タヌポンの利根ぽんぽ行 利根町の鎌倉街道−2

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利根町の鎌倉街道 目次



関連リンク


交差点1左折ルート

ここは仮に ルート4 と呼びましょう。

鎌倉街道の東端から入った最初の四辻である 交差点1 を左折すると、
掘割のような参道が続いていて奥に鳥居が見えます。
こんなところに神社があるなんて。
どんな歴史をもつ神社なんでしょうか?(05/03/27)


2015年春、石造物データ作成で再調査を予定していたところ、
鎌倉街道新ルート発見等の情報提供もあり、全ページの見直しをしました。
新ルート紹介コンテンツを最後に残し、従来コンテンツから更新。
この「利根町の鎌倉街道−2」はなかでもかなり追記・修正の多かったページです。
本ページ更新UP後、いよいよ、これから新ルートのコンテンツ作成へ。(15/06/16)

→ 新ルート紹介「利根町の鎌倉街道−8」UP!(15/06/30)


鎌倉街道地図

鎌倉街道ルート4攻略・・・交差点1から神社脇階段まで

四辻からふと見やったとき、ぞくっとしました。
奥に小さく見えた鳥居は、周囲の樹木の陰影のなかで不思議な存在感を出しています。
それでいて、人工でありながらこの中世からの自然空間にぴったり馴染んで違和感がありません。
ちょっと不気味といっていい、そんなたたずまいがたまらない魅力です。

王子大明神への参道 王子神社へ

王子神社へ向かう道。
掘割のように少しくぼんだ参道は、
上の写真のように雨が降った翌日は、
いつ来ても水溜りができています。

これは5月(2005)の連休に来たとき。
右脇にはだれかが植えたのでしょうか、
小さなお花畑に黄色い花が・・・。

王子大明神

鳥居

明神鳥居です。コンクリート製。神額が付いていないので、この時点では、なんという神社なのか分かりません。
立派な鳥居なのになぜ神額を付けないのでしょうか。でも、とても、荘厳な雰囲気です。

鳥居 鳥居の右柱:奉納 医師 杉山玄道

漢方医 杉山為潜

鳥居の右の柱に、「奉納 醫師 杉山玄道」とあります。建立年を知りたいところですが、ほかにはなにも刻まれていません。
押戸の杉山氏といえば、琴平神社の杉野東山篆額で紹介した 杉山林哲 を思い出します。関係がある人なのでしょうか。

調べてみると、はっきりはしませんがもしかすると関係大のようです。以下、『広報とね』「利根町の歴史散歩52」より。

▼ 押戸の杉山隆家が「仏師屋」と呼ばれるのは、ここに杉山与右衛門家の分家にあたる杉山林哲が住んでいたからですが、林哲の子孫はその後土浦に移住し、その屋敷あとに入ったのが杉山長兵衛家(当主常慶氏)の二男で漢方医の 杉山為潜(いせん)。杉山隆氏は杉山為潜の孫にあたります。
▼ 為潜は本名が栄次郎、安政元年(1854)に生まれ、河原代の漢方医常盤木某に医術を学びました。常盤木医師は江戸初期の名医 吉益為則 の学系をつぐ人でした。吉益為則は、40歳のとき、その高度な医学知識が名医 山脇東洋 の認めるところとなって世に出、後世、山脇東洋、長田徳本 らと並んで、五大名医の一人に数えられました。
▼ 杉山為潜は、その技術を吉益為則の流れに学び、医家としての理想を長田徳本に求め、心の師として尊敬したといいます。長田徳本は甲斐の国を中心に活躍した名医で、牛の背に乗って、貧しい人でも金に心配することなくかかれるよう「一服十八文」と呼ばわりながら歩きました。第二代将軍徳川秀忠公の病気治療にも成功し、存分の謝礼をとらせようといわれましたが、十八文しか受け取りませんでした。また甲斐の藩主から召し抱えたいという話もありましたが、すべてことわって、一服十八文で、貧富を問わない医療をつづけました。
▼ 杉山隆さんは、こうした名医の話や漢方医学の真髄を祖父から教えきかされて育ちました。そして祖父ゆずりの膨大な医学書をいまも大切に保存しています。しかし祖父為潜をはじめとする漢方医は、明治新政府の方針によって、次第に隅に追いやられます。為潜という号には、吉益為則につづく学系に学んだ誇りと、当時の矛盾の多い制度への無念の思いがこめられているようです。

