タヌポンの利根ぽんぽ行 子安神社

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子安神社 目次



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更新経過

石造物データ構築の一環で、子安神社も再調査。
石祠・鳥居・手水石のサイズ計測のほか、未調査だった境内の仏教系石仏の調査をし、
境内の石仏 をUP。(16/05/21)


近隣にある大房共同墓地を訪問。
「大房は田舎の江戸よ」と言わしめた文化人たちの墓碑・歌碑を紹介・追記しました。
(2013/08/17 「共同墓地と大房の文化人」を追記)


この境内には、神木として2本の大公孫樹がありますが、その黄葉を長らく撮れずにいました。
大震災のあった年2011年の秋に、やっとその素晴らしい光景を撮ることができました。
蛟蝄神社門の宮の大公孫樹の黄葉 もとても美しいのですが、
子安神社の2本の大樹が描く、ほどよい広さの境内一面に敷き詰められた黄色の絨毯は、
とても素晴らしく、一見の価値があります。
(参考:12月5日に撮影しましたので、この辺りが見頃の目安です)

撮影後、約半年も時間を要しました(怠惰なせいです)が、
ようやく改訂版の子安神社コンテンツをお届けします。(2012/04/03 追記・再構成)


利根町大房地区は折戸という地名のところに子安神社があります。
大房というより立木地区の蛟蝄神社奥の宮から前の路を左手に進み、
庚申塚 のT字路から道なりに左に北上するとしばらくでここにたどり着きます。
蛟蝄神社周辺の丘陵地帯を越えた先のひっそりとした空間。
なんとなく懐かしくのどかな雰囲気が漂っています。(06/06/25)


利根町北東部マップ

子安神社は、蛟蝄神社奥の宮の北。地図中央の東南にあります。やまなみ園に向かう登り坂から右手に見下ろす位置。

子安神社

入口全景

子安神社境内全景

これが、子安神社境内の全景です。中央に見えるのが鳥居と手水舎。左の入り口に3基ほど石塔が草むらの中に見えます。
中央右の建物が拝殿。その後が本殿。ここからは見えませんが、以前本殿の左隣に神明様と呼ばれる石祠がありました。
また本殿右隣にも石塔が3基あり、墓碑以外の石塔も後半で紹介します。

中央奥の石段を登ると三峯神社のお堂と金毘羅大権現の石祠があります。
鳥居の左斜め背後と石段脇に大きな公孫樹の樹が立っています。雌雄の2本で、いずれも子安神社の神木とされています。

最初、ここを訪れたとき、何かデジャブのようなものを感じました。でも、それが何かはすぐ思い出しました。
押戸の天満宮 となんとなく、前の細い道路といい境内の配置が似ているのです。
でも、改めて見比べてみると、結構、細部はちがうんですけどね。

黄葉時の子安神社境内全景

左が、黄葉時。
なかなかいい感じですね。

これは、2011年の12月5日。
毎年この日が見頃とは言えませんが、
いい時期は一瞬ですので、
1週間程度を目安に何度か訪れないと
見逃してしまうかも知れません。

この年は直前に台風が来て、
蛟蝄神社門の宮の公孫樹は、
かなり葉が散ってしまいましたが、
子安神社の場合は
周囲が崖などで囲まれているせいか
落葉は激しくなかったようです。

鳥居

鳥居 鳥居裏
鳥居

明神鳥居。コンクリート製で左柱裏に、
昭和廿五年庚寅旧九月吉日建立
昭和25年(1950)旧暦9月の建立。

本体: 高285cm

祭礼日が旧6月24日ということですが、
その他由緒等は不詳です。
祭神は浅間神社と同じ、
木花開耶姫(このはなさくやひめ)。
浅間神社「本殿と祭神」 参照)

子安神社は文字通り、子授け、安産、
子育てを祈るための神社で、
仏教と習合して子安観音や
子安地蔵があります。
でも、子育て観音や
子育て地蔵という言葉はありますが、
子育神社というのは聞かないですね。

逆に、子守神社はあるのに(利根町にはありません)、子守地蔵や子守観音という言葉は聞いたことがありません。
なぜなんでしょう?不思議ですね。
→ タヌポン の認識不足でした。
子育神社 も、子守地蔵 も、子守観音 も、多数存在しているようです。ああ、なんでもアリ!なんですねえ。
では、もうひとつ。子守神社というのは?・・・あります、あります。うーーん!→ 子守神社

正一位子安神社の神額

鳥居

正一位子安神社とありますが、正一位の称号を拝したのは
いつなのでしょうか?

拝殿

拝殿

これは拝殿。
後の本殿とともに木造、
銅板葺きの建物です。

上部には額が設置されています。
また、扉には、
覗き穴のようなものがあります。
とうぜん、タヌポンは覗きますね。
しかし、最近、覗いたときに、
以前とはちがったある異変を発見。
これは、のちほど。

子安大明神の額

子安大明神の額

拝殿上部の額。右から「子安大明神」。
この文字はとてもユニークでおもしろいですね。

以前、境内を掃除している老婦人に会ったとき。
この額の文字が読めないようなので説明しましたが、
永年この神社と関わりがある婦人が、
「よそ者」のタヌポンにそれを尋ねるというのは、
ちょっと妙な感じでした。

『利根町史』には不退庵宗匠選の献句額あり、とありますが
これのこと?ではなさそうですね。

額の左下にいくつか文字が見えます。
昭和戊辰 八之月 御遷宮
立野貞太郎 大野□吉

昭和の戊辰は、昭和3年(1928)と63年(1988)の2通り考えられます。また、遷宮とは、どういう意味合いでしょうか。
額の風化の度合いなどから、この場合は昭和63年と見るのが妥当と思いましたが、さて真相は?

