目 次
布川地区中央部の取手東線のメイン道路、といっても広い通りではありませんが、
それから少し入ったところに不動尊が祀られています。
中宿の集会所のすぐ近くで、布川横町と呼ばれる場所です。
ここが、利根町の鎌倉街道や佐竹街道の一部だったということは、
鎌倉街道 のコンテンツを作り始めてだいぶ経ったときでした。
大震災後、目次含めて再構成をしていますが、ここは再訪問して撮影し直しする予定?
年3回の祭礼日に仏像など撮らせてもらえればいいのですが・・・。
→ 平成26年(2014)5月28日の訪問で実現しました。
もののついでで、石仏関連の調査もし直すと、新たな発見も。
ということで、翌日の再撮も含めて、全般的に改訂・更新しました。(14/05/28-29 撮影・追記)。
如法院不動堂は、下のマップの中央少し南にあります。
この辺りは布川横町と呼ばれ、
昔の 鎌倉街道 の一部だったと
言われています。
その一角にあるのが、如法院不動堂。
「布川不動尊」の看板が立っています。
由来等が書かれた案内板もあります。
以下、その内容を要約してみましょう。
※ 不動明王は、脇侍として、この矜羯羅、制咤迦(制多迦)の2童子を従えることが多いようです。
不動明王はさらに眷属として、経典によれば8童子、36童子さらには48童子を従える場合もあるとか。
では、もう少し中に・・・。
如法院不動堂が見えてきました。
右手にまた解説の立札が見えます。
こんどは利根町教育委員会からの
文化財両像についてのもう少し
精しい解説です(以下、クリック参照)。
これによると両像は
1、5、9月の28日の祭礼日に
開帳され見ることができるようです。
タヌポンは5月28日(2005)の祭礼の日に偶然、ここを通りかかり、撮影したのです。ちょうど土曜日だったのですね。
お堂の中は関係者の人で満員で、とても上がりこむ余地はないようでした。したがって当時は、外観しか撮れていません。
そのときはよく説明を読んでいなかったので、文化財の像が中で開帳されていることを知らなかったのですけどね。
知っていたら頼んでみたかも知れませんが、なんとなくよそ者には入り辛そうな雰囲気でした。
それから、9年後の2014年の同日、こんどは水曜の昼下がりということもあって、堂内は数人のご婦人たちだけ。
外の石仏の法量を巻尺を測ったりしていたら、声をかけられたりして、その機会に文化財の撮影をお願いしてみました。
OKをもらい、そのときはカメラを持参してなかったのであわてて、自宅にいた tanupon の奥さんに持ってきてもらい撮影。
三脚も頼むのを忘れて残念。でも、なんとか。堂内がすいていたのが幸いしました。
以下は、利根町HPでの説明
布川不動堂に祀られている寄木造り(材質:ヒノキ)の坐像で南北朝時代(14世紀)に作られたものと推定され、明治期に再彩色されています。毎月28日に堂が開かれ、1月、5月、9月のみ開帳されています。
堂内の中央に鎮座しています。
こちらのほうがメインのようです。
不動明王像は、右手に降魔の剣、左手には羂索(鳥獣の罠)を持ち、
背後に火焔光を背負い、忿怒の形相が特徴。
こうして見てみると、確かに左手にヒモのようなものを持っていますね。
近くに寄って初めて分かりました。
以下は、利根町HPでの説明
「木造不動明王坐像」と同じく布川不動堂に祀られています。「木造大日如来坐像」は寄木造り(材質:ヒノキ)で、制作年代は鎌倉時代(13世紀)と推定されています。顔型が丸く肉付きが豊かで、衣紋の彫りが細かく、裾部のひだが松葉型をしています。
大日如来像は、煩悩世界から悟りを開くことを象徴する智拳印を両手で結び、ふくよかで穏やかな顔をしています。
不動明王に向かって右隣りに鎮座しています。
ということは、左隣りにも何か置かれている・・・
それが、右の観音像です。
金箔の中の神々しい立像ですが、
説明がないので、詳細は今後の宿題です。
下左はふだんの状態。右は祭礼時。
左のように、道路にも
たくさんの幟が立てられます。
祭礼のときはここはもしかすると
駐車禁止になるのかも知れませんね。
これは2014年5月の祭礼時。
幟の色がとても鮮やかなので、
新調されたのかと思ったら、
昭和57年5月28日と記されています。
以前はもっと違ったような・・・?