さて、医師 杉山玄道と、漢方医 杉山為潜が、同一人であるかどうかは残念ながら資料不足で、不明です。
鳥居の柱には、建立年が記されていないので、いつ頃の人であるか分かりませんが、なんとなく同時代の人のような・・・。
ところで、利根町には、杉山という歯医者さんが何軒かあり、太子堂にある杉山歯科医院は tanupon のお気に入りです。
もしも、漢方医 杉山為潜の流れをくむ人なら納得するものがあります。(Columbus Blog 粛々と8ヵ月 参照)

(13/08/03 追記・13/08/02 撮影)

拝殿

拝殿

鳥居をくぐると正面に、
瓦葺、寄棟造りの拝殿がひっそりと建っています。
この距離ではまだ何という神社なのか分かりません。

もう少し近づいてみると以下のように、
拝殿上部に「王子大明神」の額が見えてきます。

おや、拝殿右横に何か小高くなっているところがあります。
あとで調べてみましょう。何なんでしょうね。

また、拝殿の左手に石碑が見えますし、
鳥居との間に一対の常夜燈、手水などもあります。
これらも詳細を後述します。

拝殿に近寄る

まず、拝殿正面ですが、開運箱と書かれた賽銭箱があります。
また、神様を敬う生活の心得という垂れ幕 もあります。
とても立派なことが書かれています。
怠惰なタヌポンの日常とはあまりにもかけ離れた崇高な生活です。
二拝二拍手一拝、どうも申し訳ありません。

二拝二拍手一拝。

賽銭箱や垂れ幕などがあるからにはだれかときどきは訪れるのでしょう。でも拝殿の扉はいまは開きそうもない感じですね。

王子大明神

王子大明神。王子神社というのですね。

以下は一般の王子神社に関するもので、後で調べてわかりました。
王子とは、若一王子(にゃくいちおうじ)熊野大社の末祠
ということからきている名前。
東京北区王子の地名もこの神様の名から発しています。
この鎌倉街道内、押戸名神台という地名にある王子神社は、
どうも祭神が若一王子とは別のようです。

元禄初年(1688)創立。
文化5年(1808)社殿再建、
明治15年(1882)村社となる、とあります。

祀っている祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)、鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、
玉依毘売命(たまよりひめのみこと)。若一王子熊野大社の末祠と社伝にいう、としながら、祭神に若一王子がありません。
また、建御名方命は一般には諏訪神社の祭神なので、ちょっと違和感があります。
ちなみに、利根町大平のすぐ北、龍ケ崎市にも王子神社 がありますが、この神社の祭神も建御名方命なのです。

さて、拝殿右の小山が気になりますが、左手から拝殿の背後にまわってみます。

本殿

表からはちょっと想像できませんでした。立派な流れ造りの本殿ではないですか。
本殿を囲む瑞垣もちゃんとありますし、木鼻などの装飾もなかなかのもの。

本殿 本殿

三王山と三峯山

三王山と三峯山

拝殿の裏手にまわると瓦葺の鞘堂がふたつ。
左が三王山、右は三峯山と記されています。
いずれも王子神社の 境内社 で、
三王山は山王神社。祭神は大山津見命(おおやまつみのみこと)、
三峯山は三峯神社。祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。
三王が山王とはどっちの字でもいいのですかねえ。
神様の名前なども読みは同じでも、
字は当て字なのかいろいろ書き方がありますね。
古事記と日本書紀でちがうとか・・・。


→ さて、2015年春、上記の鞘堂に変化が・・・なんと3つに増えています。新しく1堂追加建立されたようです。
これについては、三王山・三峯山の鞘堂内部の石祠の詳細も含めて、後述(金刀比羅神社の祠3)します。


