遠出はできないと思っていたけど、一生に一度はね。ということで。
フイレンツェに1泊してその2日目。イタリア紀行も気がついてみると4月8日に成田を発ってもう4月12日。いよいよ後半3日を余すところとなったわけだが、本来ならオプションをつけていなければ、この3日はフィレンツェ・ローマの2地区でわりとゆったりと行動できるところ。しかし、フィレンツェ2日目の貴重な半日をピサ観光に当て、その午後にはローマへ移動。翌日は1日ローマで自由行動のところそこにも丸1日カプリ島のオプションを入れてしまった。したがって、ローマはその翌日の最終日1日のみで、わずか3日間で、その間移動も含めてピサ、カプリ島、そしてローマと3ヵ所訪問となり、なんともあわただしい日程となってしまった。そのため、細切れでもそれだけの変化メニューがある分、もう旅行の終盤だなあという実感があまりわかなかった。それは楽しかった旅ももうすぐ終わりだなあ、という一抹の寂しさを感ずることがなくて済んだという反面、こうした旅愁のようなものを感じることもない、そのこと自体が淋しい、という奇妙な思いももつことになった。
フィレンツェの最後の香りを早朝散歩で
4月12日午前6時45分、ホテルの窓から。やった!連続5日の晴れ確認。晴れ男健在。 |
主に足を中心に少々疲労がでているが、やはり睡眠時間は少なく早朝から目が覚める。この日はオプション組は8:00ロビー集合でピサに向かい、昼の12時半ころフィレンツェに戻る。昼食は各自でとってすぐバスでローマに向かうことになる。したがって、早朝6:30にはスーツケースをまとめてルームの前に置いておかねばならない。6:30から朝食がとれることになっていたので、食欲もそんなになかったが少しは腹にということで7時過ぎまで朝食タイム。バイキング形式で、オレンジジュースがおいしかったぐらいでとくに印象はない。
さて、集合の8時までの時間は、やはり散歩に行くべきだろう。妻と娘は部屋に戻り、わたしはひとり早朝でだれもいないロビーやフロントを撮ったりしてホテルを出たのが7時20分ころ。8時まで40分、復路の時間を考慮すれば、足をのばせるのは20分だ。さあどこへ向かう?
ホテルは、地図上ではドゥオーモ広場のある街の中心部から西にはずれたところにあるが、フィレンツェの街自体がそんなに広くはないので、中心部へ向かって歩いたとしてもたいへんな距離ではない。ホテルからドゥオーモのクーポラあたりまで直線距離で1,200m程度である。
とはいうものの、わたしが、ホテルの正確な位置を地理上でしっかりと会得したのは帰国したあとで、つい最近のことなのだから、まったくの土地勘のない早朝散歩程度でどれほどの探索ができようか。出立前のわずかな時間、加えて方向音痴なのだ。
ホテル前を四方見回してなんとなくよさそうかなと南のオレンジっぽい景色の方角に足を向ける。
ホテルから少し北に見張り塔のような建物があり、寄って見上げてみたが??この先の見通しも? |
ホテルの脇を東に進めばドゥオーモ方面だが、このときはそんなことは知らないし、これも先が見えない。 |
ホテルの正面(西)は工事現場のようで柵があり行き止まり。南の方角にオレンジ色の街並みが見える。 |
美しいオレンジ色の街並みは川の対岸の景色だった。
アルノ川とヴィットリア橋
橋が架かっていたので、時計を見ながらその辺りにも足を進め撮ってみる。
帰国してから、撮った写真と地図等をもとに調べてみたら、川はこれは想像していたがやはりアルノ川であり、橋はヴェッキオ橋より4つ下流のヴィットリア橋(Ponte Della Vittoria)だった。
有名でもないこの橋でもこんなに美しい。
ヴィットリア橋のたもとへ向かう。川を見るとつい魚はいるのかなと思ってしまう。こんな川でのんびり釣りができたら最高だ。 |
