目 次
更新経過
2013年より主に石仏関連のデータ作成を目標に
各コンテンツを順次見直しし、再調査を兼ねて追記・更新をしています。
泉光寺については、再調査が遅くなっていましたが、
2016年に、地元の方よりすぐ近くの石祠の発見を教えていただいた機会に、
全面的な調査をし、各所において修正・追記をしました。
その中で、従来、見失っていた参道前の庚申塔を期せずして発見。
懸案の事項が解決してほっとしているところです。(16/05/14 追記再構成)
初期のコンテンツに、どこかの受け売りで、以下のように記しましたが、
その中で、ちょっとした矛盾を見つけました。
それは、大幅に加筆・再編成した以下のコンテンツにて。 (12/07/26 追記再構成)
行基菩薩が常陸の国に向かう途中、
奥山(現在の利根町奥山)の近くを通り過ぎようとしたとき、
沼の中から光を放つものが・・・。
拾い上げてみるとそれは浮木でしたが、
行基はそれを持って奥山に登り、観音経を唱えながら
三日三晩寝ずに仏像を彫り続けました。
それが、現在、奥山の泉光寺にある観音像(木造観世音菩薩立像)と言われています。
(『北相馬郡志』より)
素木(しらき)づくりで鎌倉仏の特色である宋様式。
鎌倉から室町初期の作と言われています。
このすぐれた作品が安置されていることからも
参道前を横切る 利根町の鎌倉街道 の発展の一端がうかがえます。 (05/04/13)
泉光寺[真言宗豊山派]
所在地: 〒300−1603 茨城県北相馬郡利根町奥山777
Tel: 0297−21−2668
泉光寺は、この地図では、右(東)端の位置にあります。
泉光寺は、コンテンツ 鎌倉街道4 のルート1・ルート2攻略でも取り上げました。
泉光寺は真言宗のお寺で、円通山大慈院泉光寺といいますが、由緒等くわしいことは分かっていません。
お堂は天保年間に火災にあい再建立されたものですが、本尊は焼失を免れたといいます。
泉光寺の大きな案内標識と庚申塔があるところから登りの参道が続いています。
泉光寺へはもえぎ野台からこのルートを通っていくのがいちばん分かりやすいのですが、
最初の訪問時、タヌポンは裏手の山道からこの寺にたどり着きました。
この裏手からの道はちょっと複雑で、途中にポイントもないため、ここでは地図上も含めて、割愛しています。
昭和40年代ころまで参道は花見のころには露店も並んで賑わったとありますが、そんな俤はいまはありません。
上は、数年前(2005〜2010の間)に
歩道部分が整備されたほか、その後にも、
左手に民家が新しく建ったりして大分変化しました。
左は、歩道整備前に設置されていた泉光寺の道標。
割とデザインが色彩的に気に入っていたのですが、
いまは、墓苑の広告看板に変えられてしまいました。
以前は、下の2基の庚申塔が、比較的分かりやすい位置(忘れましたが)に置かれていました。
何年か前に、この辺り一帯が道路等整備されたときに、庚申塔が2基とも見えなくなってしまいました。
最近、ようやく、←写真右のほうの1基だけ
ツツジと竹笹の生い茂る中に発見。
もう1基は、ツツジか何かの潅木の中に
埋まっているのか、まったく姿が見えません。
冬場に来て再度、確かめようと思っています。
見つからないほうが、庚申塔の文字塔で、
見つかったほうが、当初、不明の石仏でした。
いま、調べてみると、「奉供養青面金剛」
「宝暦六年丙子天八月吉日」が判読。
宝暦6年(1756)8月造立の、
やはりこれも庚申塔と判明しました。
もう1基の文字塔は、以前撮った写真で、
横に「万延」の文字が見えます。
万延といえば、元年〜2年しかなく、
元年が60年に1度の庚申の年ですので、
造立は、万延元年(1860)と推定されます。
なお、『利根町史』に「庚申塔 万延元年(1860)1基」とありますが、泉光寺境内には庚申塔は1基も見つかりませんでした。
したがって、この消えた庚申塔がそれと思いますが、泉光寺の項目に入っているのはちょっと誤解を招くような気がします。
もっとも、それが現在、境内のどこかに遷座していたとしたら、妥当な話になりますが・・・。
2016年5月、「根本さん情報」の石祠の撮影を兼ねて、泉光寺境内の石仏等の再調査・法量計測に行きました。
まったく期待してはいなかったのですが、ついで、ということで、再調査の前に、参道坂下の潅木の中を見てみました。
本来、見やすい冬の季節に来るべきだったのに、そのときは50センチ程度の通路を挟んで、手前はもうツツジが満開。
その奥の背後がコンクリ塀の前は竹笹が繁茂しています。ダメもとで、通路から単に覗いて見ただけなのでした。ところが…。
竹藪の中に、チュウハイの空き缶が何個も捨てられています。
少し空間が空くと、こんな不届きな廃棄をする人がいるようです。
でも、その奥に目をやると・・・!!!
なんと、先に見つかった庚申塔がなんとなく見え隠れしています。
これすらも、前述より後に再訪問した時、見つからなかったのです。
サイズも未測でしたし、銘文もしっかりと見ていませんでした。
これは、もう、もっと掃除をしてみるしかありませんね。
そのときは、刈込バサミなど持参してはいませんでしたが、
小さな園芸バサミはあったので、笹竹を刈込むしかありません。
その成果が、以下。
上部に「日月雲」の浮彫。中央には「奉供養青面金剛所願成弁所」。
「成弁」とは聞きなれない言葉ですが、仏語で成就の意味のようです。
右には、「宝暦六丙子天」、左に「八月吉祥日」で、
宝暦6年(1756)8月造立は前述通り。
下部右は「願主尊栄」、左に「講中廿一人」も判明。
尊栄とは、当時の泉光寺の住職かも知れません。
最下部に「三猿」もあり、庚申塔としての情報がすべて集まりました。
本体: 高86cm、幅33cm、厚16cm。
サイズも測りましたので、これがここに存在していることだけ確認すれば、
今後も、笹竹に埋まってしまうと思いますが、これで安心です。
さて、欲張りタヌポンは、これが見つかったのなら、当然、もう1基のほうも・・・
と思いますよねえ。しかし、これは、結果としてはかなり手強かったです。
遠い昔、もう10年程前の当初、2基を見たときは、
確かこれらは向かい合っていたはず。それなら・・・。
通路を挟んで、この庚申塔の正面向こうのツツジの潅木の中にあるのでは・・・。
そこで、庚申塔1の前のツツジを掻き分けて、下枝の奥を覗き込んでみました。
すると、ちゃんとあるではないですか!