不明の石祠

不明の石祠

もうひとつ、そばにこんな石の小さな祠が・・・。

押戸台という地名のところにに「四社明神」があるというのですが
祠の周りに4つの石が無造作におかれていて、
なにか四社を暗示しているような気がしましたが・・。

ちなみに四社とは、天照大神(あまてらすおおみかみ)、
武甕槌神(たけみかつちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)、
および水分神(みくまりのかみ)の4神をあらわすか、
または大己貴尊(おおなむちのみこと)と住吉三神をいうとのこと。

しかし、この石祠は、どうも、四社明神ではなさそうです。
というのは・・・。

『利根町史』によれば、四社明神は、昭和15年(1940)長塚氏により造立、とありますが、写真の石祠はこれに合致しません。
石祠表面には「天明八申年」「十二月十六日」。つまり天明8年(1788)12月16日の造立で上記とはまったく異なります。
また長塚氏の刻銘はありません。奇妙なのは、笠の前面に「卍」の浮彫があること。神道系石祠なのに仏式の卍とは?
王子神社も、以前は、神宮寺が併設されていたのか、あるいは別当が支配していたのかも知れません。

本体: 高54cm、幅38cm、厚30cm。

不明の石祠 不明の石祠2015

上写真は2015年春。リスタートの皆さん・根本さんたちが、この周辺を伐採・清掃し、広々とした空間になりつつあります。
石祠周囲の石も石祠とは関連がないとしたら、「力石」に準じるようなものかも。力石と呼ぶには少し小さいでしょうか。

神木

神木?

これが拝殿に向かって右横にあった小高い丘の正体です。
上に雑草がはびこっており、得体のしれない動物のようにも見え、
遠目には最初、何だか分からなかったのですが、
倒木のようですね。しかも、かなり大きな樹です。
神社境内にはこれ以上の巨木は見当たらないので
きっとご神木あるいはそれに該当するものだったのでしょう。
樹齢何百年も経っている様子ですが
倒れていても風格があります。
→ スダジイという樹木のようです。利根町には多いですね。

神木だったことが判明しました。昔の町の広報誌に以下の記述がありました。
・・・御神木は700年あまりになる椎の大木でしたが、一昨年(昭和61年=1986)の大風でたおれてしまいました
昭和61年の台風を調べると・・・8月1日に発生した台風第10号。国際名は「Sarah(サラ)」。
温帯低気圧として房総半島を縦断し、東海〜東北地方に被害を出した(Wikipedia)。
たぶん、これで倒れたのでしょう。
(13/08/03 追記)


最近の倒木

神木?

久しぶりに来てみたら、参道の途中で。
以前にはなかったハズだと思うのですが・・・。
途中から伐ってあるわけですから、
これは伐られない状態で倒れたものと推定されます。
ということは、枯れたのか、それとも。
落雷ということも考えられますね。
しかし、豪雨のなか、
こんな樹が倒されるような落雷の様子を想像すると、
身震いするような光景だったでしょうね。
王子神社近辺はそれでなくても、
ちょっと怖いところです。(10/12/24追記)


少し戻って鳥居の左右には・・・

鳥居脇道

最初にここを通り拝殿に向かったとき
早く神社の名前を知ろうと急いでいたので見落としていました。
鳥居の直前に左右に分かれている小道があるのです。
つまり、ここも交差点と言えないこともありません。

左の写真は王子神社側から第1の交差点方向を見たシーン。
ここから言えば鳥居をくぐった直後に左右に道が伸びています。

どちらもわずかで行止りになるのですが・・・。

金刀比羅神社の祠

鳥居を抜けてすぐ左に曲がると前方に祠が見えます。写真のような距離感覚です。
こんな山の中にこのようなものがあるのはなんとなく不気味ですが、調べてみるとこれも王子神社の境内社で、
なんと金刀比羅神社ということです。
これも、こんぴらか、ことひらか が不明(『利根町史』にはふりがながふってないものですから・・・)。
→ どちらでもいいようですが、金刀比羅の場合、ことひらと呼ぶことにしましょう。(11/01/25現在)
祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)。
鳥居から外側に建てられていても境内社と呼ぶのでしょうか?宮司さんがいれば聞きたいところです。
設置場所が王子神社の境内と呼べるかどうか、というところで決まるのかも知れませんね。