それでは、お堂のほうへ近づいてみましょう。
天井のほうを見上げると鰐口があります。
少し手前にも途中まで鎖のようなものが
垂れ下がっていますが、これは何でしょうか?
鰐口から眼を下ろすと・・・正面と左方(右方にもあるのですが)に扁額が飾られているのが見えます。
お堂の真正面上部には「不動尊」の扁額があります(上写真左)。
額の左に杉野東山の銘があります。その上に八十弐とあるのは82歳ということなのでしょうか。
左の小さな文字は漢文のようで、そのなかに嘉永3(1850)という文字が見えますが、
これがもしかすると揮毫された時期かも。果たして東山の年齢と符合するか、どうでしょうか。
→ 符合しました!
杉野東山は明和6年(1769)布川生まれ、嘉永4年(1851)没、享年83。
没年の3月、ある人がきて字を索(もと)めたとき、東山は、欣然として筆を揮いました。
そして、紙数が数十枚に及んだとき突然、倒れましたが、筆を離さずそのまま亡くなったということです。(利根町史第6巻より)
この「不動尊」を書いたのはその直前のことなのですね。
右の写真は堂の左上に掲げられているもの。これは「不動堂」でいいのでしょうか。
「不動尊」の額と同じような大きさに見えますが、実際は少し小さめの額です。
天保15年(1844)正月28日。中宿女人講中と記されています。これにも杉野東山の銘があります。
杉野東山については応順寺のページを
このほかお堂の右上にも額があるのですが、これは風化してあまり文字が読めません。
もしかして、東山の最期の書かとも思いましたが何か人名が列記されているような感じです。
このほか背後にも額があるのですが、これは昭和44年の堂修繕時の寄付者を記したものでした。
お堂の右上と背後の額の写真は割愛しました。
お堂の中を覗いてみましたが、
外からではあまりよく分かりませんね。
やはり祭礼時に見せてもらうしかありません。
2014年5月の祭礼時に撮影したもの。下左は「人天蓋」という仏具でしょうか。ここで、お経などあげることがあるのでしょうか。
右下は不動尊の紋でしょうか。平成21年(2009)の奉納とは、まだ最近のものです。
不動堂に向って右手のほうに
大きめの堂が建てられていました。
番号は見当たりませんが、
いままで見てきた中で唯一、
大師堂というネームプレート付き。
なんて思っていたのですが、
垂れ幕を手繰りあげてみると・・・
最初に77番札を見つけて、それだけと思っていました。
ところが、別の機会にもうひとつあることを発見。
大師堂の中には3体の大師像が安置された
3つの仕切りがありますが、
左に77番、中央に10番札が付いています。
ひとつの大師堂に2つ以上の番号札が付いているものを
何箇所かで発見していますが、理由がよく分かりません。
想定するとしたら、どこか近くのお寺などに
ひとつが置かれていて廃寺となって、
1ヵ所に合祀されたとかが考えられます。もし、最初から
2つの札所を1ヵ所に設置したのなら、どうも不合理な話。
この真相はまだひとつも解明できてなく、宿題です。
堂のなかの3体の像を以下、ご紹介しましょう。
また、ふだんは格子扉が3つ付いているのですが、
祭礼時は左のようになります。
お供えなどもされて、きれいに掃除されていますね。
左大師本体: 高45cm、幅35cm、厚23cm。
中大師本体: 高36cm、幅24cm、厚17cm。
右大師本体: 高40cm、幅46cm、厚30cm。
駐車場を除けば、不動堂の境内はほんのわずかなのですが、若干の石塔・石祠等も建てられています。
まずは、「六阿弥陀第六番」の石塔。お堂に向ってすぐ左脇に、後述の二十三夜塔と並んで建てられています。
これは「総州六阿弥陀詣」で詳解しましたのでご参照ください。以下、正面と左側面の写真です。
左側面には、「天下泰平 國土安穏」
「文政十年歳在丁亥夏四月建焉」
つまり、文政10年(1827)4月の建立。
「百萬遍講中」の文字や、左下には
「杉𡌛東山謹書」
「建焉」が読みづらかったので以下に拡大。
(クリックしてご覧ください)
本体:
高168cm、
幅36cm、
厚24cm。
さて、この石塔は本来、不動堂にではなく、その隣りに建てられていた「勢至堂」に所属するというのが正しいのです。
その証拠、というほどでもないのですが、お堂の前面手前上部右に、先ほど紹介した他に小さな額が見つかりました。
これは大正15年3月22日に、東京浅草の睦会という有志講中が
六阿弥陀詣をし、この地に寄ったときに作ったものと思われます。
そこには、「布川横町 不動至勢堂」と記されています。
なるほど、大正15年(1926)にはまだ勢至堂はあったのだな、
なんて思ったのですが、あれっ???
