徳満寺2では、主に、徳満寺境内および山門付近の石碑・石塔・石仏等に絞って
掲載・紹介します。
徳満寺の概要(宗旨・由来等)や、境内の主要な建造物(本堂・客殿など)、
また、国指定重要文化財の 金銅板両界曼荼羅 や利根町指定文化財等々については、
徳満寺1で紹介しています。
当初は、徳満寺と題する1ページのコンテンツでしたが、
再編成するにあたって内容が大幅に増大したため分離させました。
また、徳満寺境内および裏手は、巨木や珍しい樹木の宝庫で、
これも徳満寺2において紹介していきたいと思っていますが、
これについてはまだ準備中です。
本コンテンツで特筆したいのは、日本最古の十九夜塔 と 小林一茶の句碑 です。
なお、境内の隅々をもっと探すと、石仏が他にも見つかります。
これについても順次、追記していく予定です。
★ 2015年3月、再調査をし、誤謬訂正・追記等々、徳満寺1とともに更新しました。
徳満寺所在地:利根町布川3004 TEL:0297−68−7630
Topics: もうすぐ完成!弘法大師修行像
2015年3月24日、更新のための再調査時に発見。
遅くなりましたが、以下に。
→ 弘法大師修行像完成
以下は、境内の案内図をアレンジしたもの。徳満寺1と徳満寺2で紹介するものを分類してあります。
徳満寺1 徳満寺2 各ポイント名をクリックすると当該記事にリンクします。
山門を入るとすぐ左手に
大きな石碑や石塔が並んでいます。
見上げるほどの石塔もありますが、
徳満寺には巨木が各所にあるため、
つい見逃してしまうこともあります。
細かく、しっかり見て行くと
数多くの見所が見つかる徳満寺です。
石碑の裏に、昭和59年(1984)11月建立。
ところで、そもそもなぜ「水かけ」地蔵?
この答えはちょっと曖昧ですが、
「清めの水」とも言われますので、
水かけは、水の霊力に願掛けして
願いごとの力をより強くする意味がある、
とされています。
ところが、「お湯かけ地蔵」
というのもあるらしいです。
まあ、お湯も、元は水ですからね。
地蔵本体: 高162cm、幅42cm、厚33cm。
解説石碑: 高95cm、幅54cm、厚9cm。
大平神社で説明しました宝篋印塔(ほうきょういんとう)。
それがここ徳満寺にもあったのですね。
さきほどの水かけ地蔵尊の背後に建てられています。
徳満寺には、大平神社よりずっと早くから何度も
訪れていたのに少しも目にとまっていませんでした。
見上げてみると、大平神社のものより
2周り以上も大きい立派な塔です。
隅飾(すみかざり)と呼ばれる四方に伸びた突起の下が塔身で、
種子の下に「宝篋印塔」と記され、
その下の基礎には多くの人名が彫られています。
説明立て札には、大師巡礼の人たちによって
大正3年(1914)に建立されたとあります。
下は、左から宝篋印塔の左側面、右側面、裏面の写真。左右側面には、それぞれ3行の以下の漢文が彫られています。
左側面には、「億劫生死重罪 一時消滅生免 災殃死生佛家」、右には、「若有有情能於 此塔一香一華 禮拜供養八十」
右から逆に読んで、「若有有情 能於此塔 一香一華 禮拜供養 八十億劫 生死重罪 一時消滅 生免災殃 死生佛家」。
これは、宝篋印陀羅尼経の一節になります。意味的には、この塔に一香一華を供えて供養すれば罪を逃れ・・・の意。
なお、宝篋印塔裏面には、面白いことに、先に紹介した四郡大師 「布川組」の発祥 の関係者の名前が続々と出てきます。
布川組八十八箇所弘法大師創立
文政元年寅三月
発 願 主 東 金 山 村 大見川安右衛門
願 主 十 里 村 山本豊栄
補 助 田 川 村 糸賀典誉佛門
開眼導師 當山第十九世 法印 恵燈
上記が前書きで、以下が、実際の宝篋印塔建立に関する記述と思われます。大正3年(1914)6月21日です。
大正三年六月二十一日
當山第廿五世 法印 俊渓代 寶塔建設
上記左にさらに追記があり、日付もあります。どうも、修繕されたようですが、文字の判読ができない箇所もあります。
宝篋印塔が大きすぎて、塔身の下部が陰になり拡大で写真が撮れないのです。脚立でも持ってきて撮らないと・・・。
修繕の日付は、昭和21年(1946)1月21日で、27世正渓和尚の代ですが、不明箇所は揮毫者か石工の名前?
昭和二十一年正月二十一日 二等開教少僧正(以下不明)
當山第廿七世 正渓代 修繕(以下不明)
このほか、中段などの台石の周囲にも、細かい字で人名など数多く刻まれています。
これを読み取るのは気が遠くなる(笑)ので割愛させてもらいます。
また、宝篋印塔の法量ですが、高さを測定するすべがありません。一番下の台石の寸法と、
写真で撮ったものを見比べて概算で以下、出してみましたが、誤差はかなりあるかも。
本体: 高298cm、幅101cm、厚101cm。台石上: 高44cm、幅97cm、厚97cm。台石中: 高42cm、幅138cm、厚138cm。
台石下: 高149cm、幅272cm、厚269cm。高さを足すと5メートルを超えます。巨大です。
山門付近のいちばん左は、弘法大師関連碑。
遠忌(おんき)とは、仏教で、
宗祖や中興の祖などの五十年忌ののち、
50年ごとに遺徳を追慕して行う法会のこと。
裏面に昭和59年(1984)11月の建立銘と
「当山27世法印正渓代副住職生芝俊正」。
弘法大師空海は、平安時代(774〜835)。
没年の835に1150を足すと、1985年。
1年は数えの関係の誤差ですから、
ぴったりの建立年です。次は2035年ですか。
本体: 高244cm、幅92cm、厚15cm。
さて、この石碑裏面の上部にある銘文。
「人天蓋塀石段改造記念」ですが・・・。
塀以下は分かるのですが、「人天蓋」とは?
いやあ、仏具の名前を知るのもひと苦労ですなあ。
「天蓋」とは、荘厳具のひとつで頭上から吊るす仏具。
「仏天蓋」は、本尊、如来の上に吊るす荘厳具。
そして、「人天蓋(にんてんがい)」とは、
僧侶が座る登高座の上に吊るす荘厳具、ということです。
いずれも、豪華絢爛、きらびやかなものですね。
さて、この石碑と同様の趣旨の50年前のものが、山門を挟んで反対側、鐘楼堂のさらに北東に建てられています。
こちらの場合は、石碑というより、石柱のような背丈のある形状をしています。以下で紹介します。
「新高野山奥の院」の文字が付き、
名称も若干違いますが、趣旨は同じ。
入定(にゅうじょう)とは入滅と同様、
高僧・聖者が亡くなること。
裏面の建立日「昭和9年(1934)3月21日」
も、やはり1100年目でぴったりです。
下部には「當山廿五世法印俊渓」
檀徒総代4名の刻銘があります。
それにしてもタヌポンは社会科の暗記物が苦手でしたので、以下がなかなかおぼえられませんでした。
高野山金剛峯寺 | 弘法大師 | 空海 | 真言宗 |
比叡山延暦寺 | 伝教大師 | 最澄 | 天台宗 |
この組み合わせがいつもごっちゃになって・・・。
いまは上段だけは徳満寺や四郡大師のおかげで。皆さんはどうですか?