拝殿内と献句額

拝殿内部

さて、左は例の覗き穴から見た拝殿の内部。
垂れ幕に昭和62年(1987)6月奉納とあります。
この日付は、拝殿自体の建立時というより、
垂れ幕が奉納された時期なのでしょうね。

さて、写真では文字の詳細が分かりませんが、
上部に、句のような文字が数多く記された額が見えます。
これが、不退庵宗匠選の献句額ではないでしょうか。

ところが、左写真は、2006年6月24日の撮影。
しかし、2011年2月23日撮影の以下の写真には、
この額が写っていません。

拝殿内部その2

町史に記されるような「不退庵宗匠選の献句額」なら、
貴重な文化財ですから、
もし、盗難にあったのだとしたら・・・。
どこかしかるべきところに
移送保管されたのならいいのですが・・・。

前述の老婦人に会ったときも、
賽銭とかよく盗難があると聞きました。
ほんとうにどうなったのでしょうか。

ちなみに右のほうに
もうひとつ額のようなものが見えます。
これも写真では詳細が不明です。

本殿

本殿

左は拝殿の背後に続いている本殿。
しっかりと施錠されていますので内部は分かりません。

神明様(現在移管消失)

本殿左隣にある朱塗りの石祠 神明様

本殿左隣にある朱塗りの石祠。
もと坂本重郎右衛門家の祖先が大房に移り住んだとき、旧領地の神明社(伝 寒川御厨神明社)を屋敷の一隅に勧請。
昭和3年(1928)頃に現在地に移された、と『利根町史』にあります。

神明様石祠の背後 消失した神明様

石祠の背後には「坂本重郎右衛門」の文字が見えます。
これは2005年7月の撮影ですが、上記右写真のように2011年2月には石祠が消失しています。
老婦人に聞くと、本来の持ち主のところに移管されたということのようです。

手水舎

手水舎

なかなか風情ある手水舎です。

右側面には「明治十一年寅九月日
明治11年(1878)9月の造立(下左写真)。
寅は、この場合、戊寅(つちのえ・とら)ですね。

左側面は、「中畑坪 女人講中」(下右写真)。
この辺りは明治の当時は
大房中畑坪と呼ばれていたのでしょうか。

本体: 高29cm、幅76cm、厚30cm。

手水舎左側面 手水舎右側面

難解な手水鉢名称

手水鉢文字

さて、この手水正面に記された文字です。
これはいったい何と読めばいいのでしょうか。

右の文字は、「」だと思いますが、
問題は、左の文字です。
どう考えても、拙いタヌポンの知識では解読できません。
そのため、町の書家のF氏に尋ねて見たのですが、
なんとこの文字は、氏にも判読が難しい文字でした。

昔のものは、大体右から読むので、
タヌポンの当てずっぽうでは「潔禮」ではと思いましたが、
どうも左の文字は「洗」らしいのです。

とても、そうは思えないのですが、専門家が見るとこれは、偏では「氵」(さんずい)であることは確かなのだそうです。
そうすると、読み方は「潔洗」となります。こんな言葉はあるのでしょうか。

八坂神社の手水鉢文字

しかし、この文字には実は、もうひとつ奇妙な事実があるのです。
それは、これとまったく同じといっていい文字が記された手水が、
近くの 八坂神社 にもあるのですが(左写真参照)、
八坂神社のそれは、文字の並びが逆なのです。
この場合は、「洗潔」と呼ぶのでしょうか。

蛟蝄神社奥の宮の手水鉢文字

さらに、最近になってもうひとつ分かったこと。
もう1基、同様の文字が記された古い手水を、
蛟蝄神社奥の宮の境内の奥で見つけました(左写真)。
文字の並びは八坂神社のものと同じです。
2対1で、多数決とすれば、「洗潔」が正しく、
子安神社の「潔洗」は彫りまちがい、とも考えられますが、
名称として両方あるのかも知れません。

子安神社、八坂神社そして蛟蝄神社は、
立地的に近隣です。
記された文字もよく似た書体ですので、
これらは同一の石工によるものと推察されます。

これらについて、書家のF氏の知人で石造物等の研究をされているK氏にお会いする機会を得ました。
氏によって、これらの文字は、「手水鉢名称」(ちょうずばちめいしょう)と呼ばれていることを知りました。
氏は、手水鉢名称の分類について、永年、数多くの全国の神社仏閣を実際に調査されて、文献を出されています。
それを拝見すると、なんと無数、といっていいほど多数の手水鉢文字が掲載されています。
珍しい例をあげれば・・・
漱盤、水鉢、静鑑、清浄水、水石鉢、軍遅、解穢、美多良瀬、瀞、如意水、法水船、浴池、掬月、日新 などなど。
奉献・奉納とか、手水、というのは数多く見ましたが、こんなに数多くの種類があるものなのですね。

しかし、この「洗潔」もしくは「潔洗」は、K氏によれば、「新種」として貴重な新発見のようなのです。
ほかに同様のものが近隣にないか調べてください、などと仰せつかったタヌポンでありました。

新説:「洗」ではなく「

上記の手水鉢名称の読み方に新説が届きました。ほかにもいろいろ指摘いただいた「がらん」さんからのメールです。
これは、メール文章を以下、抜粋転記させていただきます。F氏もK氏も、当初は、「」ではないか、と言われていました。

面白い字だなと眺めておりました。『奇文不載酒』という江戸時代の辞書を調べてようようみつけてきました。文字としては古文篆という書体の「清」という字の変訛したものだと思います・・・(中略)・・・「清」は「瀞」「静」「浄」と音通・意通で同字とみますので、この場合「浄潔」と読むようですね。「潔浄」でも意味は一緒ですね。

いやあ、いろいろ深いですね。江戸時代の辞書『奇文不載酒』や古文篆という書体というのも初体験。(13/01/20 追記)

神木

公孫樹 公孫樹

入口鳥居近くのほうの公孫樹です。
石段付近のと2本あるのですが、
どちらも神木とされています。
雌・雄1本ずつということですが、
秋に来てみないとどれがどれか分かりません。