そうですね。勢至堂と至勢堂。これはまちがったのでしょうか。
それともこういう言葉遊びなのでしょうか。
また、ここには歌が詠まれています。
ぶったいを まもり志まひし 北相馬 ろくちんなむや あみだぶつこく
これはすなわち、以下に書き換えられます。
仏体を 守りしまいし 北相馬 六塵南無や 阿弥陀仏国
これは「総州六阿弥陀詣」で紹介した、以下の歌と少しちがいます。
でも、明らかにこれをもじったものですね。
仏体を 巡りしまいし 亀戸や 六塵南無や 阿弥陀仏国
なお、上記の御詠歌は、六阿弥陀第六番の石塔の右側面に彫られています。
(←左写真:風化もあるのでこの歌を始めから知らないと読み込むのは難しいです)
六境ともいいます。色・声・香・味・触・法の六境で、心を汚し煩悩を起こさせる境地のこと。
三省堂 大辞林では、六境は、以下のように説明しています。
【六境】〔仏〕 認識判断を行う眼・耳・鼻・舌・身・意のそれぞれの対象となる六つの領域。すなわち、色境・声境・香境・味境・触境・法境の六つ。心の清浄を汚すことから六塵(ろくじん)ともいう。六つの塵(ちり)。六賊。
仏教関係も難しい言葉がたくさん、際限がないですね。南無とはサンスクリット語(梵語)で、仏に帰依するという意味。
「南無〜」は「〜に命をささげます」とかそんな意味になります。「〜様」と意訳すると分かりやすいかもしれません。
六塵南無や、ときると分かりにくいですが、南無やは次の阿弥陀仏国とセットになります。
六塵などいろいろ迷いや煩悩にとらわれていますが、阿弥陀仏国様、お救いください、そんな意味の歌になるのでしょうか。
六阿弥陀石塔の左隣にあるのが二十三夜塔。上部が読みづらいのですが、「奉講二十三夜塔」でしょうか。
右側面は「願主 小宮山伊兵衛敬建之」(願主は施主かも)。左側面は「天保八丁酉星三月吉日」(以下写真参照)。
天保8年(1837)3月建立。
本体: 高63cm、幅25cm、厚19cm。台石上: 高12cm、幅44cm、厚35cm。台石下: 高2cm、幅51cm、厚50cm。
大師堂の左隣の小さなスペースに、
数多くの石仏類が集められています。
そのうち11基ほどは、なんとか
少し説明ができそうです。
単なる石材のようなものや、
ほとんどが欠損しているものは、
残念ですがここでは割愛しました。
正面からほとんど撮影できないので、
銘文など読み取れないものもあります。
ちょっと tanupon には狭すぎますね。
法量(サイズ)計測もやりにくいです。
また、前回調査では見落したのか、
「不明の塔」が見つかりましたが、
これは欠損が多く、割愛しました。
隣りの大師堂にあわせたものか、正面には、
「南無大師遍照金剛」と記されていますが、
右側面には、戒名が3名分記されています。
「為」
「瑞運道輝信士」
「清岩庭香信士」
「端相妙好禅定尼」
とあるので当初墓塔と紹介しました。
でも、塔の左側面が気になります。
また、建立年もこのままでは不明です。
そこで、左側面を覗き込んでみました。
すると、なにか文字が見えます。
本体: 高61cm、幅37cm、厚23cm。
台石: 高13cm、幅43cm、厚34cm。
以下のことが読み取れました。
「造立主 龍ヶ崎□石亀平助」
「文政九丙戌年四月吉日」。
文政9年(1826)4月の造立。
しかし、「吉日」です。
命日なら日付も記されているハズです。
ということは、これは墓塔というより、
大師関連の供養塔と思われます。
石仏群のうち、真正面からなんとか撮れたのは上記とこの1基だけ。
中央に「奉納大乘妙典六十六部日本廻國供養」、
左右に「天下泰平」「日月清明」が彫られています。
法華経の経典を日本66ヵ国の霊場に1部ずつ納めるもので、
廻国納経を無事達成した記念に建てられます。
建立年は不明ですが、台石に世話人8名の名が記されています。
ただ、下部が地中に少し埋まっているのですべては読み取れません。
少し、ショベルで掘って確認してみました。