ところで、弘法大師「空海」にはなにか得体の知れない魅力を感じます。いつか研究してみたい人物ではあります。
本体: 高345cm、幅67cm、厚32cm。(これも高さは概算です)
「弘法大師入定一千百年御遠忌供養塔」の左隣が以下の写真の2基の塔。右が十九夜塔、左が時念仏塔です。
十九夜塔解説→ 日暦19日の夜、寺や当番の家に集まり、如意輪観音の前で般若心経や和讃※を唱える行事がありました。
これを十九夜講と呼び、とくに茨城や栃木などで盛んに行われていました。
徳満寺のこの十九夜塔は、万治元年(1658)のもので、現在、発見されている中では日本最古。
注)※和讃(わさん)とは、仏経の経典、教義などを日本語で記し讃えた讃歌。
「十九夜念佛一結之施主等三十余人」で、十九夜念仏供養塔と分かります。
左方に、「万治元年戊戌年十月十九日」即ち万治元年(1658)10月19日の造立。
十九夜塔は、半跏思惟光背型の如意輪観音の刻像塔が数多く見られますが、
それらは、万治年代の次の寛文年間(1661〜1673)からで、
初期の十九夜塔は、このような線刻彫の如意輪観音像が発祥と考えられています。
十九夜塔は、わが利根町を中心とする、下総利根川べりに数多く見られ、
この現出最古の十九夜塔の存在は、布川地区が原点となっているとも考えられます。
現実に、布川神社馬場集会所裏、および 押付新田不動院 で、
この塔とよく似た万治2年の十九夜塔を発見しました。これらはNo.2です。
そして、この徳満寺の山門下の石段周辺でも、
寛文時代の古い十九夜塔を2基、発見しました。
利根町、とくに布川地区で、どうして十九夜塔が発祥・急増したか、
研究成果が待たれるところです。
本体: 高98cm、幅46cm、厚26cm。
上記「日本最古云々」ですが、これはどうも、「如意輪観音の刻像が明確にわかるものでは」の条件がつきそうです。
というのは、これよりも、25年ほど古い、寛永年間(1624〜1644)の十九夜塔が2基、つくば市で見つかっているからです。
tanupon が実際に行ってしらべたものではないので、写真等紹介することはできませんが、
以前、いろいろご指摘いただいたさわらびYさんの以下のサイトにくわしく掲載されています。
→ さわらびYの歴史・民俗・考古探索ノート・Z-4 筑波山ろくの十九夜念仏塔発祥の地を探る
これによると、
石田年子氏の『利根川中流域の女人信仰」(2006)』では、「十九夜念仏塔の初出は現在のところ、つくば市平沢の八幡神社に造立された寛永九年(1632)のもの」とされています。
とあります。これについては、坐像の像容がはっきり識別できず、ということで、
中上敬一氏は同じつくば市の通称「北条新田」の寛永10年(1633)のものを最古としています。
いずれにせよ、これらは、如意輪観音を主尊にする「十九夜塔」へと発展していく前のものと考えられます。
やはり「十九夜塔」は如意輪観音が・・・という見地では、利根町徳満寺のものを最古としたいのは地元のエゴでしょうか(笑)
参考文献
・石田年子「利根川中流域の女人信仰−野田市・十九夜塔を中心にして」 『研究報告』第10号 千葉県立関宿城博物館 2006
・中上敬一「茨城県の十九夜念仏塔」 『茨城の民俗』第44号 2005
(14/05/17 追記)
野田市の歴史・石仏研究家の石田年子氏よりコンタクトがあり、当サイトの各種の誤謬ほか以下を指摘していただきました。
利根町は中世から繁栄した地域なので石仏の調査で当たり前と思っておられると思いますが、寛永期(1624〜1644)に住民が一結して塔を造立するなどというのは筑波山麓周辺しかないことで、江戸に幕府が開かれて江戸川・利根川が改修されるまで千葉県の北部には例が極めて少ないのです。なので、近世の石仏の基準として 延宝期(1673〜1681)以前の石造物は貴重なもの。例えば、徳満寺の明暦の 二十三夜塔1 などは「ヒエ〜ッ」と喜ぶべきものです。(14/05/18 ヒエ〜ッと追記)
以下は、石田年子氏の論文「下総地方の十九夜塔と女人講」(『房総と石仏』第24号2014.10)の一節です。
房総地区の石仏の悉皆調査研究をもとに記された論文で、利根町の石仏への言及もあり送っていただきました。
(ここでは横書きになるため、年代は算用数字に変更しました。また、見出し以外の太字・リンクは、tanupon の強調です)
(中略)
二、東関東の初期十九夜塔と講の歴史
1.つくば市の初期十九夜塔について
東関東(茨城県・千葉県)の初期十九夜塔としては、つくば市平沢・八幡神社に祀られる寛永9年(1632)造立の塔が初出 で、自然石に大日如来と思しき像が薄く浮彫りされた供養塔である。造立日が寛永9年(1632)壬申三月十九日とあることから十九夜塔とされている。実際に「十九夜」銘が出てくる塔は、この地より2キロほど離れたつくば市北条新田路傍にあり、1983年刊行の「筑波町石造物資料集・上」によれば、銘文は「奉造立石塔者十九夜念仏□□」で先の八幡神社の塔の翌年である寛永10年(1633)8月に造立されている。
榎本氏の著書『女人哀歓』の冒頭章「女人成仏」に、茨城県かすみがうら市安食(旧新治郡出島村北の坊)に残された十九夜講和讃が掲載され、その文中に「慶長元年酉の三月十九日、十九夜念仏はじまりて」との気になる一文が載っている。その出典は徳家徳治篇の「和讃・詠歌集」とあり、実見には至っていないが、これを根拠とすると十九夜講は安土桃山時代に始まっていたことになる。
隣接するつくば市栗原には、慶長8年(1603)9月に造立された最古の日記念仏塔があり、「奉果日記待七ヶ年成就所」の銘文から、このグループが日記待を開始した年と十九夜待の開始時期が重なるのは偶然だろうか。
2.利根町の初期十九夜塔について
十九夜塔が利根川沿岸に姿を現すのは、つくば市の塔から5年後の寛永15年(1638)のことである。
茨城県・利根町大平地区・大平神社に高さ123cm・幅78cmの小屋ほどもある石祠型の塔 が造立され、奥中央に
「アーンク 奉造立文間五ケ村念仏之誦衆/本願/三海/敬白」
の銘文が刻まれている。造立日は寛永15年(1638)戊寅九月一九日とあり、「本願・三海」は海号を持つ湯殿山行人と思われる。
初出のつくば市平沢・八幡神社と大平神社の両塔には「十九夜」の銘がなく、十九夜塔と断定することを危ぶむ見方もあるが、供養塔に刻まれた造立日はその信仰や主尊を強く示唆していることは石仏研究の常識であり、十九夜塔と断定して間違いない と考える。
十九夜塔の歴史に於いて利根町周辺は先駆的な動きがあるのでここで少しふれてみる。寛永15年(1638)、大平神社の十九夜塔より20年後の万治元年(1658)、布川の徳満寺境内に如意輪観音像を線刻した板碑型の塔が立つ。この塔が 十九夜塔に如意輪観音像を刻むものとしては初出のもの で、翌万治2年(1659)にはこれに追従するように利根町に3基の如意輪観音を主尊とする十九夜塔が造立されている。布川神社の1基 は徳満寺と同様に板碑型に如意輪観音像が線彫りされた立派な塔だが、他の2基は押付新田・不動院と中田切・稲荷神社に造立された小振りな板碑型の文字塔で、銘文には 「如輪観音」「如意観音」とあやふやな主尊銘※ が刻まれており、如意輪観音名がまだ浸透されていない時期の急な造立であったことを窺わせる。