余談ですが、先日、
町の巨木巡りのイベントで植物学者の先生に
イチョウのオスメスの見分け方を
教えてもらいました。
よく葉っぱの形で見分けるというけれど
あれは正確ではないのだそうです。
それで見分け方ですが、
枝振りがそそり立つような角度のものが
オスということです。
「メスはこう開くように、オスはこうですね」
と先生は身振りを加えて説明してくれました。

その直後、傍らの公孫樹を指して、「では、この公孫樹の樹はどちらでしょうか?」。
タヌポンは、「それなら、メスだろうな。なるほど」と思っていたら、「はい、オスですね。簡単でしょう?」
ということで、子安神社での判定はやめておきます(笑)。

公孫樹

2本の神木の黄葉の共演は
とても素晴らしいものがあります。

写真を撮ることに夢中で、
銀杏が落ちているのはどちらかを
調べることを失念しましたので、
いまだにどれが雄か雌か不明です。

下右の写真は、
やまなみ園に続く上り坂から、
境内を見下ろすように撮ったシーン。
この時期にこの坂に来れば、
すぐに発見できると思います。

公孫樹 公孫樹

三峯神社と金毘羅大権現

三峯山

境内背後は崖のようになっていて、
その1角に石段をつけて
塚のように設えてあり、
中腹にお堂とその脇に
1基の石祠が並んで立っています。

最初、これが何なのか
分かりませんでした。
石段を登り、
お堂の中をのぞいて初めて
三峯神社だということが分かりました。

三峯山

そういえば、三峯神社は
典型的な山岳登拝型の神社
無量寺と三峯神社 参照)
ということですので、
あえてこうした小高い塚を設けて
その上にお堂を建てたのでしょう。
ここはさだめし「三峯山」と
いうところでしょうか。

三峯神社

三峯神社と金毘羅大権現

遠めで見ると四郡大師のひとつかなと
最初は思っていました。

下はお堂の内部です。
三峯神社のお札がたくさんあります。

右の金毘羅大権現とあわせて、
これらは子安神社の境内社
ということになるのでしょうか。
→ 少なくとも三峯神社のほうは、
独立した神社のようです。

三峯神社祭神

金毘羅大権現

金毘羅大権現

石祠表面上に「金毘羅大権現」。
左右に「享和三亥天 三月十日」。
享和3年(1803)3月10日の造立です。

本体: 高53cm、幅23cm、厚29cm。

余談: 再調査のとき、石祠の寸法を測って、振りむいて、
石段に向かおうとしたところで、
上記の三峯神社堂の角に、頭をゴツンと。
たんこぶができるほどで、3日経過したいまも、
まだ痛いです。脳挫傷なんかだとイヤだなあ。
皆さんも、ここに来た時はご注意を!

三峯山からの景色

それでは、三峯山から見晴らして・・・お別れしましょう。

三峯山から

境内の石仏

入口の石塔3基

入口の石塔3基

子安神社境内の入ってすぐ左脇、鳥居の斜め前に、
無造作におかれているのがこの3基の石塔。

『利根町史』には、十五夜塔、二十九番札所 明和4年(1767)
ほか1基とありますが、どうもこの3基とはちがうような気がします。
いちばん左は地蔵のようですし・・・。

本殿右にある3基ほどの石塔を指しているのかもと思いましたが、
それらもひとつはあきらかに墓碑のようで該当しないようです。
町史に記載されている石塔類はどこにあるのでしょうか。

→ 上記石塔類を以下、2016年に再調査して見ました。

2016年時点での左下の状態。雑草とウメノキゴケを取って、ようやく右下の状態に。これならなんとか分かりそうです。

2016年入口の石塔3基 2016年入口の石塔3基、掃除後

地蔵菩薩塔

地蔵菩薩塔

まあ、これは錫杖を持った「地蔵菩薩塔」というしかありません。
丸彫りの地蔵塔には、台石などがないと銘文は期待できません。
したがって、造立年等は不明です。
1基だけですので、六地蔵というわけではありません。
一般に地蔵は子供を守護する意味合いから、
子安神社境内にあるのは妥当というところでしょうか。

本体: 高89cm、幅30cm、厚18cm。

廻国塔

廻国塔 廻国塔右側面

これは収穫。ここにも廻国塔がありました。
岡山のノートルダム清心女子大学に
廻国塔の第一人者と呼ばれる方がいて、
全国の廻国塔データを集めておられます。
この発見で、利根町で廻国塔25基となり、
この更新情報をお知らせする予定です。

廻国塔に多い箱型の石塔で、
表面中央に「奉納大乘妙典六十六部」、
その左右に「安永六酉」「十月吉日」、
つまり、安永6年(1777)10月造立のもの。

右側面に、施主か願主か行者か不明ですが、
天野与四エ門」の名が彫られています。

本体: 高78cm、幅26cm、厚16cm。

十五夜塔

十五夜塔

光背右上に「奉供羪十五夜講」とあり、十五夜塔です。
しかしながら、これも利根町に特有の如意輪観音の刻像塔。
十五夜塔の主尊は、大日如来や聖観音などで、
如意輪観音は主に十九夜塔なのですが、利根町はなんでも如意輪観音。
この典型的な例です。

光背左に「明和四□十月吉日」。
□は風化していますが、亥もしくはその異体字であるべきなのですが、
どうもそのようには見えません。明和四の四は間違いないと思うのですが・・・。
とりあえず、明和4年(1767)10月の造立としておきます。
『利根町史』の十五夜塔とはこれのことでしょうか。

講の異体字

光背下部左右に「講中 三十六人」とあります。
講は、左のような異体字使用。

本体: 高86cm、幅32cm、厚18cm。

本殿右の2基

本殿右の2基

ここに3基あることは以前から分かっていたことですが、
どうも調べる気になれませんでした。
まあいちばん左は、一見して戒名等が彫られているので、
墓碑として調査対象外としていたのですが、
ほかの2基は、風化しているし、雑草がいつも繁茂していて・・・。
とくに、このなんという名前の草か分かりませんが、
「カンスゲ」というのかな?これが細くて何本もあり、
根っこからは取りにくいし、要するにメンドクサイ代物です。