しかし、2メートルほど奥。これからが、たいへんでした。
その塔を目指してかなり時間かけてツツジの伐採をしました。
園芸バサミの効率の悪さで、右指が痛くなりました。
満開のツツジには悪いのですが、参道の道路からは見えない場所ですので。
その伐採途中段階が、右の写真 → この塔の背後に表道路が通っています。
確かにこれは、「消えた庚申塔」のもう1基に間違いありません。
やはりここにあったのですね。
しかし、これは、今年の暮れ辺りには、また、ツツジに埋まってしまうことでしょう。
さっそく完璧なデータづくりをここでしておかねば・・・。
塔の左右側面なども撮るには、これからさらに刈込みが必要でした。
以下、正面、右側面、左側面。ついに、ここまで撮影できるように道筋をつけました。まさしくこれが探していた庚申塔。
本体: 高77cm、幅36cm、厚29cm。台石: 高21cm、幅56cm、厚51cm。
正面上部には「日月雲」のレリーフ。中央には「庚申塔」。台石には、「村講中」。この村というのは、奥山村と思われます。
本体正面右に「万延元年」、左に「庚申十二月建之」で、やはり万延元年(1860)庚申の年、12月造立の庚申塔でした。
さて、サイドのツツジの枝を身体で押さえつけながら石塔の左右側面を覗きこんで、ちょっと当惑。
こ、これは、崩し字?もしかして、和歌などが彫られている?そうだとするとちょっと厄介だなあと。
とりあえずカメラのファインダーを覗きながら、文字を見ていくと、最初の文字は「此」。つぎは「方」、あとは、ヘンタイガナ?
しかし、最後の文字を見て、ああ、これは「道」の崩し字と分かったところで意味がすべて判明。
実は、昨年2015後半から今年春にかけて友人から依頼された古文書解読作業のおかげで「此」も「道」もらくらく読解。
右側面は「此方ふかハ道」、左側面は「此方里うかさき道」。すなわち、南が布川道、北が龍ケ崎道、というわけです。
この塔は、道標も兼ねている目印の塔と言えましょう。・・・と、閃きました。もしかして・・・。
この向かい合わせになっている庚申塔の間の細道が、
昔の本来の参道だったのでは?そんな気がするのです。
左写真のピンク色の幅の通路です。
2基の塔は、現在すぐ潅木等に隠れてしまいますが、
かといって別の場所に遷すのは、どうかという気もします。
とくに、庚申塔2については、この向きに立っていて
初めて道標としての方角の機能が果たせるわけです。
塔の詳細はここに記すことができましたので、
このまま潅木に埋まれて、風化を防ぎ、
いつまでも守ってもらうほうがいいのかも。
(16/05/14 追記・16/05/12・16/05/05 撮影)
さて、以下、現在の参道の後半。
上は山門直前。季節違いの参道の風景。
前方、山門の中に小さく、真っ白な石灯籠が鮮やかに見えます。
桜が大樹に育ってくれれば、露店が並ぶことはなくても、
なかなかいい見所になるのではないでしょうか。
桜の時期は、ちょうど右手の畑は菜の花が満開です。
左は、山門を潜り抜けて、参道を振り返ったシーン。
新緑から秋にかけては、自然がいっぱいです
左は、外側から見た山門。
泉光寺の山門は、
1対の金剛力士像(仁王像)が
安置されているため、
仁王門と呼ばれています。
左は、門をくぐって
内側から山門を見たところ。
なかなか美しいです。
屋根の棟の冠瓦や鬼瓦などに
卍模様が付いています。
この仁王門には、文化8年(1811)建立銘の棟札があり、中村新右衛門という当時18歳の大工によって建造されました。
たいへん腕のいい大工でしたが、住まいが大平の辺田(へた)だったため、「へたの上手な大工」と語り伝えられています。
辺田は、横須賀地区西端から、台地沿いに北上する道の途中にある台地の裾周りがその地で大昔の船着場でした。
大平一帯の居住者は五十嵐氏・川崎氏の二流がありますが、明治までは中村氏もありいずれも古い歴史をもっていました。
大工の中村新右衛門は、横須賀の二宮神社の社殿を、そのときは棟梁として天保11年(1840)に再建 しています。
(13/07/24・13/06/29 追記)
山門の両側に、1対でハニカム状鉄格子に入れられた仁王像があります。真正面からカメラに収めるすべはありません。
下にある小さな穴からなんとか撮ったのが以下。町の文化財だから、仕方ないですね。監視員常時配備などできませんし。
阿形・・・門に向かって右側
泉光寺には、利根町の有形文化財に
指定されているものが2つあり、そのひとつが
山門である仁王門の両脇に安置された一対の金剛力士像。
もうひとつは、後で紹介する「木造観世音菩薩立像」。
仁王門は文化8年(1811)建立銘の棟札がありますが、
仁王像のほうは、正徳6年(1716)、
運慶派仏工の作といわれています。
門に向かって右側の口を開いている像が
阿形(あぎょう)という密迹(みっしゃく)金剛。
(←左と↑上写真)
▼ 密迹金剛とは・・・執金剛神(しゅうこんごうじん)。手に金剛杵(こんごうしょ)を持ち、仏法を守護する夜叉神(やしゃじん)。
以下に紹介するのが、口を閉じた吽形(うんぎょう)。
ちなみに「阿吽(あうん)の呼吸」と称されるのは、
この阿形・吽形からきています。
タヌポンは、仁王像ももちろんですが、
像の背景の板に描かれた模様や、
像の台座の卍模様なども気になっています。
とくに、板の模様は、修繕等するときに、
やはり上塗りとかも、されるのでしょうか。
吽形・・・門に向かって左側
これは山門左手にある吽形(うんぎょう)という那羅延(ならえん)金剛。口を閉じ右手を広げているのが目印です。
▼ 那羅延天とは・・・漢訳仏典におけるバラモン教・ヒンドゥー教の神ヴィシュヌの異名「ナーラーヤナ」の音写。(Wikipedia)
解説案内も設置されています。画像クリックすると解説の拡大になります。山門中央上部には文化財指定書も掲載。
仁王尊に奉納される品々に関する民間信仰
下は、左から、山門の左側面、右側面、正面の右の3カット。鉄のわらじなどの奉納品が展示されています。
仁王尊は、仏法の守護者として安置されるだけでなく、
健康の象徴ともされています。
仁王門には、「わらじ」や「木槌」などが下げられていますが、
これらには以下のような民間信仰があります。
効能があれば新しい品を倍にして返すという習慣があります。
「きりすね」や「木槌」は、信仰というより、実際に効果がありそうです。
「めの字絵馬」は、もう絵柄はすっかり消えてしまっています。どんな図柄なのか見てみたいです。
また、前面右の写真の上部には白地に黒い大き目のわらじが見えますが、住職用とか、何か特別なものでしょうか。
しかし、他のわらじは、ちょっと実用には小さいような気がします。奉納用のミニチュアのものなのでしょうか。
また、鉄のわらじは、当然、丈夫なのでしょうが、履き心地はとても悪そうです。昔の人は足が小さくて頑強だから?
