タヌポンの利根ぽんぽ行 蛟蝄神社奥の宮

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目  次



関連リンク


更新経過

▼ 2013年より石造物データをページ末に掲載するため
各コンテンツを順次見直ししていくことにし、ほぼ当該ページの再調査を終え、
2016年8月初旬には99%の更新を済ませました。

▼ 最後に残したのが、蛟蝄神社のコンテンツです。
石造物の詳しい調査も、もちろん行ったのですが、
2011年からはじまった神社の記念事業の進捗のこともあり、
すべての事業の完成をみて更新を、という計画もしていました。

▼ ところが、その事業の過程において、蛟蝄神社の基本的な由緒について、
望外の発見が重なり、石造物とは別次元での文献調査が必要になってきました。

▼ そして、それをまとめるのにかなりの時間を要しましたが、
ようやくここに若干の研究不足も残っていますが、再構成できる運びとなりました。

▼ 今回の大改訂においては、ボリュームが大幅に増えましたので、
あらたに「記念事業の経過」と「蛟蝄神社の祭事」をまとめた別ページを作成。
「蛟蝄神社奥の宮」と「蛟蝄神社門の宮」そして「蛟蝄神社の祭事と記念事業」。
上記の3コンテンツで構成しました。

▼ 蛟蝄神社には、奥の宮(本社)と門の宮との2社があり、少し離れたところに建っています。
ここでは蛟蝄神社の由緒の考察と、奥の宮の境内施設をご紹介します。
蛟蝄神社全般の基本的な由緒・沿革等については
蛟蝄神社門の宮蛟蝄神社とは をご覧ください。(16/09/08)


あらたな要素も加えて大幅に改訂しました。誤記等も修正。(11/01/22)


「蛟蝄神社」の内容拡大にともない、
「蛟蝄神社奥の宮」「蛟蝄神社門の宮」に分離し、再構成。(06/07/17)


当初タヌポンは門の宮が本社と思っていましたが、この奥の宮が正式な本社となります。
門の宮が朱色の鳥居など華やかなのに比べてこの奥の宮は質素な感じがしますが、
よく見るとなかなか風格があり、とても美しいと感じました。(05/02/14)


奥の宮所在地:利根町立木882 TEL:0297−68−7278


参考文献: 『蛟蝄神社由来記』、『利根町史』(第1巻〜第7巻)、『利根町の文化学芸碑』(第3集)、蛟蝄神社公式Website、『茨城の神社覚書T』、『茨城県神社誌』、『下総国旧事考』、『北相馬郡志』、『特選神名牒』、『角川地名大辞典・茨城県』、『神社事典』、『日本石仏事典』、『くずし字用例辞典』、『くずし字解読辞典』、『利根川図志』、『印西町の歴史』、『利根町の巨木とタブノキ』、『下總諸家小傅』、『利根川文化研究』、『ふじしろの石仏』、『利根町の絵馬』、『聯珠篆文』、『篆刻篆書字典』、『茨城の民俗』、『龍の起源』等々多数


立木地区周辺地図

蛟蝄神社の由緒と新発見

由緒の再確認

蛟蝄神社の由緒については、門の宮のコンテンツ 蛟蝄神社とは にて、以下の項目を設け、詳しく紹介しました。

ちなみに「由緒」という言葉は、以下のような意味ですが、ほかにもほぼ同様の言葉が使用されています。
由緒: 物事の起こり。また、今に至るまでのいきさつ。いわれ。現在に至るまでのりっぱな歴史。来歴。
起源: 物事の起こり。始まり。みなもと。
創始: 新たに物事をはじめること。また、物事のはじまり。
縁起: 物事の起こり。起源や由来。(以上 goo辞書より)
ほかに、『蛟蝄神社由来記』では「創祀」などという言葉も用いています。これらはほぼすべて同義といってもいいでしょう。

この「蛟蝄神社の由緒」について、史実として目に見える形で残されているものは何か、口碑・言い伝えはどの部分なのか。
それらをもういちど原点に立ち返って、調べてみようと思い立ちました。
とにかく利根町でいちばん古い歴史をもつ文化財ですので、きちんとした知識を得たいという思いでした。

そのきっかけは、2012年に始まった記念事業。その名目として以下のようなことが説明されていました。
なお、記念事業の進捗については「蛟蝄神社の祭事と記念事業」でまとめましたのでご覧ください。

素朴な疑問として、上記の「奥の宮の御社殿」とは本殿なのか、それとも拝殿なのか、また双方なのか。
300年ほど経て老朽化しているのは、どれであり、その根拠はどこにあるのか、ということでした。
この事に関して、事業の「解体工事」において、従来の蛟蝄神社に関する記述を塗り替えるような事実が判明しました。
それは、上記のタヌポンの記念事業そのものの名目への疑問と関係あることでした。まずはその新発見から、以下。

新発見1「拝殿の棟札」

300年前の根拠

この事業のお題目に「御鎮座2300年記念」ということのほかに、「約300年前の造営による老朽化」があります。
今回のコンテンツ再編成の主願として前者のことを後述したいと思っていますが、まず300年前の根拠を調べてみます。
300年前の造営とは、本殿なのか拝殿なのか、それとも両方なのか。本殿は修復にとどまるとしたら拝殿のように思えます。

拝殿と本殿の建造時期ですが、古い『広報とね』(第252号)の記述に対し、『利根町史』では曖昧な表現となっています。

▼ (奥の宮の)拝殿は明治期に造られたものですが、その奥にある本殿は元禄16年(1703)に建造されました。
元禄11年に建てられた門の宮の本殿より5年新しいだけですが、社殿の彫刻が簡素になっています。(『広報とね』)

▼ 慶長3年(1598)徳川家康の命により、松平信一の家臣鈴木弥次郎重村が奉行となり再建の記録もあり、相馬郡一座文間庄28か村総鎮守と定められた。現本殿は元禄年間(1688〜)の再建である。(『利根町史』(第5巻)

『利根町史』ではとくに「奥の宮か門の宮か」「改築されたのか修復なのか」「拝殿なのか本殿なのか」がまったく分かりません。
奥の宮は、本殿が元禄16年(1703)に建造されたが、拝殿は明治という『広報とね』の記述でまず考えてみます。
そうすると、老朽化は本殿であり、拝殿が築300年経過しているとは言えない、となります。さて、真実はどうなのでしょう。

ここで、『蛟蝄神社由来記』の登場です。「修復のこと」と題したリストが掲載されています。これを見て検討してみましょう。

『蛟蝄神社由来記』修復リスト

元禄11年(1698)から明治百年記念発行で昭和43年(1968)までのリストですが、冒頭に以下の文章が掲載。
『利根町史』の出典はこれでしょうか。それとも、徳川家康〜鈴木弥次郎重村云々は、もっと別の史料があるのかも。

式内小社とある故、往昔は国造県主等の所管にて修復されたと思われる・・・(中略)・・・徳川家康公江戸に封ぜられるや、領内名社として尊崇せられ、功臣藤井松平の祖勘四郎伊豆守信一に令し、陪臣鈴木弥次郎重村を奉行とし、慶長3年本社を修復せしめられ、同9年3月15日親しく社参せられ、社領五十石を献ぜられている。

以下、奥の宮の社殿(拝殿もしくは本殿・どちらか不明の場合も)と門の宮の同様の建物、その他のものに分別してみました。

年号 紀年 奥の宮件名 門の宮件名 その他件名
慶長3年 1598 修復※1
元禄11年 1698 再建
元禄16年 1703 新改築
寛保元年 1741 屋根替及修理 屋根替及修理
寛保2年 1742 屋根替及修理 屋根替及修理
天明7年 1787 屋根替及修理 屋根替及修理
寛政4年 1792 奥の宮石坂新設
寛政9年 1797 屋根替
寛政11年 1799 屋根替
文化5年 1808 修理
弘化2年 1845 屋根替及修理 屋根替及修理
安政5年 1858 小修理 大修理
明治10年 1877 修復 修復 山林栽植
明治24年 1891 奥の宮石坂再建(→ 石段
明治27年 1894 門の宮玉垣修復(→ 玉垣寄付連名碑
明治40年 1907 桜並木栽植
昭和8年 1933 本殿銅葺替 社務所新築(現 参集殿 か)
昭和13年 1938 奥の宮籠り堂新設
昭和15年 1940 奥の宮 賽銭箱 新調※2
昭和21年 1946 桜並木伐採
昭和22年 1947 門の宮鳥居玉垣水舎廻廊修復
昭和24年 1949 門の宮玉垣水舎廻廊修復
昭和31年 1956 拝殿大修復錏葺
昭和33年 1958 拝殿大修復錏葺
昭和35年 1960 本殿屋根修復 この年より毎年山林補植
昭和40年 1965 社務所修復
昭和43年 1968 門の宮鳥居玉垣修復

※1 『蛟蝄神社由来記』では「本社」つまり奥の宮の修復とあるが、門の宮前の「史跡案内標識」では門の宮の社殿の再建となっている。
※2 『蛟蝄神社由来記』では昭和22年となっているが誤謬。皇紀2600年(昭和15年)を記念して新調したもので、現存。

このリストからでは、奥の宮に関しては、明治では10年(1877)の「修復」しかなく、必ずしも拝殿かどうかも不明。
どの程度か不明ですが「拝殿大修復」とあるのは、昭和33年(1958)と、たった半世紀前です。
また、300年前という観点からは、元禄16年(1703)新改築が該当しますが、『広報とね』ではこれを本殿に限っています。
300年でなくても、数十年で老朽化はありえますし、式年遷宮のように適宜改築できるならそうしたほうがいいのですが、
お題目がどこまで正鵠を射ているのかがちょっと気になったタヌポンであります。

ところが、解体当日、上記のもやもやがすべて吹き飛ぶような「新発見」があり、「新事実」が明らかになりました。

蟇股

解体作業で見つかった拝殿の「蟇股」(かえるまた)部分。上から見ると、何か文字が見えます。
寛延四辛未年 建立之」。寛延4年とは、1751年で、約260年前ではないですか!

蟇股 蟇股上部拡大

棟札

棟札

そして、ついに、決定的な切り札、いや棟札が発見。

上から、「相馬郡 一座 蛟蝄神社 奥宮 文間兩大明神
寛延四辛未三月十六日 御拝殿 建立」。

この圧倒的な証拠物件の前では、『町史』も『広報とね』も『由来記』も
考証が甘く、不完全なものというしかありません。

何を根拠に「奥の宮の拝殿は明治の建造」などという論述が出てきたのでしょうか。
また、慶長3年もしくは元禄11年から明治100年までの細密な修復リストがあるのに、
この重大な改築の事実がスコンと抜けている『由来記』はどこまで信頼できるのか。

それはともかく。これにて、一件落着。
260年耐え抜いた拝殿にエールをおくります。

奥の宮は、本殿が、元禄16年(1703)、拝殿は寛延4年(1751)の建造」で、
いずれも老朽化し、修復もしくは改築が必要な時期にきていた
以上のことは間違いなく、妥当な事業計画であると言えるでしょう。

ちなみに寛延4年は7月12日改元で宝暦元年となります。

▼ 上記新発見の前に、すでにもうひとつの重大な事実が、宮司さんの指摘により、判明していました。
解体工事が2014年5月1日〜2日、そのちょうど1ヵ月前の4月2日の遷座祭のときの「ある重大な発見」。
それが何かを、以下、「第2の新発見」で紹介します。

新発見2「第2の神紋」

この発見は、実は解体時には、すでに宮司さんより知らされていて、その「重大な発見」をカメラに収めています。
そうです。これから紹介する、本殿に、それがあるのです。以下、解体工事後、約1ヵ月半経過したときの本殿の様子から。

本殿の扉の上

下の写真は、本殿修復前の扉と、その上部の拡大。

本殿の扉 本殿の上・拡大
本殿修復後の扉

遷座祭で、御神体を遷座するときに
なにげなく見上げた扉上部の蟇股の部分。
そこには、「左三つ巴」ではない別の神紋が・・・。

例大祭等でこの扉の開閉を何度も体験しているのに、
それまでこの紋が彫られていることに気付きなかった、と宮司さん。
扉の内部が重要で神事に没頭していれば仕方ないことでしょう。

左は、本殿の修復後の扉。
幣殿の左右両壁面が修復され変化していますが、
本殿扉そのものは、以前のままです。

神紋

屋根の神紋 左三つ巴

あらためて、蛟蝄神社の神紋を見てみましょう。
左は、すでに解体された拝殿の屋根側面。
左三つ巴の神紋が見えますね。
前記、本殿の屋根にも実は左三つ巴の紋が設えてあります。

布川神社も同じ紋(雨水桝と神紋)で、
これは多くの神社でも使用されています。

でも2つの神紋をもつ神社も数多くあることはあります。

新発見の神紋「五三の桐

五三の桐 五七の桐

左が「五三の桐」紋。
ちょっと異なりますが、安倍首相などがスピーチする台、
そこに刻まれた紋は日本の紋章である「五七の桐」(右→)。

日本の紋章には表紋と裏紋があり、
元々天皇家の表紋と裏紋でしたが、戦後、政府の紋章として踏襲。
パスポートにも表紙には菊のご紋、
その裏面の証明写真ページには五七の桐が印刷されています。

これに対し「五三の桐」も桐紋のひとつで、
皇室ほか室町幕府や豊臣政権などにも使用されています。

この由緒ある紋が、蛟蝄神社の「裏紋もしくは表紋」として使用されていたとは!