でも、今回(2016年春)、少し刈りこんで見てみましょうか。

寄進記念石塔

寄進記念石塔 寄進記念石塔右側面 寄進記念石塔左側面

正面中央に「奉寄進御寶前」とあり、何かを寄進したときの記念の塔と思われます。
一般に常夜燈などが多いですが、ここには残存していないので、対象物が何かは分かりません。
左右に「宝永六歳」「四月吉日」とあり、宝永6年(1709)4月の造立。

右側面に「長沖新田村 □□与□右エ門」。長沖新田とは、現在の竜ケ崎市。タヌポンがよく利用する交差点があります。
左側面は、「施主 伊勢屋市右衛門」。

本体: 高50cm、幅18cm、厚18cm。

大日如来塔

大日如来塔 大日如来塔左側面

表面上部に、種子アが彫られています。
大日如来を表す梵字なので、
大日如来塔としましたが、
要は、はっきりしません。

塔の左側面に、
享保十五戌天十月□九日」とあり、
享保15年(1730)10月造立と分かります。

本体: 高49cm、幅24cm、厚17cm。

(16/05/21 追記・16/05/18 撮影)

共同墓地と大房の文化人

直接、大房の関係者に取材していないので分かりませんが、子安神社の拝殿内に「大野野人」の献句額があるというので、
調べてみると、以前撮った写真ではそれらしきものが写っていたので、もっと詳しく撮りなおそうと思って再訪問すると、
額が消失していたりして、ちょっと肩すかしの気分でした。そうこうするうちに、神社の東に「大房共同墓地」があり、
そこに、「大野野人」の句が彫られた墓碑があることを知り、調べてみようと思いました。ところが・・・。

大房共同墓地

子安神社そばの県道に出れば東は見渡す限りの水田で、北へ少し行った右手に墓地らしきものがすぐに発見できました。
下左は、県道から墓地へ行く曲がり角から。右は、墓地の入り口。7月早々の梅雨明け直後の猛暑が一段落した時期でした。

大房共同墓地への入り口 大房共同墓地への入り口

▼ 句が彫られた「大野家」の墓を探せば難なく見つかるだろうと甘く考えていました。ところが・・・。
それほど広い墓地でもないのですが、「大野家の墓」ばかり・・・。ほかに「高野家」「坂本家」「地脇家」なども多いです。
しかし、「大野野人」は見つかりません。碑文の句はしっかり見ないと分かりにくいのでそう簡単には見つかりません。
この日は、次に行きたいところもあったので墓地の場所だけの確認に満足して翌日再訪問することに。ところが・・・。

▼ 翌日、じっくり見たつもりがやはり見つかりません。大野家ではない墓かも、とまで疑ってそれらしきものも見てみました。
はずれです。たまたま近くの水田の持ち主の人に会ったので聞いてみると、「えっ、大野野人?」というよくある反応。
でも、ご親切にも、やおら携帯をポケットから出して、別の人に聞いてくれる様子です。でも、先方は留守の様子。
聞いてみると、そのかけた相手は tanupon のよく知っている方。まあ、その方に聞くのは最終手段と思ってました。

▼ そんなわけで、「大野野人」の句碑探索は一時中断。再開したのは半月後のまさに猛暑の再燃した2日間。
一時中断していたときの調査で、同じ大房共同墓地の中に、多くの別の文化人の石碑もあるということを知り、
こんどは、それらをすべてまとめての撮影取材となりました。暑くてへとへとになってしまいました。が、なんとか以下に。

▼ 大房共同墓地では全7基の墓碑・石碑等を紹介しますが、そのうち5基は敷地のいちばん奥の通路にあります。
あんなに探していた大野野人の墓石はなかでもいちばん手前だったとは皮肉な話です。以下、手前から奥へと紹介します。

▼ なお、この項目での方角は概算です。正確には北→北西、南→東南のように、反時計回りに45度プラスしてください。

大野野人句碑

台石に「大野」とあるので当初見たはずなのですが、戒名に「野人」とあるのを見逃していました。
左は、正面で2つの戒名。中央は、左側面で3つの戒名。右は、これら5つの戒名に対応した没年等が列記されています。

本体: 高69cm、幅28cm、厚26cm。台石上: 高30cm、幅43cm、厚44cm。台石下: 高31cm、幅62cm、厚63cm。

大野野人墓石表面 大野野人墓左側面 大野野人墓右側面

表面は、「往文院良藝野人居士」「往性院良真妙容大姉」。
中央は、「文華院良実得道居士」「見性院良覚生壮居士」「顯真院形譽良光素一居士」。
そして以下の右側面から、大野野人の名は 辛之助 で、昭和21年(1946)2月18日に亡くなっていることが分かります。
文 昭和二十一年二月十八日 俗名 辛之助
生 昭和二十三年十月   九日 俗名 と み
華 大正十一年十二月十三日 俗名 実
性 昭和三十七年七月十七日 俗名 壮 吉
真 昭和十九年九月十八日   俗名 素 一

そして、当初、探していた野人の句は、碑の裏にありました。卒塔婆の陰に隠れていました。
これを撮影するには、いったんもうひとつ手前の通路に戻り、裏側から撮らねばなりません。
しかも、卒塔婆が碑を遮ってしまうので、いったん卒塔婆立てから外させていただき、窮屈な姿勢で撮りました。

大野野人墓裏面 大野野人墓裏面拓本

野人
山崩す 幾土舟や 春の川
孕み豚に 夜餌くるゝも 草朧
昭和三十七年七月 壯吉建之

子息の壮吉氏が昭和37年(1962)7月に
この碑を建立しているようですが、上の右側面では、
壮吉氏は同年同月17日に亡くなられているようです。
こういうこともあるのでしょうか。

大野野人は、大柄で気さくな人であったとか。
書や歌にたんのうで、各所で選者として活躍しているようです。
また、萩原井泉水とも深交があった(『広報とね』第241号)とか。
その活動の一端を、先日偶然、蛟蝄神社で見つけました。

大野野人句額

大野野人句額

よく行く蛟蝄神社奥の宮の拝殿前で、
なにげなく上を見上げたら、
左のような古い額が見えました。(前からあったっけ?)