この時点まで十九夜塔造立の先駆を切っていた利根町の十九夜講は、寛文期半ばから十九夜信仰を受容し出した取手市や稲敷市と同様の歩みとなる。(以下省略)
[tanupon 補注]
※ 押付新田不動院の塔 は「如淪観音」と妙な文字が彫られている。
※ 中田切稲荷の塔 は真横に折れてつなぎ合わせたためか「如意□観音」の輪が欠落。
上記をまとめると以下のことが言えます。
表面には「時念佛供養一結」「施主」と
「元禄十四辛巳年十月廿三日」、右側面は、
「念佛始寛永元年甲子十月廿三日」。
時念仏は斎(とき)念仏とも書き、斎とは
仏事における食事を意味します。つまり、
時念仏とは食事を伴った念仏講になります。
念仏講は、身口意の三業(さんごう)を慎み、
精進潔斎して施しをする日です。
この時念仏講が始まったのは、
寛永元年(1624)10月23日で、この石塔は
元禄14年(1701)10月23日造立です。
約75年もの期間のある講の開始日の銘記は、
どんな意味があるのでしょうか?
また寛永元年という古い時代ということで、
最古の十九夜塔と並べてあるのでしょうか?
本体: 高74cm、幅37cm、厚18cm。
これについては、以下、先達の方々の意見が、参考になります。
徳満寺の2基の塔(十九夜塔と時念仏塔)は、奇しくも並んで建てられていますが、
実は、初期の十九夜塔は、「時念仏」と不可分な関係にあるとのこと(榎本正三氏『房総の石仏』第5号1987)。
また、徳満寺では、時(斎)念仏は「単に食事を伴うもの」との説明で、一見娯楽的な催しのようにとれます。
ところが、これはむしろ逆の意味合いのようです。中上敬一氏(「時念仏信仰」『日本の石仏』第49号1989)によれば、
時念仏とは、二世安楽を祈念して食事を1日1食にして己が身を苦しめ、
精進潔斎をして念仏勤行を行った逆修供養のひとつ、と指摘されています。
さらに、この供養の期間は3年あるいは3年3ヵ月におよび、毎月の功徳日に村の寺堂に講員一同が集まり昼食を共にし、
念仏と和讃を唱え、満願成就のあかつきに石造の供養塔を建てた、ということです。
これが事実とすれば、寛永元年10月23日から粛々と「時念仏」をはじめて、
3年+3ヵ月はとうに過ぎても、塔の造立にはこぎつけず、三四半世紀、75年も要してようやく・・・という意味でしょうか。
鐘楼堂と山門の間辺りにある石碑。壓死とは物騒な名称で、鳴鐘の言葉とどう関連しているのか、不明な石碑です。
上の右は石碑表面左下拡大で、
「明治二十六癸巳冬」「應雷小池尚之書」。
ところが裏面(左写真)にも「明治二十六年十一月建之」と、
同様の造立銘があり、重複しています。
さらに、「小倉大吉碑」という何とも不可解な碑名も付いています。
表面に数多く彫られているのは俳句か短歌のようで、
内容も「花が散る云々」等、何か辞世の句を連想させられます。
明治26年(1893)11月ということですが、
翌年日清戦争が起こっています。何か関係があるのでしょうか。
本体: 高143cm、幅130cm、厚16cm。台石: 高30cm、幅88cm、厚66cm。
不可解な「鳴鐘壓死碑」のその全容が解明しました。(参考文献:『八千代の文人たち』村上明彦著・崙書房刊)
明治26年、境内鐘楼のそばで近所の子供たちが遊んでいるうちに、鐘楼の吊り金具がはずれ、
当時10歳の「小倉大吉」という少年が、その下敷きとなって亡くなってしまいました。
この死を哀れんだ当時の住職俊渓が、近郷の俳人たちに呼びかけて造立したのが、この「鳴鐘壓死碑」でした。
表面の句や、裏面の「小倉大吉碑」の刻銘もこれで氷解しました。
この供養碑の特筆すべきことは、中央の宗匠に選句を依頼するなど奉納句額と同様の形態をとっていることです。
催主は、俳号「紅蓮」をもつ徳満寺25世俊渓、企(句碑建立者)に、
晴星舎勇楽こと星野庄作、中野徳一郎、渡辺林吉、藤井幹太郎、新井建太郎、鈴木太吉、星野榮太郎、山本治平の8名。
選者は、東京から月之本素水、栞庵清雅女、地元から永々斎尚之、比雪庵可夕、楳秀、鹿城の6名。
最初に一般公募より入選した句が13句、次に催主および企8名の句、最後に軸(選者)の句が6句で、計27句。
この碑の揮毫もした「應需小池尚之」は天保11年(1840)生まれで地元の人。
すなわち「永々斎尚之」であり、この地域では有名な宗匠と言われています。永々斎2世を諡号。
ちなみに「永々斎1世」は江戸後期の下総の文人名鑑「下総緒家小伝」に名を連ねる「大野以兄」で、上曽根生まれ。
「永々斎尚之」は、この追悼碑の3年後の徳満寺奉納句額でも選者となっています。
また、東京からの月之本素水は、全国的にも有名な俳諧宗匠、文化9年(1812)生まれ。
以下、入選句13句、催主8句、軸(選者)の6句、総計27句をすべて紹介します。
入選句
ちる花に 置處なき こころかな | 用丸 |
鐘の音も 後行春の わかれ哉 | 愛泉 |
花ちるや はゝきもつ手も ちからなき | 霞洲 |
散際の 結句いろ濃き 紅葉哉 | 呂帆 |
有爲無常 さためなき世や 花のちる | 獨愼 |
露のまゝ 手向て見たし 蓮の花 | 光月 |
蓮池や くれてもしはし 花明り | 壽年 |
たのしみの 甲斐なく春も 別れかな | 喜遊 |
月落て あはれのますや 寒念佛 | 花携 |
咲初る 花につれなき あらし哉 | 可水 |
撞すてし 鐘にも春の わかれかな | 枕石 |
清らかな 夜の明ふりや 蓮の花 | 緑澤 |
散花や こゝろのくもる 鐘の聲 | 師竹 |
※ 獨愼は本名が長塚永存、根本寺 の37世住職。文久元年(1861)生まれ、昭和3年(1928)歿。
催主
ちる花や 八重九重の へだてなき | 布川紅蓮 |
蓮のつゆ みな漣と なりにけり | 勇樂 |
ひとつ處 日をちりこぼす 紅葉哉 | 一憐 |
余處にして きくもあはれや 寒念仏 | 多什 |
ちる花や かねの音ひゝく 法の庭 | 蘭石 |
白蓮の ほつきり折るゝ 夕かな | 半湖 |
笠ぬけは 日もくれてゐて ちる紅葉 | 旭光 |
咲はちる 花とはしれと 蕾かな | 貫山 |
軸
水仙や 葉先にこぼす 露明り | 鹿城 |
音信に 准ひ泪の しぐれかな | 可夕 |
いとなむや あとに立日を 蓮の花 | 尚之 |
空蝉を かゝへて桐の ひと葉かな | 楳秀 |
高燈篭 露のうき世を てらし鳬 | 清雅女 |
風のなき 里あらはあれ 花のちる | 素水 |
明治二十六癸巳冬 應需小池尚之書
背後が 太刀堂 の位置にある紀念碑。当初、「記」念碑と思いましたが、上部の篆額部分(下右)をよく見ると「紀」のようです。
調べてみると、どちらも意味的にはほぼ同じですが、昭和初期までは「紀」が一般で、中国では現在も「紀」が通例とのこと。
厳密にどうちがうのかははっきりしません。文科省が紛らわしいから今年から1つに統一した、とかそんな程度の差異?