祠が・・・ 金刀比羅神社

金刀比羅神社の祠2

この項目は、Y字路 後半追記分「チャレンジしてみました!」の後で見てください。

ルート7攻略Y字路 の未踏破の竹藪のなかを蜘蛛の巣を掻き分け、藪蚊数千匹に襲われながら、やっと辿り着いた祠。
それが、なんと以前に訪れていた金刀比羅神社の祠だったとは!でも、最初しばらくは「久しぶりに大発見!」と狂喜。

金刀比羅神社の祠2

上の写真と比べてみると、まったく同じですね。
当時、町史にあった写真で金刀比羅神社と分かったのですが、
そのことをすっかり忘れていました。
祠の向かって右手から踏破してきたので、
祠の正面にきて振り返って、えっ?と思ったわけです。
王子神社の鳥居が見えたからです。
Y字路のいっぽうは、ここに逆戻りする道だったのです。

でも、ひとつ発見がありました。
あれっ?と思ったのは、祠の内部に見えた「金毘羅木札」
以前からあったようなのですが、よく内部を見ていなかったのです。
それが以下。

金毘羅木札

金刀比羅神社の祠2 不動明王の梵字

剣先型の金毘羅木札で、墨書で、中央に
「(梵字)奉修不動明王護摩供二夜三日家中安全祈」。
梵字は、左の不動明王をあらわす、カーン(マーン)の文字。
中央左右に、「慶應第二年 三月吉良日」、
下部も左右に、「象頭山金光院」。

慶応2年(1866)3月のもので、
これは実に微妙な時期のものと言えます。

というのは、まもなく明治維新で、
神仏分離令・廃仏毀釈が行われると、
この木札は少し変化するのです。

木札上部が、剣先型ではなく、平板になる とともに、
讃岐象頭山の別当金光院が、琴平神社さらに金刀比羅宮へと改称 されるのです。
しかし、金毘羅大権現は、もともと本地垂迹説の典型的なものであり、
金毘羅大権現の本地仏が、不動明王と毘沙門天というわけですから、
すべての面で純粋な神道系のものにはなりにくいようです。

それはともかく、この木札を見つけたのは藪蚊の洗礼の成果でした。

(13/08/03 追記・13/08/02 撮影)

祠の裏手は何もなくここはこれで行止りのようです。でも、反対側は・・・。

道か崖か・・・何かありそうな

行止り?

鳥居先から右折するとすぐ先は行止りのように見えます。

しかし、竹やぶの向こうにもしかすると
何か道がついているかも知れない雰囲気もあります。
しかし、さすがにこの奥まで
足を踏み入れることはできませんでした。
崖のようになっていて滑り落ちたらたいへんです。

でもちょっと気になります。


未練たっぷり・・・で、とうとうガマンできずに・・・。

どうしたかというと、先ほどからこらえていた・・・をタヌポンは竹やぶめがけて放出しました。
だれもいないですよね?真冬の夕方、冷えて仕方ありませんでした。
神様、すみません。鳥居の外だから許してください。

あーー、すっきりした。
でも、ここはいつか調べたいところです。すっきりしたから調べようかな、どうしようかな・・・ちょっと時間がないなあ・・・。


→ やはり路が続いていることが分かりました。ただし、所有者の水田にたどり着くようで、特記すべきポイントはなさそうです。
これも、新ルートを開拓、浅間神社や岡雪庵茶庭跡等の存在を教えていただいた根本敏明氏の情報です。(2015年春)


金刀比羅神社の祠3

2015年初、「金刀比羅神社の祠」は本殿石祠(および金毘羅木札等)を遷座して、新たな鞘堂が建立されました。
新たな遷座先が、なんと前述の 三王山と三峯山 の右隣りで、これで3つの鞘堂が並びました。