ヴィットリア橋のさらに向こうの下流にも橋のようなものが見える。時刻は7時35分。ここまで15分。もう5分は奥に進めるが・・・。 |
ヴィットリア橋上から対岸の街を見る。この橋を渡りきって対岸の街まで見に行くのはさすがに時間が許さないだろう。 |
ヴィットリア橋から上流のA.ヴェスプッチ橋を振り返ってみる。右手に見えるクーポラは、サン・フレディアーノ・イン・チェステッロ教会。 |
カシーネ公園
ヴィットリア橋の手前、右方に目をやると広場のようなところに馬に乗った人物の彫像が見える。とくにほかには何も見当たらないように思えたので、時間も迫ってきたこともあってホテルに向かう。
いま調べてみると、ここはカシーネ公園といって、毎週火曜日の午前中に「カシーネの市」が開かれるという。日用品・衣料品がびっくりするほど安いとある。その日は日曜でしかも早朝だからいずれにしても市を見ることはできなかったわけだが、食料品など見てみたいものだ。
もう8時まで5分程度に迫り、小走りにホテルへ急ぐ。後から見れば分かりやすい道のりなのに、1本路地をまちがえたりして、冷や汗もかいた。
ピサといえばピサの斜塔。まあこれだけといってはおしまいだが、半日のオプションでは斜塔さえ見ればそれでいいという感じのものではある。事実ほとんどの人がそうなのではないだろうか。もちろん斜塔近辺は、やはり「ドゥオーモ広場」と呼ばれ、各種の歴史的建造物があるし、もっと余裕があればピサの市内、アルノ川下流の風景等々見所も多いと思うが、優先順位からいえば、フィレンツェ市内でまだ見所はたくさん残っているのにピサでそこまで望む人は少ないだろう。
フィレンツェからピサまでは西にバスで1時間半。トスカーナの美しい田園風景はここも健在。 |
復路でピサを出たところ。アルノ川?岸に少々白いゴミ?も見えるが、それでも景色はやはり美しい。 |
わたしとしては、こうしてイタリアを少し体験したいまは、同じトスカーナ地方なら、ピサと斜塔はもうよしとして、ピサから少し南のシエナがとても魅力的だし、西の南フランス方面に向かって、ジェノヴァとそのすぐ近くのリヴィエラ海岸、さらに音楽祭で有名なサンレモ、国境付近の小国モナコのモンテ・カルロはともかく、フランスに入ってニース、カンヌ、サン・トロペ、アヴィニョン等々の町がいよいよ蠱惑的である。こういうところへ行きたいと思う願望は果たして、もう叶えられるだろうか。
ピノキオの帽子のような屋根の魅力的な土産物店。これも一度も立ち寄ることなく素通りして広場へ。 |
ショッピングはできずじまい
現実にかえって、さて、ピサ半日観光。これはかなりあわただしいもので、斜塔に上る余裕もなく、現地ガイドにせきたてられるように見てまわり、土産物店等は買物はおろか満足に物色する時間もなかった。
朝8時にホテルを出発して、現地の広場入口に着いたのが9時半。12:30にフィレンツェに戻るための帰りのバス時間を差し引いて、ピサでの観光は正味11:00までの1時間半。この時間のなかで、日本からの添乗員が参加しないため、現地女性ガイド(日本人)は、ピサのガイドだけでなく、混雑に対しての機転やツアー客のセキュリティ等を最初からいっさい委任されたかたちとなるわけである。そのせいもあってか、広場に入った瞬間にまず20分程度のトイレタイムをとっただけ(しかもトイレが遠く時間がかかる)で、あとはいっさいわたしたちに自由時間をとらせようとはしなかった。
ときどきいいわけのようにいう言葉がふるっている。「スリが多いから」というのも注意すればすむことだし、「わたしは土産物店がきらいだから」というのはわけが分からない。そんな理由で自由時間をとらせないのだとしたら論外だ。もしかすると、土産物店の前に「アフリカの移民たちなんかが開いている」という言葉が省略されていたのかも知れない。ここでの「小さな(ウィンドウ)ショッピング」を楽しみにしていた妻と娘は大いに不満だったようだ。