ところで、「・・・は金のわらじを履いてでも探せ」という「金」ですが、これは「きん」ではなく「かね=鉄」が正解。
頑丈な「鉄のわらじ(かねのわらじ)」を履いて、磨り減るくらいまで探すほど価値がある、という意味ということですね。
こういう諺がある以上、ほんとうに「鉄のわらじ」を実用品として履いていた?タヌポンはイヤだな、痛そう。奥さん1つ上だし。
山門中央上部の小壁に掲載されています。
「圓通山」「東山敬書」とあります。
「円通山」は泉光寺の山号です。円通山 大慈院 泉光寺。
東山は、布川の著名な書家、杉野東山。
明和6年(1769)布川生まれ、嘉永4年(1851)没。
→ 応順寺「杉野東山」 参照。
ということは、この扁額の制作年代は、
大雑把に言えば、1800年前後ということでしょうか。
山門手前右手に、手水舎があります。
わりと立派な造りに見えますが、参詣客も少ないためか、中の手水鉢も、普段からあまり使用されていないようです。
こういうのは、最近は、水道をひかないとダメですね。前の賽銭箱も、ほとんど埃で、心なしか侘しい感じ。
手水石の周囲が柵で囲われているので、
銘文があったとしても読み込めません。
辛うじて、柵の間からメクラ撮りしてみました。
「奉納石手水」と
「施主 奥山町 永井清兵衛」とあるようです。
造立年等もどこかに彫られている可能性も。
奥山村ではなく町というのは読み違いかも。
もしくは近年の奉納でしょうか。
本体: 高49cm、幅109cm、厚52cm。
山門前の樹木を背に石祠と石塔が建っています。下は、左が2005年、右が2012年〜現在。ちょっとちがいます。
さて、どこがちがうのでしょう。ヒントは、東日本大震災・・・分かりましたか?では、解答は、以下。
札所塔(吾妻札所第壹番)
間違い探しは、この石塔の向き。180度、裏向きです。きっと大地震で倒れたのを立て直すとき間違えたものと思われます。
以下、左から正しい意味での「正面」、「右側面」、「左側面」の写真。
では、上の左の正しい表面は・・・「サク」の種子の下に「吾妻札所弟壹番」。右に「西國三拾三所那智山冩」とあります。
また、下部左右に「奥山村」「泉光寺」が銘記。これらは、どういう意味でしょうか。西国33ヵ所霊場巡りの第1番札所は、
熊野三山のひとつ那智山の青岩渡寺。この写し巡礼として泉光寺を第1番札所としたことを示す塔です。
右側面は、「安永七戊戌十一月吉祥日 願主淨雲」つまり安永7年(1778)11月、淨雲による造立です。
四郡大師よりも古い安永年間に、すでに西国の写し巡礼があったわけで、探せば近くに2番以降の札所塔も見つかるかも。
なお、弟壹番の「弟」は「第」の異体字であると同時に、「第」の字が「弟」の異体字でもあるというなんとも不思議な世界。
さて、問題は左側面。なにやら上部に「常磐廿番」と記されているような・・・。その下には変体カナらしき崩し字が・・・。
これは、和歌のような。となると、四国88ヵ所にある御詠歌のようなものでしょうか。「せん光じ=泉光寺」の文字も見えます。
「奈津ころ□□も夕すゞみせん光じ 夢を於く山尓かよふぬま風」=「夏頃□□も夕涼み泉光寺、夢を奥山に通う沼風」。
もしかするとこの吾妻札所弟壹番以前に「常磐」(ときわ)という巡礼があり、泉光寺はその20番札所だったということかも?
左は、現在は、表面のように見えている実は裏面の写真。
以下のように、上部に、僧侶名+5名の戒名、
下に少し大きな字で、1名の戒名が彫られています。
権大僧都慧法印
轉 心 樓 童 女
眞誉妙光 信 女 覺 夢 童 子
瞬 槿 童 子
智 空 童 女
冷 光 童 女
本体: 高96cm、幅25cm、厚19cm。
後日談:2016年再々調査で、ためしに石塔を動かすとなんとかなりそうなので、逆向きになったものを元に戻しました。
もう1基ある石祠。これは以前のままですが、どうにも得体が知れません。石祠表面上部に「□公神」が読めます。
3文字の「□公神」が、もし石祠の正確な名前なら「土公神」(どこうしん)と呼ばれるものとしか考えられません。
土公神は、猿田彦の別名とも言われていますが、詳細は不明です。
石祠表面右には、「明和七寅」、左には「十月吉日」。右側面には、「願主乘運」とあります。明和7年(1770)10月の造立。
右の側面ですが、上部は「男中」でしょうか。下部に、4名。□本□□(欠損) 荒井□□□ 新井□□門 長□七左エ門
本体: 高42cm、幅22cm、厚20cm。
山門(仁王門)の前に、左右1基ずつ、
大きな石が置かれています。
力石もしくはさし石と呼ばれるもの?