新・金刀比羅神社 3鞘堂

ただし、新しい鞘堂は瓦葺ではないですね。ちなみに、古いのはどうなるかというと、あのまま放置されるようです。

それでは、改めて以下、3つの境内社の本殿石祠の詳細を調べてみましょう。

金毘羅大権現

金毘羅大権現 金毘羅大権現石塔裏面

鞘堂の上部には「金毘羅宮」とありますが、
内部の神体の塔は「金毘羅大権現」。

背面には「瘤R善右ヱ門」。
瘤R=杉山で、この名前は
後述の 常夜燈1 にも登場します。
また、この地区は前述鳥居の杉山玄道ほか、
杉山氏が活躍しています。
杉山を瘤Rと異体字表記したりするのは、
本人の了解のもとなのか石工の嗜みなのか、
この時代ではよくあることです。

残念ながら造立年が不明ですが、
常夜燈1と同時期くらいでしょうか。
瘤R善右ヱ門氏はこの村の名士で、
お金持ちだったのでしょうね。

本体: 高68cm、幅33cm、厚20cm。

山王大権現

山王山」鞘堂の再掲(2015年現在)、4年前の大地震のせいか、堂と石祠が、反対方向にそれぞれ傾いているようです。

山王山鞘堂

石祠正面は「山王大權現」。

講の異体字

左側面は「寛政十午歳 十五夜講中 九月吉祥日」で、
寛政10年(1798)9月、十五夜講中による造立。
「講」は左のような異体字になっています。

とここまではいいのですが、問題は、右側面の「片□冶嘉二十人」。

ここで、一気に難問題となりました。
□の部分は「町」に見えますが、「丁」+「田」とも読めます。
いちばん最初の文字は、これも奇妙な異体字で「片」と推測、
続けると、「片町」もしくは「片丁田(かたまちだ)」と読むのでしょうか。

また、最後の4文字目はこれは「嘉」の異体字であることは確実ですが、
「冶嘉」は意味も読みもまったく分かりません。
「片丁田冶嘉」もしくは「片町冶嘉」としても、得体の知れない語句です。
後続が20人なので、なんらかの集団・組織名のように思えます。
これは別の関連文献等が見つからないとどうにも解けない難問です。

本体: 高63cm、幅47cm、厚28cm。

山王大権現 山王大権現石祠左側面 山王大権現石祠右側面

三峯講塔

3つの中央となる鞘堂が「三峯山」。中の石祠台石に「三峯講」とあります。右側面は「昭和十一年四月 講中一同建之」。
昭和11年(1936)4月と比較的近年の朱文字の造立銘ですが、おそらく再建で、創建はもっと古いものと思われます。

本体: 高57cm、幅44cm、厚35cm。台石: 高15cm、幅36cm、厚31cm。

三峯山鞘堂 三峯講石祠 三峯講石祠右側面

2015年再調査で初めて気が付いたのですが、上記三峯山鞘堂写真左手背後に、小さな石祠が写っています。以下。

子之神社

子之神社 子之神社石祠左側面

小ぶりな石祠で、隣の大樹の脇に
寄り添うように置かれています。
最初、石祠内部を覗き込んで見ましたが、
文字がどうも読み切れません。
ようやく「子之神」の文字ではないかと推測。

「子之神社」などという名の神社が
存在するのかどうか調べてみると、
神奈川県をはじめ、南関東から東海地方に
かけて集中的に分布している様子。
祭神等詳細は不明(大己貴命など)ですが、
利根町では、無論、初見です。

左側面に「宝暦九卯十二月吉日」とあり、
宝暦9年(1759)12月の造立。
子之神社なら、子年に建てればいいのに・・・。

本体: 高45cm、幅28cm、厚23cm。

さて、それでは、まだ紹介してなかった拝殿前の祈念碑や常夜燈などについて、以下。

伊勢講塔

伊勢講塔

拝殿に向かって斜め左前、いつも雑草に埋もれるように立っています。
伊勢参宮祈念」とあります。

お伊勢参りをした記念に建てるのが一般ですが、
これは「記念」や「紀念」ではなく「祈念」とあるので、
もしかすると、これから講で醵金して行こうと決意した記念のものなのかも。