大人の身長ほどの高さもある大サイズですが、同じ紀念碑でも右隣の 護国教会設立百年紀念碑 には及びません(4倍?)。
さて、なにを「紀念」した碑なのか、碑文は欠損もなく、わりと目視でも見やすいので、ちょっと解読して見ましょう。
本体: 高170cm、幅124cm、厚20cm。
抑延命地蔵尊之爲功徳靈現也安産子育武運
長久災厄消除是世人之普所以爲舊知也而距
今明治廿七年二月組織安産護摩講使信心衆
生毎月募集金壹錢之餘嬴以積貯焉既充多額
金圓囙茲脩葺堂宇修繕虧損以極此壯觀實崇
徳哉主其斡旋者曰鈴木榮次郎星野主作下田
石松矢澤直七岩戸安藏伊藤吉松故伊藤喜七
大貫倉吉等協心盡力遂竣偉業矣蓋以講善子
拮据経營十年于茲是故地藏尊之功徳無量應
無疑現信心最初以銘之永昭于其後
明治丗七年歳次甲辰二月
□□□□當山第廿五世現住
□□□□□□□補教權中僧都海老原俊渓撰
□□□□□□□□□□有儀子楽敬篆額拝書
□□□□□□□□□□□□□□大塚岩吉鐫
明治37年(1904)2月の造立。第25世住職海老原俊渓の撰文。
篆額部分の揮毫は有儀子楽敬が担当。しかしこの人物は不詳。
大塚岩吉は布佐の石工。当地域の多くの碑文を手がけています。
→ 直江真佐雄之碑・飯島利庸墓碑と飯島君之墓銘 など
[読み下し文]
抑(そもそも)延命地蔵尊の功徳靈現の爲なり。安産子育・武運長久・災厄消除は是れ世人の普(あまね)く舊知たるゆえんなり。而して、今を距(はな)れること明治廿七年二月、組織安産護摩講は、信心衆生をして毎月金壹錢餘を募集せしめ、嬴(み)ちて以て貯を積む。既に多額の金圓充ちて、囙※(よっ)て茲に堂宇を脩葺、虧損※を修繕し、以て此の壯觀を極む。實に崇徳なる哉。主たる其の斡旋者は、鈴木榮次郎、星野主作、下田石松、矢澤直七、岩戸安藏、伊藤吉松、故伊藤喜七、大貫倉吉等を曰う。協心※盡力し、遂に偉業を竣(おえ)る。蓋し講善子の拮据※経營は以て茲に十年なり。是故に地藏尊の功徳は無量なり。無疑の信心を最初に現わすに應ず。以てこれを銘とし、永く其後に昭(あきらか)にす。
[語意]
※ 囙: =因の俗字。
※ 虧損(きそん): 徳や利益などが、欠けてそこなわれること。また、そこなうこと。(goo 辞書)
※ 協心(きょうしん): ある目的のために心を合わせること。(Kotobank)
※ 拮据(きっきょ): 忙しく働くこと。仕事に励むこと。けっきょ。(goo 辞書)
主旨は、延命地蔵尊の功徳霊現のためということですが、ちょうど碑造立の10年前の明治27年(1894)から、
安産護摩講が毎月1銭余りの募金を始め、蓄えて地蔵堂の修繕等を成し遂げたことを記念して石碑を建てたものです。
鈴木栄次郎、星野主作、下田石松、矢澤直七、岩戸安蔵、伊藤吉松、故伊藤喜七、大貫倉吉等が協心尽力したとあります。
さて、撰文した当時の現住、海老原俊渓には、「補教權中僧都」という肩書が付いています。これを調べてみました。
しかし、僧階という言葉のほかに教階、僧位、僧官、僧綱(そうごう)など、様々な用語があり、混乱してしまいます。また、
宗派によって相違もあるようです。要は、僧侶の階級ということなので、ここでは徳満寺の真言宗での説明とします。
僧階(そうかい)とは、僧侶の階級。律令制に由来する僧侶の官職階級制度である僧官が原形である[僧官は明治6年(1873年)に廃止]。現在では、宗派によって僧階の制度は異なっている。一部の宗派では、明治初期の、大教宣布運動を担う宗教官吏教導職の階級呼称も引き続き用いられている。(Wikipedia)
真言宗(高野山)における現代の僧階一覧(Wikipedia より)
級数 | 僧階 | 特遇称号 | 学階 | 教階 | 色衣(資格認定) |
1 | 大僧正 | 宿老 | 碩学 | 主教 | 緋(緋色の折五条の着用を許される) |
2 | 権大僧正 | 紫(昇階記念で緋色の折五条を贈呈[1回限り]) | |||
3 | 中僧正 | 学頭 | 学匠 | 弘教 | 紫 |
4 | 権中僧正 | 紫 | |||
5 | 少僧正 | 無 | 都講 | 示教 | 紫 |
6 | 権少僧正 | 無 | 紫 | ||
7 | 大僧都 | 無 | 司講 | 司教 | (大学院卒) |
8 | 権大僧都 | 無 | (大学卒) | ||
9 | 中僧都 | 無 | (大学3年) | ||
10 | 権中僧都 | 無 | 補講 | 補教 | (大学2年) |
11 | 少僧都 | 無 | 無 | (大学1年) | |
12 | 権少僧都 | 無 | 無 | 無 | (高校卒・専修学院卒) |
13 | 大律師 | 無 | 無 | 無 | (高校2年) |
14 | 律師 | 無 | 無 | 無 | (高校1年) |
15 | 権律師 | 無 | 無 | 無 | ![]() |
16 | 教師試補 | 無 | 無 | 無 | ![]() |
上記のほかに、「法印」とか「法眼」という言葉をよく目にします。これは「僧位」と呼ばれるもので、
大僧正や少僧都といった僧官(僧階)によって、以下のように定められています。
・法印大和尚位(ほういん・だいかしょう・い)=大僧正・僧正・権僧正
・法眼和上位(ほうげん・わじょう・い)=大僧都・権大僧都・少僧都・権少僧都
・法橋上人位(ほうきょう・しょうにん・い)=大律師・律師(中律師)・権律師
中僧都・権中僧都が省略されていますが、要するに僧正=法印、僧都=法眼、律師=法橋なんでしょうか?
