タヌポンの利根ぽんぽ行 利根町の鎌倉街道−序

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利根町の鎌倉街道 目次



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あとさき逆になりましたが、まず本来は「鎌倉街道とは何か」を説明しなければなりませんね。
このページで少しずつそれを紹介していく予定です。
それと並行して利根町の鎌倉街道をこのシリーズで順に紹介していきたいと思っています。

まず最初に、利根町史編纂委員会が出している「生涯学習だより」最終号
(第60号・05/03中旬発行)に、「利根町の鎌倉街道」の記事が出ていて、
とても簡潔に鎌倉街道と利根町のそれの説明がされていましたので紹介させていただきます。

また記事には「利根町の鎌倉街道」が昨年(2004)12月に、
町指定史跡に指定されたとあります。
もっと以前からそうなっていてもよかったのにと思いました。


鎌倉街道とは・・・利根町史編纂委員会の記述より

いま(2005)ちょうどNHKの大河ドラマで『義経』をやっています。今回はなかなかいいできで評判もいいようです。
こんなときにタイミングよく「鎌倉街道」にめぐり合うことができたのも不思議な気持ちがします。

さて、鎌倉街道ですが、源頼朝が平家征伐のために全国にかけた号令が「いざ、鎌倉」とタヌポンは誤解していたようです。
「いざ、鎌倉」とは幕府のために戦えるよう日頃の鍛錬を怠らないという御家人の奉公をあらわす言葉でした。

これに対して、鎌倉街道は、幕府のほうが万が一にそなえて整備した、というか整備させた、そんな事業でした。
軍事目的が主要であったのでしょうが、
物資輸送、当時の税である年貢の穀物を運び入れるためにも道路の整備は必要だったのでしょう。

余談ですが、1192年、いい国つくろう、という覚え方をタヌポンは知りませんでした。授業をきっと聞いていなかったのでしょうね。

滅びた平家のトップ、平清盛もなかなかのユニークな発想をもった傑物だったようですが、
滅ぼした頼朝(あるいはその側近)も秦の始皇帝ほどスケールは大きくなくともかなりの才人だったのでしょう。

以下、利根町史編纂委員会の記述要旨です。(タヌポンの私見もはいっています)

鎌倉街道には、上、中、下の3つの道がある

上の道(かみのみち)、中の道(なかのみち)、下の道(しものみち)、と主道が3つあり、
いずれも関東武蔵国の豪族の館へと通じています。

利根町の鎌倉街道は「下ノ道」(しものみち)に該当

下総国府(千葉県市川市)から常陸国府(茨城県石岡市)へ通じる道の一部と考えられています。

「布川−大平−大平船着場−奥山−押戸船着場」がその経路

いずれも利根町にある地名ですが、船着場とは奇異な感じがします。これもいろいろ説明が必要です。
というのは、この地域は鎌倉時代など昔は、もっと水位が高く、
また現在の利根川の位置も東にずれていたりしていることなど地形が現在と相当異なっているからです。
つまり、船で物資を運ぶ、そんなルートも鎌倉街道に含まれているということです。
これは鎌倉街道というテーマではなく別に研究してみたい事項でもあります。

タヌポンの棲むこの一帯が、昔は利根川ではなく、
現在の日光を流れる鬼怒川が流れていたという別の記述も見て驚いています。
蛟蝄神社 がみずち(水神)の神社と言われるのも、
その立地がこの鬼怒川の間を縫って泳ぐヘビの頭部の位置に見えることから名づけられたとも考えられます。
これはとても興味深いことです。

鎌倉街道の発展は立派な仏像安置でわかる

利根町には、以下のように、鎌倉時代から室町時代の仏像がほかの市町村より多く安置されています。
・奥山の泉光寺=聖観世音菩薩立像(鎌倉時代初期)
布川不動堂=大日如来坐像(鎌倉時代)
押戸根本寺両界大日如来坐像(室町時代)

利根町になぜ鎌倉街道があるのか?

頼朝に信任のあつい千葉氏が関係しているという説があります。
当時、蛟蝄神社 などを含んだ相馬御厨という地域を支配していたのが千葉介常胤という人物。
頼朝挙兵のとき味方し大いに建策したといいます。
それが平氏打倒の大きな原動力となり、頼朝をして「汝を父と思うぞ」と言わしめたそうです。
『義経』ではなく『頼朝』が主人公だったらこんなシーンもドラマ後半にあるかも知れませんね。
千葉介常胤は功績を評価され相馬御厨を安堵、
その子の千葉師常も奥州藤原氏征伐に功をあげ陸奥の国行方郡を賜りました。
このことから、千葉氏が任された軍事的、政治的に重要な地点から鎌倉へと続く道が整備され、
自然と千葉氏の根拠である相馬御厨ほか現在の利根町を通ることになったと考えられています。

鎌倉街道地図


(11/01/26・10/12/18 追記) (05/03/14) (05/02/26・07/05/05 撮影)