細かい文字が縦に並び一見して、
よく見かける奉納の人名額かと思いましたが、
よく見ると、名前の上に句が記されていて句額のようです。

左下に少し太字で「野人」の文字が目に入りました。
これは、大房共同墓地で野人の墓碑を撮る数日前で、
とくに気になっていたから目に付いたのでしょう。
まさに巡り合わせというものでしょうか。
もっと、拡大して見てみます。

本体: 高102cm、幅140cm、厚8cm。

▲ 本句額は、蛟蝄神社の記念事業による拝殿改築のため2014年4月に取り外され、倉庫に保管されました。(〜2016年8月現在)

大野野人句額左下部分拡大 大野野人句額上部拡大

催主 城川」の句の隣に、
昭和弐年拾月拾五目 野人敬書 印
が読み取れます。
昭和2年(1927)10月15日開催の句会で
大野野人が選者となったことを示しています。

また、額の上部(右写真)には、自らも1句、
肩摩って 湯の花浴びる 夜明哉
大房 野人葊」とあります。葊=庵です。

しかし、ここは外気に触れるところで、
このままでいるとまもなくすべての文字が、
風化で消えてしまうでしょう。
すでに多くの文字が読みづらくなっています。
もっと接写で拡大写真を撮っておいたほうがいいかも知れません。

子安神社の句額の所在もどうなったのか
気になりますが・・・。

ところで、この句額ですが、野人の署名・印の左方に、別の日付も記されています。ちょっと読みづらいですが、これは・・・。
明治十年旧九月十六日
昭和弐年拾月拾五日」 「興 百川
再興 城川

あれれっ?句会は、昭和2年ではなく、明治10年(1877)旧9月16日開催だったのでしょうか?
また、百川とか城川というのは?・・・城川は、催主ですよね。百川の句は見当たりませんね。
やはりこれは、昭和2年の興行で、百川という人物がそれより前の明治10年に催主となって行っているということでは?
→ これについては、最後に 百川翁辞世墓碑 で当事者の紹介をします。

法印鑁全の石碑

共同墓地のほぼ中央、入口から中ほどまで進んだところで右折すると、少し先の正面に見えてくるのが下左写真。
これは、この墓地と関係の深い寺(近くにないので現在は廃寺でしょう)の僧侶の墓を集めたような感じです。

調べてみると子安神社にあった 大宝院 と文間小学校敷地にあった 来迎院 が候補として挙げられます。
また、 鑁全 と聞くと、どうしても徳満寺第7世隆鑁(りゅうばん)や新義真言宗始祖覚鑁(かくばん)を連想します。
大宝院 ならこのコンテンツにはぴったりなのですが、どうも 来迎院 が妥当のようです。徳満寺の末寺で真言宗ですから。

さて、ここで取り上げるのは真ん中の大きな碑ではなく、その右隣りの墓。下右が法印鑁全の墓碑です。
ちなみに、前記 大野野人墓石 は、これの1〜2本右手、入口に近いほうの通路にあります。

本体: 高96cm、幅37cm、厚37cm。台石上: 高20cm、幅47cm、厚47cm。台石下: 高50cm、幅32cm、厚56cm。

法印鑁全の墓碑 法印鑁全の墓碑
法印鑁全の墓碑左側面

右上碑表には、最上部に梵字で基本の「ア字」が記され、
その下に、「贈法印鑁全位」とあり、
左写真、碑の左側面には、「文化七庚午 六月廿九日」とあります。
これらは、戒名と没年ではなさそうです。
碑の下台石正面には「筆弟中」と刻まれていますので、
この門弟たちが師である法印鑁全に贈るために、
文化7年(1810)6月29日に建立したと考えられます。

したがって、これは墓ではなく、筆子塚ともいうべきものですが、
鑁全の生年・没年が不詳なので寿蔵碑とも断定できません。

なお、僧侶であったと想定される鑁全が師であったということは、
おそらく近所の子供たちに読み書きなどを教えていたのではないかと思います。

鑁全について詳細は不明ですが、その人となりを示すものが、
次に紹介する碑の右側面に記された後半のユニークな銘文です。

法印鑁全の墓碑右側面

右側面には、以下。ただし読み方は、一列を縦に通して読まずに、
上の4〜5文字で上段と下段に分けて、読まないとおかしくなります。

阿弥陀釈迦
字異意同
本来無一物
不取正覚誨
生者必滅習

是皆此一句ニ
こもれり
阿々吽と出る
屁や実
艸の花

碑文上段の漢文の意味を現代語意訳してみます。

阿弥陀と釈迦は字は異なるが、意は同じ。本来、無一物。
真の悟り(正覚)はさとされて(誨)得るものではない。
生者(しょうじゃ)必滅の習(ならい)である。(上段)

そして、(上段の意味するところは)これみな以下の一句にこもれり、として
ああうんと 出る屁や実(まこと) 草の花」(下段)

草の花は「鼻に臭い」の洒落で、真言宗や浄土宗というより禅問答のような句です。

浄土宗円明寺そばの真言僧鑁全、宗派を超えた深い悟りがあるのかも知れません。

▼ さて、以下の5基の碑は、すべて墓地入口からいちばん奥の東西の通路にあります。通路の手前から紹介していきます。

地脇峯重歌碑

奥通路に入って2〜3基目、左に南面して建てられているのが、地脇家の墓。裏面に和歌があるので歌碑と題しました。
中央は碑表で、「恭譽良是教聴譽重善清居士」「法譽良美喜教善大姉」「佶譽良音寛相清居士」の3名の戒名。
右写真は碑の右側面で、「貞行院照譽良光澤妙阿善大姉」。ここでの主役は、碑表の恭居士です。