とくに銘文など彫られていません。
山門を外から見た並びで掲載。
左本体: 高42cm、幅45cm、厚43cm。
右本体: 高28cm、幅33cm、厚55cm。
さて、それでは、山門を潜って、境内に入ってみます。
山門を潜り境内に一歩足を踏み入れると、
眼前に、大きな公孫樹の樹が
本堂を遮るかのように枝を伸ばして立っています。
また左手にも細長い大樹がそそり立ち、
この2本の巨木の間に、本堂に続く道が通っています。
泉光寺は、このほかにも、境内の東西に、
モミ、カヤ、ムクロギ、クスノキ、イヌマキなど
数多くの巨木があります。
そのすべては撮れてはいませんが、
主なものを後半でまとめて紹介します。
本堂は、木造の流造り。
宗派は、真言宗。
現在、無住で、土浦市如宝寺に
仏事一切を託しているとのこと。
現本堂は、天保15年(1844)12月、
大工新右衛門の再建と棟札にあり、
山門は父親、本堂は息子が建てた、
ともいわれますが、詳細は不明です。
もし同名の息子なら二宮神社の社殿も
ほぼ同時期なので、タヌポンは、
親子ではなく同一人の気がします。
(13/07/24 追記)
本尊は、聖観世音菩薩。これは、鎌倉時代末の作。以下で紹介しますが、鎌倉から室町初期の作ということで、
このことが、この近辺に鎌倉街道が走っていたという証左ともなっているというような記述が見られます。
でも、この論述は、実はタヌポンには、あまりピンときていません。
鎌倉時代の遺物があるからといって、鎌倉街道がそばを走っていたという論述は飛躍しすぎていますし、また逆に、
鎌倉街道が走っていた事実があり、その関連で確かに、泉光寺にこの仏像が安置されたのかの根拠は何もありません。
たとえば、頼朝命で造らせた観音菩薩だったとか、義経が逃げ延びるときにこの仏像を云々とかの史実。
鎌倉街道が利根町の一部を走っていたという根拠を、泉光寺のこの本尊に求めることなく、
いっぽうでまことしやかに伝えられる、これが果たして、鎌倉時代よりずっと前の平安時代の行基の作なのかどうかの真偽。
それを、まずは、問いたいと思います。以下、本尊、木造観世音菩薩立像に関する説明を見てみましょう。
木造観世音菩薩立像(本堂内に保管か?)も町の有形文化財に指定され、解説立札が設置されています。
画像クリックすると解説の拡大になります。ほぼ同様のことが 利根町公式ホームページ に記されています。
泉光寺に祀られている観世音菩薩は、鎌倉から室町初期の作と言われ、鎌倉仏の特色である宋様式を表しており、素木(しらき)づくりで唇にわずかに紅をさしています。「行基が常陸の国へ行く途中、奥山の近くを通りかかると、沼の中から光明を放つものがあり、近づくとそれは1個の浮木だった。行基はそれを拾い、奥山へ上がり、観音経を唱えながら、3日3晩寝ずに仏像を彫りあげた。それが泉光寺の観音像だ」という言い伝えがあります。(以上、利根町HPより引用・転載させていただきました)
ここで、行基のプロフィールを見てみます。
行基(ぎょうき: 668−749年)は、日本の奈良時代の僧。困窮者のための社会事業を行い、朝廷からは度々弾圧されたが、民衆の圧倒的な支持を背景に後に大僧正として聖武天皇により奈良東大寺の大仏建立の責任者に。東大寺の四聖の一人。(wikipedia)
ちなみに、鎌倉時代とは、幕府が東国支配権の承認を得た1185年頃〜鎌倉幕府滅亡1333年まで。
室町時代とは、足利尊氏が征夷大将軍になった1336年〜将軍義昭の京都追放1573まで。
これでは「鎌倉から室町初期の作」には、行基(ぎょうき: 668−749年)が介在する余地は、まったくないではないですか!
木造観世音菩薩立像の行基作は、まったくの伝説か、仮に事実としても、
鎌倉街道存在との関連はきわめて希薄というしかありません。
タヌポンとしては、木造観世音菩薩立像は、やはり「平安時代の行基」作で、そのころからすでに泉光寺が存在し、
その歴代住職たちは、鎌倉街道の変遷を垣間見てきた、というようなのが理想ですが・・・(笑)。
(木造観世音菩薩立像を科学的手法によって鑑定すると、何年代の作とかそんなことはもう調べられるのでは?)
寺院建築にみられる「二軒(ふたのき)」という軒。見上げると、その姿が美しい泉光寺の本堂。
飛擔垂木(ひえんだるき)とは、地垂木の先に浅い角度で継ぎ足すように付けられている垂木のこと。
垂木・地垂木・飛擔垂木が、いいバランスで、屋根に反りを与える役目を果たしています。
本堂上部にも扁額が掲載されています。
銘は、これで「圓通山」?
3文字目は「閣」に読めてしまいます。ああ、篆書もムズカシイ!
「嘉永三龍昇次康成寒十月蓂」
「普門品壱萬巻 拜讀 講中」
「八十二法眼 杉𡌛東山謹篆」
嘉永3年(1850)10月の作。
嘉永4年(1851)で83歳没の東山は、
確かにこの年は「八十二」法眼(ほうげん)です。
最期の力を振り絞った揮毫というべきでしょうか。
▼ 法眼とは法印に次ぐ僧位の呼称。
ところで、『利根町史』には、山門である仁王門に「嘉永3年(1850)の銘」があると記しています。
これは、この扁額の銘のことではないのでしょうか。「仁王門に」ではなく「仁王門の扁額に」が正しいと思うのですが・・・。
先に紹介した、仁王門の小壁に掲げられたもうひとつの扁額には、建立銘は見当たりません。
教育委員会の案内板にも「仁王門は文化8年(1811)建立銘の棟札がある」とされています。ちょっとヘンです。
「浄財」と記された賽銭箱。
最近設置されたのか、以前からあったのか、記憶にありません。
海賊船の宝箱みたいで、タヌポン好みのデザインです。
家にひとつ欲しいな、入れる宝は何もないけど。
ところで「浄財」の一般的な意味は寄付金になるようですが、
漢字をヘタに直訳すると・・・。(以下、余談です)
マネー・ロンダリング、なんて(笑)。冗談です、念のため。
えっ、マネー・ロンダリングって何?という人は検索してください。
ロンダリングとランドリーが同じなんて和製英語はほんとに不可解。
鎌倉の銭洗弁天なんて、もろにこの意味に近い?(笑)
平成2年(1990)8月の奉納。まだきれいですね。この分だと2011大震災にも倒壊せず、耐えた様子に見えましたが・・・。
→ この近くに住む方に聞いてみると、灯籠は大地震で倒れたそうです(そうだろうなあ)。でも破損しなくてよかったですね。
「平成二年八月吉日」と「利根町奥山 永澤達男・永澤きよ」銘。本体: 高250cm、幅66cm、厚66cm。
山門から見て右手にある石碑。中央に「仁王尊御修繕記念碑」とあります。
左に「昭和三年三月建之」とあり、昭和3年(1928)3月の造立。修繕自体にどれほど時間等を要したのかは不明。
わざわざ碑を建てるほどですから、そうとう綿密な作業だったのでしょうか。
どんな風に修繕するのか、いちど見てみたいもの。奈良や京都などに住んでいると、体験しやすいかも知れませんね。
石碑下部には次のように人名が彫られていますが、裏面にはさらに数多くの奉賛者の名前(ここでは割愛)があります。
本体: 高134cm、幅68cm、厚10cm。
當山兼住職
權大僧都□□長塚□永存
本寺徳満寺住職
少僧正□□□海老原俊溪
□□□□□□□□□□□稚子
□□□□□□□□除幕者□□永澤□□利
□□□□□□□□□□□同
□□□□□□□□同□□□□吉田□タカ
修繕委員□□□□檀家総代□吉田□清四
同□□□□□□□同□□□□長沼□忠一
同□□□□□□□同□□□□新井長之助
同□□□□□□□□□□□□永澤常次郎
同□□□□□□□□□□□□大野寅之助
同□□□□□□□□□□□□永澤慶三郎
同□□□□□□□□□□□□櫻井文次郎
同□□□□□□□□□□□□海老原□隆
同□□□□□□□□□□□□新井□勇雄
□□□□□□□□佛師□□□矢澤□直吉
ところで、上記に本寺徳満寺住職・・・とありますが、泉光寺の本寺は徳満寺になるのでしょうか?