☆ ちなみに、この発見により、蛟蝄神社公式Website のタイトル部分・壁紙の神紋は2つ、
並立して表示されるようになりました。

それにしても、約300年前の元禄16年(1703)の改築記録が残っているのに、なぜこの紋は伝えられていないのでしょうか。
『蛟蝄神社由来記』も『利根町史』も「五三の桐」には言及なし。もっとも由来記のほうは左三つ巴の話もでてきませんが・・・。

これだけでも不可思議なのですが、実はこれに付随して、蛟蝄神社の創始に関わるまた新たな発見があったのです。
この神紋が蛟蝄神社の神紋となっていること、それがどのような意味を持っているのか。
そのことと符合するある重大な事実を、ほぼ時期を同じくして、記念事業とは別次元で、タヌポンは知ることになります。
これが、以下の新発見3「本殿棟木の墨書」です。

新発見3「本殿棟木の墨書」

前記の新発見「五三の桐」紋と、当表題の新発見3「本殿棟木の墨書」との関連について、説明したいところですが、
これらは実は、蛟蝄神社の創始・起源に密接にかかわる事項ですので、まず、そのことの再確認から始めます。

つまり、2300年前、孝霊天皇3年(紀元前288)に弥都波能売命を現在の門の宮の場所に祀ったということ。
この具体的な2300年もしくは紀元前288年という表記をしている文献等はあるのでしょうか。
また、文武天皇2年(698)というのも、具体的にそれを記す史実は存在しているのでしょうか。

史実存在の確認

蛟蝄神社HPの記述

蛟蝄神社の始まりは、約2300年前(紀元前288年)に現在の門の宮の場所に水の神様の罔象女大神を祀ったのが始まりといわれています。698年に土の神様の埴山姫大神を合祀し、水害や民家が近いという理由で詳しい年代は分かっておりませんが社殿を東の高台(現在の奥の宮)に神社を建てました。門の宮を取り壊すはずでしたが氏子崇敬者の声が上がり、御祭神の御魂を分祀し門の宮にお祀り致しました。

神社HPは、上記のように記されていますが、背景に文献があるのか、または言い伝えなのかは、この文章からは不明です。
この文章とほぼ同様のものが、門の宮前の「史跡案内標識」に記されています。以下に再掲します。

史跡案内標識(再掲)の記述

史跡案内標識拡大

蛟蝄神社は孝霊天皇3年(前288)に水神の弥都波能売命、文武天皇2年(698)に土神の埴山姫命をまつったのが、そのはじまりと伝えられています。記録にあらわれた最初は、延喜5年(905)に編集を開始した『延喜式』の神名帳で、「相馬郡一座蛟蝄(みつちの)神社」と書かれています。蛟蝄の名は、周囲が流れ海であったころの台地の姿が、水を分けて進む水蛇(みずち)に似ていたためといわれています。門の宮のある所は縄文後晩期貝塚(前2500〜前300)で、そうした古代のありさまをしのばせます。(後略)「利根町教育委員会 文化財保護審議委員会」

利根町教育委員会のお墨付きですが、
ここでも、孝霊天皇3年も文武天皇2年も「伝えられている」として
明快な論拠については記されていません。

『利根町史』「第4巻」の記述

よく参照する「第4巻通史(社寺編)」の中の地区社寺要覧で蛟蝄神社の項目を参照すると・・・。

『延喜式神名帳』に「相馬郡一座蛟蝄(ミツチノ)神社小」とあるのが、最古の資料であり、往古より民衆の信仰が厚かった。「祭神は、罔象女命(ミツハノメノミコト)1柱であったものが、ミツチをミツ(水)とツチ(土)と解して、埴山姫の2神を祭ったものならん」と、教部省『特選神名諜』は記す。前記『延喜式神名帳』の内、下総国では大社1、小社10座であり、司水の神として重んじられた。

上記には、約2300年前や合祀の時期等はいっさいなく、最古の資料は『延喜式神名帳』[延長5年(927)編]としています。
中で引用されている『特選神名牒』を調べてみましょう。

『特選神名牒』の記述

『特選神名牒』(とくせんじんみょうちょう)とは・・・『延喜式神名帳』の注釈書。教部省撰の全32冊。正史や古書、及び明治になって各府県にて作成された「神社取調書」や「神社明細帳」を参考に考証し、『神名帳』記載順に従い、各式内社の祭神・神位・社格・所在地等を記す。明治9年(1876)に一応の完成を見て以降、その手書本が内務省神社局に所蔵されていたが、大正14年(1925年)に洋装1巻本として磯部甲陽堂から刊行された。(Wikipedia)

『特選神名牒』 『特選神名牒』蛟蝄神社の記事

今按社傳祭神かくの如くなるは一説に蛟蝄の訓水土とかよふによりで附會せしものならんと云へれど和名抄に水神を和名美豆知とよめるを以て思ふに蛟蝄神即水神にて書紀に水神罔象女とあるにもかなへば社傅の説據ありて聞ゆ故今之に從へり

『利根町史』「第4巻通史(社寺編)」は、
上記を少し分かりやすく記したもののようです。
内容的には、具体的年代には触れていませんし、
すべて断定ではなく推定になっています。

ところが、おなじ『利根町史』でも、
「第3巻通史(古代・中世編)」に、
「蛟蝄神社の起源」と題して、
各種の文献を引用・照会しながらの、
詳しい論述が見つかりました。

『利根町史』「第3巻」の記述

『北相馬郡志』「蛟蝄神社」

蛟蝄神社の起源
・・・従来いわれていた蛟蝄神社の起源につき述べる事とする。次のような説がある。
『北相馬郡志』(野口如月著・1918)「蛟蝄神社」の条に、
  祭式祀の始まりしは孝霊天皇3年(前288)の御時なり。当時は水神、圀象女神
  一神なりしを、文武天皇2年(698)酉正月25日、土神、埴山姫神を合祀す。
  神号を安田明神と云ふ。
『蛟蝄神社由来記』(吉浜正次編・蛟蝄神社奉賛会発行・1968)には、
  記録によると、水神の創祀は孝霊天皇の3年(約2250年前)の事であり、相殿の
  神、土神の創祀は文武天皇の2年2月1日(約1270年前)であった。
『茨城県神社誌』(茨城県神社誌編纂委員会編纂・1973)「蛟蝄神社」の条に、
  孝霊天皇3年(前288)水神を創祀。文武天皇2年(698)2月1日、相殿に土神
  を祀る。
『角川地名大辞典・茨城県』(角川書店・1983)「蛟蝄神社」の条には、
  社伝によれば、孝徳天皇3年に水神が祇られ、文武天皇2年(698)に土神が
  合併されたという。(この場合の孝徳天皇は孝霊天皇の明らかな誤植であろう)

▲ 上記4誌の刊行年はタヌポン補足追記

『蛟蝄神社由来記』の冒頭「記録によると」というのはどんな記録なのか、知りたいところですが、それはともかく、
いずれも具体的な年号数値を掲載し、あたかも史実のように記されていますが、『利根町史』は次のように補足しています。

・・・諸説は、蛟蝄神社の始りは孝霊天皇3年(前288)に水神、岡象女神を祀り、文武天皇2年(698)に土神、埴山姫神を合祀したとしている。このことは、古来、その様に口伝されながら、民間に広く信ぜられていた証明にはなるが、史実と認めるには躊躇せざるを得ない。古代史にメスがあてられ、科学的に解明されるようになると、記紀に於ける神代や古代の初期の天皇(神武より開化まで)は、史実ではなく伝承であろうとの説が行なわれるようになる。孝霊天皇の実在を確めようとすると、否定的意見につきあたる。例えば、井上光貞は、日本歴史『神話から歴史へ』(中央公論社)の中で記す。・・・すくなくとも5人(孝霊天皇=大倭根子日子賦斗邇命を含む)の(天皇の)名は古くから伝わったものでなく、帝紀のできた継体−欽明朝につくられ、その後、記紀の編纂のころに、もう一度、荘重なものとされたのであろう・・・傾聴すべき意見である。この意見を尊重すると科学的には、孝霊天皇3年(前288)に蛟蝄神社の祭祀が始まったとするのは、根拠不十分である
さりとて、古代に官祭を行なっていた蛟蝄神社が、起源を語る直接証拠がないとして、縁起不詳、草創年代不詳として放置するわけにもゆかない・・・。

以上から、史実としてそれを証明する古文書等は見当らないが、口碑・言い伝えは確実に残されていることが分かります。
それにしても、文武天皇2年(698)酉正月25日とか文武天皇の2年2月1日というのは、口伝というには、詳細な文言です。
ほんとうに、どこにも「証拠となるもの」が残っていないのでしょうか。

そこで「新発見」の話に移りたいところですが、もう1冊、宮司さんから見せていただいた、もう古書では買えない本での紹介。

『茨城の神社覚書』の記述

『茨城の神社覚書』

『茨城の神社覚書』(鎌田啓司著・昭和61年発行)には、件の創始について、
前述『角川地名大辞典・茨城県』が行なった誤植を踏襲しています。

・・・『延喜式神名帳』に「相馬郡一座小蛟@神社」と記す。『茨城県神社誌』は、当社の創建について、孝徳3年(647)水神を創祀、文武天皇2年(698)2月1日相殿に土神を祀るとする・・・

これだと『茨城県神社誌』自体が「孝徳」3年と誤記しているように思えますが、
実際はどうなのでしょう。神社誌は古書では4万円前後と高価であり、
またデジタルアーカイブもされていません。
閲覧するにも、水戸とか国会図書館とかにしかなく、ちょっと面倒です。
宮司さん宅の神社誌は永年の使用でかなり傷んだ状態とか。

神社誌のことはともかく、『茨城の神社覚書』の記述の中で、
『下総国旧事考』という文献からの引用がされていました。
また、志賀剛氏は『式内社の研究』などの紹介もあり、
そこにも興味深い見解が記されていました。(この古書も高価!)

『下総国旧事考』から、この項とは別の新発見4をすることになりますが、
その話はのちほど。

文献の探索

前述のように、蛟蝄神社の起源・創始に関する「具体的な史実」に関するものはなかなか見つかりません。
そんな中で、気になる記述が2点あります。

ひとつは、前にものべた『蛟蝄神社由来記』の記述の冒頭です。以下、再掲。

記録によると、水神の創祀は孝霊天皇の3年(約2250年前)の事であり、相殿の神、土神の創祀は文武天皇の2年2月1日(約1270年前)であった。

記録によると」の記録とは、いったい何を指しているのでしょうか。著者の故・吉浜正次家には『吉浜家文書』ほか
多くの古文書が残されていると聞きますが、そのなかにあるのかもしれません。あればぜひ拝見したいところです。

もうひとつ、同じ『蛟蝄神社由来記』にある「十六、法人化払下げのこと及社地解放のこと」にある記述。以下、抜粋します。

天皇親政時代、貴族政治時代、武家政治時代を通し、明治維新後も常に氏子、産子と共に発生し、倶に栄え、自然に国家と融合し、国教的立場を堅持して、民族の信仰、日本精神の指針となっていた神社(全国11万余社)は一宗教法人として新発足する事になった。法令により昭和21年神社は国家、地方公共団体の管理を離れる事になり、今迄の由緒に基づき、各神社に譲渡の処置が講じられた。各神社は夫々の宗教性の必要とそれを立証する附属書類を添付して申立を行い、国はその必要の理由を充分審査の上譲渡されたのである。当社に於いては立証添附書類不備なる為払下げが懸念されたが、吉浜正次方にて保管していた 旧名主取扱書類 中より之を求め漸く無償譲渡される事になった。

『旧名主取扱書類』にヒントがあるかも知れません。さらに・・・。

因に添付書類を挙げると、一、神社創杞の記録、二、祭神摂社末社の記録、三、社殿境内境外山林田畑等の記録、四、朱印状社領の記録、五、神官、祭礼式の記録、六、社格、氏子、信者の記録、七、由来記、八、神位宣旨の記録、九、幕府、領主との往復文書、十、皇太神宮の記録、他十数点。これらにより許可となり、後れて昭和26年実地測量の上登記を終り今日に至っている。

上記の中で気になるのは「七、由来記」。『蛟蝄神社由来記』の中に入れ子のように、また「由来記」があるのも妙ですが、
これはいったいどんな文献なのでしょう。具体的なものがあればぜひこれも拝見したいところです。

▼ さて、いよいよ、本題に入りたいと思います。

『S氏文書』の記述

話を戻し、新発見3のことへ。

▼ 新発見2「五三の桐」紋を知ったちょうどその頃、2014年の春のこと。
タヌポンは、偶然の事情で、ある方(以下、S氏)の記した「蛟蝄神社の起源に関する手書き論文」のデータ化をしていました。
それは4編あり、原稿用紙でトータル500枚を超える膨大なものでした。
ただ、いずれも時系列的に書き直しをたびたびされて4編になっているようで、
実質的には最新のもの第4編目の論文約180枚のデータ化をすれば、おおよそのことが判明するような内容でした。

▼ これをなぜタヌポンが・・・という説明は余談になるので割愛させてもらいますが、
未完成の論文を残したままS氏が亡くなって、資料館に置かれたままになっていたのです。
せっかくの研究成果もそのままにしておけば、だれにも知られず、いずれ紙データのバインダー論文は朽ちてしまいます。
かつては『利根町史』の編纂委員であり、蛟蝄神社の起源についての論述を担当されたS氏でしたが、
結果的には、『利根町史』の改訂もなく、追記することができず、論文自体も未完のままになってしまったようです。

▼ その膨大な原稿(以下『S氏文書』)を、時間があるときにテキストからワード化を少しずつ行っていた訳ですが、
「五三の桐」紋が発見された時を同じくして、論文の中に驚くべき記述を見つけました。それが以下。

棟木の墨書

文武天皇二年 大和國より遷座す

この墨書が「奥の宮本殿の棟木に記されていた」というのです。その下りをタヌポンの文章で以下、まとめました。

▼ 平成8年(1989)1月23日、蛟蝄神社で2月11日に斎行される建国祭の下打ち合わせが行われた日のこと。
同席されていたKY氏との雑談での話。KY氏が18歳の頃、氏の父とともに奥ノ宮の本殿の銅葺き工事に立ち会ったとき
本殿の棟木に下記の墨書を見つけた、というのです。
文武天皇二年、大和國より遷座す
この「棟木の墨書」は恐らくいまも残されているでしょうが、再度、葺き替え工事でもしない限り見えにくい場所にあるようです。
この「重大な新事実」を前にして、S氏は、3篇目の論文で仮説・研究されていた大和の「丹生川上神社」を想起。
それが「最後の遺稿」とも言える4編目の論文を記すきっかけとなったことは間違いないと思います。
新事実発見5日後にS氏は、3編目の論文を訂正するかのように、4編目の執筆にとりかかるのです。

※ 『蛟蝄神社由来記』「修復リスト」にある「昭和8年(1933)本殿銅葺替に符合します。

上記に付随して、『S氏文書』には次のように記されています。

奥ノ宮社殿は元禄16年(1703)造営。棟木の墨書は元禄16年に認められたものに間違いない。「ミツチ(蛟蝄)神社の祭神は、大和國の丹生川上神社より遷座された」との言い伝えが、元禄16年には、脈々として神社に生きつづけていたことを物語る。この言い伝えをしるした文献を筆者は(ほかに)見た記憶がない。貴重な資料である。(このことを知る前)昭和60年11月20日、調査のため奥ノ宮本殿内部に立ち入る。本殿内陣の壁書及び本殿内安置の神輿後側外部朱書を確認する。然し棟木は構造上、見ることは不可能であった。

▲ 私事ながら、実は、記念事業で本殿の修復工事があり、屋根の銅板の葺替えも行った、と宮司さんより後で聞きました。
そのとき、立ち会っていれば、棟木の墨書を見つけカメラにおさめられていたかもしれません。
「タヌポンさん、棟木を調べてみたいと言ってたのに、なぜ、来なかったんだろうと思ってたのですよ」なんて!
ちょうどその時、面倒な私事が重なっていましたが、本殿の棟木まで確認できるような修復工事はないと早合点していました。
まさに、痛恨の極み。でも、宮司さんも数多くの過去の修復の内容の文章ばかりで、それらしいものは・・・。
またの機会はもうタヌポンにはもはや訪れないでしょうが、宮司さんとは「墨書があったことにしておきましょう」と(笑)。
いや、どこか隠れた場所に必ずあると、タヌポンは確信しています。KY氏の18歳時の健康な「視力」と「記憶力」を信じます。