下り藤の家紋

※ 碑表の上部には下り藤の家紋が彫られています。
  藤原氏に比較的多い紋という程度で特定はできません。
※ 難字の「輭」(ナン)はやわらかい花びらの意。女性の戒名向きの字です。
  転じて、都会の華やかな雑踏の形容。(goo 辞書)

地脇家墓碑 地脇家墓碑拡大 地脇家墓碑右側面

本体: 高109cm、幅33cm、厚33cm。台石上: 高35cm、幅63cm、厚62cm。台石下: 高31cm、幅82cm、厚76cm。

地脇家墓碑裏面

左は碑の裏面。

恭 大正五年十一月十七日歿
法 明治廿四年旧七月廿一日没
佶 明治四十四年新六月廿八日没
貞 明治四十三年新十二月十三日没
大正五戊辰年六月建設  地脇英二郎助之

上記の銘文にはちょっとおかしいところがあります。
ひとつは、大正五戊辰年とありますが、大正5年は丙辰年です。
仮にこれが丙辰のまちがいだとしても、こんどは建立が6月となっており、
恭居士の11月17日より前になります。この碑は寿蔵碑らしく見えないので、
恭 大正五年の数値か、もしくは、建立年の大正5年の誤謬かも知れません。

何ヵ所も同時に誤謬があるとは考えにくいので、
では、建立年の間違いで戊辰は正しいとし恭居士の没年以降の戊辰年を探すと・・・
戊辰戦争が1868ですから、これは没年前、次は1928で昭和3年になります。
昭和3年と大正5年(1916)とは文字上では大差ですが、年数では、12年差。
恭居士の没後12年経っての建立であっても不思議はありません。ということで、

これは建立年を「昭和三」とすべきところを、石工が恭居士の没年「大正五」を思い浮かべながら彫り間違えたのではないか、
と tanupon は推定しました。建立者の地脇英二郎氏の生年・没年等々が分かれば解決する疑問かも知れませんが・・・。

地脇家墓左側面 地脇家墓左側面拓本

さて、和歌ですが、左側面です。
最初の1行は、前書きです。

 「御仏の第十八条の御誓願を聞き侍りて

御仏の 誓ひしのりを 聞くことに
 南無ありかたく なみたこほるる 峯重

ここに初めて「峯重」という号が出てきますが、
地脇峯重の本名等、詳しいことは不明です。

大野翁寿蔵碑

地脇峯重歌碑の右隣りに、ひときわ大きい大野家の墓碑があります。大野野人に次いで2人目の大野氏の寿蔵碑。

五瓜に唐花紋

後に紹介する3基のうち2基も大野家関連。しかし、その系図はさっぱり分かりません。
まあ皆さん、遠いか近いかは別としてご親戚・ご縁者なんでしょうね。家紋も同じなのでしょうか?
左は、碑表の戒名上に記された「五瓜に唐花紋」(ごかにからはなもん)。
戦国武将では、柴田勝家がこの家紋でした。

本体: 高130cm、幅47cm、厚45cm。台石上: 高42cm、幅78cm、厚75cm。台石下: 高42cm、幅113cm、厚106cm。

大野翁寿蔵碑 大野翁寿蔵碑表面拡大
大野翁寿蔵碑左側面 大野翁寿蔵碑裏面

右上碑表は、
正善院法誉良覚入真清居士
法音院覚誉良深貞心善大師

左写真は、左から左側面、
普光院念誉良勤常憶清居士
勤照院常誉良譲永念善大姉

左写真右は、碑の裏面

正 明治四辛未年十二月廿七日
法 明治二己己年六月二十五日」
以上は、碑表の2つの戒名に対応

隨光院良澤馨香清居士
慶応三丁卯三月廿六日

上記は、追加の戒名と没年。

そして、以下が左側面戒名の2名。
普 萬延二辛酉年七月上十日
勤 (没年の刻銘はなし)

さて、問題の右側面です。まずは、以下に記した写真を拡大して漢文・白文化してみます。文字切れは原文通り。

大野翁寿蔵碑銘并叙
夫壽蔵者始撰漢趙峽而壽家亦起於侯覧其称壽者蓋取久遠之意也而生壙即剏於唐司空圖圖遇
勝日引客坐壙中賦詩酌酒殊可謂曠達矣而三人者年八九十果能得久遠者也至于後代人寿漸短
杜陵所云七十稀者而皆忌其死不復預為家壙矣豈不惑耶北総相馬郡大房村有大野翁者今歳丁
夘年六十有四預作寿蔵于邑中塋域樹碑其上遠請余文余喜其曠達不敢拝之乃撮其行日翁名賢
字無遣俗称五平次伊賀矦別封本州香取郡南敷村里正成毛吉兵衛之弟少称周蔵既長為大野氏
嗣成毛氏以醸酒為業而名於焼酒伊賀矦毎夏献諸侯幕府下厨云於是大野氏農暇亦以醸酒頗資
生産其地為 幕府旗下数氏采邑邑主擢大野氏元本五郎右衛門及翁列之家宰給月俸許佩刀翁
崇尚儒学勉守倹素用一採椀数年而不易之昔者平洲先生受一磁椀於其師而終身奉之翁其類於
是歟翁之擁貲不敢目封富以賑饑救菑為己任是可以警世之不留心於愛物者矣翁之配大野氏為
五郎右衛門長女生女三人男二人鞠本州印旛郡富塚里正川上氏之子弘之輔為嗣配以長女次子
贅子江都四日市酒舗称下総屋義兵衛季女適印旛郡發作村里正田口善左衛門弘之輔先歿而有
三子長女為富塚村川上氏嬪次子岩次承家奉仕季女久遠田口氏岩次不墜家声亦以倹勤称于郷
銘曰
寿蔵表壽 俾翁久遠 世皆忌死 往而忘返 此碑一刊 喧伝萬本 擬翁所為 応恨其晩
慶応三年歳次丁卯秋八月江都處士枕山大沼厚撰 土浦雪江関思敬書