記念碑のすぐ左隣りにあります。鐘楼全体の構えに比べては、比較的小規模の釣鐘に見えます。
来見寺 のように、釣鐘にはとくに銘文などないようです。穴の開くほど精しく視てはいませんが。
左は、撞木(しゅもく)。
手書きの H13.7.1(平成13年[2001]7月1日)吉日が
消えかかっていますが、無住のお寺なら
鐘を撞くことはほとんどないでしょうから、これで十分なのでしょう。
不明の石塔(道標)
鐘楼の下の柱に立てかけてある石塔。表面が削り取られたようになっているので、最初は単なる石材かと思いました。
でも、左と右の両側面に文字が見えます。とすると、この表面の削られ方が、なんとも不可解です。どうしてこのように?
とりあえず、文字内容を見てみますと、左は造立日「天保八酉十月吉日建之」が分かります(享保・天保の酉年で推定)。
天保8年(1837)10月造立で、「奥山村」「施八人」「□坂」などが見えます。
右側面には、「里うがさき」と「つちうら道(推定)」などが見えます。道標のような気もしますが・・・。
表面がこの様子では何とも言えませんが、道標はふつう+アルファの機能の場合が多いので、
表面は、「西国○○番」とかの巡拝塔、「二十三夜塔」「庚申塔」・・・いろいろな可能性があります。
わざわざ表面だけ削り取るとは・・・?もしかして、パワーショベルかなにかでガツンと、そんな感じでしょうか。
本体: 高54cm、幅22cm、厚12cm。
左手(山門から見て)は社務所なのでしょうか。「奥野庵」と書いてあります。
最初、奥野庵の「野」の字が読めなくて、これはおそらく泉という字でしょうか、などと当てずっぽうを。
うーーむ。草書体等がすらすら読めるように勉強しようかなあ、などと、少し本気で思ったりしています。
ホントに読めるのと読めないのとでは大差。現在、石仏調査とくに文献解読などで、たいへん苦労しています。
ということで、「奥野庵」の左横に記されている文字も、「大僧正 雲城書」としか読めないわけです。うーん・・・。
奥野庵の奥、いや奥野庵に向かって右に大師堂があります。
まあ、近郊含めて200ヵ所もあるわけですから、
泉光寺を含め、利根町の要所要所にはありますね。
ここは、札所番号は16番。
堂内には2体の大師像が安置されています。
像の並びはとくに決まっていないようです。
実際、以下右写真は2016年撮影ですが、
以前掲載のものは左右逆に並んでいました。
左本体: 高33cm、幅24cm、厚18cm。
右本体: 高31cm、幅26cm、厚17cm。
山門前の2基の他に、境内中央左手、さらに本堂裏手など、様ざまな石仏が数多く設置されています。
ここでは、境内中央に見えるものを、山門に近いほうから順に見ていきます。
山門をぬけてすぐ目の前の参道両脇に、小さい石柱が対で本堂向きに建てられています。かなり古いものに見えます。
表面の銘文をよく見てみると、どうも、ここには元は古い石灯籠が設置されていたようです。
以下、山門に向かって左の石柱の正面、右側面、左側面の写真を掲載します。
正面をよく見ると、左「正コ四甲午」、中央「奉寄進石燈籠」、右「九月十九日」が読み取れます。また右側面には、
「泉光寺現住 法印」、左側面には「願主 長沼藤兵衛 吉田喜兵衛 長嶋㽵左衛門」。㽵は庄の異体字。
下部が土中に隠れているので掘り起こして見ました。藤兵衛・喜兵衛の「衛」は右のような崩し字。→
山門に向かって右にある対になったもうひとつの石柱も、
正面と右側面は、上記とほぼ同様の文字が彫られているようです。
異なるのは、左側面(←左写真)の願主の名。3名の数は同じですが、
「願主 □□□□衛門 荒井清兵衛 永沢長右衛門」。
さて、この造立日は正徳4年(1714)9月19日。
仁王像が、正徳6年(1716)の作というのと時期が符合します。
鎌倉時代よりはずっと後ですが、泉光寺は少なくとも
正徳年間には確実に存在していた、ということが言えます。
左本体: 高45cm、幅19cm、厚16cm。
右本体: 高45cm、幅20cm、厚16cm。
山門から振り返って、本堂のほうへ進みます。参道左手に宝篋印塔を中心に各種の石仏がまとまっているのが見えます。
前に樹があって6基すべてを真正面から撮れない六地蔵。境内中央左に最初に見える石仏群です。
右から2基目の地蔵(上右参照)表面にだけ、「宝暦」の造立情報が刻銘されているのはなぜでしょうか。
ちなみに「宝暦」の直下は「七」に見えるのですが、その下が当初「巳」に見えました。宝暦七は巳年ではなく丑なので、
これは、「七」は「十一」と読み、宝暦11年(1761)の造立かも知れないと思いました。
でも、「七」の下「巳」はよく見ると「丑」に見えます。宝暦7年(1757)としました。。
「巳」に見える字の下にある3文字も、一部剥落がありますが、「宝暦七丑十二月」でしょう。
以下、六地蔵の解説と6基それぞれの拡大写真です。
ちなみに、六地蔵に関しては、「日本石仏事典」には以下のような解説があります。参考まで。
仏説地蔵菩薩発心因縁十王経 | ||
予天賀地蔵 | 左手如意珠 | 右手説法印 |
放天王地蔵 | 左手錫杖 | 右手与願印 |
金剛幢地蔵 | 左手金剛幢 | 右手施無畏(せむい)印 |
金剛悲地蔵 | 左手錫杖 | 右手引摂(いんじょう)印 |
金剛宝地蔵 | 左手宝珠 | 右手甘露印 |
金剛願地蔵 | 左手閻魔幢 | 右手成弁(じょうべん)印 |
▼ 6体の像は、出典により諸説があり、また持ち物・印相による像形の違いもある。
▼ 江戸時代の石造六地蔵には「仏像図絵」のものが多いが、そのほかの組み合わせもある。
仏像図絵 | ||
地持地蔵 | (護讃地蔵) | 両手で念珠を持つ |
陀羅尼地蔵 | (弁尼地蔵) | 右手施無畏印、左手引摂印 |
宝性地蔵 | (破勝地蔵) | 合掌 |
鶏亀地蔵 | (延命地蔵) | 右手錫杖、左手如意珠 |
法性地蔵 | (不休息地蔵) | 両手で柄香炉を持つ |
法印地蔵 | (讃竜地蔵) | 両手で幢幡(どうばん)を持つ |
★ 施無畏: 仏語。仏・菩薩が衆生(しゅじょう)の恐れの心を取り去って救うこと
★ 引摂: 仏語。仏・菩薩が衆生をその手に救い取り、悟りに導くこと
★ 幢幡: 仏堂に飾る旗。竿柱に、長い帛(はく)を垂れ下げたもの
いちばん左の地蔵菩薩。
両手で幢幡(どうばん)を持つ、というのにぴったりなので、
これが「法印地蔵」と呼ばれるものかも知れません。
本体: 高54cm、幅22cm、厚12cm。
合掌していますので、「宝性地蔵」でしょうか。
本体: 高53cm、幅22cm、厚11cm。
両手でもっているのが「柄香炉(えごうろ)」とすれば、「法性地蔵」。
本体: 高54cm、幅23cm、厚12cm。
この地蔵は、何か両手で下にのびているものを持っているような・・・。
ちょっとよく分かりません。
本体: 高53cm、幅21cm、厚11cm。
これが、問題の造立銘文のある地蔵菩薩塔。
剥落等もあり、暫定ですが、「宝暦七丑十二月」、
つまり宝暦7年(1757)12月の造立です。
右手に持っている蓮華のようなものは錫杖でしょうか?