お坊さんを、適当に和尚さんとか、・・・和上、・・・上人と呼んでは間違う恐れがあるということですか。うーむ、複雑。
資格認定では、大学・高校とかは、やはり仏教系の学校なのでしょうね。でないとみんな権大僧都や権少僧都になる?(笑)。
なお、明治37年「權中僧都」の海老原俊渓は、昭和14年造立の 結願記念碑 では「僧正」となっています。
(13/10/29 追記・13/10/13 撮影)
左は「護國教會社長俊渓僧正紀念碑」
「大僧正智道拜書」の銘。
本体: 高326cm、幅142cm、厚19cm。
台石: 高47cm、幅242cm、厚104cm。
右は「護國教會設立百年紀念碑」。
本体: 高343cm、幅137cm、厚20cm。
台石: 高60cm、幅306cm、厚136cm。
いずれも、見上げるばかりの巨大な碑です。
古い常夜燈2基
ずっと以前から庫裡の前に2基、少し離れて鎮坐していたのですが、
紹介するのが後回しになっていました。
とても「いい味出してる」石灯籠です。
文字など刻銘されていたのかどうか、さっぱり分かりません。
したがっていつ頃のものなのかも不明です。
ご住職にたずねればなにか分かるかもしれません。
ほかに石碑や樹木等がたくさんあるので、見逃してしまいそうですが、
いい庭があれば、飾っておきたいような・・・まあ猫の額ではムリですが・・・。
左写真は下左の燈籠を角度を変えて撮ったものです。
これは「対」のものなのでしょうか。
造立年代は同じ頃のように思われますが・・・。
左の燈籠/本体: 高126cm、幅80cm、厚83cm。
右の燈籠/本体: 高144cm、幅90cm、厚58cm。
ここでは、サイト開設当時(2004年)には、まだ建てられていなかった比較的新しい石像を紹介します。
毘沙門天は客殿寄りですが、それ以外は、県道からの入口〜庫裏にかけてのスペースに設置されています。
毘沙門天自体は、以前からありました。
新しいと言えば、七福神ならぬ六福神。
いつのまにか、毘沙門天以外の
ミニ神像が立っていました。
これなら、七福神巡りをしなくても、
徳満寺だけでOK?
個人的に気に入ったのは、燭台もある
左のポスト型賽銭箱。なるほどね。
七福神については
→ 利根七福神 参照。
本体: 高90cm、幅39cm、厚33cm。
本体: 高54cm、幅24cm、厚13cm。台石: 高109cm、幅55cm、厚55cm。
成道とは「じょうどう」と読み、仏語。菩薩が修行して悟りを開き仏となること。とくに、釈迦が仏になったことを指します。
本体: 高100cm、幅58cm、厚55cm。
クシナガラとは、現在のインドのウッタル・プラデーシュ州東端のカシア付近の村。釈尊入滅の地、四大聖地のひとつ。
北枕は、心臓への負担を和らげるため体にいいとされ、釈迦が北へ枕を向けたのもそのためとする説もあるとか。
涅槃の意味は、単純な「死」ということではない深遠複雑な仏教の解釈があり、ひと口に説明することはできないですね。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす・・・とは有名な平家物語の巻頭。
すべてはいつかは滅びる?日本も世界も地球も銀河系も宇宙も・・・。そうか、死ねば認識も無になるからすべて滅びる?
本体: 高63cm、幅135cm、厚45cm。
2015年3月24日現在。
造立中です。もうすぐにでも完成の気配。
遅くなりましたが、以下、完成後の様子。
「四郡大師開設二百年記念」とありますが、現在2015マイナス200は、1815。
たしか四郡大師は、文政元年(1818)に、すべての札所を開眼したわけで、3年ほど早いですが、まあ細かい話です。
(15/11/30 追記) (15/11/29 撮影)
地蔵堂に向かって左側の空間に、
いろいろ石塔・石碑が立っています。
右から見ていきます。
「茨城百景 大利根の展望」と彫られた石碑が建っています。なるほど、やはり、と思いましたね。
ここは見晴台だったのでしょう、なんて勝手な想像を。ところが・・・。
後日、再訪問したとき、案内ボードが新設され
それによると、この石碑は当初、山門前にあり
山門修理のためにこちらに移動して、
そのままになっている様子。
「茨城百景 大利根の展望」の場所は
ここではなく、山門でした。
(早飲み込みというか、多いなあ)
でも、展望の場所が若干、異なりますが、
景色はほぼ同じではないでしょうか。
左手の樹木を少し伐採できれば、
むしろいまの山門よりいい景色なのでは?