※ 8行目の闕字: 幕府の前の空欄は、幕府への敬意として1字空けしたものと思われます。

大野翁寿蔵碑右側面

[読み下し文]
大野翁寿蔵碑銘并びに叙
夫れ寿蔵とは始め漢の趙岐※1の撰にして、寿家もまた侯覧※2に起る。その寿と称するは久遠の意を取るなり。壙※3を生くるは即ち唐の司空図※4に剏(はじま)る。図勝日に遇うに客を引きて、壙中に坐して詩を賦し酒を酌みて、殊に曠達※5と謂うべし。而して、三人は年八九十、果して能く久遠を得し者なるや。後代に至り、人寿漸く短く、杜陵※6の云うところの七十にして稀なる者なり。而して皆その死を忌みて、復預め家壙を為(つく)らざるなり。豈惑わざらん耶。北総相馬郡大房村に大野翁なる者あり。今歳丁卯。六十有四。預め寿蔵を邑中の塋域※7に作る。碑をその上に樹て、遠く余に文を請う。余その曠達を喜び、敢えて之拝さずして、乃ちその行を撮りて曰く、翁名は賢(まさる)、字は遺るなし。俗に五平次と称す。伊賀候の別封、本州香取郡南敷村の里正成毛吉兵衛の弟なり。少(わか)くして周蔵と称す。既に長じて大野氏の嗣となる。成毛氏酒を醸すを以て業となす。而して焼酎に名あり。伊賀候毎夏諸侯幕府の公厨に献ずと云う。是において大野氏農暇にもまた酒と醸すを以って生産に資す。その地 幕府旗下数氏の采邑※8となる。邑主大野氏を擢(ぬき)んでて、元本五郎右衛門及び翁列の家宰に月俸を給し、佩刀を許す。翁儒学を崇尚し、勉めて倹素を守り、一採椀を用い、数年にしてこれを易えず。昔平洲先生※9一磁椀をその師に受け、而して終身これを奉ず。翁もその類なり。ここにおいてか、翁の貲(し)を擦するにあえて目封をせず。富はもって饑を賑し菑※10を救うを己の任となす。是以て警世※11の留まざるべし。心を物を愛するに留めざる者なり。翁の配大野氏は五郎右衛門の長女なり。女三人男二人を生む。鞠本州印旛郡富塚の里正川上氏の子弘之輔嗣となり、配するに長女を以ってす。次子贅子江都四日市の酒舗に嫁す。下総屋義兵衛と称す。季女適印旛郡発作村の里正田口善左衛門に嫁す。弘之輔先に歿し、三子あり。長女富塚村川上氏の殯と為り、次子岩次家を承て奉仕す。季女久田口氏に遠ぐ。岩次家声を墜さず、また倹勤を以って郷に称せらる。
 銘に曰く   寿蔵寿を表わす 俾翁久遠なり 世皆死を忌む 往きて 返るを忘る 此碑一たび刊すれば、萬本に宣伝さる 擬うらくは翁のなすところ まさにその晩(おそ)きて恨むべし

[tanupon 補注]
※1 趙岐(ちょうき): 後漢末の人物。『三国志』登場人物がここに現れるとは!寿蔵碑をつくった元祖でしたか。
※2 侯覧(こうらん): 中国の後漢末期の宦官。これも『三国志演義』に出てくる悪名高い十常侍の一人。
※3 壙(こう): 墓穴のこと。
※4 司空図(しくうと): 中国、晩唐の詩人・詩論家。『三国志』時代の官職名(司空)と同じ、中国では珍しい2字の姓。
※5 曠達(こうたつ): 心が広く物事にこだわらないこと。また、そのさま。豁達。(goo 辞書)
※6 杜陵(とりょう): 唐代の詩人である杜甫の号。
※7 塋域(えいいき): 墓地。墓場。
※8 采邑(さいゆう): 領地。知行所。采地。
※9 平洲先生(へいしゅうせんせい): 細井平洲。藩政改革で有名な米沢藩主・上杉鷹山の師として活躍した。
※10 菑(さい): 荒れた地。未開拓の地。
※11 警世(けいせい): 世間の人に警告を発すること。

大野翁の名は、賢(まさる)で通称は五平次、幼年時は周蔵。本州香取郡南敷村の里正(村長の意)成毛吉兵衛の弟。
長じて大野氏の嗣となりましたが、実家が酒を醸造していたため、大野氏となっても農閑期に酒造りを営んだとあります。
大野家の屋号を「さがや」(酒屋)というのはこのことからではないかと、文化学芸碑では述べています。
この碑の建立は、慶応3年(1867)秋八月で、大野翁は64歳。4年後の明治4年(1871)12月27日に他界しています。

大野家記念碑「おふくろへ」

前記「大野翁寿蔵碑」の真正面にあるのも、大野家の墓。立派な墓石の脇に、ユニークな記念碑を見つけました。

大野翁寿蔵碑

おふくろへ
精一杯生きて
いくこと
教えてくれた
あの日
あの時
あの笑顔
    子供一同

平成13年11月吉日 英二書

末尾の1行は、文字の色が黒く、
写真では見えにくいようです。

大野英二氏は、元教育長で、実は、
tanupon 所属の会の名誉顧問。
最初に墓地に訪れたときに尋ねた人が
携帯で連絡をとろうとした相手の人、
それがまさにこの大野氏でした。

大房の区長もされているとか。気さくな人柄でご親切なかたですが、最近ちょっとご無沙汰しております。
以下は、この碑に関して、文化学芸碑に寄せた大野氏の文章を転載します。
ご子息からこんなに慕われるとは、素晴らしいご母堂だったのでしょうね。

おふくろへのコメント 大野 英二
母は三十六歳で夫(私の父)を亡くし我々四人の兄弟を無我夢中で育ててくれた。
苦労している割にはいつも明るくおおらかで
父がいない寂しさなど感じることはなかった。
母のその姿を思い出すたびに一生懸命生きることの尊さを思い
明るい母の笑顔をいつも懐かしく思うのです。