左手は何か持っているのか、印を結んでいるのか、これもよく分かりません。
本体: 高53cm、幅22cm、厚12cm。
これは両手で薬壺もしくは柄のない香炉を持っているようです。
本体: 高54cm、幅23cm、厚12cm。
さて、六地蔵の背後には、中央に大きな宝篋印塔があり、
それを取り囲むように何基かの石仏が並んでいます。
宝篋印塔は後で説明しますが、六地蔵のすぐ後ろで
こちら向きの石仏5基から見ていきます。
右手に宝剣、左手に羂索を持ち、忿怒相。
しかも、背後に火焔とくれば、不動明王ですね。
しかし、これは銘文がまったく見えません。
もともとないのか、風化で剥落してしまったのか。
せめて造立年などが分かればいいのですが・・・。
本体: 高65cm、幅30cm、厚20cm。
不動明王像の背後にある塔は、中央に、
「奉納大乘妙典日本廻國供羪塔」の刻銘。
法華経の経典を日本66ヵ国の霊場に納める記念の塔です。
そして石塔上部左右に廻国塔の決まり文句。
「天下和順」と「日月清明」。
造立は、「安永七戊戌天」「十月吉日」、
すなわち安永7年(1778)10月。
← 石塔下部が読みづらいので拡大写真を。
左下は「願主 光西」。廻国行者名でしょう。
右下は「武城駒込富士前町」。
駒込富士前町は、現・文京区本駒込に該当。
光西は、江戸出身の行者?
本体: 高98cm、幅35cm、厚22cm。
中央に「湯殿山月山注侮R西國秩父坂東供養塔」とあります。西国・秩父・坂東の霊場100ヵ所の巡拝記念の塔。
加えて出羽三山登拝を行った「三山百番塔」と称するものです。さらに右側面には「象須山金毘羅大權現」とあります。
もしかして、四国88ヵ所の巡拝も行ったかも?なお「ぞうずさん」は「象頭山」と記すのが一般です。
左側面は「文久元年酉十一月吉日 長嶋七右衛門 隠居 年八十五才」、文久元年(1861)12月造立の刻銘。
この長嶋というご隠居さんは、たいそうの長者で、85才にして日本全国の霊場を巡りきり、きっと極楽往生でしょうね。
本体: 高75cm、幅31cm、厚28cm。
中央上部に「サク」の種子。その下に、「奉納大乘妙典六千部供養」。六千部が、六十六部もしくは六部としたら、
2つ前の廻国塔と同様の塔なのですが、六千部となると、これは「読誦塔(どくじゅとう)」という種類の塔に思われます。
すなわち、経典を6千回読誦したことを記念して銘文に記した塔ということです。表面下部には、
右に「清山蕟誉法師」と左に「願主 淨貞法師」が彫られています。願主2名なのか、清山蕟誉法師はそうでないのか?
上写真中央は右側面。「三界萬霊六親眷属有無兩縁」。有縁無縁の霊の供養のためという意味合いでしょう。
左側面に、「享保六辛丑天四月吉祥日」。享保6年(1721)4月の造立銘があります。
本体: 高85cm、幅39cm、厚29cm。
この塔は、少々銘文読み込みに手こずりました。
濡れタオルで擦ったり、ペットボトルに用意した水をかけたり・・・。
光背右上に「奉供養十九夜念佛二世安楽也」が辛うじて・・・。
ということで、典型的な半跏思惟型の如意輪観音の十九夜刻像塔です。
さて、造立年もなかなかの難物。
光背左上部分。「貞享五戊辰 十月十九日」と読めます。
すなわち、貞享5年(1688)10月19日の造立ということになるのですが・・・。
実は、貞享5年は9月30日改元で、元禄元年となるのです。
まあ、こういうケースもあるでしょう。ここでは銘文通りとしておきます。
ほかに光背左下に「同行廿三人」が見えます。
一説によれば、十九夜塔は、茨城県南部、まさに利根町近隣が発祥とか。
また、十九夜塔は、いわゆる「月待ち」塔ではなく、念仏を主体とするものであるなど。
精しく研究されている方も多くおられるようです。
本体: 高75cm、幅33cm、厚26cm。
この塔を最初に見たのは大平神社。
妙な形で驚きましたが、よく見ると、
各地の寺院でも数多く見られます。
徳満寺にも大きな塔があります。
→ 大平神社「宝篋印塔とは」 参照。
→ 徳満寺「宝篋印塔」 参照。
塔の基礎の部分には
各種の銘文が彫られています。
これは、宝篋印陀羅尼経ですが、
全文ではなく、一部を彫ったもの。
「基礎」の上は「塔身」と呼ばれますが、
ここには4面でそれぞれ異なる梵字が
彫られています。
以下、「基礎」を詳しく見てみましょう。
下は、左から、正面、左側面、右側面と背面。
正面に彫られた文字は、「宝篋印陀羅尼經曰 𠰥有有情能於此塔 一香一華礼并八十 億劫生死重罪一時 消滅」次に
左側面「或一禮拜或一右繞塞 地獄門開菩提路」そして右側面「一切如來神力所護其處 不爲暴風雷電霹靂所害」の順。
ただし、上記は途中の文言が一部省略されているほか、後半もう少し文言が続きます。以下、全文参照。赤字は省略部分。
若有有情能於此塔、一香一華禮拜供養、八十億劫生死重罪一時消滅、生免災殃、死生佛家。若有應墮阿鼻地獄、若於此塔或一禮拜、或一右繞、塞地獄門、開菩提路。塔及形象所在之處、一切如來神力所護、其處不為暴風、雷電、霹靂所害、不為毒蛇、蚖蝮、毒虫、毒獸所傷、不為獅子、狂象、虎狼、野干、蜂蠆之所傷害、亦無藥叉、羅剎、部多那、毗舍遮、魑魅、魍魎、癲癇之怖、亦復不為一切寒熱諸病、疬瘘、癰疽、瘡疣、疥癩所染。
