更新経過
石造物データ掲載のための再調査も終盤。
やっと福木地区に。ここはいつも後回しになってしまいます。なぜ?
まずは、とりあえず、北のほうから。
集会場脇の石仏を詳しく見ていてびっくり。
子安観音塔ばかり4基も。こういうこともあるのですね。(16/07/03)
北と南をいっしょにして「福木集会所周辺」というコンテンツにしていましたが、
画像修正と目次変更を機に、北と南で分離させて、2コンテンツとしました。
このコンテンツは北の集会所周辺ですが、目次では南集会所と相互にリンクしています。(11/02/22)
利根町中南部の中央に位置する福木地区は、探索もコンテンツ作りも遅くなってしまいました。
なぜか、最北端とか、いちばん東のほうとか隅々のほうに先に目が行ってしまうんですね。
食べ物でも、まわりのほうから食べておいしいところを最後に、というのと似ています(笑)。
でも、それだけの理由ではなく、ここ福木地区は見落としやすいところに見所があるのです。
蛟蝄神社 や惣新田地区によく行ったりしましたが、取手東線をたびたび通っていながら、
その道路に面して建っているこの福木北の集会所にはまったく気がつきませんでした。
また、そこにあると分かってからも、目印がないので、クルマやバイクで通るときは、
よく気をつけないと通り過ぎてしまいます。手前に電柱があって見づらいせいかも知れません。
バスで来るときは福木のバス停前ですから、すぐ分かりますが・・・。
南の集会所のほうは、北の集会所のすぐ南の道を南下して突き当たりを左折して・・・。
と、説明がめんどうなところにありますので、さらに行く頻度が少なくなります。
また、当初、訪れたときは南集会所近くの道路は舗装されていませんでした。(06/05/27)
左写真のような感じです。
見所はこの1角に集まっているのですが、
画面左手が布川方面で、そちらから来ると、
なぜか見落としやすいのです。
もしかすると画面左手の電柱が、
視界を邪魔しているせいかも知れません。
さらに、三峯神社が、これがまた分かりづらい!
この1角の主役でありながら、左手の樹木の背後に。
奥ゆかしく陰に隠れているのです。
こうしてみると、道祖神のほうが主役に見えますが、
ここでは、道祖神は、三峯神社の境内社になりそうです。
これは真冬の写真ですが、
樹木が繁茂する夏場になると、
三峯神社はさらに見えづらくなります。
両側の樹木が短い参道を
作っているような感じです。
その奥にあるのが三峯神社。
鳥居は両端が隠れていますが、
明神鳥居ですね。鉄製です。
平成4年(1992)年10月に
再建・奉納されています(↓)。
やっと「三峯神社」が見えた、という神額。
木陰で薄暗いので、道路からはよく見えません。
木製のようなので、これもあと数年経つとそうとう・・・。
でも、字はかすれていません。しっかりと記されています。
→ というか、再調査で訪問したら、神額が外されていて不明に。
2011年3月11日の大震災で、そうなったのかも知れません。
直前の2月では確かに神額は付いていました。
神額がないと、知らない人は、拝殿内の石祠のお札を見ないと、
これが三峯神社だとは分かりませんね。
これは、拝殿というより、拝殿・本殿を兼ねた祠ですね。
なかに、三峯神社のシンボルである石祠が安置されています。
なお、この福木の三峯神社の由緒は、不詳です。
左から正面、右側面、左側面。右側面は「福木邑講中」。邑は下が巴ではなく也になっています。こんな字は存在する?