裏面に「昭和25年(1950)5月選定 茨城県」
左側面「茨城県知事 友末洋治書」とあります。
友末洋治知事(1900−1988)は、在任中
東海村原発誘致を進めたとか(Wikipedia)。
本体: 高208cm、幅36cm、厚29cm。台石上: 高39cm、幅65cm、厚60cm。台石下: 高14cm、幅90cm、厚77cm。
さて、石段を登る前に、左手にある2基の石碑から見てみます。
2基のうち右のほうは小林一茶の句碑があります。一茶については、小林一茶と利根町 で詳説しました。
段々に
朧よ月よ
籠り堂 一茶
石碑裏面に、造立銘。
「平成十年十月吉日建之」
「當山二十七世生芝正渓」
「雑賀一郎刻」
平成10年(1998)10月の造立。
石碑揮毫は生芝正渓氏でしょうか。この句は、『文化句帖』三年の項に「正月廿三日 晴 徳満寺参詣」として記録。
本体: 高100cm、幅70cm、厚16cm。台石: 高30cm、幅129cm、厚70cm。
星野一楽は、前述した 六阿弥陀第壱番の石塔 を造立、「総州六阿弥陀詣」に深い関わりがある人物です。
これについては、総州六阿弥陀詣 を参照してください。その中の句碑に関する記事の一部だけ以下、転載します。
表面は、
法の庭 その日その日の 落ち葉かな
看湖楼一楽
裏面は、
江戸の隠居
文政庚寅神無月のころ
友人一楽にこはれて筆をとる
八十翁 仏葊
窪世祥鐫
・「法の道」に見えますが、「法(のり)の庭」。
・看遊楼ではなく「看湖楼」
・仙莽(せんもう)ではなく、仏葊(ぶつあん)。
・「葊」は、「庵」の異体字。
・「鐫」は、彫る、の意。
本体: 高161cm、幅86cm、厚23cm。
台石: 高28cm、幅107cm、厚40cm。
それでは、一茶の句碑右の石段を登ってみましょう。
ここは境内案内板では三峯社と記されている場所で、
徳満寺関連では、布川保育園そばの 徳満寺の天神宮 以外で
唯一の神道系の石祠があるところ。
階段を登ると2基の石祠があります。
左手は利根川の方角なのですが樹木に遮られて見えません。
でも木の葉の間からかすかに川の流れが見えています。
堤防や県道、電線などない昔はさぞ絶景だったでしょう。
いまでも少し樹を切り落としたほうが
いいのではと思うのですけれど・・・。
でも見えなくてもここは、なんとなく気に入りました。
さて、石祠ですが・・・。
手前のほうの右側面に「施主 賢栄」が見えます。
僧侶の名前のようにも思いますが、昔の住職かも知れません。
そう言えばこの名は、馬頭観音堂 でもありましたね。
やはり歴代住職の墓所で名前を探してみたいですね。
石祠の前面には三峯の名前は見えません。
案内がなければ首をひねるところです。
三峯社は、山岳信仰なので、
こうした山の上に祀られることが多いのが唯一のヒントです。
石祠のいずれも左側面に造立銘があるのですが、文字は違っても、延宝4年(1676)はどちらも同じ。
ただし造立月は、左が5月、右が11月。同じ年に2基も建てた理由はなんでしょうか。もう少し調査が必要です。
石祠左「延宝四年五月日」、石祠右「延寶四丙辰年霜月吉祥日」。
ところで、この造立年を見ると、馬頭観音堂 の賢栄(上人)との符合が気になります。
馬疫が流行したのは寛政11年(1799)で、延宝4年(1676)とは120年もの開きがあります。
この双方に、賢栄(上人)がからんでくる可能性は、果たしてあるのでしょうか。賢栄の名が2代継がれるのなら・・・。
ところで、この2基の石祠はとても立派なもので、一般に見られる他の石祠よりひとまわり大きいサイズです。
2014年の再調査で、賢栄の名が刻まれた石祠を確認。この石祠もまた立派なものです。(→ 琴平神社の水神宮 参照)
左石祠(本体・台石含): 高107cm、幅74cm、厚72cm。右石祠(本体・台石含): 高107cm、幅77cm、厚77cm。
三峯社の石段を降りて右手を見ると、星野一楽の句碑の左にもう2基、石碑が並んで建てられています。
表面は「大願成就報恩千人講記念」。
「川原代村 木村藤吉」は
願主でしょうか。
川原代(かわらしろ)村は
現在の龍ケ崎市川原代町。
裏面には、多くの人名とともに
「昭和11年(1936)12月4日」銘。
本体: 高110cm、幅51cm、厚12cm。
台石上: 高28cm、幅77cm、厚31cm。
台石下: 高5cm、幅93cm、厚31cm。
「護國教会 結願記念碑」。四郡大師の結願を記念した石碑で、徳満寺以外にもいくつか同様の石碑が建てられています。
表面左下には「當山二十五世 僧正 海老原俊渓」「菱鶴 加藤善勝 拜書」、裏面には、昭和14年(1939)5月の建立銘。
二十五世俊渓僧正は、宝篋印塔 や 弘法大師入定一千百年御遠忌供養塔 の建立にも関与してますね。
本体: 高243cm、幅91cm、厚13cm。台石: 高24cm、幅143cm、厚62cm。
空堀から古札納所を経由して、
この通路を知ることになりましたが、
薄暗いせいもあってか、初期のころは、
チラッと横目で見るくらいで素通り。
神道系の石祠に興味のある時期で、
石仏は長らく無視していました。
ここには、無論神道系のものはなく、
逆に四郡大師に関連のある護国教会関係者の墓塔が何基か見られました。
全部で9基並んでいます。
写真の左の石仏から
以下順に見ていきます。
「松苗壱仟本」「講和紀念植樹」
「奉納護國教會」の銘。
「昭和廿七年八月廿一日」は
昭和27年(1952)8月21日の建立。
しかし、「講和」とは何の講和でしょう?
・・・どうも「サンフランシスコ平和(講和)条約」
のことしか考えられません。
条約締結が前年の1951年9月8日、
実効が翌年1952年の4月28日です。
なるほどこういうことも、1寺院での
石碑建立の理由となるわけですね。
本体: 高92cm、幅52cm、厚7cm。
台石: 高20cm、幅67cm、厚34cm。
鋪石とは敷石のことなので、鋪石供養塔と書いても「しきいしくとうとう」と呼びます。
しかし、この「鋪」の字もなんかヘンですね。異体字でしょう。
敷石はどの部分でしょうか、やはりこの通路の石は少なくとも該当するのでしょうね。
下写真は、左から、左側面、裏面、右側面。
左側面「權僧都法印淨應」「贈法印旭應」に「沼崎文左衛門息」「嶋田清兵衛息」銘。
裏面「文政二卯年二月 當山十一世現住通應」。文政2年(1819)2月造立。
右側面「發起人 江戸 岡田善兵衛 當所 坂巻繁右衛門 同 高津半四郎」。
11世通應の名前は、初めて出てきました。「〜應」のパターンが多いですね。
文政2年(1819)で11世とはちょっと数値が低いような気もしますが・・・。
あと、權僧都法印「淨應」と法印「旭應」そして11世「通應」の3人は、
どういう序列になるのか、よく分かりません。
本体: 高83cm、幅31cm、厚32cm。台石: 高16cm、幅54cm、厚52cm。
「二十三夜之供養」と中央に銘記。
「明暦三年十月廿三日」、明暦3年(1657)10月23日と意外に古い造立です。
石田年子氏の指摘 によれば、貴重なもののようです。
9基の中でいちばん小さな塔。大きな石碑の3分の1の高さしかありません。
本体: 高61cm、幅30cm、厚18cm。
表面は戒名ですのでお墓ですね。
「明治三十二年旧九月廿一日建立」、
明治32年(1899)9月21日の建立。
「発起人 中田切 櫻井太市 当所内宿」の銘。
こういうのは、無縁仏というのか、
どうして他の塔と同じこの列に並んでいるのか
いつも思うことですがよく分かりません。
本体: 高76cm、幅30cm、厚27cm。
台石: 高14cm、幅53cm、厚52cm。
この塔のタイトルを当初、
「普門品供養塔」としていましたが、
「読誦塔」の分類に修正しようと・・・。
しかし、読誦塔とするには、
読誦した方法、回数が記されていません。
しかし、「刻経塔」とするには
「供養」の文字があるので
総称である「経典供養塔」としました。
「大正六年十一月」。
「高橋権右衛門 櫻井信吉建之」
大正6年(1917)11月建立。
ちなみに、普門品(ふもんぼん)とは、
法華経第25品「観世音菩薩普門品」の略称。
観音経。
本体: 高144cm、幅69cm、厚12cm。
台石: 高15cm、幅90cm、厚35cm。
「奉待二十三夜」とある、二十三夜月待塔と思われます。
「寛政九丁巳十一月吉日」は、寛政9年(1797)11月の造立。
「内宿濱宿」の「講中七十人」によるものです。
一般に二十三夜月待の本尊は、勢至菩薩と言われていますが・・・。
本体: 高82cm、幅34cm、厚19cm。台石: 高30cm、幅53cm、厚52cm。
さて、残り3基は大き目の石碑ですが、いずれも四郡大師関連の護国教会で貢献された人たちの記念碑のようです。
「護國教會幹事石井翁紀念碑」とあり、「当山二十五世俊渓書」銘。
台石に「世話人一同建之」。
本体: 高134cm、幅59cm、厚11cm。台石: 高31cm、幅94cm、厚38cm。
「護國教會会幹事長 長澤翁之碑」「少僧正法印俊渓書」銘。
上の石井翁紀念碑と同様、俊渓書で、揮毫時期が不明ですが、
二十五世就任と少僧正法印の位との時間差がどうなのか、というところです。
本体: 高163cm、幅65cm、厚12cm。台石: 高27cm、幅80cm、厚34cm。
「密嚴教會先達」「大山弘之碑」「權僧正晃俊書」
權僧正「晃俊」の名前も初登場。何世かの住職なのでしょうか。
余談ですが、これはやはり「大山弘」の碑なのでしょうね。
「大山弘之」の碑という意味ではないでしょうね?ではもし・・・
ほんとうに「大山弘之」氏の碑だとしたら「大山弘之之碑」となるのでしょうか?