「文武天皇2年」という史実が、ともかくも、ここに見つかったわけです。ところが・・・。

神紋と丹生川上神社

ところが、このことを知ったタヌポンに、例の「五三の桐」紋の発見が時期を同じくしてオーバーラップされます。

タヌポンは、これまでだれも知らないであろう、ある奇妙な一致を発見することになります。以下はタヌポン自体の発見です。

▼ 折も折『S氏文書』を知って間もない2014年4月2日、蛟蝄神社で拝殿等建替えのための「遷座祭」が行なわれました。
そのとき、友野宮司より、驚くべきことを聞きます。「本殿の扉上部に〈五三の桐〉の神紋が記されていた」
それまで、拝殿および本殿の屋根の部分に記されている様に蛟蝄神社の神紋は〈左三つ巴〉とされてきました。
長い歴史の中で八坂神社のように2種の神紋を併記している神社もあり、そのことはとくに奇異なことではありません。
ただ、そのあとで、『S氏文書』を読み、試しにネットで調べてみると・・・。

五三の桐は、丹生川上神社(中社)の神紋だった
丹生川上神社の祭神は、罔象女神」。

▲ S氏は「棟木の墨書」をまだ知らない第3篇の論文執筆時から、丹生川上神社と蛟蝄神社との関連に注目されていました。まさに慧眼です。

丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)は、奈良県吉野郡東吉野村にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社(官=朝廷、国)から幣帛ないし幣帛料を支弁される神社)で、現在は神社本庁の別表神社(神社本庁が定めた、神社本庁が包括している一部の神社)。二十二社(にじゅうにしゃ)とは、神社の社格の一つ。国家の重大事、天変地異の時などに朝廷から特別の奉幣を受けた。平安時代後期、後朱雀天皇治世の長暦3年(1039)に22社目の日吉社が加わり、白河天皇治世の永保元年(1081)に制度としての二十二社が確立したとされる。京から見て遠方の神社ではなく、主に畿内の神社から選ばれた。(Wikipedia)

タヌポンの仮説

以上のことから、タヌポンは以下のように推測、仮説をたてました。最初の2項目はS氏の論点と同様です。

つまり、蛟蝄神社の起源・創始は、2300年前(口伝)ではあるが、蛟蝄(こうもう)神社ではなく、みつち神社と呼ばれていた。

上記については、前述『茨城の神社覚書』に以下のような記述があります。

蛟蝄は、水霊(みつち)の化身としての蛇を祭った社であることは、その社名から明かであるが、志賀剛氏は『式内社の研究』に、「社名の蛟蝄は学のある郡司が古語の「みつち」に蛟蝄の文字をあてたもの」とし「思うに角の宮は、門の宮の義でもともとこれが蛟蝄神社であったが、あまり里に近いため、また水害を避けるため、いつの時期かに東方台地を開いて遷祀したが、その後も旧社をそのまま残して、本社(奥の宮)とこの角の宮を一体として祭り来ったもの」と記しているが、傾聴すべき見解であろう。

上記の後半については、タヌポンは「ちょっとニュアンスがちがう」と思いますが、前半の太字部分は同感です。
蛟蝄という漢字があらわれたのは、文武天皇2年に丹生川上神社から罔象女神を奥の宮に勧請し、正式に官社となったとき。
「門の宮から奥の宮へ遷座」ではなく2社は当初から存在、遷座とは丹生川上神社祭神のみつち神社への遷座という意味。
上記のように思うのですが、みなさんはどう思われますでしょうか。
これでは、やはり「こうもう神社」ではなく「みつち神社ではないか」という人もいるでしょうが、現・主祭神は罔象女神です。
文武天皇2年(698)に朝廷の官社となってから「みつち神社」は「蛟蝄(こうもう)神社」となったのです。
また「現在」の呼び方がそうであれば、それが現在の「史実」です。現代を記録しておけばいいことでしょう。

▼ 以上で、記念事業とともに、各種の「新発見」に遭遇しましたが、もうひとつ、すでに公式HPでも追加されましたが・・・。

新発見4『下総旧事考』

2016年夏、本コンテンツを含め蛟蝄神社全体のコンテンツの再編成の作業をしていたとき、
神社の起源等について宮司さんと話し、前述の『茨城の神社覚書』をお借りすることがありました。
その中の蛟蝄神社の項に『下総国旧事考』からの引用が数多くされているので、その本を調べてみようと思いました。
デジタルアーカイブでも見ることはできたのですが、古書(ただし影印刊行)もなんとかなる価格でしたので実物を購入。
蛟蝄神社の創始に関しての新しい史実は記されていなかったのですが、思いがけない記述が・・・。

『下総国旧事考』と相殿神

『下総国旧事考』

清宮秀堅著『下総國舊事考』とあります。影印刊行の解題によれば、以下。

清宮(せいみや)秀堅・清宮氏は下総国香取郡佐原の素封家で、代々文雅のたしなみがあった。幼時父母をうしない、刻苦勉励、主として父の遺した家蔵の和漢書を熟読して独力研究の歩を進めた。その志は経世済民にあり、年27の若さで名主に挙げられ、苗字帯刀を許された。天保中、佐原邑主の津田氏に仕えて士分に取立てられ、津田氏の財政を管理すること20余年に及んだ。「下総国旧事考」を草するに当っては、みずから山川を跋渉し、原野を彷徨し、あるいは遺文を旧祠古刹にさぐり、あるいは故事を金石文に求め、帰宅後、燈下親しく精査考証したことが「墓褐銘」に記されている。体系的かつ実証的な「下総国旧事考」は、著者の生活と学問が美事に結晶したもの。のち佐倉藩主堀田侯がその学問と治績を聞き、召して、厚く功労を歎賞したという。明治6年、新治県は編修地誌の官に、ついで権中講義の官に補せられ、明治12年10月20日、病んで自宅に没した。年71。墓は佐原の浄国寺。

明治38年2月に崙書房が活版で影印刊行した『下総國舊事考』は全8冊15巻あり、
印刷刊行されたものはこれだけのようです。発行者は孫の清宮利右衛門。
付録地図は、弘化5年(1848)に清宮秀堅刊行のものの版木が保存されています。

相殿神3神追加

『下総国旧事考』蛟蝄神社の項目

『下総国旧事考』の蛟蝄神社の項目部分を読んでいくと、
従来とは異なった神社の内容が記されている個所を見つけました。
それは、祀っている「相殿神」です。

・・・奥ノ宮、角ノ宮ト二社ナリ。社の傳ハ、奥ノ宮ハ罔象女、角ノ宮ハ植山姫ヲ祀ルトイヘリ。相殿、句句廻馳命、軻遇突知命、金山彦命・・・

急遽、公式HPの相殿神も、以下のように変更されました。

埴山姫大神(はにやまひめのおおかみ)
句句廻馳大神(くくのちのおおかみ)
軻遇突知大神(かぐつちのおおかみ)
金山彦大神(かなやまひこのおおかみ)
倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ)
素戔嗚尊(すさのをのみこと)
菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
誉田別大神(ほんだわけのおおかみ)
☆ 古文書の記述により、句句廻馳大神・軻遇突知大神・金山彦大神の3神が
従来からの相殿神であることが判明致しました。

水神と土神に加えて、木の神、火の神そして金(かね=鉄)の神も、という中国陰陽五行説になぞらえた配祀でしょうか。
調べてみると『北相馬郡志』もこの『下総国旧事考』を出典としたのか、同様の相殿神を記しています。

▼ 以上、最後の更新・再調査となった蛟蝄神社コンテンツ、思わぬ新事実が数多く出没、作業に1ヵ月以上、要しました。
以下、奥の宮の基本情報へ進みます。例大祭と記念事業は「蛟蝄神社の祭事と記念事業」をご覧ください。

奥の宮へのアクセスと石段

石段からのアクセス

蛟蝄神社奥の宮に行く方法ですが、門の宮前から続く広くはない道路から直接、境内に上がる石段が設置されています。
当初、タヌポンは、奥の宮の境内に行くには、この石段からしか入れないものと思っていました。
石段は、門の宮を出て東に約700mほど行くと左手に見えてきます。石段登り口左には風化した石柱が見えます。

奥の宮入口・立木環境保全地域 奥の宮入口・立木環境保全地域

奥の宮近辺はさまざまな貴重な自然の宝庫になっていて、立木緑地環境保全地域に指定されています。
その旨を記した標識(上右写真)も石柱の左脇に立っているので、入口はすぐ分かります。

奥の宮入口

石段の右手にも、左写真のように、
利根町指定有形文化財の標柱のほか
神社の案内看板が設置されています。

ちなみに、蛟蝄神社は、
奥の宮と門の宮両社の本殿、奉納されている絵馬1点、
そして史跡としての立木貝塚の3項目で、
利根町の有形文化財に指定されています。

社寺号標石

社寺号標石 社寺号標石裏面

石段上り口左に石塔が立っています。

それほど古いものではないのに、
風化が進んで読みにくいですが、
表面は「蛟蝄神社」。
裏面に「明治廿四歳四月十五日」。
明治24年(1891)4月15日造立ですが、
隣りの石段と同時期に造られたようです。

本体: 高82cm、幅32cm、厚18cm。

石段

石段

石段が75段。『利根町史』では77段、むかしの『広報とね』では76段と記載。
この差は「前の道路が舗装されたときに土盛りして2段分ほど高くなった」せいとか。
いずれにせよ、ちょっときつめです。鳥居の全容が見えて来る頃は、ふぅ。
やっと上って下を見ると、ひぇーっ!高所恐怖症のタヌポンは目が回ります。
石段途中に蛟蝄神社や交通安全祈願の赤い幟旗が立てられる場合もあります。
以下は正月時。祭礼のときにはちょうちんなどが設置されます。

正月時、石段上から

石段手摺

石段設置と同時期ではなく、
昭和8年(1933)に、
立木新田からの寄進で、
造られたようです。
(『蛟蝄神社由来記』)

登る時はとても重宝しますが、
上の鳥居の正面撮影の時に
とても邪魔になります。(笑)

石段の石柱

明治24年夏4月建立 石工銘

石段そのものについては、上った両サイドに、
銘文のある石柱が立っています。

左は「明治二十四年丣嵗夏四月十五日」。
明治24年(1891)夏4月15日の造立で、
当然ながら石段と社寺号標石も同時期。

ちなみに旧暦は4〜6月が夏。
丣は、卯の異体字で、うさぎ年です。
丣の下の妙な文字嵗は歳の異体字?

右の石柱は、「竜嵜町石工高橋長太郎」。
竜嵜は、龍ケ崎です。

古い町の広報誌では
高橋 太郎となっていましたが、
誤読でしょう。

左本体: 高44cm、幅28cm、厚22cm。
右本体: 高38cm、幅27cm、厚22cm。

裏参道からのアクセス

石段のすぐ手前(西)。蛟蝄神社への標識がでていますが、この坂道を登ると、奥の宮の「裏参道?」に出るのです。
この道があることに、タヌポンは長い間、まったく気が付いていませんでした。布川方面から来ると斜め逆戻りになるからです。
奥の宮の前の通りからクルマで境内へ行くためには唯一の手段ですが、布川方面からだと1回では左折しきれませんね。

裏参道へつづく道 e入口前の通り

もうひとつ車での別ルートとして、北東の大房方面から南下するように「裏参道」へ来る方法があります。
ただし、これは 特別養護老人ホーム「やまなみ園」 の敷地の中を通らなければいけません。
こちらのほうが道幅が広くて運転しやすいと思いますが、素通りするやまなみ園には恐縮しますね。
やまなみ園前でクルマを停めて歩いてきても、さほどの距離ではなく石段を上る苦労は避けることができます。

そして、もうひとつ。「裏参道」へと通じる道がほかにも。それはクルマが1台がやっとの細い路。
こちらのほうを上記の道より先にタヌポンは見つけていました。これは実は「秋の例大祭で行き来する重要な路」でした。
これについては、門の宮のコンテンツでポイントとともに紹介しています。(→ 奥の宮への道 参照)

境内の主な施設

鳥居

奥の宮の鳥居は門の宮のように木製ではなく御影石造り。両部鳥居ではない典型的な明神鳥居です。
右柱「天下泰平國土安全」、その下に「文政十丁𠅆年九月吉日」で文政10年(1827)の造立。(『利根町史』の11年は誤読)
ただし「文政十」以下はかなり風化して読みづらいです。左柱には「五穀成就萬民豊樂」「寄進 世話人中」とあります。
鳥居のすぐ前に石段と手すりがあり、また樹木の陰でいつも暗く、撮影は難物。裏側からの撮影は比較的容易ですが・・・。

鳥居 鳥居

利根町の神社のなかではいちばん大きいのではないでしょうか?布川神社 のほうかな?どちらかです。

→ こんなことを書くと、ちょっとまたむずむずしてくるタヌポンです。奥の宮と布川神社へ行って鳥居の高さを調べてこようかなどと。
その場合、どうやって測る?ヒモに錘を付けて投げ上げて鳥居にかけ、後でヒモの長さを測る・・とか。ああ、いつかやってしまいそう・・・
まあ、鳥居最下部左右台石の外のりを計測して、撮った写真の画面寸法とで比率計算する方法もありますが、誤差はありそう。
→ 暫定で計算してみました。本体: 高405cm、幅451cm、厚93cm(台石幅・柱は直径38cm)。布川神社の鳥居も測らないと・・・。

神額

神額

この神額も古そうですが、造立は鳥居と同時期なのでしょうか。
材質も色も鉛のような感じで、暗めなので、きれいに撮れません。
奥の宮の鳥居と神額を美しく撮るのはタヌポンの課題です。

タヌポン「これは金属製かなあ、銅製ですか?」
宮司さん「意外と石造りかも知れませんよ」
タヌポン「えっ、そうですかあ。色が濃いですがねえ」
宮司さん「でも、少し、欠けたところもあるみたいだし・・・」

写真拡大しても、欠損部分はよく分かりませんが、
左下に落款が2つあるような・・・。これも知りたいところですが。

いずれにせよ、改修するときが来ないと分かりませんね。

参道

鳥居をくぐると・・・参道。右手に手水舎、神燈と高麗犬(こまいぬ)いずれも1対、そして拝殿へと続いています。
記念事業で、参道も新しくなりました。右は2005年時。拝殿は無論、まだ新しい社務所もできていない時期です。
新・参道の幅を測定すると156cm。高さは5cmでした。

参道 参道2005年時

拝殿・幣殿と本殿

記念事業もほぼ終了し、拝殿・幣殿の改築と本殿の修復が完成。2016年夏時点では本殿の瑞垣を残すのみとなりました。

拝殿・幣殿と本殿

拝殿

拝殿

解体された以前の拝殿は、
寄棟造でしたが、
新・拝殿は、入母屋造。
銅板葺は変りません。

新しいということは、
やはりいいですね。

拝殿の天井画

拝殿内に入ると、天井に龍神の画が目に入ります。ただし、左の写真は本殿側に立って撮ったために、逆さまに見えます。
右に、本来の姿を右に掲載します。この画があれば、以前の「龍神大額」は重複してしまいますね。掲載しないかも。
作者は、日本画家、藤田飛鳥氏。(1976年京都府生まれ。東京芸術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業)

