水を見つけたのは、なんと2015年の再調査時。
それまで何度も訪れていたのに気が付きませんでした。

リスタートの皆さんが後述のように境内の樹木を伐採し、
清掃してくださったために気が付いたのかも知れません。

表面には「奉納」。
右側面に「昭和十五年 當村 大竹清
左側面は「支那事變記念」。

八幡宮は武神が祭神とは言え、こうした近年での戦争記念で
造立されるのを見ると、ちょっと抵抗がありますね。

本体: 高22cm、幅58cm、厚24cm。

支那事変とは以下。この手水の造立は、昭和15年(1940)で、事変勃発時の3年後になります。

支那事変(しなじへん)とは、1937年(昭和12年)から始まった日本と中華民国の間で行われた長期間かつ大規模な戦闘である(ただし、両国とも宣戦布告を行わなかったため事変と称する)。「支那事変」という呼称は、当時の日本政府が定めた公称であるが、現在は、太平洋戦争(大東亜戦争)勃発後も含めて日中戦争とも呼ばれる。しかし、日中戦争は1937年から1945年までの戦争を指すことが一般的であるが、「支那事変」は1937年から1941年12月8日までとするのが代表的見解とされており、期間が異なる。(Wikipedia)

手水右側面 手水左側面

神木?

スダジイの大樹です。左は入口正面から。右は背後から。鎌倉街道内にはさらに大きい「主」と呼ばれる巨木も。

神木 神木

広く整備された境内

広く整備された境内 広く整備された境内
竹細工の椅子

2015年時。竹の伐採や整備はここ1.2年ではないでしょうか。
前は、竹林や雑草など繁茂していて、こんな空間はなかったハズ。
リスタートの皆さんのおかげですっきりしました。
手作りの竹細工の椅子も置かれています。
こういう自然のものはいいですね。

この右手背後の樹木も伐採され、
鎌倉街道本線へもスムーズに移動できるようになりました。
ここしばらく来てなかったので変化に驚きました。

私有地ではなく町の土地なら、ここに、
トイレなどを設置してもらうと助かりますね。

境内背後から入口方面を見る

左は、2015年現在の境内裏から2つの入口方面を見たシーン。
2005年時は、この写真でいえば、中央の樹木裏から、
鎌倉街道本線への脇道が出ていただけだったと思います。
いまは、境内裏もこんなにすっきりし、
本線から八幡宮の本殿石祠も見渡せるようになりました。

では、いよいよ、鎌倉街道、本線です。
地図上のルート1・2は、これも鎌倉街道跡ではありますが、
ふつうの舗装道路。街道入口への道標として、後で紹介します。
(→ 利根町の鎌倉街道−4
本線は、以下のルート3以降です。

鎌倉街道ルート3攻略・・・入口の八幡宮から十字路まで

これは驚きました。こんな時代にこんなところがあったなんて。
行けども行けども道は途絶えません。また、タヌポン以外にひとりとして出会いません。
アスファルトなどもいっさいなし。唯一、人の手が入れられている痕跡は、「ハチにちゅうい!」の立札だけ。

ルートB入口左 ルートB右

鎌倉街道ルートB YuTube

途中、何度か引き返そうかと思いました。戻れなくなってしまうのではないか?そんな気さえしてしまう異次元空間です。
そして、とうとうある変化の地点に到達。それは、またしても迷いを起こさせる四辻でした。
3方向の未知の路を前にして、これは近日中にもう一度は来なければと思いました。


★ 上は2005年の鎌倉街道発見時。これ以降で、何ヵ所か変化が起きています。
  2015年の時点で、新ルート発見!当然ながら、この YuTube ではそれらは紹介できていませんのでご注意。

どうも。

そもそも、鎌倉街道とは?という説明もまだしていませんね。これも、最初からタヌポン自体が調べなければならないことなわけです。そういうことで不備はご容赦ください。→ 鎌倉街道 序 で「鎌倉街道とは」を説明しました。

十字路までのポイント

広場

入口・八幡宮から200mほど行くと立札が立っているところに出ます。この左手がちょっとした広場になっています。
立札に広場の説明などしていないところがいいですね。あまり親切すぎるのも探索意欲がそがれます。
道との境界に丸太が何本か置かれています。人工的な石の柵なんかでないところもまたいいですね。
タヌポンは整備された公園のあの茶色に染めたコンクリートの椅子や柵などが大嫌いなのです。
樹木がまばらに立っていますが、人の手が加えられたという感じは少しあります。いったい何のための広場なのでしょうか?
見渡しても奥には何もなさそうなので入っては見ませんでしたが、もしかして細い道などが隠されているかもしれません。
調べるのはヘビが冬眠しているいまのうちですが、先を急ぎました。