本体: 高130cm、幅63cm、厚11cm。台石: 高26cm、幅79cm、厚32cm。
山門への入口となる石段。石段手前の左手に数基、石段登り始めの左右両脇に石仏が並んで建てられています。
後から調べて分かったことですが、
境内中央に解説付きで設置されている
日本最古の十九夜塔 とあまり差のない
寛文時代造立の十九夜塔がここで
2基も見つかりました。
いままで何気なく通り過ぎていましたが
疎かにはできませんね。
では、石段手前のものから順に・・・。
一見して、文字塔あり、刻像塔あり、
庚申塔あり、巡拝塔らしきものもあり・・・、
5基しかないのにそれぞれ異なる、
バラエティあふれる組み合わせです。
難点は、地中に少し
埋まっているものがあることと、
隣り合わせの石仏がくっ付き過ぎて
側面の文字が読めないこと。
それでは、左から・・・。
二十三夜塔であることしか分かりません。
上部に日・月・雲のレリーフがあります。
左側面に造立銘等がありそうなのですが、右の塔とぴったりくっ付いて動かせません。
本体: 高57cm、幅26cm、厚18cm。
正面に「西国八番」とあり、
これは徳満寺の総本山でもある長谷寺です。
その写し巡礼塔と思いましたが、左側面には
「奉納大乗妙典日本廻国」の文字があります。
当初「巡拝塔」と題しましたが、
これは「廻国塔」と呼ぶのが妥当のようです。
「西国八番」の銘は、
「納経所としての徳満寺」を象徴したもの?
本体: 高60cm、幅21cm、厚18cm。
下部が土に埋まっていますが、3猿であることは確認できます。
したがって、庚申塔であることは間違いありません。
本体: 高49cm、幅32cm、厚12cm。
文字はまったく読めませんが、青面金剛の刻像塔と思われます。
これも下部が少し土中にあり、邪鬼を踏んでいるのかどうか判然としませんが、
左手に「ショケラ」をぶら下げているように見えます。
本体: 高61cm、幅39cm、厚19cm。
右上に「寛文六丙午暦十月拾九夜念仏一結之衆四十余人」銘。
寛文6年(1666)10月19日造立で、
これは日本最古の万治元年(1658)とはたったの8年差。
光背型半跏思惟ポーズ、如意輪観音の刻像塔です。
左には「下総 布川村 上宿」「敬白」。
このような古い貴重な石仏が下部が土に埋もれ、雨風にさらされるばかりとは・・・。
本体: 高66cm、幅44cm、厚19cm。
石段手前5基に引き続いて、
同じ並びで石段上に
若干ですが石仏が並んでます。
間に幟立もあるので紹介します。
また縦長の石幢と呼ばれるものも。
祭礼時に「延命地蔵大菩薩」の大きな幟が立ちます。
石仏ではないのですが、建立日が記されていたので紹介します。左右1対あります。
平成24年(2012)1月吉日建立って、最近?改築したわけですね。
「二十八世 俊正」銘、ということは、この方が現在の住職ということになるわけですか。
本体: 高135cm、幅21cm、厚18cm。
これは、火袋もないし、常夜燈・石灯籠とは
呼べないものでしょう。
「石幢」(せきどう)というものでしょうか。
3方が幟立や別の石仏で囲われているので、
文字が彫られていても読み込めません。
というより、風化でとても読めません。
左側面(石段側)には、
蓮華のレリーフがあります。
本体: 高149cm、幅59cm、厚53cm。
当初、これは地蔵の刻像塔としか説明ができませんでした。
両側に何か文字が刻まれているようですが、
左の「為自他」とか「行者西入」など断片的にしか読み込めませんでした。
でも、再調査で、石段に座り込んでじっと眺めていたら・・・。
右に「奉修行各夜念佛一百箇日」「□□村」
中央頭部に種子と「元禄四天」「六月十日」
左に「爲自他證無上菩提也」「行者西入」
上記の「各夜」とは「隔夜」ではないかと想定しました。すなわち、
隔夜念仏修行とは・・・開祖が空也上人で、奈良の神仏に参詣、
念仏を唱えて泊まり、翌日は歩いて長谷寺に詣で泊まる、
そうした修行を本来は千日以上続けることをいうようです。
この塔は、行者西入が、徳満寺とどこかの寺を往復したのか不明ですが、
とにかく百箇日修行したその記念にこの塔を建てたということでしょうか。
元禄4年(1691)6月10日がその成就日もしくは塔の造立日。
爲自他證無上菩提也は念仏の中にでてくる常套句のようです。
本体: 高82cm、幅37cm、厚25cm。
右に「拾九夜念佛一結施主丗五人」とあり、十九夜念仏塔と分かります。
当然、刻像されているのは「如意輪観音」です。
でも、上部にあるのは、勢至菩薩をあらわす種子「サク」でしょうか。
左に「天和二壬戌暦十月吉日」「敬白」銘で、
天和2年(1682)10月造立と、古いですが寛文年間より後の時代のもの。
本体: 高99cm、幅43cm、厚25cm。
3猿が描かれ、邪鬼を踏み、ショケラを持つ青面金剛の典型的な刻像塔。
「享保十二丁未十一月吉日同行(人数部分欠損)」まで読み込めます。
「享」の字の部分が欠損していますが、12年丁未で享保時代と判別できます。
享保12年(1727)11月の造立。庚申待ちの催しの記念の塔と言えます。
本体: 高70cm、幅36cm、厚19cm。
下半分が土中に埋まっているというより、欠損しているものと思われます。
しかし、右に「十六」と読めるので十六夜塔としました。
よくある半跏思惟の如意輪観音像ではなさそうです。
十六夜塔の本尊なら、阿弥陀如来などが妥当ですが、
もう少し、下部の様子が分からないと判断できません。
左には「□文五」の文字が見えます。
元文の可能性もありますが、おそらく寛文ではないかと・・・。
この石段近辺のものはとくに古いものばかりですので・・・。
本体: 高(欠損で不明)、幅29cm、厚18cm。
左は実は古い2005年の写真で、
現在は右の塔の左に幟立があります。
これら石段右上の塔は、
入口の幟立隣りの六地蔵塔から
左へと以下、石段を登るように、
順次紹介します。
左の石段の石幢と対をなす位置にあります。
六地蔵塔ですが、これも石幢の一種。
表面に女性の戒名「藏海妙圓信女」。
右写真はその右隣面。
やはり戒名「夏□芳林信女」です。
徳満寺の入口を象徴するような位置に、
個人の墓塔・供養塔があるのも
妙な感じがしますが・・・。
また、ちょうど6名分あるのでしょうか?