「當村世話人」
「内藤源之亟」
「峰田孫六」
「大嶋徳右衛門」
「草川仁右衛門」
「山崎勘十郎」
「野田七兵衛」
「角松善兵衛」
「山本仙助」
本体: 高96cm、幅38cm、厚38cm。台石上: 高33cm、幅58cm、厚58cm。台石下: 高27cm、幅77cm、厚72cm。
当初の調査では、左右の側面を調べるのを失念していました。なにもないだろうと期待はしていなかったのですが・・・。
[左側面]
中央に「文政四年辛巳十一月吉日」とあります。
つまり、文政4年(1821)11月の建立ですが、左右にまだ文字が・・・。
拡大して見てみると、右手に、
「総州印旛郡米村 世話人 了海」
「越州刈羽郡 同 八蔵」
左には、以下。
「紀州若山 立會人駒五郎」
「日州那賀郡 同 常助」。
「若」は異体字になっていますが、
若山=和歌山でしょう。
また、日州とは日向の国で、現在の宮崎県です。
那賀郡はどこか不明ですが、紀州と聞けば、熊野権現の修験者を思い起こします。
ここは各地区から多彩な顔ぶれが集まったようです。
[右側面]
右にはなにもないと思っていたら、
よく見ると、「願主」の名前が3名、記されていました。
「願主」
「浄性」
「貞心」
「見き」
中央に、僧侶の名前のような文字が彫られています。
「圓寂正念沙彌」
その左右には「文化十一甲戌年」と「十一月朔日」。
文化11年(1814)11月1日の刻銘。
日付が吉日ではないので、やはり忌日を刻んだ墓塔のようです。
本体: 高50cm、幅27cm、厚16cm。台石: 高7cm、幅40cm、厚26cm。
表面に「十九夜講供養塔」、
右側面は、「安永八亥天二月吉祥日」
安永8年(1779)2月の建立。
「布川中宿」「女人十四人」も見えます。
十九夜塔は一般に半跏思惟型の
如意輪観音の刻像塔が多いのですが、
笠のある文字塔は珍しいですね。
本体: 高77cm、幅27cm、厚19cm。
台石: 高13cm、幅42cm、厚33cm。
この写真は五輪塔を初めて間近に見て撮ったときのもの。
そのあとで、とくに徳満寺の 歴代住職墓所 で多くの五輪塔を見ました。
仏教の五大思想による宇宙観、「地・水・火・風・空」の5つの元素を表現したもの。
上から「空輪」「風輪」で、写真では1つが欠落しているか、合体して見えるのか?
次に笠のような部分が「火輪」、胴体の丸い部分が「水輪」、
台座の基礎が「地輪」ということになります。
それぞれに「種子」が彫られているようですが、ほとんど見えません。
本体: 高126cm、幅60cm、厚60cm。
2.廻国塔とほぼ同様の趣旨の塔です。上部が少し欠損しています。左から正面、右側面、左側面。
「奉納大乘妙典日本回國供養塔」で、回国=廻国です。表面は「天下泰平 国土安全」の他に、「當町」「行者 鶴圓」。
ここで注目したいのは、「當町」です。布川が正式に町となったのは 1889年(明治22)4月1日。
この塔はそれ以前に建てられたものと思われますが、そうだとすると、布川が昔から「町」と呼ばれていた証となります。
造立年が知りたいところです。左側面に何か造立年の痕跡のような文字が見えそうですが・・・。
いまひとつはっきりとしません。でも、明治22年以降のものなら、文字の損傷は少なくもっと明白でしょう。
右側面には「周遍法界 平等利益」という、廻国塔特有の四字熟語も。
本体: 高74cm、幅29cm、厚17cm。
青面金剛が刻像された庚申塔。
頭には蛇がとぐろを巻いています。一面六臂で、前の二臂は合掌、
ほかは三叉戟、法輪、矢などを持っています。
両足の下には、邪鬼が踏みつけられているように見えます。
「明和七寅天二月吉日」は、明和7年(1770)2月の建立。
ほかに「講中」「七人」の文字も見えます。
金剛王の足元チェックしてきました。
狭い場所でしたが、雑草も取り、
少し土も取り除くと・・・。
「邪鬼」だけでなく、
小さな「三猿」も発見!