左に立札のある広場 立札と広場

新・広場

ここ2.3年くらい前からだったでしょうか。広場がちょっとした休憩所に変化しました。
根本さんの話では「川村さん」という方が造られたとか・・・。詳しくは伺っていませんがこれは助かりますね。
タヌポンも2015年再調査の帰り道、ここでひと休みさせてもらいました。野鳥の声なども聞こえます。
ただし、夏場は防虫スプレーがあるといいです。石村画伯は蚊取り線香をいくつも持参してカンバスに向かうとか。

★ 木造の椅子なので、時が経つと耐久性に難点があるので、その点は各自の責任で注意し、利用してください。
また、ここは私有地ですのでペットボトルなどのゴミ等、各自で持ち帰るなどのマナーは当然のことです。

新・広場 新・広場

苔むした樹

もうしばらく行くと右手に苔むした・・・何の樹木かは分かりませんが・・・立っていました。
街道脇は基本的には竹やぶかまたはスギが多いようですが、この樹はスギではないようです。

タヌポンは、昆虫なら少しはわかるのですが、あまり植物・樹木の名前にくわしくありません。
花が咲いていないと桜なのかなんなのかも見分けがつきません。

苔むした樹木 苔むした樹木

上左は2005年の2月、右は2年後の2007年5月。同じ樹と思いますが、苔や周りの竹の様子が変化しています。
→ 2015年時、見当らなかったような・・・。8年も経てば森や林は変化して当然ですね。

苔むした樹木2015年

もういちど訪問して確認。やはりありました。
これは、もう枯れた樹木なのかしら?
よく分かりませんが、これもひとつの目印です。
というのは、これと、次の隈笹との間に、
新ルート(新ルート2「シダの小径」攻略 参照)が
隠されているからです。

隈笹

隈笹

左手にクマザサが見え出したら四辻はもうすぐという感じです。
クマザサを見るのは久しぶりだなあと思っていましたが・・・。
ちなみにタヌポンは熊笹と覚えていましたが隈笹が正解。
冬に葉の縁が白く隈取りがされることからその名がついたとか。
冬眠からさめた熊が食べる笹だと思っていましたが・・・。
ササ、ドウゾって具合に。

タヌポンと酒

ふーーん、冬場だけ?
夏はふつうの白い縁取りのないササになるわけ?

タヌポンもササが大好きです=ササとは酒の古語。

→ 余談ですが、2014年12月2日をもちまして、タヌポンは永久にアルコール禁止のカラダとなってしまいました。悲しいなあ。

→ といいながら、多少はいいとのことで、2016年後半頃から、10日に1回は若干ながら飲めるように!

十字路

左手にクマザサ、右手に小さな祠のようなものが見えてきたら・・・
十字路です。

新ルート「シダの小径」発見!

なんと、上記の隈笹と苔むした樹の中間地点あたりから、南西の方向に向かう新ルート「シダの小径」が発見されました。
ただし、この径は2015年春現在、開拓途中。目印のヒモが張ってあるだけで、まだ歩きやすい道にはなっていません。
危険な場所があり、よく知っている人に案内してもらうのが無難です。陥没した穴やヘビ等に注意する必要もあります。

下左は次に紹介する十字路(交差点1)より少し手前の場所、右は「シダの小径」入口付近からその小径方面を写した画面。

シダの小径 シダの小径

2015年、この「シダの小径」を根本さんに案内していただきました。
その先にあったのは、探してもわからなかった「浅間社」の鞘堂や「大禄天神社」の石宮でした。

さらに別ルートも合わせて、利根町の鎌倉街道−3「フジネリと雷神さま」で記した不明の石仏等の存在が、すべて判明。
これらはタヌポンではとても発見できないもので、根本さんほかリスタートの皆さんのボランティア開拓による成果です。

☆ 新ルート「シダの小径」・「哲学の小径」とその先にある石仏等の詳細は、後日、別ページでまとめて紹介します。
→ 「利根町の鎌倉街道−8」UP しました。(15/06/30)

交差点1

交差点1

とうとう交差点、十字路にやってきました。
今後、これを便宜上交差点1と呼びます。

当然、左右、見回しますよね。
これはまるで3Dダンジョンです。

直進方向は・・・

直進方向

これです。
先に道が続いていますが、
右方向に曲がっているので見通しが悪く
どれだけ続いているのか分かりません。

右を見てみます

右折方向

これは少し先で、左方向に曲がっています。
が、同様に見通しが悪く、予想がつきません。
いくぶんか下り坂のようにも見えます。

Wizardry だと振り向いたこのあたりで Encount になり、
レベルアップした新手の魔物にてこずりかけるところですが
・・・なにも現れません。

▲ Wizardry が分からない方に・・・アメリカ産元祖 RPG [ロールプレイングゲーム]のひとつ。ドラクエはこの Wizardry とウルティマを基本とした日本の RPG 。Encount とは魔物が現れて戦いになること。レベルアップ・・・とは新場面で敵も強くなっていること。