難しいツアーのスケジュール管理
ドゥオーモ広場でも土産物店が立ち並ぶ。写真を撮るのが精一杯で何を売っていたのか見ていない。 |
これはおそらく12:30にフィレンツェに戻ることをどうも旅行社から厳重に義務付けされていたためだと推測される。それもひいては、フィレンツェで「待機」している添乗員が14:00同地発、夕方18:00ローマ着を遵守したいがためであろう。いままでの移動とはことなり、こんどは首都に向かう。入口での渋滞が大いに予測されるからだ。過去に時間が押して、昼食がとれなかったと苦情がでたり、さらにローマの夕食にまで影響が出たからなのではないだろうか。
しかしながら、この日はイースター祭当日の日曜日。旅行に出る前、店が休業のところが多いのではと危惧していたのだが、そんな数多くの店に行く余裕もなく開いている店だけで十分だったし、何よりもこの日までに、イタリア国民の休暇の移動がほぼ完了していて普段より道路が空いていたため、ローマへはすんなり到着することができたのである。
それならば、ピサでは、ショッピング等の自由時間がせめて30分程度はほしかったなどと、後の祭り的感慨。まあしかし、イタリアに来る前は実感として分からなかったが、これは結構、強行日程の欲張りツアー。ピサ現地ガイドの好き嫌いにはあきれたものの、添乗員のスケジュール管理とその苦労は、それはそれで理解できる。他人に振り回されることがキライで、心配性でもあるわたしなどには、とてもできない仕事だ。
ピサの予備知識
城壁に囲まれたドゥオーモ広場への入口。遠くに斜塔が見える。右下にイタリア(もしかしてスペイン?)美人も見える。 |
ピサ(Pisa)は、いまでこそトスカーナ州の人口10万程度の1地方都市に過ぎないが、古代ローマ時代から栄え、10〜13世紀には東方貿易でジェノヴァやベネチア、アマルフィと並ぶ4大海運王国として互いに繁栄と権力を競い合った。
ピサ共和国は、コルシカやサルデーニャまでも領土として繁栄、その輝かしい栄光は、ドゥオーモ広場の歴史的な建造物が物語っている。斜塔はもちろん、繊細なドゥオーモのファザードや、14世紀に建てられたレース細工のような洗礼堂などがドゥオーモ広場に集中している。
ドゥオーモ広場
1987年に「ピサのドゥオーモ広場」として世界遺産に登録されている。この右手にはシノピエ美術館がある。斜塔はここでは傾いていないように見える。 |
アーチ状の入口を入るとそこはドゥオーモ広場(Piazza del Duomo)。別名「奇跡の広場(Campo dei Miracoli)」と呼ばれるこの空間は、真っ白に輝く建物と緑の芝生が青い空に映え、その鮮やかな美しさが訪れる人を魅了する。ちなみに、広場の入口は西にあり東西に長い長方形の敷地で、写真の位置からが比較的構図がいいのだが、東向きで午前中は逆光になりやすいので注意。
入ってすぐ手前に見えるドーム型の建物が洗礼堂(Battistero)で、実はこの建物も少し傾いている。左側の白い建物はカンポサント(納骨堂: Camposanto)である。洗礼堂の真後ろがドゥオーモ(Duomo)でビザンチン様式の壮麗なファサードが見える。その背後に見える小さなドームと右横の出っ張った建物もこのドゥオーモの一部。そして、右後方に聳える鐘楼が、ピサの斜塔(Torre di Pisa)。見る角度によって傾きが微妙に異なる。斜塔の右奥に見える建物はドゥオーモ付属美術館(Museo dell'Opera Primaziale)で、ドゥオーモに関する資料や彫刻作品などが展示されている。また、この写真では見えないが、このさらに右側には、シノピエ美術館(Musio delle Sinopie)がある。
入場チケット