本体: 高74cm、幅40cm、厚20cm。
よく見かける半跏思惟型の如意輪観音の刻像塔。
「十六夜供養塔」の文字も彫られています。
石田年子氏によれば、本来、十五夜は阿弥陀・十六夜は聖観音が一般であり、
如意輪観音は十九夜塔が主のところ、利根町では、
月待なら何でも如意輪を刻む傾向がある、と言及されています。
ほかの地域を調べていないので実感としては分かりませんが、
確かに利根町では、如意輪観音を数多く見かけることは確かです。
如意輪観音が、女性たちを「血の池地獄」から救い出してくれる力を持つ、
という信仰が、利根川流域でとくに顕著にみられるということです。
「血の池地獄」の信仰等、もう少し調べてみようと思っています。
「元文四未二月吉日」は、元文4年(1739)2月の建立。
本体: 高55cm、幅32cm、厚16cm。
「奉待青面金剛王」と記された文字塔の庚申塔。
「宝暦十四甲申天三月吉日」は、すなわち宝暦14年(1764)3月の造立。
下部に「杉野□□」ほか数名の名前が記されていますが、
ここは狭すぎて、雑草取りは無論、どうにも調べて見ることはできません。
本体: 高69cm、幅30cm、厚19cm。
2年前2012年の調査では、これが何か分かりませんでした。
2度目のチャレンジで、ようやくカメラを近づけ、詳細は後から写真判読。
以前と異なり、上から覗き込むように見ると、日月 マークや 三猿 も見え、
間違いなく庚申塔であることが、目視段階で分かりました。
「元禄二己巳天 十月廿七日」で、元禄2年(1689)10月27日の造立と判明。
中央には「奉造立庚申待供養二世安楽也」。
左右に「布川 結衆」も見えます。
塔の下部、三猿の上に、関係者の名前が数名記されていますが判読できません。
本体: 高70cm、幅35cm、厚20cm。
上部が紡錘形のいわゆる無縫塔と呼ばれる塔が奥に1基見えました。
何も刻まれていない様子で、「力石」かなとも思いました。
本体: 高33cm、幅33cm、厚26cm。
手水です。これは珍しく水道がひいてあります。
でも、文字等は見つからず、建立日など不明です。
また、当然ながら、排水口はないので、
雨による自然排水となります。
石仏の文字読み取りで使った手ぬぐいを洗おうとしましたが、
排水できないので困りました(笑)。
大師堂に向かって、右手前にあります。
本体: 高33cm、幅68cm、厚36cm。台石: 高11cm、厚34cm。
左右に1対ある灯籠。笠石部分に「嘉永三庚戌年二月吉日建之」とあります。嘉永3年(1850)2月の建立です。
この年は、さきほどの杉野東山の扁額揮毫の年でもありますね。
ペリーが来航する3年前、何かとあわただしい幕末の頃ですが、
何か特別なおめでたいことでもあったのでしょうか?
台石の部分には、燈籠の補修が平成元年(1989)3月に
行われたことが記されています。
「灯篭一対補修 如法院不動堂講員一同 発起人 若泉一夫 市川繁雄 榎本忠夫 五十嵐健作 佐原恒雄 平成元年三月吉日」
全高: 197cm、台石幅: 74cm。
不動堂のすぐ裏にあるのが中宿集会所。
ここにはとくになにも見つかりませんでした。
(15/03/26・14/05/30・13/06/26・12/8/14・12/08/11 追記再構成) (05/11/18) (撮影 15/03/26・14/05/29・14/05/28・12/08/13・11/02/23・05/11/17・05/08/20・05/05/28・05/03/19)
本コンテンツの石造物データ → 如法院不動堂石造物一覧.xlsx (15KB)