▼ さて、さらに、通路を奥(東)に向かいます。今度は、右手にある墓碑。

玉川安信歌碑

これも、ほとんど墓碑に近いものですが、裏面に辞世の歌が彫られているので歌碑としました。
この玉川家の墓地区画も全体的に立派ですが、件の歌碑は、向かって右にある碑です。
上の台石は「玉川氏」ですが、その下の台石はちょっと見づらいですが「筆子中」とあり、寿蔵碑のようです。

玉川家墓 玉川安信墓碑拡大
玉川安信墓碑右側面 玉川安信墓碑左側面

上右の碑表は、
円誉良融貫通大徳
観誉良松妙寿信女

左写真左は、碑の右側面。
良曄暐光童女 安永四未正月晦日
良曄煥光童子 天明七子七月十五目
良然選廓童子 文化三寅正月廿一日

さて、問題は次の左側面。
文化五戊辰七月十五日
文化5年(1808)7月15日ですが、
これは没年でしょうか、それとも、
この碑の建立日でしょうか。

吉日なら間違いなく建立年でしょうが、
いずれにせよ、碑表の2名の没年は、
少なくともひとつは不明です。

玉川安信墓碑裏面 玉川安信墓碑裏面拓本

左が碑裏、玉川安信の辞世の歌です。
しかし、これはなぜか碑面の凹凸が激しく、
まったく解読することができません。

文化学芸碑では以下となっています。
安信辞世
其先かと 思ふ心を しるべとて
 遥かに陰せ 山の端の月

学芸碑では第一句の「先」の字が「者」とも読めるため、
「そのはかと思う心」の可能性もあると指摘しています。
このほうが破調ではないのですが、拓本から見ると、
やはりこれは「先」ではないでしょうか。


本  体: 高81cm、幅33cm、厚27cm。
台石上: 高27cm、幅45cm、厚41cm。
台石中: 高26cm、幅53cm、厚50cm。
台石下: 高39cm、幅68cm、厚73cm。

以下、文化学芸碑より抜粋転載します。

玉川家は、屋号を「医者殿」と称し、代々医を業としてきた。歌の主、安信もまた医師であったと思われるが、玉川家にはとくに語り伝えたものは何も残されていない(中略)江戸時代の玉川家では、息子が嘉蔵とか良助といった幼名を名乗る。ついで、元耕、玄真など若医者としての名を名乗った。その後に、玄瑞の名跡を継ぐのがならわしだったようである。(芦原修二氏)

なお、台石にある「筆子中」は、医師、玉川安信が近隣の子弟に読み書き・そろばん等を教えていたと推定されています。

▼ さて、最後になりました「百川翁辞世歌碑」は通路のさらに奥、「玉川安信歌碑」の斜め向かいに南向きに立っています。
「百川翁辞世歌碑」では分かりませんが、実は百川翁も「大野氏」一族。そして、冒頭の「大野野人」と深い関係があります。

百川翁辞世歌碑

ここもまた、中央に立派な「大野家先祖代々の墓」が建っていますが、主役は、右方の白いバベルの塔のような石柱。
石柱上段中央に「大野家代々之墓」その左右に右から「生譽良忠傾蓬轄善清居士」左に「忠譽良轉美妙蓬善清大姉
下段右から「精譽良勘戒道聞善清居士」「大譽良芳道百川善清居士」(これが百川翁)「芳譽良慧花妙力善清大姉

本体: 高157cm、幅35cm、厚31cm。台石: 高30cm、幅90cm、厚80cm。

大野家墓と百川翁辞世墓碑 百川翁辞世墓碑
百川翁辞世墓碑裏面 百川翁辞世墓碑拓本

この碑には左右側面には刻銘はなく、碑裏に各種彫られています。

夢の世に 夢に生れて 夢に死す 夢ならさるも 夢のうちなり
百川翁辞世 昭和己巳歳晩秋 城川書并建

生 明治十三年五月十六日
忠 仝 二十七年一月三十日
精 仝 三十三年一月九日
大 大正元年九月十三日
芳 明治四十三年八月十三日
    古池愛之進刻

百川翁は、大正元年(1912)9月13日没ですが、
彼の辞世の歌碑を建てたのは、書も含め、城川で、
昭和己巳とは、昭和4年(1929)晩秋となります。
城川は、百川の子と推定されます。

親子はいずれも、俳句や書道が好きで、
句会などを催していたといわれています。
それを如実に示しているのが前述した蛟蝄神社の句額です。

大野城川の句

蛟蝄神社の句額をよく見ると、なんと城川の句が3句も見つかりました。
下左の「明治十年旧九月十六日 興 百川」は、百川が亡くなる25年前の明治10年(1877)の興行と推定されます。
そして、それからちょうど50年後の昭和2年(1927)に、子の城川が催主となって句会を興行したのでしょう。
ちなみに、城川は、百川が句会を興行したその年、明治10年(1877)12月16日に生まれました。
不思議な縁ですね。ちなみに城川の没年は、昭和28年(1953)4月28日。本名は常吉。

大野野人句額左下部分拡大 城川の句 城川の句

蛟蝄神社の句額より

(写真右)
修静庵宗匠撰
秋祭り 神楽太鼓の ひびき哉
大房 城川

(写真中央)
野人撰其二
琴の音や 柴舟かほる 春の雨
大房 城川

(写真左)
祭りごとする 森や神代の ままならん
催主 城川後書

(13/08/17 追記・13/08/10・13/08/09・13/07/20・13/07/19 撮影:拓本等については『利根町の文化学芸碑第3集』より引用・転載させていただきました)


(16/08/26・16/05/21・13/08/17・13/01/20 追記) (12/04/03 追記・再構成) (06/06/25) (撮影 16/05/18・13/08/10・13/08/09・13/07/20・13/07/19・11/12/05・11/09/29・11/05/31・11/02/23・06/06/24・05/07/03)


本コンテンツの石造物データ → 子安神社石造物一覧.xlxs (14KB)