裏面は、「享保五庚子天十一月日」、享保5年(1720)11月の造立。「願主空観法師」「當寺中興開山法印秀鎫」の銘。
本体: 高257cm、幅87cm、厚86cm。台石上: 高27cm、幅122cm、厚122cm。台石下: 高35cm、幅122cm、厚153cm。
宝篋印塔の右隣りにあるほかの石仏を見てみましょう。
4基見えますが、写真手前、本堂よりにも何基かありますね。
気のせいか、何か本堂に近づくに従って、
風化が激しいものになっていくような・・・。
果たして、銘文など読み込めるでしょうか。
これは当初、全面にウメノキゴケがびっしり付着していて、
半跏思惟型の如意輪観音の刻像塔、というしかありませんでした。
しかし、なんとかコケを剥ぎ取り、塔の前に座り込んで眺めた収穫が以下。
光背右上「奉造立十六夜念佛供養爲二世安楽也」
十九夜塔が妥当なところ、利根町特有のなんでも如意輪観音の十六夜塔でした。
左上「元文五庚申 十月十六日」。元文5年(1740)10月16日の造立。
庚申塔ならぴったりの庚申の年。吉日ではなく、16日と十六夜塔に合わせています。
ほかに「奥山村 同行二十五人」銘も。
本体: 高72cm、幅29cm、厚22cm。
上部に、月山・湯殿山・羽黒山があり、
出羽三山の巡拝塔かと思いましたが、
中央に、「大日如来供養塔」、さらに、
大日如来を意味する種子アーンクも
最上部に彫られています。
大日如来塔と呼ぶのが妥当でしょう。
右下に「十三夜講中」、左に「十七人」。
十三夜塔は利根町では1基も見ないのに、
十三夜講中という講もあるのですね。
左側面「寛政十戊午九月吉日」。
寛政10年(1798)9月の造立です。
本体: 高89cm、幅29cm、厚17cm。
これがいちばんの難物。
もちろん、如意輪観音の刻像塔であることは明白なのですが、
銘文の読み込みがたいへんです。
右上から「奉供養本尊観世當來安祀所」と読みましたが、
観世以下は自信がありません。
十九夜等々の月待の文字は見当らないので、
如意輪観音塔というしかありません。
光背左上も読みづらいですが、「延宝五年 十月下旬」とあるようです。
延宝5年(1677)10月の造立です。
ほかに「同行十七人」が見えます。
本体: 高79cm、幅34cm、厚26cm。
廻国塔がここにもありました。
中央[キリーク]の種子の下に「奉納大乘妙典日本廻國供羪塔」。
上部左右に「天下泰平 日月清明」の決まり文句。
その下には「安永三午天 十一月吉日」で、安永3年(1774)11月の造立です。
最下部に「櫻井氏」と「願主 須清」とあります。
本体: 高82cm、幅29cm、厚17cm。
さて、以上の4基の他に、
もっと本堂側、参道向きに2基ありますね。
地蔵塔は丸彫りのものが多く、その場合、銘文がない場合がほとんどですが、
この塔の場合、光背があるので、めずらしく文字が見えます。
右に「奉造立二世安全祈所 敬白」。逆修供養のための造立でしょうか。
左は、再調査時、解読に少し手こずりましたがなんとか粘って、以下。
「延宝二甲寅年 四月吉日」、つまり延宝2年(1674)4月の造立。
下に「結衆十四人 奥山村」も読み込めました。
本体: 高104cm、幅44cm、厚33cm。
これも当初は「如意輪観音塔」というしかありませんでしたが、
再調査の時に「十九夜」の銘文を見つけました。
しかし、造立年は不明です。
光背右上に「奉造立十九夜」と「九月十九日」が見えます。
これで十九夜塔であることは確実と思われます。
光背左上に「十五人」とあるのは同行者でしょうか。
その下に「奥山村」も見えました。
本体: 高64cm、幅34cm、厚17cm。
さて、これから奥は、本堂の左手になるわけですが、ここからは、墓所となっています。
その中にも、ポツリポツリと刻像塔など見えるのですが、戒名等が彫られた墓塔の可能性が強いようです。
これらは、また後で若干、見てみるとして、泉光寺境内右手の墓苑辺りを見てみましょう。
山門を潜る前、手水舎横を見ると、
右手に道が通っています。
前方に、大きなモミの樹が見えます。
この道を少し進むと泉光寺墓苑が左手に見えてきます。
まだ造成されたばかりで、お墓はあまり建っていないようです。
何もないとかえって入りづらい感じもあります。
あっ、そう言えば、以前は墓苑の広告看板付近にあって、
消えた庚申塔がここに遷されたのかどうか確認し忘れています。
こんど、よく見てみなきゃ。
墓苑の外、右端まで来ると、
前方に抜け道への入口が見えてきます。
立て札は「その火を捨てないで」。
樹木が生い茂るところなので、場合によっては
山火事のようになってしまうのでしょう。
火の元に十分注意したいところです。
さて、ここは、当然、なかに入って行くしかないですよね。
この先にはいったい何があるのでしょう?