拝殿の天井画 拝殿の天井画

幣殿

幣殿

本殿と拝殿をつなぐ空間。
奥に本殿扉が見えます。
ここで、各種の神事が斎行されます。

祭壇の前に置かれているのは、
祝詞を奏上する時に座る厚畳
(あつじょう)。
重さ約30キロで、一人では
動かすのが大変、とのこと。

幣殿の天井画

幣殿の天井画

3人の画家による春夏秋冬4画が、描かれています。

拝殿の天井画は見る機会も多いと思いますが、
ここは奥まで入り込んで見上げないと見られません。

藤田飛鳥氏のほかに、日頃懇意にしていただいている、
日本画家、石村雅幸氏も画いています。
石村画伯は、巨樹の大作で、数々の受賞をされています。
(→ ブログ「日本画生活」 参照)

どれがどなたの作品か調べていないので以下、ランダムに。
天地左右もランダムですが、気に入ったものを4点紹介しました。

幣殿の天井画 幣殿の天井画 幣殿の天井画 幣殿の天井画

本殿

左は、記念事業による修復後。右は拝殿が解体された後、本殿を背後に7mほど曳いた後の写真、もちろん修復前です。
改築ではありませんので、以前と同様、神明造で、銅板葺。銅板葺替え時、タヌポンは都合で立ち会えず、残念でした。
屋根最上部の千木や鰹木は従来通りのようですが、欄干や内部の壁面などが、かなり細かく修復されたようです。

本殿 拝殿解体直後の修復前本殿

賽銭箱

拝殿前の賽銭箱。これだけは記念事業とは関係なく、そのまま置かれています。いや、前と後が以前とは逆になってます。
下左が現在の状態。本来はここに「賽銭」とか記されていたのではないかと思います。右は、現在裏面で、新調時の関係者。

社司 椎名貴一・社掌 友野武・仝 友野光・世話人 酒井コ一郎・吉濱義男・山田利七郎・飯塚幸三郎・佐藤祥太郎・地脇寅吉・玉川コ壽・大野美之助・古川太郎・山田武男・染谷晴次・建職 豊嶋國之助

社司・社掌とは・・・旧制で、神職の職名。府県社・郷社で、社司(しゃし)は社掌(しゃしょう)の上の位。祭祀・庶務を管理した。昭和21年(1946)廃止。(コトバンク)

賽銭箱 賽銭箱裏面

新調したのは「皇紀貮千六百年記念」「昭和拾五年貮月調之」、昭和15年(1940)2月。祝賀式典などが開催された年。

賽銭箱右側面 賽銭箱左側面

なお、昭和21年に廃止された旧制神職に代わり、宮司等の神職名になったようですが、「蛟龍の額1」の裏面にあったように、
友野武氏はその後昭和55年時点で、川原代八幡神社宮司となり、甥の友野光氏が当時の奥の宮の宮司となっています。
昭和15年の筆頭職の社司椎名貴一氏がどういう人物か未調査ですが、子息等、家系的に神職を継がなかったのでしょうか。

本体: 高64cm、幅150cm、厚67cm。


手水舎

参道中央右にある手水舎。正面は「獻備」と記されています。2016年8月には水道も完備されました。
手水舎の屋根のほか柱も4本に・・・等、近い将来には新しくしたい、と宮司さんはここでも意欲的です。

手水舎 手水舎

右側面には龍ケ崎の杉野氏3名の名が刻まれています。「龍崎 杉野勝太郎 杉野治兵衛 杉野六左衛門
左側面は「文化十年癸酉九月十三日 油屋傳兵衛管事」すなわち、文化10年(1813)9月13日の造立。

手水舎右側面 手水舎左側面

本体: 高40cm、幅105cm、厚46cm。

常夜燈1

立派な常夜燈、「御神燈」とあります。東日本大震災で両方が倒れたままになっていましたが、2016年5月にようやく修復。
もっと早く、という感もしましたが、当初は余震のこともあったし、その後、記念事業もあり、遅れてしまったようです。

常夜燈1

立て直したとき、「御神燈」と刻まれた面が、
参道向きに向かい合わせになっていたので、
宮司さんに話すと、直すときに立ち会いできなかったのと、
以前の写真もなかったみたいで・・・とのことでした。

ところが、タヌポンの撮った震災前の写真を見ると、
現在のとおりの向きに建てられています。
これは当初からこの向きだったのでしょう。
鳥居向き、つまり、参道から見て一対両方が
参詣者向きになるのが正しいと思うのですが・・・。

由緒のある燈のようで、以下、左右の銘文を見てみます。
便宜上、向かい合わせになっている面を正面と呼びます。

御神燈(左)

本体: 全高310cm。石垣: 高84cm、幅118cm、厚119cm。

表面

御神燈(左)正面 御神燈(左)正面拡大

参道を向いたこの面が本来の表面。
竿石と台石に力強く銘文が刻まれています。

竿石「御神燈
台石「江戸 京橋 講中

京橋というのは現東京中央区の京橋です。
江戸京橋の商人たちのようですが、
ここから遠方なのに、どんな縁なのでしょうか。

右側面

御神燈(左)右側面 御神燈(左)右側面拡大

参道を歩いてくるとこの面が見えますが、
前記のようにこの面は燈の右側面となります。

これも竿石と台石に銘文。
竿石「文政七甲申年九月吉祥日」で、
文政7年(1824)9月の造立。
台石「丗話人」。

世話人の内容は、以下の左側面で。

左側面・裏面

御神燈(左)左側面 御神燈(左)裏面

左が左側面、右が裏面。

左側面には竿石「天下泰平 講中安全
台石は「同 夘八」と「石工 仙吉

同 夘八の「同」とは、
台石裏面に列記された名前のうち、
末尾に記された名前の屋号の部分と
おそらく同一でしょう。

裏面は竿石が「願主 彌鹽」。
台石は読みづらいので次に拡大写真で。

下が台石裏面の拡大写真。10名列記されています。崩し字ばかりなので、誤読があるかも知れません。ご容赦ください。

御神燈(左)裏面台石拡大

木屋  平六
廣屋  金助
大嶋屋三右エ門
伊勢屋 伊兵衛
岸田屋 新兵衛
伊勢屋 與兵衛
蓬莱屋孫左エ門
内田 清右エ門
内田 小右エ門
松田屋 治兵衛

ということで前記「同 夘八」は松田屋夘八ということでしょうか。

御神燈(右)

本体: 全高310cm。石垣: 高86cm、幅118cm、厚116cm。

表面

御神燈(右)正面

参道を向いている正面は、左の神燈とは異なり、
竿石上部に小さく「奉納」とあります。
その下に「御神燈」。

台石は「願主 八鹽」。
これも内容的には、左の神燈と同一者「八塩」という人物ですが、
あえて字を変えています。塩の異体字すらも少し違っています。

左と右は、造立・奉納が同一でありながら、
銘文の書体がまるで違っています。
こちらの石工が別人なのか、撰文・揮毫した人がちがうのか。

右側面

御神燈(右)右側面

この燈の右側面は拝殿向きになります。
竿石には、「天下泰平 國家安全」。
左の燈と少し文言を変化させています。

台石には、以下、5名。

木挽町七丁目 松川屋勘右衛門
京橋北紺屋町 小松屋由右衛門
丸之内渡手廻 若者中
櫻田兼房町  河内屋久七
丸之内渡押  七五郎

左側面

御神燈(右)左側面

これが鳥居向きになる左側面。

竿石「文政七甲申年九月吉祥日」は、左の燈と同様。

台石は、右側面と同じように商人4名が列記。

新橋上葉町  武藏屋重右衛門
京橋西紺屋町 遠州屋富藏
京橋弓町   遠州屋吉五郎
京橋北紺屋町 蜑ョ吉兵衛

裏面

御神燈(右)裏面 御神燈(右)裏面竿石拡大

裏面から神燈を挟んで参道が見えます。
写真右は文字のある竿石の拡大写真。
願主 彌鹽」とあります。

表面と重複した刻銘。
ただし、また字を変えていますが、
御神燈(左)と同一です。

竿石は同一ですが、
御神燈(左)の場合と異なり、
台石には何も刻まれていません。

唐獅子

通常、狛犬・高麗犬と呼んだりしますが、『利根町史』に唐獅子と記されていました。

唐獅子

当然ながら常夜燈と同様、左右一対ですが、
一般に拝殿に向かって右を「阿」像、
左を「吽」像と呼んでいます。

造立は同時期と思われますが、阿吽で、銘文が異なります。
以下、個別に詳しく見ていきます。

唐獅子は、顔は斜めに参詣者を向いていますが、
像自体の正面は、阿像、吽像は向かい合わせで、
参道を真横から見る向きの面となっています。
これは前記、常夜燈と同様。あえて、こうしている?
「奉」「献」が彫られた面を参詣者向きにすると
唐獅子がそっぽを向きますし・・・。

阿像(右)

阿像(右)正面

「阿吽」自体がそうですが、右から左へと読みますので、
阿像の台石上段正面は「奉献」の「」になります。

阿像(右) 阿像台石正面

全高: 185cm。本体: 高66cm、幅38cm、厚83cm。台石上: 高38cm、幅39cm、厚68cm。
台石中: 高40cm、幅55cm、厚85cm。台石下: 高27cm、幅74cm、厚103cm。

[台石(上段)右側面]

阿像台石右側面

嘉永五壬子年 九月中澣之日」とあります。
中澣とは月の半ばの10日間。11日から20日まで。中旬の意。
したがって、嘉永5年(1852)9月中旬の造立。

左の吽像には、刻銘されていませんが、
同時期の造立・奉納と思われます。

[台石(上段)左側面]

左側面は、拝殿を向いたときに見える面。「信州上田侍従 源忠優矦」とあります。

阿像(右)台石左側面

源忠優矦とは、松平伊賀守忠優(ただます)。
幕府の老中を務め、200数十年間の鎖国を打ち破り、
開国の扉を開けた幕末の英傑。
文政12年(1829)に上田藩主松平忠学の婿養子となり、
天保元年(1830)19歳で上田藩主に。
嘉永元年(1848)、37歳で老中になっています。
老中主席の阿部正弘と穏便・開国論を主張し、
鎖国・攘夷論の徳川斉昭と対立しました。

上田藩松平氏の祖に松平信一(のぶかず)がいます。
信一は天正18年(1590)5000石で布川に入り、
慶長3年(1598)には門の宮の社殿を造営しています。

吽像(左)

吽像(左)正面

左の吽像。台石上段正面には奉献の後半、「」と
難しい異体字が使用されています。

吽像(左) 吽像台石正面

全高: 190cm。本体: 高71cm、幅37cm、厚76cm。
台石上: 高38cm、幅39cm、厚69cm。台石中: 高40cm、幅55cm、厚84cm。台石下: 高27cm、幅74cm、厚105cm。

[台石右側面]

右側面の台石は上段と中段に崇敬者の名前が列記されています。上段13名、中段30名、計42名。

吽像右側面 吽像(左)台石上段右側面

[台石上段]

  北辺田 藤江新右衛門
  上佐沼 武田治左衛門
  北河原 木村  光悦
東奥山新田 蝸t治右衛門
   立ア 坂本文左衛門
   小巻 山田利右衛門
   堀□ 河ア屋 清六
   生板 大野 源兵衛
  下佐沼 藍澤 清兵衛
  北河原 大野  倉治
  上佐沼 石嶋傳左衛門
   高砂 宮本治左衛門
  □新田 吉原久右衛門

[台石中段]

吽像(左)台石下段右側面

大房   坂本文右衛門 坂本重郎右衛門 田口 又兵衛
     宮本 新兵衛 寺田 作兵衛 野口六右衛門
     宮本傳左衛門 高埜喜右衛門 大野与惣左衛門
     川口繁右衛門 染谷 徳兵衛 野口徳右衛門
     海老原七兵衛 渡邉 武兵衛 天野由右衛門
     升屋 喜三郎
立ア   小泉茂右衛門 浅野 久兵衛 土屋五右衛門
     高須甚右衛門 横田重左衛門 高須銀右衛門
藤蔵河岸 大野 藤兵衛 龍丁歩 川村 傳兵衛
宮渕新田 吉原 九兵衛 茨城 弥平衛 千代倉治右衛門
生板□  近江屋治兵衛 高須 羽根田平右衛門 龍ヶア 現鏡

[台石上段左側面]

吽像台石上段左側面

上部に「世話人」とあり、19名列記。

大房 高野奥右衛門 地湧源右衛門 大野 五兵衛
   坂本三郎左衛門 地湧太郎兵衛 坂本彦右衛門
   地湧吉郎兵衛 高野長右衛門 坂本重左衛門
   海老原□右衛門 高野源右衛門 䂖上 金兵衛
   大谷 忠兵衛 大谷忠左衛門 坂本彦左衛門
   立䂖  雄吉
立木 古川 佐兵衛 角田長右衛門 角田勘右エ門

[台石上段裏面]

吽像台石上段裏面

上部に「願主」とあり、6名列記。

大房  大野五郎右衛門
    寺田  蔵平
    佐藤佐治右衛門
立ア  𠰥泉 治兵衛
立木  吉濱市左衛門
上田副 藤原  萬敬

末尾に「蛟城田林直謹書」。寺田林直。文間明神祠碑 参照。

佐の崩し字


「佐藤」の「佐」は難解な崩し字です。

唐獅子と狛犬

唐獅子左

Wikipediaによれば・・・

飛鳥時代日本に伝わった当初は、唐獅子で、
左右の姿に差異はなかったといいます。
ところが、平安時代になって
それぞれ異なる外見を持つ獅子と狛犬の像が
対で置かれるようになります。
右側の獅子像が「阿形(あぎょう)」で口を開いており、
左側の狛犬像が「吽形(うんぎょう)」で口を閉じ、
古くは角を持っていたそうです。
しかし、その後、2頭の外見上のちがいが少なくなって、
現在では左右いずれの像も狛犬と呼ぶ、ということです。

しかし、蛟蝄神社奥の宮のこの一対は、外見上のちがいが少なくなった近世〜現代の狛犬ではなく、
飛鳥時代の当初に伝わった、左右の姿に差異はなかったときの唐獅子に立ち返ってつくられたのかも知れません。
町史編纂者が、あえて狛犬とはせずに、唐獅子と記したのはそういう意味なのかも、とはまたしても勝手な想像。


さらに、またしてもこんどは余談ですが、唐獅子、と言えば、
何といってもタヌポン世代は、「背中(せな)で吼えてる唐獅子牡丹♪」。
池袋文芸座、昭和残侠伝5本立て、オールナイト。
高倉健、池辺良のコンビがサイコーでした。
もう遠くなった昭和バブル前。ああ、懐かしくも怠惰な日々・・・。
(Youtube は3題目まで。4〜7題目の歌詞がいいんだけどなあ。あれっ、また消されてる。しょうがないね、違法掲載だからね。
では、また探して、と。あっ、こんどは5題目まであるぞ。作詞・作曲は水城一狼っていう人?ふうん)


社務所

2010年4月、拝殿右に新しく建てられました。ここで頒布している各種お守りは、蛟蝄神社オリジナルのもの。
定番の「うまく行く守り」や音の出る「かえるお守り」、ユニークなおむすび型「結び守り」など宮司さんのアイデア品で好評。