左に見えるのが、幟立。
本体: 高116cm、幅44cm、厚44cm。
上部の笠の幅は69cm。
単なる地蔵の刻像塔かと思いましたが「奉造立百堂供養二世安楽所」とあります。
「百堂供養」とは、農閑期に近隣の祀堂など百の堂宇を巡拝し念仏を唱える行事で、
100ヵ所巡拝した記念に供養塔を建てたりします。
徳満寺はともかくとして、この近隣で100ヵ所とはどんなリストアップだったのでしょうか。
「元禄十三庚辰年九月吉祥日」は、元禄13年(1700)9月の造立。
「内宿同行六拾五人」の参加者があったようです。
「六拾」の下が土で埋まっていたので掘り起こしてみました。
本体: 高114cm、幅48cm、厚25cm。
「妙陽信女」の供養のための塔。半跏思惟型如意輪観音の刻像塔です。
「羪為二世安楽也」とあるのは、同行者の逆修供養も兼ねているということ?
「元禄三庚午年拾月吉日同行四十人」、元禄3年(1690)10月の造立。
本体: 高90cm、幅38cm、厚21cm。
これがもう1基の寛文年間の十九夜塔。
やはり光背型半跏思惟の如意輪観音座像です。
「奉造立十九夜念佛」「寛文十庚戌年十月十九日」の解読に苦労しました。
すなわち、寛文10年(1670)10月19日の造立。
この列ではこの塔だけ、光背も小さく背丈も低いです。
本体: 高61cm、幅32cm、厚18cm。
3猿があるので庚申塔と断定できるのですが、「庚申同行三十人」銘もあります。
「寛文七暦未ノ十月吉日」は、寛文7年(1667)10月の造立。
寛文年間のものが数多くあり驚きます。
「布河村 上宿」の布河とは、あえて布川と記さないものなのでしょうか。
また、ここでは「上宿」がよく登場します。
今日での布川地区では、以下の通称が残っていますが、「上宿」はありません。
「馬場」「内宿」「中宿」「浜宿」「上柳宿」「下柳宿」
現在の「上柳宿」を指しているのでしょうか。これは宿題ですね。
本体: 高74cm、幅35cm、厚12cm。
これは庚申の文字はありませんが、3猿刻像ということで庚申塔です。
「寛文」と「布河村」の文字だけが判読できるとは、
まるで前述したことを再度、念押ししているかのような・・・。
この庚申塔にも石田年子氏より解説をいただきました。
中央に富士山が刻まれています。これを造立した庚申講は富士信仰に絡む人々だと思います。この時代から富士信仰は存在していて、富士山の御師宅に残された宿帳(?)には慶長年間(1596〜1615)に関宿町の人々が登拝のために宿泊したことが記されています。明らかに江戸初期から利根町にも富士信仰が存在した証です。
(14/05/18 追記)
上記後日、石田氏より、この塔の銘文について判明したことを教えていただきました。
「寛文十二壬子天十一月吉日」、つまり、寛文12年(1672)11月の造立。
「□申待供養一結衆 布河村」、□は庚申の庚の文字でしょう。
なお、出典は、故・中山正義氏 私家版『茨城県寛文の庚申塔仮年表』より。
中山正義氏やその著作・文献の存在についてはまったく知りませんでした。
(14/08/04 追記)
本体: 高67cm、幅26cm、厚18cm。
蓮華をもつ聖観音の刻像塔で、これも「為百堂念佛供養同行」とあります。
同行者の人数や講中名は不明ですが、赤子を抱く観音をとくに描いたのは、
女性の参加が多かったのではないかと推察します。
「貞享元甲子十月吉艮日」は、貞享元年(1684)10月の造立。
なお、当初、聖観音を子安観音と記していましたが、
石田年子氏より「この時代はまだ子安観音がでてきません」とのご指摘。
なるほど、赤子を抱いていたら即、子安観音とはいかにも安易でした。
実際、塔の上部にこれも種子が刻まれていますが、まさに聖観音の「サ」です。
勉強になります。(14/05/18 追記)
本体: 高88cm、幅35cm、厚16cm。
これは文字がいっさい判読不能でなんとも言えませんが、
刻像されている観音像の頭部の形で馬頭観音と推定しました。
上記のように記しましたが、2015年春再調査で判明!
上部左右に「寛文十一天」「亥 六月五日」
右に「馬頭□□」「内宿□□」「講中」
左下に「同行十一人」
これも寛文11年(1671)と古い造立です。
この石段近辺は、宝の宝庫(これは馬から落馬と同様?)、
貴重な石仏の宝庫(これならいいか)ですね。
本体: 高89cm、幅40cm、厚20cm。
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(15/11/30・15/03/24・14/08/14・14/05/18・14/05/17・13/10/29・13/08/05・12/09/19 追記) (12/09/10 コンテンツ分離再構成) (15/11/29・15/03/22・10/02/19・07/05/27・05/11/15・05/11/14・05/11/12・05/11/05・05/11/04・05/11/03・05/01/18 追記) (05/01/16) (撮影 15/03/24・15/03/22・13/10/13・12/09/05・12/08/28・12/08/22・12/08/20・12/05/13・12/05/08・11/09/19・11/01/24・10/11/27・10/02/20・10/02/19・09/03/17・08/01/02・05/07/03・05/06/12・05/05/28・05/04/08・05/03/19・05/01/18・04/12/25・04/12/23・04/11/28・04/09/24)
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