さて、左は・・・

左折方向

おっ、何か見えます・・・鳥居のようです。

いやあ、これははまりますね。不気味です。まるでクエストです。
いまならスライムぐらいなら倒せそうです。

あっ、しかし、もうバッテリーがわずか。(2005年ではねえ)
メモリーカードも残りが1〜2枚程度。(なんという貧弱な装備)

もう引き返して宿屋に泊まり HP はともかく MP を回復しなければ。

RPG を知らないあなたでも少しその楽しさがわかりませんか? MP とはマジックポイント。魔法を使うためのエネルギーという意味です。HP はホームページではなくこの場合ヒットポイント、つまり体力です。えっ、スライム?とても弱い魔物です。ザコキャラといいます。ここのバナー写真 に出ているやつです。

でも、デジカメの装備に難があり、さらに往くてに危険があろうとも、ムリして進むところがタヌポンです。

(現実の世界は Game のようにリセットはできないのですが、そのかわり魔物に出会って死んでしまうことも少なめです)

これはまあ、見通しがつかない直進や右折方向より、目先のお宝を取りに・・・
(撮りにと言い切れないのがいまはつらい!)行くのがセオリーというところ。


タヌポンお奨めの RPG

「真・女神転生III - NOCTURNE マニアクス」は RPG 最高傑作 との評判で、なんと新品が現在約30,000円の評価。これなぜか2つ持ってます。


交差点1の鞘堂と石仏

交差点1

前の道を振り返って見ると・・・。
あれっ、先ばかり焦って見ていたけど
なんかありますよね、近くに。

道祖神2

道祖神

交差点手前から右のコーナーに
見えていた祠がこれ。「道祖神」とあります。

八幡宮の 道祖神1 は石祠だけでしたが、
これは、鞘堂が建てられ石祠が置かれています。

タヌポンは最初、どうそしんと読んでいましたが
「どうそじん」と濁って読むのが正しいようです。
また、「さえのかみ」などとも読むことができます。
災いや悪霊などを防ぐ神様で、猿田彦神と同様、
旅の安全を守る役割を果たしています。
また縁結びや出産の神とも言われます。

この交差点はいつも薄暗く、また冬場以外は、
藪蚊の猛烈な攻撃があるため撮影は難物。
以下の内部の石祠側面の撮影は、何度も失敗、
何回目かの挑戦でやっとの思いで撮りました。

道祖神右側面 道祖神左側面

向かって左の側面(右側面)には、
九月十五日 高野氏

向かって右の側面(左側面)には、
宝永三丙戌天」。
つまり、宝永3年(1706)の9月15日の造立。

この地区もしくは近辺の所有者に、
高野氏がおられるようです。ご先祖でしょうか。

本体: 高57cm、幅41cm、厚31cm。

左写真は、2013年4月末撮影。
いまから思えばよく撮れたなあ、と。
2015年春にもう一度念のため、と挑戦、
しかし暗いし、春先なのに藪蚊ぶんぶんで、
汗もだくだく、あえなく撤退。
石祠の裏面がどうなっているか、ですって?
おそらく銘文はない(でしょう)と思いますし、
もう確かめる気力がありません(笑)。

庚申塔

庚申塔など

左のコーナーにはクマザサをバックに庚申関係のお三方が・・・。

右から庚申塔。

真ん中には、青面金剛(しょうめんこんごう)とありますが、
これは庚申のご本尊さまで三尸(さんし)の虫を
追い払ってくれるというもので、もちろんこれも庚申塔。
(メインサイト 「狸囃子について」の「鏡花と狸囃子」注釈 参照)

左は・・・と、おや、ここにも猿田彦大神が(※)
道祖神といっしょに旅の安全を守ってくれているのでしょうか。

仏教、神道、それに道教も加わって、どうなってるのという感じ。
何が何だかよく分かりませんね。神仏習合ではなくオール習合?