社務所 社務所

参集殿

参集殿

これは、鳥居の左手、境内の南にある参集殿。
当初はここに社務所の看板が付いていました。
新しい社務所が誕生してから、参集殿という名に変わりました。

▲ 『蛟蝄神社由来記』に昭和8年(1933)社務所新築とあります。

記念事業で、本殿を一時移動させたとき、
こちらに御神体を遷し、遷座祭を斎行しました。
拝殿が改築され、再度の遷座祭で本来の姿になるまで、
御祈祷などはこの参集殿にて執り行われました。

現在は、氏子の皆さんの集まりや、
各種の催し、多種の神事の道具等の管理・保管など
多彩な目的のために使用されています。

おみくじ結び処と絵馬掛け

おみくじ結び処と絵馬掛け

おもえば本コンテンツを立ち上げたときは、蛟蝄神社には、
おみくじ結び処も絵馬掛けもありませんでした。

社務所が新しく建てられたころから、拝殿前に絵馬掛け、
社務所の右隣りにおみくじ結び処ができました。

そして現在、拝殿改築とともに、両者は移動して、
境内の左手、写真の位置に並んでいます。
かなり多くのおみくじと絵馬が見えますね。

でも、これも暫定で、宮司さんによると、
将来、もっとしっかりしたものに造り替えたいとのこと。
だんだんグレードアップしていきますね。

境内の石碑・石塔など

蛟蝄神社奥の宮の境内には、庚申塔や石祠よりも、記念碑のような石碑が比較的数多く見られます。
石段から境内に入ったところの右側辺りから、奥へと順に見てみましょう。

中臣一万度行事塔

この塔は、東日本大震災で倒れたままになっていましたが、2016年再調査直前に修復されました。

中臣一万度行事塔 中臣一万度行事塔裏面

境内右手、神木の奥にある奇妙な石塔。
表面に「中臣一万度行事」。
門の宮境内にも同様の塔がありましたが、
当初はこの意味がまったく不明でした。

門の宮の塔は中臣「祓」となっており、
このことから、祝詞を1万回唱えた記念に
建てたものと分かりました。

詳細は門の宮の 中臣祓一万度行事塔 を。

塔裏面に「文化十五戊寅四月吉日」とあり、
文化15年(1818)4月の造立ですがこの年は
4月22日改元で文政元年となります。
門の宮の塔のほうが10年早い造立。

同様の塔が布川神社境内にも あります。

ほかに「両神主 村々講中」、両神主とは
奥の宮が友野家、門の宮が海老原家。

本体: 高145cm、幅36cm、厚23cm。

菊池翁壽臧碑

中臣一万度行事塔より少し奥(拝殿寄り)、参道向きに建てられています。背後の廃棄石祠類は現在撤去されています。
下右の写真はその碑の上部の拡大。「壽臧碑」の難しい篆字。寿蔵碑とは、まだ存命中に建てておく碑のことをいいます。

壽臧碑 壽臧碑上部篆額部分 壽臧碑台石部分

▼ 碑の台石には、「菊池翁門人等建」(右上)。横に小さく「大野巌謹書」とあります。
碑文の冒頭に、菊池蛟崖翁の名が見えます。この近辺に住み雅号を蛟崖とする菊池老人の業績をたたえる碑のようです。
碑文末に、「維時明治二十季歳次丁亥冬十月」とあり、明治20年(1887)10月の造立。
菊池翁は、名前「菊池清輝」・幼名「清吉」・長じて「太兵衛」・字「直亮」・号「蛟崖」・別号「水月舎」等呼ばれています。

▼ この碑文は、東京「大沼厚」の撰文と書、また碑上部篆額の壽臧碑の文字も揮毫しています。大沼厚は「大沼枕山」で、
幕末・明治時代前期に活躍し、江戸時代最後の漢詩人といわれた日本漢詩史上重要な人物と思われます。
碑表文は「高橋長」の鐫。石段の石柱 の石工が「高橋長太郎」で、これはおそらく同一人物でしょう。

『利根町史』によると・・・。

菊池蛟崖は、文政5年(1822)大房生まれで名は清輝、寺田林直(後述)にしたがって10歳のときから12年間、朱子学を学び、安政2年(1855)から明治初期まで18年間私塾を開き漢学を教授、師弟は数百人に及んだと言います。その後、大房小学校で教鞭をとり、退職後も塾を「東洋学舎」として再開、同郷出身の元陸軍大学教授、大野近之助を招いて青少年に英語教育を施したと言われています。

なお、「東洋学舎」は、茨城県南で英語を教えた最初の学校といわれています。
この学舎は、竜ケ崎中学(現在の竜ケ崎一高)が開校して英語の授業が開始されるまで続けられました。

白文と読み下し文

壽臧碑碑文

蛟崖菊地翁壽碑誌銘
聖人所教雖多而以文行忠信爲要忠是實心信是實理抑不有文則不能窮其理不有行
則不能踐其事也然而非常久則不能遂四教由是觀之以恒爲其本也下総相馬郡大房
村菊地翁清輝受學艮齋安積先生之門而就村校教授兒童凡經三十季當府朝之時準
里正賜俸米二人口又問詩於余殆過三十年而季年新正必入東都先訪余廬未曾有一
年之缺此事似易而太難者也豈非文行忠信有恒乎今茲丁亥新正沿例入都訪余頃者
卒然又復訪余余驚而問其故翁曰弟子之徒相謀將營生壙先生宣誌之銘之且持行狀
見示余曰諾矣急摘其略録之曰翁以文政五年壬午四月十七日生于本邨父通稱岩吉
母石島氏翁爲長男小名清吉長而稱太兵衛名C輝字直亮號蛟崖別號水月舎幼時以
村校之教員寺田蛟城爲師長成之後受其讓而為師得弟子之多及數百人可謂盛矣明
治維新之際此校暫付虚閉其七年官命開之翁蒙其選以爲勤務經數季而告老辭職漸
得寄娯於間事翁其貌如槁木其心如發花以是其詩C新流麗一年工一季亦爲忠信有
恒之故也翁娶石島氏生二女養支家之子周吉以長女配之翁家道之隆蓋由先考岩吉
勉勵農事而得無逸之逸也嗚呼營生壙者以趙岐爲先以司空圖范成大爲後其人物事
業雖大異皆文行忠信有恒者也翁之子孫及弟子能體此意則不翅家道之隆又得人物
之高也乃作銘曰 翁之筆圃 其耜有略 翁之書田 耨而能獲 學優道肥 可稱
天爵 子孫受之 素封非薄 况得壽藏 樂比邱壑 存没一致 軀魄長託
維時明治二十季歳次丁亥冬十月東京大沼厚撰并書又篆其額
                            高橋長鐫

[読み下し文]
蛟崖菊地翁寿碑誌銘
聖人の教うる所多しといえども、文行忠信を以て要と爲す。忠は是實心なり。信は是實理なり。抑(そもそも)文有らざれば、即ちその理を窮むる能わず。行有らざれば即ちその事を踐(ふ)む能わず。然り而して常久に非ざれば、即ち四教を遂ぐる能わず。是に由りてこれを觀れば、恒を以てその本と爲すなり。下総相馬郡大房村菊地翁清輝、學を艮齋安積先生の門に受く。而して村校に就きて、兒童を教授すること凡そ三十季を経たり。府朝の時に當り、里正に準じて俸米二人口を賜う。又詩を余に問うこと殆んど三十年を過ぐ。而して季年新正必ず東都に入り先ず余の廬を訪う。未だ曽って一年の缺あらず。此事易きに似て太(はなはだ)難きものなり。豈文行忠信にして恒あるに非ざらんや。今茲に丁亥新正例に沿いて都に入り余を訪う。頃者卒然として又復び余を訪う。余驚きてその故を問う。翁曰く、弟子の徒相謀り將に生壙を營まんとす。先生宜しくこれに誌し、これに銘すべし、と。且つ行狀を持ちて見示す。余曰く、諾、と。急ぎその略を摘りて、これに録して曰く、翁文政五年壬午四月十七日を以て、本邨に生まる。父は通稱岩吉。母は石島氏。翁は長男爲り。小名(しょうみょう)は清吉。長じて太兵衛と稱す。名はC輝。字は直亮。號は蛟崖。別に水月舎と號す。幼時、村校の教員寺田蛟城を以て師と爲す。長成の後はその讓を受けて、師と為り、弟子の多くを得て數百人に及ぶ。盛んなりと謂うべし。明治維新の際、此校暫らく虚閉に付す。其の七年官命によりこれを開く。翁その選を蒙(こうむ)り、以て勤務を爲す。數季を經て老を告げて辭職す。漸く娯(たのしみ)を間事に寄するを得たり。翁その貌槁木の如く、その心發花の如し。ここを以てその詩はC新流麗にして、一年は一季より工なるも、また忠信にして恒有る故なり。翁石島氏を娶り、二女を生む。支家の子周吉を養いて、長女を以てこれに配す。翁の家道の隆んなるは、蓋し先考岩吉農事に勉勵して無逸の逸を得たるに由るなり。嗚呼生壙を營む者は、趙岐を以て先と爲し、司空圖范を以て大と爲す。後に其の人物事業大いに異ると雖ども、皆文行忠信にして恒ある者なり。翁の子孫及び弟子能くこの意を體(たい)さば、即ち翅(ただ)に家運の隆のみならず、又人物の高きを得るなり。乃ち銘を作りて曰く、翁の筆圃、其の耜略有り。翁の書田、耨してよく獲れ、學優れ道肥え天爵と稱すべし 子孫これを受く 素封薄からず。况んや壽藏を得て、樂しみ邱壑に比す。存没一致し、軀魄長(とこし)えに託すをや。

[語意]
文行忠信(ぶん・こう・ちゅう・しん): 孔子の教えの四大綱。文は学業、行は行動・実践であり、忠は忠誠・誠実、信は信頼・信義。「子以四教、文行忠信」(論語述而篇)
(つね): いつでも変わることなく同じであること。永久不変であること。(goo 辞書)
艮齋安積先生(ごんさい・あさか・せんせい): 安積信。後述 文間明神祠碑 参照。
(き): 時。時季。年。末年。
府朝(ふちょう): 幕府と朝廷の略。幕府と朝廷の交代の時。明治維新をさす。
里正(りせい): 郷里制の里の長。庄屋。村長。(Kotobank)
季年(きねん): 年の暮れの意。
(ろ): そまつな小屋。いおり。自宅を謙遜していう。(漢辞海)
頃者(けいしゃ): このごろ。近ごろ。頃日。(goo 辞書)
生壙(せいこう): 生前に自分でつくっておく墓。存命中に立てておく墓や寺院。寿冢(じゅちょう)。寿陵。(日本国語大辞典)
行狀(ぎょうじょう): 生前の行動や業績・履歴などを記したもの。行状記。ある人物の日ごろのおこないなどを記したもの(goo 辞書)
寺田蛟城(てらだ・こうじょう): 寺田林直。後述 文間明神祠碑 参照。
間事(かんじ): 緊急でないこと。雑事。(漢辞海)
槁木(こうぼく): 枯れ木。(goo 辞書)
無逸の逸(むいつのいつ): 無逸は安逸を求めない意。遊楽にふけることなく。仕事にはげむことを楽しみとすること。
趙岐(ちょうき): 後漢代、京兆長陵の人。年九十余で、建安六年(201)に死んだが、先に自ら寿蔵(生前に作る墓)を作る。
司空(しくう): 中国の官名のひとつ。(Wikipedia)
筆圃 書田: 圃は畑の意。文筆。教育の道でも名声をあげ農事にも精励して財を成したという意を掛けて、この銘は誌されている。
耜耨(しじょく): 耜は鋤のこと。耨は草を刈ること。従って、この二句は文筆の道でも貢献したが計画的に農事に励み、管理も良いので、収穫も多かったの意を兼ねる。
天爵(てんしゃく): 天から授かった爵位。生まれつき備えている徳望。(Kotobank)
素封(そほう): 位や領土はないが、諸侯に匹敵する富を持っていること。また、その人。大金持ち。(goo 辞書)
邱壑(きゅうがく): 邱は丘。壑は谷。山水。世俗を離れた隠者の住むところ。


本体: 高218cm、幅131cm、厚21cm。
台石: 高52cm、幅147cm、厚70cm。

菊池翁と『下總諸家小傅』

菊池翁と『下總諸家小傅』

天保14年(1843)に女貞園が上梓した『下總諸家小傅』(以下『小傅』)に、
横須賀の北澤官知 と並んで菊池翁が掲載されています。

『下總諸家小傅』

『小傅』は、利根川流域の文化人列伝とも言えるもので、
流山から銚子に至るまで、とくに布川・布佐河岸中心に、
俳諧・国学・医師・和歌・挿花ほか多種に亘って、
秀でた人物を50音順に100名取り上げています。
菊池翁は35人目に挙げられています。


大房の菊池延年、字は輔仁、通稱は誠吉、清輝
と號す。また水月舎の號あり。書俳諧を好む。
發句に云「些ばかりあいて有けり雪の門」。

ここでは、延年が名、清輝は号、字は直亮ではなく輔仁と、
前述の説明と少し食い違いがありますが、同一人であることは確かです。
それにしても昔の人は、幼名・通称・字・号・諡号等々なんと多いことでしょうか。
タヌポンなんか、tanupon だけですよ。しかもハンドルネームです。

文間明神祠碑

氏神様の石祠からさらに奥に進むと、新・社務所の手前に文間明神祠碑が立っています。
早尾天神祠碑 と同様、ここには文間明神つまり蛟蝄神社の由緒・施設等々などの情報が記されています。
以下、写真右は碑の上部の拡大。碑文の全文は風化してないようで読めそうです。解読等にもチャレンジしてみます。

本体: 高241cm、幅120cm、厚14cm。台石: 高41cm、幅153cm、厚63cm。

文間明神祠碑 文間明神祠碑上部拡大
文間明神祠碑水神

表の碑文末尾に、「安政三年歳次丙辰三月」とあり、
安政3年(1856)3月の造立と判明。
また「安積信撰 寺田林直書 飯嶋一守𠜇」が彫られています。
この碑文は安積信が作成し、寺田林直(後述)が書いたわけです。
安積信(艮斎 ごんさい 1791−1861)は江戸後期の儒学者。
60歳で幕府の学問所昌平黌の教官も務めました。
左は石碑上部に彫られたみずち(水神)の図。

碑表白文と読み下し文

文間明神祠碑

石碑表面は、損傷はほとんどなく、目視も可能ですし、
写真でも鮮明に撮ることができます。ということで、以下。
文字は隷書体ですが篆書にも似ています。
は、次に続く言葉に敬意を払うための闕字。朱色は難読です。