左側面も「文政十三寅亗七月吉旦」、文政13年(1830)7月造立ですが、亗=歳の異体字、吉旦は吉日と同義。
凝った字が好きな石工が彫った本殿石祠です。本体: 高71cm、幅37cm、厚28cm。
三峯神社の祭神は、創世神2柱の伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)と日本武尊。
これは、前に紹介した 羽中の三峯神社 とまったく同じです。以下、要旨を再掲します。
三峯神社は、埼玉県秩父にある三峯神社の社伝によると、第12代景行天皇の御代、
日本武尊の東征のときに創世2神の神徳による東国平定を祈念して秩父に設営されたことに始まるということです。
その後、景行天皇が上総国巡幸に際し、神社を囲む白岩(しらいわ)、妙法(みょうほう)、雲採(くもとり)の三山を賞して
三峯の称号を贈ったと伝えられています。
道祖神の鳥居足元にあるのは旧手水。正面に「奉獻」。奉は左のような異体字。獻も凝った字。
下右は左側面。読みにくいですが、「明治十五年九月□□□ 福木村中」。明治15年(1882)9月の造立
本体: 高23cm、幅83cm、厚27cm。
後で紹介する大師堂の前にあります。正面は「奉納」、左側面は「平成十二年四月十二日 寄贈 小倉千吉」
平成12年(2000)12月、小倉千吉氏による造立。この方は鳥居も再建されています。
しかし、御影石に彫った文字は、ペイントの朱色が取れてしまうと、とたんに読みづらくなってしまいます。
本体: 高50cm、幅92cm、厚55cm。
全体的に、杜のようになっている三峯神社ですが、
とくに「これが神木」と呼べるような際立った樹はないようです。
後述する大師の祠の背後には、
大樹の片鱗を見せている樹木も何本かありますが・・・。
三峯神社の境内社的な存在。
この道祖神のほうが主体なのかも・・・。
松の木があるために、
鳥居の全容が撮れません。
ここは、狭い敷地に、
いろいろなものが置かれています。
左は、道祖神の鳥居の背後から前の取手東線の道路を見たカット。右は神額。
この鳥居も明神鳥居で、三峯神社の鳥居と同様、鉄製。平成4年(1992)年10月同時期に建てられています。
鳥居の背後に4基、石祠等が立っています。
右端の石塔は庚申塔のようですが、
左3基は、歴代の道祖神の本殿石祠と思われます。
以下、左の石祠から順に見ていきます。
なお右から2番目の石祠台座に「宿坪講中」とあるのは、
この地区の名が、福木宿坪だからです。
これが3基のなかでいちばん古いものと
思われますが、造立年等いっさい不明です。
本体: 高43cm、幅27cm、厚24cm。
表面内部に「道祖神」とあります。
左側面に「明和九辰十二月吉日」。
明和9年(1772)12月の造立なのですが、
実は、この年は11月16年に改元となり、
安永元年となっています。12月の造立なら
安永となるべきところなのですが・・・。
余談ですが、明和9年は、迷惑な年。
昔もこんなだじゃれを言ってたのかなあと。
本体: 高57cm、幅31cm、厚28cm。
江戸の三大火事のひとつ「明和の大火」があった年なんですね。死者18,700人も出たとか。
この明和9年という年は、ほかにも疫病や風水害が多発したとんでもない年だったようで、
大火で家をなくした人たちにも追い討ちをかけたとか。
やはり、明和9(めいわく)という年号が悪いということで、なんと幕府が改元、「安永」に改められたのです。
つまり、明和9年は安永元年でもあるのですね。ところで、せっかく変えた「安永」ですが、ワープロでは「暗影」とでました。
いちばん新しい本殿石祠。正面、笠と石祠本体内部の2ヵ所に「道祖神」が彫られています。
石祠左側面は「文政十一子四月吉日」、
文政11年(1828)4月の造立です。
台石には、正面に「宿坪講中」。
台石の右側面は、以下。
vリ村
世話人 𠰥者中
願 主 白戸庄助
本体: 高60cm、幅49cm、厚46cm。台石: 高22cm、幅36cm、厚33cm。
右端の石塔は、青面金剛を刻像した庚申塔。
上部に、日月雲の線刻、青面金剛は1面6臂で、
中央で合掌、刀剣・法輪・弓矢を持ち、
邪鬼を踏んでいます。
邪鬼が描かれている左右に、
「享保二丁酉十月吉日」
「同行十九人」とあり、
享保2年(1717)10月の造立。
本体: 高101cm、幅31cm、厚18cm。
道祖神鳥居の右背後にあるのが集会所。植木の陰になっていますので道路からは見えにくい場所。
右隣に消防団の倉庫(写真右)があるのがここの目印です。この地区は旧名「宿坪」と呼ばれています。
新しい手水の背後に大師堂が建てられています。
札所番号は、72番。(以下)
この大師はともかく次に紹介する7基の石塔は、