猿田彦大神発見直前に、蛟@神社門の宮の猿田彦大神 を撮影。猿田彦神は利根町では3基しか見つかっていません。

きみたちのせいでもう MP(バッテリー) ゼロだけんね・・・タヌポンは使えないデジカメを捨てた(おっとっと)。
が、思い直してまた拾った。

→ 2005年鎌倉街道発見時はこのあたりで、撮影不能に。ということで、後日、再撮してきました。以下。

猿田彦大神

猿田彦大神 猿田彦大神裏面

自然石を利用した石碑型の塔。
表面に「猿田彦大神」。
庚申信仰のいわば神道版の塔と言えます。
猿田彦神は、天孫降臨の神話で、
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した神。

裏面には以下が彫られています。
大正三年十月
石井武 講元
高野幸三郎 外十四名

大正3年(1914)10月の造立ですが、
ここにも高野さんの名前があります。
年代がちがうので、もしかすると
上記道祖神の高野氏の子孫のかたかも。

本体: 高109cm、幅68cm、厚19cm。

庚申塔1

庚申塔1 庚申塔1左側面

石塔正面に「青面金剛王」。
「青」の字の下の「月」が「日」になっています。
春なのか青なのか困ってしまいますが、
青の異体字というしかありません。

青面金剛とは、庚申塔の象徴である尊像。
つまりは、これも庚申塔というわけです。
利根町はなぜか「青面金剛」ばかり。

上部に「日月雲」の浮彫に加えて、
台石には「三猿」が刻まれています。
三猿は写真を見て初めて気が付きました。
ということで、台石周囲の雑草と苔をとり
再度、後日撮りなおして掲載しました。

左側面には「寛政十二庚申八月吉日」。
つまり寛政12年(1800)8月の造立。
この年は60年に1度の庚申の年です。
次は、1860年で万延元年。

本体: 高96cm、幅26cm、厚16cm。台石: 高14cm、幅38cm、厚29cm。

庚申塔2

正面に「庚申塔」と刻まれた分かりやすい庚申塔文字塔です。

庚申塔2 庚申塔2右側面 庚申塔2右側面

右側面には「世話人 大越清左エ門 成島利兵ヱ」。大越家、成島家、いずれも現在、近隣に居られるようです。

左側面は、「萬延元庚申年十一月建」。
これがすなわち、前の青面金剛の文字塔からぴったり60年後の庚申の年、万延元年(1860)に造立されたものです。
「建」の部分は最下部で読みづらく、「建之」の可能性もあります。意味的には変りませんが。

本体: 高77cm、幅40cm、厚24cm。

江戸期に2基、庚申塔が建てられ、大正期に庚申塔ではなく、神道系の猿田彦大神が造立されたことになります。
これは、明治維新後、神道系が重んじられたためなのかと推定しましたが、どうなのでしょう。

交差点1からの進路選択。戻るか、進むか

戻るか、進むか 怖いから戻る 中央突破だ まずはお宝からだ 右から片づけよう

episode

入口に立看板

入口看板

▼ 初めて訪れたときからわずか2ヵ月後、
入口の鳥居前に鎌倉街道の案内立看板が設置されました。
最初からこれがあれば分かりやすかったのですが・・・。
でも、なかったおかげで探検気分を味わうことができました。

▼ 何年か後に再訪問したとき、妙な旗が・・・。
「中世の道、鎌倉街道」。なぜ「利根町の」を付けないの?
利根町の鎌倉街道 をPRするのは大切なことだと思いますが、
現地では入口に1本立てておけば十分ではないでしょうか。
車の展示会のように何本も立て、セールスポイントの自然を隠す。
本末転倒で、マーケティング戦略を理解しているのか疑います。
それに、雨ざらし布きれでは耐久性にも問題アリです。

▼ 要所を再撮しようと思って行くと肝心なところに無粋な旗が立っていたので、しかたなく撮影を断念したりしました。
鎌倉街道に限っては、タヌポンは周りの自然とあまりそぐわないものは必要最小限にしてほしいなあ、と。勝手ながら。
→ いつのまにか旗は消失してしまいました。1年限りとはそれはそれで情けない話。継続は力なり、なんですが・・・。

▼ 町の貴重な予算を使うなら、まず、入口近辺に トイレを設置してほしい と思います。利根親水公園 のように。
ほかの遠くの地区から訪問した人たちや、とくに女性の皆さんには必須のインフラです。最低限これを設置してのPRが理想。


(18/01/03・15/06/30 追記) (15/06/09 追記再構成) (13/04/30・11/01/26・10/12/24・10/12/16・06/06/18・05/03/26 追記) (05/03/05)
(撮影 15/06/08・15/05/30・13/04/27・10/12/23・09/03/27・07/08/19・07/05/26・06/09/16・05/09/17・05/07/03・07/05/05・05/05/02・05/02/27・05/02/26・05/02/11)


本コンテンツの石造物データ → 鎌倉街道1石造物一覧.xlxs (14KB)