文間明神祠碑
天之所以生萬物者陰陽二氣而巳二氣分而爲五行以成發育之功其
靈妙變化匪夷所思惟古昔聖帝明王通乎鬼神之情悉于幽明之故立
廟置祠使天下之人知敬神報功之義其旨深矣自異端之説蔓衍于世
而道微俗漓相率以奉異邦乾毒之鬼而不復察光王祭祀之深意是大
可慨也下総國相馬郡□□文間明神爲二十八邑鎭護之祠相傳祭水
土二神於此其水神曰罔象女神土神曰埴山姫命載延喜式祀典凡
遇水旱雨雹之災輒籲懇禱必有靈驗蓋孔子家語呂氏春秋所謂玄
冥后土之類也往昔有祀田附焉而騒亂之際爲梟雄所侵奪迄□□□
東照大君統壹天下賜璽地五十石邑民感戴至今祭祀惟虔今茲邑民
胥議欲使後世知茲祠之縁由而敬神徳於無窮也請余文又托寺田林
直書之以勒于碑其志有符於先生祭祀之意余弗辭而記之銘曰
   萬物森羅 水生土毓 維神不測 沕穆靈淑
   民致誠虔 厥應是速 蠲災斥害 殖茲百穀
   千載之上 祀典所録 百世之下 誰弗敬肅
 安政三年歳次丙辰三月     安積信撰  寺田林直書
                      飯嶋一守𠜇

読み下し文

天の万物を生ずる所以は、陰陽二気のみ。二気分れて五行となり、以て発育の功を成す。其の霊妙なる変化は夷(つね)に思惟する所に匪(あら)ず。古昔聖帝明王は鬼神の情に通じ、幽明の故を悉かにす。廟を立て祠を置き、天下の人をして敬神報功の義を知らしむ。其の旨深し。異端の説世に蔓衍してより、道微(かすか)にして、俗漓(うす)し。相率(したが)いて以て異邦の乾毒の鬼(き)を奉じ、復(また)光王祭祀の深意を察せず。是大いに慨(なげ)くべきなり。下総国相馬郡 文間明神を二十八邑鎮護の祠となし、水土二神を此に相伝し祭す。其の水神は罔象女神と曰い、土神は埴山姫命と曰う。延喜式祀典に載在す。凡そ水旱雨雹の災に遇えば、輒(すなわ)ち哀籲(あいやく)し懇禱す。必ず霊験あり。蓋し孔子家の語、呂氏春秋の所謂玄冥后土の類なり。往昔は祀田の附するあり。而して、騒乱の際、梟雄の侵奪の迄(およ)ぶところとなる。   東照大君天下を統一し、璽地五十石を賜う。邑民感戴して今に至る。祭祀惟(これ)今を虔(つつ)しむ。茲に邑民胥議して、後世に茲の祠の縁由を知り、神徳を無窮に敬まわしめんと欲するなり。余に文を請う。又寺田林直にこれを書き、以て碑に勒するを托す。其の志先生の祭祀の意に符するあり。余辞せずしてこれを記す。銘に曰く。
 萬物森羅。水は生じ土は毓す。維(これ)神は測れず。沕穆霊淑なり。
 民誠虔を致す。厥(その)應ずるや是速かなり。災を蠲(のぞ)き害を斥く。
 茲に百穀を殖(う)う。千載の上、祀典録するところ、百世の下、誰か敬粛せざらん。

難字の解読

碑文中の「在」 『聯珠篆文』の「在」

右から6行目、上から22文字。
この文字は「在」と推定できます。

『聯珠篆文』という書物で発見。
聯珠篆文(れんじゅてんもん)は、
池永道雲(いけなが・どううん)が
享保7年(1722)に著作。

池永道雲: 延宝2年(1674)−元文2年(1737)。江戸時代中期の書家、篆刻家。榊原篁洲・細井広沢とともに日本の文人篆刻の先駆けとなった。名は栄春、字を道雲、号は一峰のほかに市隠・山雲水月主人など。通称有右衛門。江戸の人。著作はほかに『篆海』『篆髄』『文字双珠』など多数。 (Wikipedia)

[語意]
: 難読文字。上記参照。(聯珠篆文)
哀籲(あいやく): 籲は、呼ぶ、神を呼ぶ。〔書経・召誥〕に「哀を以って天を籲ぶ」とある。(漢辞海)
懇禱(こんとう): 懇祷。ねんごろに祈ること。心を込めて祈禱すること。(Kotobank)
玄冥后土(げんめい・こうど): 水の神と土の神。(Wikipedia) 後述。
沕穆(ぶつぼく): 潜み隠れている。深淵で幽微なさま。(漢辞海)

うーーむ、なかなかの難文です。難字もいくつかありますし、上記の読みで疑わしい箇所もいくつか・・・。
銘文中で、呂氏春秋の所謂「玄冥」とは水の神、「后土(こうど)」は土の神を表しています。
水と土の女神を祀った蛟蝄神社ですが、冒頭から始まる陰陽五行説にまでその端を発するのでしょうか。
罔象女神と埴山姫命はたまたま水と土の神で、日本神道の神であり、道教的なものとは別のようにも思うのですが・・・。
ちなみに、五行説の残り、木の神は句芒・火の神は祝融・金の神は蓐収。このうち、道教では后土が最高位の地母神とか。
蛟蝄神社は、関東最古の水神を祀る、というふれこみなので、五行説は、タヌポンは、ピンとこないですね。
しかし、安積信も寺田林直も、ペダンティックな人たちだなあ、という印象。まあ、この時代の文化人はみんなそうかも。

▼ 碑の台石には「寺田蛟城諸門人」が造立したことが記されています。この碑文自体も寺田蛟城が記しました。
寺田蛟城の蛟城は号で寺田林直といい、大房村の折戸というところで私塾を営む塾頭であり、村の名主でもあったそうです。
書法に長けていて、篆書と隷書を得意としたとか。むかしは、利根町にも門人が集まる先生が数多くいたんですね。

寺田林直と『下總諸家小傅』

寺田林直と『下總諸家小傅』

前述の菊池蛟崖の師でもあった寺田林直。
弟子と同様に、『下總諸家小傅』にも掲載されています。
50音順ですので、林直は100人中、62人目に挙げられています。

大房の寺田林直。林氏。字は子信、通稱は茂兵
衛蛟城と號す。また貯雲堂とよぶ。臨池の技
を善くす。つねの師なし。其の運筆の㳒のごとき
はみずから得る所なり。傍ら俳諧を嗜む。

(臨池=書法、書道をいう語。また墨池ともいう。㳒=法の異体字)

法の異体字

つねの師なし、ということで、とくに師匠をもつことなく、
独学で書道の道を究めたということです。
菊池蛟崖のほか中谷の 近藤君寿蔵碑 の近藤直蔵も、林直の弟子でした。

[碑陰]

文間明神祠碑・碑陰 文間明神祠碑・碑陰拓本

碑の裏面には、寺田林直の紹介文が
やはり安積信によって作られ、
今度は林直の弟子の菊池清輝が書を担当しています。

寺田林直字子信嘗為大房村里正性謹直
而能愛民後辭職平生崇信 文間明神自
號蛟城又號佇雲堂蓋取罔象之義也善筆
札頗得文衡山書㳒尤長干篆隷又好學教
授有門人數百人安積信又織菊池清輝書

読み下し文

寺田林直、字は子信。嘗て大房村の里正たり。性謹直にして能く民を愛す。後に職を辭す。平生文間明神を崇信し、自ら號を蛟城とし、又、佇雲堂と號す。蓋し罔象之義を取る也。筆札を善くし、頗文衡山の書㳒を得たり。尤篆隷に長じ、又學を好んで教授し、門人數百人有り。安積信又織す。菊池清輝書

この文間明神祠碑には、地元大房の医師や塾教官等が名を連ね、「押戸大房は田舎の江戸よ」の矜持が伝わってきます。

★ 碑文解読では、書家の故・二見達夫氏にご尽力いただきました。また『利根町の文化学芸碑』第3集を参考としました。


▼ さて、こんどはまた鳥居のところにもどって、鳥居の左側を見てみましょう。
参集殿に向かって左側、石段・鳥居との間には2基の石碑が立っています。石段に近いほうから・・・。

記念碑

表面「記念碑」。碑陰の左に小さく「大正十二年十月吉日建」、その下に「布佐町 石工 大塚兼吉𠜇」が見えます。
大正12年(1923)10月に田畑や山林を「奉納」。その内容は「一 田 九反九畝九歩 一 山林 三反四畝拾三歩」。

参考)1町=10反≒10000㎡/1反=10畝≒1000㎡/1畝=30坪(歩)≒100㎡/1坪(歩)≒3.3㎡

記念碑 記念碑・碑陰上部 記念碑・碑陰左下拡大
記念碑・碑陰下部拡大

左は碑陰下部の拡大写真。

延喜式内蛟蝄神社
 基本財産造成者
  酒井徳左エ門 古川由右エ門 山田 宇三郎 吉濱巳之作
  山田  久七 飯塚  由平 染谷市右エ門 吉濱慶之助
  佐藤 茂源治 玉川  玄眞 大野 幸三郎 地脇 春吉
 發起人
  吉濱 芳之助 酒井 徳一郎 大野  金蔵 佐藤高之助


本体: 高217cm、幅93cm、厚15cm。台石: 高42cm、幅172cm、厚86cm。

石階寄付連名碑

記念碑の右、参集殿の左隣りで榊の木の背後に立っています。表面の篆額に「石階寄附連名」とあります。

石階寄附連名碑 石階寄附連名碑上部拡大
石階寄附連名碑裏面

碑陰には、左下に「明治二十四年弟五月念一日建立」「石工 大塚岩吉𠜇」。

明治24年(1891)5月21日の建立ですが、この年は前にどこかで記しましたね。
入口の 石段の石柱 です。1ヵ月のズレはありますが、なるほどこれで符合します。
」は、「廿」の呉音(ネン)をとったもの。念二なら22、念五なら25の意。
それより「」とは?第の異体字で「だい」と読み「大の月」の意味としましたが・・・。

ちなみに、陰暦12月のことを「おとごづき」(文字は、乙子月、弟月)
もしくは、「おとうづき」「おとづき」と呼びます。
音だけを採用し「おとごづき」を「弟五月」と記したのなら、12月建立ですが、
もしそうなら、「念」といい、石工とは、なんとまあ遊び心がある人たちでしょうか(笑)。

難字はともかく、石段(石階)を建ててまもなくの記念碑であり、
これがその寄付名簿、というわけでしょう。
石工は、石段(石階)の石柱は竜ケ崎の高橋長太郎でしたが、
この石碑のほうは、布佐の大塚岩吉によるものです。
前記「記念碑」の石工大塚兼吉とは親子・親戚もしくは師弟関係と推定されます。

本体: 高228cm、幅102cm、厚29cm。

碑の表と裏だけでなく、左側面にまで、びっしり寄附関係者の名前300名以上が彫られています。
ちょっと書き起こしがたいへんでしたが、以下に記しました。でも、石工もこれだけ彫ると疲れたでしょうね。
さすがはこの地区の延喜式内社、立木・大房地区だけでなく近隣広くから、また東京からも奉賛を受けています。

寄附金は、以下のものを概算で足しあげると、約350円になります。明治24年の巡査の初任給が8円ということですので、
1円は現在の価値としては約2万〜2万5000円くらいでしょうか。そうすると350円は、850万円程度。
かなりの金額ですが、石段を造って、この石碑等も造立すれば、現代でもその程度はかかるでしょうね。

[表面上部]

 文間村立木         金七十銭 角田勘左エ門 金四円    地湧  周藏  金七十銭   關口  勇次  東文間村羽中
金七円    古川由右エ門  同    木村  弥市 同      坂本 傳之助  同      宮本 伊之助 金三円    齊藤 作兵エ
金三円五十銭 川上  嶋吉  同    古川 清三郎 金三円五十銭 菊地  周吉  同      中村  源造 金二円    古田作左エ門
同      山田  豊吉  同    海老原安之助 同      地脇  春吉  同      山ア  常吉 同      古田 猪之松
同      飯塚  由平  同    白戸  運平 金三円    坂本 儀三郎 文間村押戸          同      𠰥泉文左エ門
金二円    古川  市平  同    白戸  ヤス 金二円五十銭 野  源藏  金三円    關 彦右エ門 金一円五十銭 佐藤弥五右エ門
金一円五十銭 木村 兼三郎  同    本谷コ右エ門 金二円    寺田 茂兵ヱ  金二円廿銭  大越 清三郎 金一円    古田 作之助
同      染谷市郎右エ門 同    吉濱 芳之助 同      玉川  玄眞  金二円    杉山  佐市 同      𠰥泉  宇吉
同      吉濱 清之助  同    本谷  三藏 同      大野  留吉  金二円    關   豊吉 同      清水 与兵エ
同      染谷 惣四郎  同    玉   亀藏 同      海老原 平吉  同      飯田  繁柗 金七十銭   片岡 長三郎
金一円    山田 利重郎  同    飯塚  竹柗 金一円五十銭 䂖上  儀助  同      大越  熊吉 同      𠰥泉  要助
同      大竹  林海  同    山下  留吉 同      地湧 孝三郎  金一円五十銭 大越  儀助 同      𠰥泉伊右エ門
同      古川 吉次郎  同    上原  房吉 同      坂本 傳次郎  金一円十銭  大越伊左エ門 同      𠰥泉市左エ門
同      角田 庒兵エ  同    染谷  恒吉 金一円    野八郎左エ門 金一円    飯田  仲七 同      小貫 寅之助
同      酒井  熊治  同    飯野  倉治 同      野  嘉市  同      杉山  コ柗 同      片岡傳左エ門
同      海老原 宇平  同    飯野  仲藏 同      鈴木  政平  同      岡野  豊藏 同      宇山  文助
同      海老原 茂平  同    田口 久兵エ 同      地脇吉郎左エ門 同      飯田忠右エ門 同      齊藤 善兵エ
同      本谷 儀兵エ  同    蛯原  倉治 同      菊地 治郎兵エ 金七十五銭  大越  熊吉  東文間村福木
同      木村惣左エ門  同    大古 文次郎 同      關口 秀三郎  同      杉山  虎吉 金二円    飯塚 清兵エ
同      白戸 清兵エ  同    角田 富次郎 同      海老原七兵エ  同      野  寅治 金一円五十銭 八嶋治郎兵エ
同      吉濱  正作  同    上原  勇助 金七十銭   坂本  安治  同      杉山  玄道 金一円    助 喜右エ門
同      門間 久治郎  同    上原  勘次 同      田口 又兵エ  同      川村長右エ門 同      青木  儀助
同      染谷文左エ門  同    小川  廣吉 同      坂本 吉次郎  金七十銭   浅野  𠔥吉 同      白戸  歌吉
同      吉濱市郎右エ門 同    井原 惣兵エ 同      地湧 安之助  同      野兵左エ門 同      勝田  米吉
同      吉濱 七三郎  同    䂖井  良助 同      田口又左エ門  同      杉山  丈助 同      白戸  忠吉
同      渡邉 初三郎  同    田ア 粂太郎 同      加藤 清三郎  同      野  清治 同      片岡 松五郎
同      吉濱  亀吉   文間村大房      同      長谷川 源藏  同      岡野  直吉 同      䂖塚  琴治
同      陶山  忠義  金七円  大野 五平治 同      䂖引  春吉  同      川村五左エ門 金七十銭   齊藤 元之助
同      角田 市太郎  金五円  佐藤 茂源治 同      飯野 藤五郎  同      飯田  長吉        藤代  儀助
金七十五銭  飯野  藤七  金四円  大野 幸三郎 同      大谷  要助  金十円    文間村奥山         野口  幸吉
 東京日本橋區坂本町      印旛郡木下町平田    河内郡大宮村大徳       北文間村羽黒        東文間村立ア
金三円    大野 儀兵エ  金三円  稲村 辰治郎 金三円五十銭 武田  中平  金七十銭   酒井  世八 金七十銭   須能右エ門
 下総下埴生郡酒辺村北辺田  金一円  稲村 房治郎 金七十銭   福田仁右エ門  金四円    同北方中   同      呉東 鉄之助
金二円    藤江新五右エ門 金七十銭 村田  茂平 同      䂖嶋  藤吉
                仝 木下町      同      清原治左エ門
               金一円  小山  平吉