単に、「抜け道」でしたね。途中、とくにポイントとなるものは何もなかったと思います。でも、ちょっと探検気分にひたれます。
通じている道は、初めて泉光寺を訪れた時に通った裏道です。その道も急坂等あり、初体験では面白いかも知れません。
ここには、まっすぐの抜け道だけが目にはいってきて、
左の方にこんなものがあるとは想像もしていませんでした。
当初、少しはその方角を覗いたりしたかも知れません。
しかし、雑草・樹々の先に、古井戸のある空間があったり、
ましてやさらにその先に、石祠が鎮座しているとは・・・。
これも、「探検家」である「根本さん情報」です。
ちなみに、最初に根本さんにご案内いただいたときは、
春先でわりと見通しがよかったのですが、
撮影と再調査で1人で再訪問した時は、なんと雑草が
50センチ以上も伸びていて、ヘビなどが怖かったです。
残念ながらこの石祠の正体は不明です。
正面石祠内部のいちばん下は「社」ですが、
いちばん上が「氏」かな?という程度。
強いて読めば「氏土神社」ですが、
産土神もしくは氏土神(うぶすながみ)とは、
自分の生まれた土地の神、という意味であり、
要するにこの土地の所有者の氏神、
ということでしょうか。
左は、石祠の左側面で「・・・建之」のみ判明。
右側面も風化激しく、やはり下に「立」の文字。
これだけでは、なんとも説明がつきません。
泉光寺とは無関係のものの可能性もあります。
本体: 高44cm、幅28cm、厚18cm。
泉光寺の境内および東の墓苑近辺等は、巨木の宝庫。でも、まだほとんど撮っていないのです。これも宿題。
▼ 以下、本文中の巨木データは、利根タブノキ会によります。
なんといっても、泉光寺の境内に入ればこれがまず眼に入ってきます。
樹高26.5m、幹周4m15cm。幹周では、利根町の公孫樹では、4位なのですが、
下曽根の厳島神社の大公孫樹が2012年3月の火事で焼失したので
第3位に繰り上がりました。1本立ちに限定すれば来見寺に次いで第2位です。
ギンナンがたくさん生るということですが、そういえば秋に来たことないですね。
だいいち、黄葉をまだ見ていません。なんとかことしの秋は、忘れずに!
実は、タヌポンが泉光寺に来ていちばん驚いたのはこの樹です。
利根タブノキ会発行の本では取り上げてはいないのですが、この樹に関しては、
異様な枝の様子や、根元に食い込んでいる石仏の2点で、とくに印象深い樹です。
スダジイは、他に大きな樹が数多くありますから、リストからもれているのでしょう。
泉光寺には、ほかに特筆すべき巨木がたくさんありますし・・・。
かれこれ40年以上も前(1970)のNHK大河ドラマで「樅の木は残った」がありました。
山本周五郎の「伊達騒動」を題材とした歴史小説ですが、題名のように、
他の樹は枯れても樅の木だけは生き残るという生命力の強い樹です。
クリスマスツリーの樹の印象がありますが、実際のツリーは別種のようです。
先ほどの泉光寺墓苑に行く道に2本あるということですが、
これはその1本で、樹高27.0m、幹周3m15cm。
地上1m50cmで2分岐して、かなりの年数が経っているイヌマキ。
樹高15.0m、幹周2m17cmですが、
利根町では幹周がいちばん大きいということです。
ほかに泉光寺境内には、左の2本のように
名前の知らない巨木がたくさんあります。
上は、境内の西、大師堂の裏手にある森。
ここにも数多くの巨木がありそうです。
もっと樹木の名前が分かれば、
どんどん撮って紹介したいのですが、
なんとも勉強不足で・・・。
利根タブノキ会の調査では、ほかに大椿、ムクロジ、ムクノキ、クスノキなど、
多くの巨木があるということなので、巨木撮影目的で、再訪問してみたいと思います。
本堂の左右両脇と裏手は、墓地となっています。すでにお墓は満杯ですので、墓苑が新規に造られたものと思います。
したがって、これら本堂周囲にある石仏は、ほぼすべてが墓塔・墓碑の類と思われますが、如意輪観音の刻像塔なども見えます。
年代の古いものが数多くあり、中には、墓碑・墓塔ではない供養塔等もあるかと探してみましたが・・・。
詳細には視てはいないのですが、いずれも戒名等が彫られた墓碑・墓塔のようです。
薬師観音と思われる刻像塔なども見えますが、お墓に付属して建てられているものが多いようです。
左の2基は、文字が読み取りやすかったもの。
最初の1基は、宝永6年(1706)2月25日と
かなり古いもので、期待しましたが、
やはり墓塔のようです。
もう1基は、地藏の刻像塔ですが、
「妙白禅定尼」とやはり戒名です。
ところで、泉光寺は真言宗ですが、
禅宗との関係は?
タヌポンお気に入りのスダジイの根元の石仏もやはり墓塔。本堂裏手も、まあ墓地というしかありません。
左は「享保14年(1729)8月18日とありますが、やはり墓塔。日付まであるのはだいたい墓塔ですね。
真ん中は延宝9年(1681)11月と古い造立の地蔵塔ですが、どうもお坊さんの墓塔のような感じです。
右も、元禄元年(1688)12月造立と古いですが、「・・・禅定門」で、墓塔確定。真言宗との関連が気になりますが・・・。
刻像塔が多くあり期待しましたが、やはり、戒名等が彫られた墓塔ばかりのようでした。
本堂裏の軒下で見つけました。
おそらく農業関連の器具なんでしょうが・・・。
タヌポンは、すぐこれは「和製ギロチン台」ではないか、
などと勝手に想像して気味悪がるのが趣味です(笑)。
藁でも切る道具なんでしょうか?
それにしても、お寺にある、ということが・・・。
巨木ほどではないなあ、と思いながら見ていると、実がなっています。樹の根元の案内には「モクレン科シキミ」。
3つほどドングリ拾いのように持ち帰って「食べられるのかなあ?」と調べてみたら、たいへん!
死に至るほどの有毒なもので「悪しき実」と言われているそうです。花や葉、実、さらに根から茎にいたる全てが毒、って!
仏事に用いることがあるので、寺院に植えられるとか。それにしても、ちょっと危険ですね。
タブノキ会10周年の催しが泉光寺〜鎌倉街道でさきほど(2012/10/13)行われました。
そこで、判明したことですが、上記の「シキミ」の案内札は間違いで(現在ありません)、この樹は「ムクロジ」でした。
また、木の実は、多量のサポニンを含み、水を泡立てる働きがあるので、洗濯などに広く利用されたとか。
案内札のせいとはいえ、失礼いたしました。訂正してお詫びいたします。
(17/12/30・16/05/14・13/07/24・13/06/29・12/10/13・12/08/28 追記) (12/07/26 追記再構成) (05/09/17追記) (05/04/13) (撮影 16/05/12・16/05/05・12/08/28・12/07/23・12/06/04・10/12/17・09/02/10・08/08/03・07/07/16・06/09/30・06/09/16・06/07/29・05/09/17・05/04/12・05/04/10・05/04/08・05/04/05・05/03/14・05/02/27・04/12/16・04/08/12)
本コンテンツの石造物データ → 泉光寺石造物一覧.xlxs (19KB)