そもそも集会所に属するのでしょうか。
それとも、どこかのお寺が廃寺となって、
それらの石仏がここに遷されたのでしょうか。
大師像本体: 高28cm、幅24cm、厚18cm。
大師堂と集会所の間には、
7基の石塔が並べられています。
赤子を抱いた観音像が多く、
女人講中の刻銘も目につきます。
風化の割には
江戸後期以降の造立のものが
多いようにも思われます。
以下、左から順に見ていきます。
タイトルの8基のもう1基は、
左端の塔の背後に隠れています。
これは最後に紹介します。
赤子を抱いた観音像が彫られていますので、子安観音塔と言えます。
残念なのは、左側面上部の欠損。
「□□十二年三月建之」
肝心の造立年が不明です。
ただ、風化の度合いとは異にして、
意外と明治の表記のように思われます。
その理由は干支がないことと「建之」です。
江戸期にはあまりない表記です。
台石の「女人講中」は明快です。
本体: 高45cm、幅24cm、厚16cm。
台石: 高13cm、幅35cm、厚21cm。
一見、庚申塔かと思いましたが、
像容は不動明王のようです。
右手の刀剣、左手に羂索、
そして背後に火炎とくれば、
不動明王ですね。
邪鬼も踏んでいないし、三猿もありません。
庚申塔ではないでしょう。
左側面に「安政四巳年十一月吉日」。
安政4年(1857)11月の造立です。
本体: 高67cm、幅27cm、厚17cm。
光背右上に「十五夜供養」とあり、
十五夜塔と言えます。
しかし、像容は如意輪観音のようで、
本来の十五夜の本尊ではありません。
利根町に多い例ですが、一見すると、
赤子を抱いているようにも見えます。
子安観音ではないと思いますが・・・。
光背左上には「文化十二亥十二月吉日」、
文化12年(1815)12月の造立。
右側面には「㔺話人 伊右エ門」とあります。
本体: 高70cm、幅29cm、厚19cm。
これも赤子を抱いた子安観音塔。
左側面「明治十九年十一月建之」で、
明治19年(1886)11月の造立。
子安観音塔は基本的に江戸後期から、
明治にかけての造立が多いですね。
如意輪観音から子安観音へ、という変化を
示す傾向と言えるでしょう。
台石「女人講中」がここにも。
本体: 高65cm、幅28cm、厚20cm。
台石: 高18cm、幅39cm、厚27cm。
またもや子安観音塔。中央右側面に「坪内安全 女人講中」、台石にも「女人講中」があり、重複しています。
左側面「天保十一子年三月吉日」で天保11年(1840)3月の造立。やはり、幕末・江戸後期です。
本体: 高66cm、幅31cm、厚20cm。台石: 高18cm、幅39cm、厚27cm。
もうここでは4基目の子安観音塔。
左側面「明治四十一年十月建」で、
明治41年(1908)10月の造立。
そして、中央欠損剥落していますが、
台石もおそらく「女人講中」。
この地区は、幕末から明治にかけて、
女人講中の信仰篤く子安観音への思いが
強かったと言えます。
本体: 高64cm、幅25cm、厚18cm。
台石: 高20cm、幅39cm、厚27cm。
いままでとはちょっと変わった縦長・箱型の塔。
上部に半跏思惟の如意輪観音が小さ目に刻像されています。
中央に「奉供羪十六夜講」とあり、
やはり利根町特有の如意輪観音を刻像しながらも、
べつの本尊がある十六夜塔となっています。
この地区は十九夜塔が見られないですね。
江戸初期から中期のものが少なく、
後期以降、一気に子安観音になって造立が盛んになったというところです。
とはいうものの、この塔は、中央左右に「明和四亥天」「閏九月吉日」。
明和4年(1767)閏月の9月造立です。
本体: 高126cm、幅40cm、厚22cm。台石: 高21cm、幅55cm、厚37cm。
この塔は、最初の 子安観音塔1 の背後に隠れた1基。
当初は、単なる石塊と思っていましたが、銘文が彫られています。
「聴通社根譽□□」と要領を得ませんが、
もしかすると僧侶の墓塔のような気がします。
そうすると、この近辺に寺院があったのではないかとも思いますが、
これについては、ほかの塔の本来存在していた場所も含めて、
今後の調査課題としたいと思います。
本体: 高(下部土中か)28cm、幅24cm、厚17cm。
それでは、福木集会所(北)を後にし、
この斜め前にある道を南に進み、
福木集会所(南)周辺 に
行ってみましょう。
(16/07/03・11/02/22 追記再構成) (06/05/27) (撮影 16/06/29・16/06/20・15/08/13・11/02/16・06/05/05・05/08/13・05/08/09)
本コンテンツの石造物データ → 福木集会所北周辺石造物一覧.xlxs (14KB)