[表面下部]

 東文間村中谷         東文間村惣新田      金一円   坂田 佐兵二   文村中田切
金一円五十銭 橋 清次郎  金一円五十銭 小嶋 八太郎 同     市田 長太郎  金一円  海老原 徳松
同      近藤  臺吉  同      橋 久兵エ 金七十銭  川崎  喜吉  同    坂本 市太郎
金一円廿五銭 田上  運平  同      松永  泰助 同     市田 友次郎  同    櫻井  太市
金一円四銭  岩戸 コ兵エ  同      井原 弥兵エ 同     金子 松太郎   文村下曽根新田
金一円    橋 岩之助  同      井原 之助 同     木村 松五郎  金一円  星野 清之助
同      䂖塚 仙之助  金一円    鬼澤  貞治 同     海老原 仙藏  金七十銭 永田 岩治郎  文間村長沖新田
同      山中 長兵エ  同      鈴木  泉助  東文間村奥山新田     同    大竹  倉治 金一円四十銭 生芝藤藏
同      海老原 泰治  同      䂖井  年助 金一円   坂本 十八郎  同    油原 市之助 金七十銭 助川  梅吉
同      海老原藤太郎  同      䂖井 初太郎 金七十五銭 奥田 喜一郎  同    永田  長吉 同    糸賀  半藏
同      岩戸コ左エ門  同      柗永 政助   河内町生板村龍ヶ崎    同    小嶋武左エ門 同    川村 幸之助
金七十銭   田上  新吉  同      井原柗右エ門 金七十五銭 大槻  与八  同    宮本  利助  北文間村須藤堀
同      飯塚 伊三郎  同      䂖井  寅吉 同     大野 孝太郎   文村横須賀      金七十銭 矢口 喜三郎
同      直江  ノヘ  金七十銭   長谷 貞治郎 同     鴻巢  國吉  金一円  蓮沼傳左エ門 同    沼尻  藤助
同      山中  久作  同      勝村 粂之助 同     大野 傳四郎  同    篠ア又右エ門 同    渡辺  貞吉
同      海老原忠右エ門 同      䂖井 庄兵エ 同     大野 伊三郎   文村大平       同    渡辺 吉之助
同      大谷 弥兵エ  同      田口康左エ門 同     大野  藤平  金一円  五十嵐 清藏 同    沼尻友右エ門
同      岩戸 宇兵エ  同      田口  平治  河内郡上根本村       文村上曽根      同    中村  清助
 東文間村立ア        同      川村 嘉兵エ 金一円   鴻巢弥右エ門  金七十銭 鈴木  俊藏 同    沼尻  菊治
金一円五十銭 高須甚右エ門  同      古山  米柗  印旛郡戸神村        北文間村長沖     同    渡辺 幸四郎
同      大越 市五郎  同      勝村作右エ門 金七十銭  田久保 長吉  金一円  飯塚 長一郎 同    渡辺  磯吉
金一円    西峰市郎右エ門  東文間村加納        布川町          金七十銭 飯塚 喜太郎 同    渡尻  岩治
同      杉山 利源治  金二円    加納 織之助 金一円   豊嶋 喜三郎  同    飯塚 市之助 同    矢口 鉄之助
金七十銭   浅野  竜藏  金一円五十銭 森田喜左エ門 金七十銭  長谷川政治郎  同    飯塚 淳之介 同    飯塚 金治郎
同      糸賀五郎右エ門 同      根本 浅次郎 同     中野 コ市郎  同    須貝  コ藏 同    中村 彦兵エ
同      土屋 五平治  同      櫻井 忠太郎 同     白井 宗之助   文村押付新田     同    小巻川 長吉
同      糸賀内藏三郎  同      笠井 清次郎 同     鈴木 音次郎  金一円  油原忠左エ門  川原代村
金一円五十銭 坂本 壽三郎  同      野口  恒吉 同     鈴木  嘉七  金七十銭 䂖橋  藤吉 金一円  櫻井  重助
金七十銭   岩戸  弥市  金一円    䂖塚 祐之助 同     海老原 兵八  同    鬼澤  磯吉 同    松浦治左エ門
同      横田  信助  同      鈴木  喜助 同     小嶋  半藏  同    坂本  佐七 金七十銭 木村 新九郎
                             同     橋  金七  同    飯塚  磯吉 同    廣瀬 傳兵エ
                             同     土屋弥五左エ門  北文間村豊田      印旛郡布鎌押付
                              文村早尾         金一円  中島  文治 金七十銭 加藤  勇齊
                             金二円十銭 早尾中     金七十銭 佐藤 安之助  河内郡生板鍋子丁歩
                             金三円廿銭 同羽根野中   同    嶋  周助 金一円  町田  鶴吉
                                           同    山ア 謙一郎  北相馬郡山王村
                                           同    山口伊左エ門 金一円  染谷  要助

[左側面]

金二十円    逓減補助      河内郡馴柴村馴馬        河内郡谷田町堺松
金三円丗八銭  會計補助   金一円  嶋巣 常藏 金七十銭      村松  丑藏
      東京本所区表町     同莖ア村上岩ア 同         大橋  冨藏
金一円     長谷川 庄藏 金七十銭 桺田 為吉          北文間村
      印旛郡本郷村中根 同    片野 七郎 金三円七銭     須藤堀中
金七十銭    勝志 松之助    布川町押付本田 金三円       長沖新田中
同       大野  啓治 金七十銭 小池權四郎          布川町内宿
同       岩井 伊三郎 同    中村 専平 金七十銭      渡邉  彦七
同       岩井伊右エ門 同    木村 和吉 金十三円七十八銭 各郡有志者寄附
金三円五十銭  中根中

[裏面]

文間村 立木 賛成員 山田  豊吉  仝   仝  仝   飯田  與助 仝   仝  仝   大竹  倉治 發願主  井原 弥兵エ
仝   仝  仝   川上  嶋吉  仝   羽黒 仝   酒井  幸八 仝  中田切 仝   櫻井  太市 仝    坂本 壽三郎
仝   大房 仝   寺田 茂兵エ  仝   豊田 仝   嶋  周助 仝   仝  仝   坂本 市太郎 會計主任 佐藤 茂源治
仝   仝  仝   菊地  周吉  仝   仝  仝   中嶋  文治 布川町一区  仝   中野 コ一郎 會計   飯塚  由平
仝   仝  仝   地脇  春吉  仝   仝  仝   佐藤 安之助 仝  三区  仝   杉野  平八 大賛成員 近藤  臺吉
仝   押戸 仝   大越  熊吉  北文間村長沖 仝   張貝  コ藏 仝  四区  仝   長谷川政次郎 仝    大野 幸三郎
仝   仝  仝   飯田忠右エ門  仝   仝  仝   飯塚 源之助 仝  二区  仝   豊嶋 音五郎 仝    橋 久兵エ
仝   奥山 仝   荒井 コ治郎  仝   仝  仝   飯塚 市之助 仝  五区  仝   居原  岩吉 仝    助川喜右エ門
仝   仝  仝   長嶋七右エ門  仝  上新田 仝   糸賀 清兵エ 仝  六区  仝   白井 宗之助 仝    角田 市太郎
東文間村羽中 仝   古田 猪之松  仝  須藤堀 仝   小巻川 長吉 文村 羽根野 仝   細田三左エ門 仝    野八郎左エ門
仝   仝  仝   𠰥泉文左エ門  仝   仝  仝   助川傳左エ門 仝   仝  仝   平野  新八 仝    染谷 惣四郎
仝   仝  仝   佐藤弥五右エ門 文村  大平 仝   五十嵐 清藏 布川町七区  仝   䂖塚 勘次郎 仝    吉濱 清之助
仝   福木 仝   飯塚 清兵エ  仝   仝  仝   五十嵐覺之助 仝   仝  仝   小池 權四郎 仝    玉川  玄眞
仝   仝  仝   八嶋治郎兵エ  仝  横須賀 仝   篠ア又右エ門 文村押付新田 仝   湯原忠左エ門 仝    松永  泰助
仝   中谷 仝   岩戸  コ柗  仝   仝  仝   蓮沼傳左エ門 仝   早尾 仝   坂本 辰之助
仝   仝  仝   海老原藤太郎  仝   仝  仝   坂本  晋齊 川原代村砂波 仝   木村 新九郎
仝   立ア 仝   西峰市郎右エ門 仝   仝  仝   坂本  宮吉 仝   中郷 仝   櫻井  重助
仝   仝  仝   杉山 利源治  仝  下曽根 仝   渡邉 清治郎 仝  道仙田 仝   松浦 小三郎
仝  惣新田 仝   井原 之助  仝   仝  仝   湯原 勝之助
仝   加納 仝   森田喜左エ門  仝  上曽根 仝   飯嶋 嘉兵エ  明 治 二 十 四 年 弟 五 月 念 一 日 建 立
仝   仝  仝   根本 浅治郎  仝   仝  仝   鈴木五左エ門
仝 奥山新田 仝   坂本 小八郎  仝   仝  仝   䂖橋  藤吉                     石工
北文間村北方 仝   須  太助  仝 下曽根新田仝   星野 清之助                        大塚岩吉 𠜇

巨岩

巨岩

参集殿前から境内左奥に向かうと
大きな岩が5基も並んで置いてあります。
奉納されたものということですが、以前は2基だったのに
記念事業の最中にまた増えたみたいです。

とくに何かの記念というわけではなく、
業者のかたから奉納されたということですが、
でも、これを運ぶのはたいへんですね。

力石

力石

巨岩群の手前に置かれた、
巨岩よりはるかに小さい「力石」。

でも、この程度だから、人力でなんとかなるところ。
とはいうものの、タヌポンは非力ですので、
持ち上げて鍛えるなど、もってのほかです。
それではなくとも、石仏掘り起こし調査でくたびれてますので。

本体: 高24cm、幅64cm、厚26cm。

▼ さて、「巨岩軍」からさらに奥に向かうと、また石碑などがいくつか立ち並んでいます。まず手前のものから・・・。

高野充行歌碑

歌碑であることは分かりましたが、当初はさっぱり読めませんでした。変体かなと崩し字に若干なれたいまなら少し・・・。

高野充行歌碑 高野充行歌碑・碑陰

[碑表]

伊勢の内外の宮参せし人の
鎮守の御社にかへりまをし
するをことほぎて    高野充行
ねかふこと五十鈴の
 みやのすすのねの
きよきこころに
 ならへるはなし    青木仙吉鐫

[碑陰]

明治二十七年六月
 文間村
  大野 幸三郎
  菊池  周吉
  地湧  周蔵
  大越  儀助
  渡邉甚五兵衛

この歌碑は、文間村の大野幸三郎以下5名が伊勢参りをしたことを祝って高野充行が記念に歌をつくったものです。
高野充行(みつゆき 1833−1912)は、大房の人で坂本彦右衛門の次男として生まれ、後に高野家の養継子となりました。
幕末期に大房村の名主となり、明治には戸長、学務委員などを務めるかたわら学塾を開き地域の子弟教育にも功績があり、
退官後はもっぱら和歌に専念、盛んに歌会を催していました。本名源蔵、充行は字。明治27年(1894)6月の造立。

本体: 高133cm、幅102cm、厚10cm。台石: 高30cm、幅74cm、厚31cm。

伊勢太々連の手水

高野充行歌碑の右隣りにある手水。神紋の左三つ巴が彫られ当初、現在の 手水舎 の前の手水かと思ったのですが・・・。

左写真は正面ですが、この文字は難解で、町の書家の方他等といろいろ検討した結果、「清潔」であろうと。
清=浄で、読みは浄潔(じょうけつ)らしいのですが、この経緯は、子安神社コンテンツの 難解な手水鉢名称 で。

本体: 高49cm、幅112cm、厚42cm。

伊勢太々連の手水 伊勢太々連の手水右側面

さて、この手水の造立年ですが、調べてみると上の右写真。「嘉永七年歳在甲寅秋八月下澣」「蛟城田直書」。
これも蛟城田直の書、この難解手水鉢名称文字は寺田林直(文間明神祠碑 参照)の仕業でしたか!と、それよりも・・・。

嘉永7年(1854)秋8月下旬(澣は月の10日の意)とは、現在の 手水舎 の文化10年(1813)より新しい!これは?
新しく造立したものをこんな境内の片隅においたまま、古いものを従来通り使用しているとはなぜなのでしょう?