奏の異体字

しかし、以下の碑陰には、「太々御神樂奉奏」とあるので、
これは伊勢神宮での太々御神楽を観劇したものと考えたほうが妥当?
(奉奏の「奏」の字は、左のような異体字を使用)
ただし、大勢で行くには莫大な経費がかかるので、代参講とは思いますが・・・。

それとも、碑陰に記されたメンバーで太々御神楽を奉奏したとか?
全国各地の神社で御神楽の舞がなされているわけですから、
王子神社でもかつてはそういう催しがあったのかも知れません。
舞いながら、伊勢神宮参拝を祈願する、ということもありえますね。

大正十四年二月十一日」、大正14年(1925)の当時は紀元節の日の建立。

本体: 高110cm、幅49cm、厚10cm。

伊勢講塔背面

大正十四年二月十一日
    大越芳太郎
太   岡野要 吉
    大津 清
々   大津喜代吉
    浅野生 一
御   瘤R 豊
    浅野一 雄
神   大越晴 雄
    大津孝太郎
樂   浅野 守
    蜂谷石 松
奉   寺田嘉 平
    仝 良 雄
奏   浅野幸之助
    瘤R房 吉

手水

拝殿に向かって右手のほうには、やはり雑草に囲まれて手水が1基。表面は通常の「奉納」。
右側面は「天保八酉九月吉日」で、天保8年(1837)9月の造立。「施主 蜂谷太左ヱ門」です。

手水 手水

拝殿よりどちらかというと鳥居の近くに1対の常夜燈があります。ほぼ同形の1対ですが、銘文とくに造立年が異なります。

常夜燈1(拝殿に向かって左)

正面は「御寶前」、右の常夜燈は奉納がプラス。下右は背面で「當村 施主 瘤R善右ヱ門」と、ここにも杉山氏が登場。
下中央は右側面ですがこれがちょっと曲者です。「天保九年戌壬四月吉日」、天保9年(1838)壬4月の造立で、
この「壬」は「閏」の略字でうるう月のこと。天保9年には確かに「閏4月」が存在します。ところが・・・。
年の場合、閏もしくは壬を用いますが、月は、壬ばかりです。「壬」は間違いで「閏」が正しいとしながらも、です。ヘンですね。
また、壬は十干の9番目で一般に十二支の前に記される文字なので、「戌壬」の順序で見ると一瞬、あれっ?と思いました。

常夜燈1 常夜燈1右側面 常夜燈1背面

本体: 高81cm、幅48cm、厚46cm。

常夜燈2(拝殿に向かって右)

正面は「奉納御寶前」。真ん中は右側面で「當所 寺田新兵ヱ」。さて、問題は、左側面の「嘉永五子十一月吉日」。
嘉永5年(1852)11月の造立で、この場合、文字自体に問題はありません。おかしいのは『利根町史』の記述。
「燈籠 安永九年(一七八〇)」とあります。「嘉」「五」を誤読し、「永」と「子」だけから「安」永「九」年を推定したのでは?
「御影石 一対」などの追記もされているので、当該常夜燈の記述であることは確かだと思います。ちょっと安易です。

常夜燈2 常夜燈2右側面 常夜燈2左側面

本体: 高94cm、幅47cm、厚49cm。

episode

1.おどろ樹

幹の上部の虚(うろ)の部分からなんと竹が伸びて・・・これは驚きです。子之神社の石祠が寄りかかっていた大樹。
根元の部分の内部はどうなっているのでしょうか。こんな奇妙な樹があるのも、王子神社のおどろおどろしいところです。

おどろ樹 おどろ樹

2.丑の刻参り?

丑の刻参り?

これは、掲載しないほうがいいかと思ったのですが・・・。
サイトで知り合いになった利根町の方から、
「王子神社で気味の悪いものを見つけました」とメール。

後日、訪問して調べてみると、写真のように。これは、もしかして、丑の刻参りの痕跡?

