狸囃子について

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泉鏡花と狸囃子

トップページで紹介した泉鏡花は、わたしの郷土の金沢出身の作家です。
であるにもかかわらず、室生犀星も徳田秋声もわたしは不勉強でほとんどその著作を読んでいません。
犀星はともかく鏡花や秋声はやはり年代が古く、著作がみな文語調であるのがその大きな原因のように思います。
泉鏡花の「狸囃子」原文は リンク でご覧いただくとして、わたしと同様、文語文が苦手の方のために、
古文を熟知しているわけではなく僭越ですが、それを以下、拙いながらも現代語訳にしてご紹介したいと思います。
よく見ると平易な文語文とも言えるのですが、時々難しいところもあります。
誤訳もあるでしょうが、全体の要旨は伝わるのではないかと思い、あえて訳してみた次第です。
間違い等あれば、ご指摘ください。

原文は 泉鏡花文庫『鏡花花鏡』 サイトの 『春宵読本』狸囃子 から。
1900年(明治33年)、高野聖を書き下ろした同年、鏡花28歳の前途洋々のときの作です。

これを見ると、本所七不思議の出典は江戸時代の葛飾譚(かつしかものがたり)という草双紙であることが分かります。
これ以前に「狸囃子」を記述した文献はあるのでしょうか?
記述のなかに「江戸繁盛記のできたときからいまも絶えない狸囃子」とあります。
「江戸繁盛記」に何かヒントは???
過去をひもといても、狸囃子の科学的解明には到達しないでしょうが興味があります。

鏡花によれば狸囃子は本所だけでなく、上野の森、榎町、音羽、俤橋・・・・いろいろな場所で聞こえたようです。
もっともいまから100年も前は、東京といえども夜は現在とはあまりにもかけ離れた暗い街並みだったことでしょう。

さらに、狸囃子が聞こえる季節は、春よりも夏から秋にかけて多いと記述されています。
わたしの娘が「春先じゃない?」という(Columbus Blog 10/3)のはまったくいい加減な発言です。

では、以下、鏡花の狸囃子、現代語訳です。
現代ではほとんど催されてはいないと思われる庚申講の話がでてきますので、
巻末に作成した 訳注 を先にご覧いただくと分かりやすいと思います。

狸囃子 全一章   泉 鏡花

 最初にその名を知ったのはいつかと言うほどのものではない。母上が存命中の時、針箱のあたりに取散らされた葛飾譚(かつしかものがたり)があった。それには、本所の七不思議だの、おいてけ堀、片葉の蘆、送提灯などあってその中に、狸囃子というものがあった。囃子というのがおもしろく、狸とあるのもおかしいと、幼い耳に覚えていたのだが、実際どんなものなのかは分からなかった。目がキョロリとして口の先が尖った先生が、ぽんぽんと腹鼓を打つようなものだとばかり思っていたのである。

 一昨々年の夏のはじめ、明日は 庚申(以下訳注参照) というとき、柴又へお参り に行こうと準備し、朝が早いのでまたいつものように寝すごしては意味がないと思い、徹夜をしたことがあった。大塚に住んでいた頃だったが、蛙の声も耳に馴れてしまって快くは思えず、キヨキヨと鳴いているのは時鳥かどうかもわからない。向うの野原にある農学校の奥で、乳を求めているのか子牛が鳴くのが、寂寞たる夜陰を貫く。ものの二時になったころだろうか、音羽の通り、鼠坂の下あたりに、豆太鼓を打つ音がする。やんでは響き、聞こえては途絶えるのだが、落ち着いて考えてみるとこの響き、今にはじまったものではなく、夜になってからずっとだったのに、物に紛れて気がつかなかった。

 耳を澄ませば、題目に合わせて鳴らすような、それこそ、幼児たちが、「一貫三百、どうでもよい」と突込み囃す調子なのだ。

 とはいえ、ところ定めず、今言ったその音羽のあたりと思うのだが、はるかに俤橋のあるあたりかとか、いやそうではなく、高田の馬場辺か、いやいや、石切橋の最寄だろうかと思ううちに、やがては大塚の通りを眞直に、板橋街道を此方に近づく気配がする。その様子はあたかも汐のみちひきのようでもある。考えてみるに、自然の風に乗りながらただよっているようで、調子も何か物に触れると乱れるようである。判然とはせず、規則正しい音ではなかったが、これはかの所々の 講中 が、夜通しで柴又詣でをし、幾組も間をおかずに、大路小路を練り歩いているのではないだろうか。それならば家の周囲二三町程くらいか、伝通院あたりまで行けば、三々五々同行の衆に逢うのではないか。これは面白いと、夜が明けるのを待っていられるか、と茶漬けを食らって支度をととのえ、そのまま雪駄穿きで出かけた。樹木が深き家の中はともかく、おもては早や人顔も見分けがつくくらいになっていた。富坂を下り、向うを上りつつ、本郷の通りに出るまで来たが、人影にも逢わない。幻なのか、何かいないかと見ると、東雲に光が黄色の提灯を点けたまま、夜露が寒そうに辻に踞まる夜勤の車夫がいるばかりであった。大江戸八百八町というが今はそれにも増して広い、太鼓を打つ講中がどこに行こうと自由だ。大塚から出たものと同じ道筋だけとは限らないと、敢えて不思議とは思わなかった。しかしその後、折に触れて思い出す深夜には、必ずくだんの太鼓の音がするが、それが夜毎なので、日を経るに従って、次第に気にかかってきて、怪しいと思うと益々怪しく思えてきた。

 こんなことがあって、しとしと雨が降る冬の夜、友人と会ってその事を話すと、それこそ、江戸繁盛記 の出来た頃から今も絶えない狸囃子よ、と教えてくれた。

 なおその友人は、かつて根岸に住んでいたが、いま言った怪しの楽が上野の森に連夜のように起こったので、起き出して、楽屋の樣子を見ようと探したこともあったという。

 本所だけとは限らないと思う。大塚を越えて、現在の榎町 でも、同じように聞こえる。弥生三月の頃は春の夜のものの気配が何となくざわざわして、お遊びはあまり盛んではない。

 青葉の頃より、夏の夜、そして秋に入れば、ぽんぽん様、いよいよ冴えて、隊長大得意を表すのだ。

 音も、聞く人の心によって違う。あの時は庚申のこともあって法華の太鼓と思って聞いた。今日は演習があったななどと思う時は、奏楽つるべ撃つ大砲の谺の如くに聞こえるし、たまたま太平記の初卷を読んでいた時なら、瀬多の長橋とどろとどろと踏み鳴らすのもこのようなものか、などと思う。となれば、酒もなく美人もいない夜は、机の上に頬杖して、狸公がまたやってるぜ、と人知れず微笑んでしまうのである。

【完】

訳注

(04/10/13〜15追加庚申更新)
(04/10/12)