伊勢太々連の手水左側面 伊勢太々連の手水裏面

また、手水の左側面(左写真)には、「世話人」として以下。

野甚右衛門 地湧源左衛門
大野 五平次 菊池次郎兵衛

これらは大房村の有力者です。さらに、裏面を見てみると・・・。

手水の裏側は「伊勢太々連」と題して
大房村講中の名前が列記されています。

大房村
 寺田茂三郎
 桝屋喜三郎
 地脇 十助
 関口繁右衛門
 海老原市右衛門
 石上金兵衛
 地湧吉郎兵衛
 高埜源右衛門
 菊地太兵衛
 田口亦兵衛
 坂本重郎右衛門
 野長左衛門
 坂本彦右衛門
 野長右衛門

『蛟蝄神社由来記』巻末附図奥の宮図

この手水は、神社の一般の手水というより、
「伊勢太々神楽」に関連した
特別の仕様のものだったのではないでしょうか。

というのは・・・。

奥の宮図と神楽殿

左は『蛟蝄神社由来記』巻末の附図「奥の宮図」。
発行が明治100年記念の昭和43年ですが、
神社境内左手に「神楽殿跡」と記されています。
少なくとも明治初期までは神楽殿が存在していたと思われます。

ということは、この神楽殿に付帯した設備として、
この伊勢太々連の手水があったのではないでしょうか。

前記の高野充行歌碑も「伊勢参り記念」の造立でした。
さらに、後述する「伊勢太々紀念碑」もすぐ近くです。
「伊勢講」関連のものをこの付近に集めたのではないでしょうか。

宮司さんに尋ねると、
確かに現在の「巨岩」の辺りにあったと聞きました。
これで、不可解な手水のことも腑に落ちたような気がします。

直江真佐雄之碑

前記手水の右隣りの碑。碑文は達筆で例によって崩し字と変体仮名のオンパレード。最近、少しだけ読めるように・・・。

直江真佐雄之碑 直江真佐雄之碑・碑陰

碑表は、以下。

直江真佐雄之碑 海上胤平
美可幾都留 君可古〃路能 赤玉乃
 清起光者 世〃耳 久母良之
           大冢岩吉刻字

上記の歌部分は、君・赤玉・清・光以外は
すべて変体仮名。現代仮名に直してみます。

みかきつる 君かこころの 赤玉の
 清き光は 世々に くもらし

碑の裏面は
紀元二千五百五十二年六月十五日
直江門人建之
紀元2552年は皇紀で明治25年(1892)。
6月15日に門人たちにより造立されました。

本体: 高210cm、幅160cm、厚17cm。

直江真佐雄は、中谷村の医者直江弘庵の次男として生まれましたが、兄と2人の弟を亡くし直江家の世継ぎとなりました。
(→ 直江弘庵については、中谷集会所近辺「弘庵直江翁墓碑銘」 参照)
父の後を継いで私塾の師となり布川西小学校にも奉職、茨城師範学校の免状も取得した勉強家。本名は平次郎。
父の影響もあり敷島の道に学び、その師は、門人1000人に及んだ海上胤平(うなかみたねひら)です。
この碑の歌は、明治23年(1890)38歳の若さで世を去った直江真佐雄に師海上胤平が贈った追悼歌です。

海上胤平とは・・・歌人。下総生。賢胤の三子。通称は六郎、椎園と号した。加納諸平に国学を学び、のち歌塾を開き門人数千に及ぶ。明治新派和歌運動の先触となる。大正5年(1916)歿、88才。(コトバンク)

ところで、この石碑の石工「大冢岩吉」ですが、前述の 石階寄付連名碑 とほぼ同時期造立で、そちらは「大塚岩吉」。
これは同一人と考えていいと思いますが、土ヘンがないように見える「大冢」は「おおいえ」と呼ぶのでしょうか。

石工は大塚岩吉

大冢岩吉

部分拡大写真を撮ってきました。
なんと!「大家岩吉」に見えます。土ヘンがやはりありません。

これは、困りましたね。
他人の名はともかく、石工本人が自分の苗字を間違えるはずはないし・・・。

ほぼ同時期に、同地区で、しかも同職業で、
「大塚岩吉」と「大家岩吉」の実によく似た名前の人物がそれぞれいた?

こんな偶然が重なる確率は?・・・ほとんど、ないですよねえ。さて、真実は如何。

あれれ、ちょっとまってください。この「」の字ちょっとヘンです。
ウ冠ではなく、ワ冠だし、下方に点もあります。これは・・・!!!

ではなく、 と書いて「つか」と読むのです。(音は、チョウ)

したがって、石工は、大塚[=大冢](おおつか)岩吉、同一人と決定しました!

しかし、この時代、自分の名前すら、文字を変えて記したりするわけですか。
例えば、鈴木さんなら、署名で「須々木」とか記して平気なわけ?
現代では、別人としてとらえてしまいますね。

伊勢太々紀念碑

直江真佐雄之碑の右隣の「伊勢太々紀念碑」。碑陰上部に「大正二年三月吉日」とあり、大正2年(1913)3月の造立。

伊勢太々紀念碑 伊勢太々紀念碑・碑陰上部

伊勢太々とは伊勢太太講(だいだいこう)で、
中世末より近世、伊勢神宮の参宮を目的に
盛んに行われた講のこと。
いちどに全員は行けませんから、
旅費を積み立てて、講中から代表を選んで
交代で参詣しました。
太太神楽を奉納することから太太講ですが、
省略して伊勢講とも呼ばれます。
紀念碑は、講の発足かあるいは
代表の参詣時等を記念して
建てられたものでしょう。
「大」の字ではなく、「太」の字を用いて
「だい」と呼ぶんですね。

本体: 高99cm、幅59cm、厚15cm。

金伊勢太々紀念碑・碑陰下部

左は、碑の裏面下部。伊勢講中の名前が列記。

文間村大字大房
 大野五平治
 坂本傳之助
仝 村大字押戸
 關  豊吉
 飯田 仲七
 大越伊之助
 大越 もと
 關  まさ
 飯田 くに

▼ さて、この奥には、特筆するものはないようです。ここで、もういちど参集殿前までもどってみましょう。
蛟蝄神社門の宮 コンテンツへ移行させた、奥の宮への道駐車場 手前のポイントを紹介します。

金毘羅大権現と常夜燈

金毘羅大権現と常夜燈

参集殿近辺は、蛟蝄神社初訪問時より大幅に変わりました。
雑木等を伐採し、駐車場やトイレなどが整備されました。
その関係か、以前あった石祠なども若干移動したようです。
この金毘羅大権現の石祠も以前より立派になりました。

さらに過去をたどれば、この金毘羅大権現は、
菊池翁壽臧碑 の背後に鞘堂を持ったものとして
建てられていたようですが、風化が進んで結局、現在の位置に。
境内社として立て直しができれば・・・とは宮司さんの希望。

その後、こんどは東日本大震災のせいで、
再度、常夜燈などが倒れてそのままになっています。

金毘羅大權現

金毘羅大權現 金毘羅大權現石祠左側面

石祠表面内部に「金毘羅大權現
左側面に「天保十二辛丑十一月吉日」とあり、
天保12年(1841)11月の造立です。

本体: 高81cm、幅47cm、厚48cm。
台石: 高23cm、幅53cm、厚53cm。

[台石正面]

金毘羅大權現台石

[台石左側面]

金毘羅大權現台石左側面

[台石右側面]

金毘羅大權現台石右側面

講中」として14名列記。

友野伊勢
吉濱與五右ヱ門
川上彌左ヱ門
木村重右ヱ門
木村市右ヱ門
酒井徳右ヱ門
海老原□□
古川□兵ヱ
木村吉兵ヱ
木村惣右ヱ門
飯野仲右ヱ門
古川□□ヱ門
大埜□□ヱ門

左側面も14名列記

海老原武左ヱ門
川上新右ヱ門
白戸五郎兵ヱ
本谷徳右ヱ門
玉川與平治
吉濱喜平治
海老原藤兵ヱ
染谷左ヱ門
染谷□ヱ門
飯野□□□
吉濱市左ヱ門
吉濱彌五右ヱ門
吉濱庄右ヱ門

右側面もおそらく10数名と思われますが、
風化・欠損が激しく、ほとんど読み込めません。

後半、現在の利根町周辺からも「生板村」2名、
寺内村 佐原屋清兵ヱ」が見えます。

常夜燈2

常夜燈2竿石正面 常夜燈2竿石左側面

金毘羅大権現の石祠の側、
雑草に埋もれてしまっていました。

竿石部分だけを撮影。
正面「常夜燈」、
左側面に「安政四巳年九月吉日」で、
安政4年(1857)9月の造立。

笠石はそばにありましたが、火袋部分は、
やはり見つからない様子。
これは、立て直すより廃棄されてしまうかも知れません。

寄進リスト

『蛟蝄神社由来記』に「寄進のこと」と題して、元禄11年(1698)から昭和43年(1968)までのリストが記されています。
『由来記』は「明治百年記念」として発行、明治百年である昭和43年以降の寄進は当然、掲載されていません。
これに、本サイトで紹介したもので掲載されていない項目も加えて、以下、リスト化してみました。

▼ 『由来記』の明らかな誤読は正しい事実に修正。地色ピンクは本サイト未掲載の事項。地色黄色は由来記に掲載されていない項目。

年号 紀年 件名 寄進者 補足
元禄11年 1698 金襴の巻物・紺地金襴の巻物 松平伊賀守 未調査・不明
元禄16年 1703 御簾・御巻物 松平伊賀守 未調査・不明
延宝2年 1674 雄剣壱振・乗鞍壱領・鎧壱領
秀吉より拝領の桐華章の戎服という 一説に寛永年中とあり現在龍ケ崎某氏所蔵
松平伊賀守 未調査・不明
正徳元年 1711 絵馬大額(伝古法眼元信) 松平伊賀守 繋馬図
正徳4年 1715 手洗石 飯塚安兵衛・小沢与兵衛 手水舎(門の宮)
享保8年 1723 雄剣 壱振・竜蹄 壱疋 加納大和守 未調査・不明
元文5年 1740 庚申塔 同行邑中 庚申塔3
天明3年 1755 泉守道者石祠 施主 源左エ門 泉守道者
安永2年 1773 道祖神石祠 不明 道祖神1
安永5年 1776 庚申塔 不明 庚申塔4
安永8年 1779 天神宮石祠 神宮寺住法印定惟 本谷小九右衛門 天神宮
安永8年 1779 稲荷大明神石祠 神宮寺住法印定惟 本谷小九右衛門 稲荷大明神
天明3年 1783 御鷹帽子・御狩装束 加納大和守 未調査・不明
寛政3年 1791 桃園結義図 立木村・横須賀村・生板村19名 桃園結義図
寛政12年 1800 庚申塔 立木村講中 庚申塔2
文化5年 1808 神楽殿一棟・同面料 馴馬村新太郎 神楽殿
文化5年 1808 中臣祓一万度行事塔 氏子中 中臣祓一万度行事塔
文化6年 1809 道祖神石祠 下組十九夜講中 道祖神2
文化10年 1813 手洗石 竜ケ崎町杉野勝太郎・同治兵衛・同文右衛門 手水舎
文化15年 1818 中臣一万度行事塔 両神主・村々講中 中臣一万度行事塔
文政7年 1824 大灯籠壱対 江戸丸之内、京橋八塩講中 常夜燈1(由来記は文化7年と誤読)
文政8年 1825 灯籠壱対 横須賀村岩井重右衛門・弓削嘉兵衛 常夜燈(門の宮) 由来記は文化8年
文政10年 1827 道祖神石祠 吉濱庄右エ門 道祖神3
文政10年 1827 石鳥居 氏子中 鳥居
天保2年 1831 十五夜塔 宮前坪 女人講中 十五夜塔
天保12年 1841 金毘羅大権現石祠 友野伊勢外講中約40名 奥の宮 金毘羅大權現
天保12年 1841 神功皇后と武内宿禰図 大房村13名 神功皇后と武内宿禰図
嘉永2年 1849 伊勢講額 大房・立木村10名 伊勢講額1
嘉永5年 1852 唐獅子壱対 松平伊賀守及崇敬者67名
(由来記36名)
唐獅子
嘉永7年 1854 手洗石 世話人4名(由来記)・伊勢太々連14名 伊勢太々連の手水
安政3年 1856 文間明神祠碑 寺田蛟城諸門人 文間明神祠碑
万延元年 1860 庚申塔 不明 庚申塔1
文久2年 1862 韓信股くぐり図 世話人立木・大房15名 韓信股くぐり図
明治6年 1873 雨乞い図2 同郡下ヶ戸村中 雨乞い図2
明治20年 1887 菊池翁壽臧碑 菊池翁門人等 菊池翁壽臧碑
明治23年 1890 伊勢講額 文間村10名 伊勢講額2
明治24年 1891 石階寄付連名碑 寄附約300名 石階寄付連名碑
明治24年 1891 雨乞い図1 世話人大房村10名 雨乞い図1
明治25年 1892 直江真佐雄之碑 直江門人 直江真佐雄之碑
明治27年 1894 高野充行歌碑 文間村5名 高野充行歌碑
明治27年 1894 玉垣寄付連名碑 古川由右エ門外60数名 玉垣寄付連名碑
明治31年 1898 猿田彦大神 不明 猿田彦大神
大正2年 1913 伊勢太々記念碑 大房・押戸有志(8名) 伊勢太々紀念碑 由来記は大正12年と誤読。
大正4年 1915 伊勢講額 立木3名 上曽根1名 伊勢講額3
大正12年 1923 田九反九畝九歩
山林三反四畝拾三歩
基本財産造成者12名・発起人4名 記念碑
昭和2年 1927 句額 大房 野人ほか 句額1
昭和5年 1930 両社玉垣及石神祠 森河計三郎 未調査・不明
昭和8年 1933 石段手摺 立木新田 石段手摺
昭和13年 1938 籠り堂 文間有志 現在消失・跡地不明
昭和13年 1938 幟棚 大古啓三郎・上原茂 未調査・不明
昭和17年 1942 句額 遠山村十余三區一同 句額2
昭和40年 1965 絵馬大額 田中路人・酒井倉吉及世話人中 神馬図
昭和43年 1968 竜大額 田中路人・羽入憲太郎及世話人中 龍神大額

▲ 未調査・不明の寄進については、『蛟蝄神社由来記』以外に参考になる文献等は見つかっていません。

神木と境内の樹木

神木・スダジイ

神木

石段を登ったすぐ右手にある
ご神木のスダジイ。
かなり老朽が激しく、
幹が細くなっているようです。
もし、枯死するようなことがあると、
神木はどうなるのでしょうか。
巨木から選ぶのか、
神聖さから選ぶのか。

ヒマラヤスギ・タブノキ・サワラ・杉林

ヒマラヤスギ

奥の宮境内は保存緑地に指定されるほど自然が豊富。
スダジイ、タブノキ、スギ、チヂミザサなどの群落が見られます。

左は、参道左手に見える背の高いヒマラヤスギ。7〜8m位ありそうです。
以下に紹介したタブノキよりもっと大きい巨木もあるということなのですが、
さて、どのあたりでしょうか。

ヒマラヤスギは、境内中央に2本あるのですが、
近い将来、伐採しなければ・・・とは宮司さんの話。
というのは、根が浅く、台風とかでも倒れやすいのだそうです。
危険ですから、仕方ないですね。

以下はタブノキの巨木。
写真2枚目以下は境内右手。
サワラや杉の林となっています。

タブノキ サワラの木 林

閉ざされた抜け道

境内奥の林

左は、本殿の左の奥の林。
なにか道が先に続いているようで、ちょっと進んでみたくなります。

宮司さんの話では、昔は、大房方面に抜けられたそうです。
でも、いまは行き止まりということで、ちょっと残念ですね。
お聞きしていなかったら、またふらふらと
迷い込んでいたかも知れません。

タヌポンよりも数倍「古道」マニアの根本さんは、
すでにこの先に続く出口のほうからの探索チャレンジ済!
しかし、笹竹が無数に生えてまったくの隙間もない路のようで、
さすがの根本さんも、「古道開通」を諦めたようです。


(16/09/08 再構成) (14/04/10・13/11/03・13/10/30・13/10/12・13/10/11・13/09/24・13/07/26・13/07/21・13/07/19・13/04/22・12/09/06・12/05/10・11/10/11・11/03/07 追記) (11/01/22 再構成) (10/12/06・07/05/21 追記) (06/07/17 分離再構成) (05/08/09・05/02/22 追記) (05/02/14)
(16/08/28・16/08/24・06/08/19・16/07/31・16/07/30・16/07/28・16/06/30・16/01/01・15/12/31・15/12/25・15/12/15・15/10/26・15/08/29・15/06/30・15/01/02・14/06/28・14/05/10・14/04/10・14/02/13・14/01/04・13/11/02・13/09/29・13/07/26・13/07/20・13/06/05・11/03/05・11/01/19・11/01/02・06/09/16・06/06/04・05/09/17・05/08/27・05/08/13・05/03/20・05/02/11 撮影)


本コンテンツの石造物データ → 奥の宮石造物一覧.xlsx (16KB)