丑の刻参りとは、確か映画八つ墓村で見たような呪いの儀式。
白装束で、頭にローソクを2本立てて、人に見られないように深夜に神社に行き、木に呪う相手の名前を彫り、
ワラ人形を重ねて五寸釘で打ちつける、というなんともおどろおどろしい作法ですよね。

考えてみれば、この鎌倉街道の中の王子神社の環境は、そんな儀式のロケーションとしてはぴったりのような。

しかし、丑の刻とは、深夜2時。そんな時間にこんなところに来るなんて、とても正気の沙汰とは思えません。

ひぇーーーっ、怖い!!!!神社のどの場所ですって?それはないしょにしておきましょうね。ぶるぶる。

鎌倉街道ルート5攻略・・・神社脇階段から入口2押戸の民家まで

神社脇、階段へ続く道 階段から拝殿を

(※立札はやはり「ハチにちゅうい」。階段向きということは、降りた先が入口ということですね)

急な階段

最初に鎌倉街道入口1、八幡宮のところを発見した日は
上記のところで探索を打ち切りました。
時間が夕方遅くなったことに加え、
カメラのバッテリもメモリもすっからかんになっていたからです。
その探索の最後に発見したのが、
王子神社拝殿脇にある B1 への階段です。

こんな状況では、やはりいったん戻って
英気を養ってからが妥当とは思いませんか?
ここでムリをすると RPG では確実に死にます。
こんな装備ではとても魔物には勝てません。
(魔物とはなんのこっちゃ?)

さて、こんな状況で・・・


タヌポンお奨めの RPG

いい歳をしてまだ Game なんてやってるのと、とがめるように友人が言います。実のところ、ほとんどやってません。少々飽きてきました。また、徹夜でやる体力ももうありません。最近の新作はオンラインばかりでこんなのやれませんし、やる気もありません、また、すれちがい通信なんかも不要なものです。とにかくやるなら1人で完結するもの。ちょっと魔がさしたようなときに、アクション要素のない、難度の高いメガテンや FF ・ドラクエ・ Wiz か、光栄の三国志(これはシミュレーション Game)に限り、やってもいいかな、と。 RPG 初体験で「こんな面白いものがあるのか」と驚いたドラクエU。あのときのような感動は、残されたタヌポンの短い人生ではもう得られないでしょう。しかし、将棋のソフトの進化はすごい!初段程度ではまるで歯が立たない強さです。とても勝てないので、それはそれで面白くないのでやりません(笑)。麻雀は Game ではやはり楽しめませんね。あー、三国志、少しやりたくなってきた。でも、もうちょっとシナリオをきめ細かく創ってくれんかなあ、最近の光栄スタッフはほんとに三国志、知ってるの?


さあ、あなたならどうする?

えっ?このまま階段降りて進む?ウソでしょ!?死んじゃうよ、いいのお?

階段、鉄パイプの手すりが冷たくて手がかじかむよーーー。
階段、急で怖いよーーー。
階段、結構あるよーーー、進むということは帰りはここ登ることにもなるんだよーーー。
階段、狭くて歩きにくいよーーー、踏み外しそうになるよーーー。
あーーあ、こなければよかったかなあ・・・ん?

民家の梅

階段降りるとすぐ民家の庭が・・・。
梅がきれいです。

振り返れば・・・

民家前から階段の方向をふりかえったシーン。

そうか、ここは鎌倉街道への入口のひとつなんですね。

押戸の街並み

先に進むともうここは押戸の街並み。
これ以上行っても仕方ないですね。

階段はちょっときついけど
入口(出口)から王子神社まではわずかの距離です。

細い道が続いて何か温泉町みたいな感じ。
とても静かです。


ルート5はこれで終わりです。

お騒がせしました。


(15/06/16 追記再構成・13/08/03・11/01/26・10/12/24・10/12/19・05/07/28 追記) (05/03/27)
(撮影 15/05/30・15/05/27・13/08/02・10/12/23・07/05/26・07/05/05・06/09/16・05/05/02・05/02/26・05/02/11)


本コンテンツの石造物データ → 鎌倉街道2石造物一覧.xlxs (13KB)