この5€ のチケットでは、洗礼堂、カンポサント、ドゥオーモ付属美術館、シノピエ美術館のいずれか1ヵ所に入場できるようだ。 |
今回の見学では、内部に入ったのは洗礼堂の1ヵ所だけだった。ガイドの説明ではどこでも入れそうに聞こえたが、時間的にもムリだし、チケットを見るといずれかひとつなんて書いてある。
この券でドゥオーモの中に入ったり、斜塔に登れるのかは分からない。斜塔については、ガイドは「登りたい人いますか」などと聞いていたが、あとで本で調べると登るには予約が要り、料金も17€ 程度必要という。この払い込みと予約は別途できていたのだろうか?もしできていたのならそれを最優先すべきなのではとも思う。しきりに少人数ずつしか登れないとかなんとかいって、わたしたちに登らせたくない雰囲気だったせいかだれも手を上げなかったが、わたしは時間があれば考えただろう。少し危険な様子なのと足首の疲れもあるが、ここまでの旅でかなり満足していたので、そこまで欲張らなくてもいいかと思ったのが本音である。塔の上からの風景を撮ることにはかなり魅力があったのだが・・・。(実際は狭く、すべりやすく、手すりも磨り減っている危険な螺旋階段で、デブ&高所恐怖症気味のわたしにはそうとうキツそうだ)
しかし、ドゥオーモの内部はどうなのだろう。洗礼堂と2つにひとつの選択だったとしたらどっちがよかったのだろう。ガイド女史(旅行社?)はすべてのなかから洗礼堂のみを勝手に選択したわけなのだが・・・。
→ 料金判明!やはりドゥオーモと斜塔はそれぞれ2€ と15€ の別料金がかかる。ただしこれが17€ のセット料金なのかは不明。これらの料金が旅行社からすでに払い込まれていたかどうかは依然として分からない。また、写真のチケットはこのドゥオーモと斜塔を除く施設のどれか1ヵ所が入れる5€ 券だが、どれか2ヵ所なら6€ 、全部入場できるのは10€ ということである。
洗礼堂
洗礼堂は、ドゥオーモ(大聖堂)の西側に建っている直径約35mの円筒形の建物。ディオティサルヴィにより1152年に工事が着工され13世紀にはニコラ・ピサーノ(Nicola Pisano)とジョヴァンニ・ピサーノ(Giovanni Pisano)の親子も建築に関わっている。工期は200年以上に及び14世紀後半にチェッリーノ・ディ・ネーゼにより完成した。全体は白大理石で、建物の下側が、向かい合うドゥオーモのファサードと同じ列柱回廊とアーチで装飾され、ロマネスク様式の特徴をよく表しているのに対し、上側の2層目の列柱の上はレース模様のようなゴシック様式の尖塔群で装飾されている。ドゥオーモのファザードに向かい合った扉が洗礼堂内部への入口で、扉の両脇にある柱には彫刻が施されている。また扉の上にはジョヴァンニ・ピサーノによる聖母子像のレプリカ(オリジナルはドゥーモ付属美術館蔵)が置かれている。
東側が洗礼堂入口。扉は東西南北それぞれにある。見学の出口はさて、どこだったか? |
西側の屋根の部分は、海からの潮風により腐食を受けやすいので、防止のためにレンガで覆われている。 |
上部はレース細工のように繊細なゴシック様式の尖塔群で装飾されている。 |
扉の上にはジョヴァンニ・ピサーノによる聖母子像、両脇には彫刻が施された柱が立っている。 |
洗礼堂内部
さて、ピサで唯一の建物内部の見学である。入口から中に入ると、円柱と角柱が交互に立ち並んで円を描き、2階席と天蓋を支えている。脇の階段から2階席に上ることができるのだが、こうした造りはマトロネウムと呼ばれるロマネスク様式なのだそうだ。2階席に登っていいのなら登りたかったが・・・。
[洗礼盤]
下に目をやると、中央に8角形の台座が置かれている。これは洗礼盤といい、13世紀半ばにグイド・ダ・コモによって作られた。洗礼盤の各側面には大理石のバラ型の装飾と繊細な象眼細工が施されている。しばらくすると・・・。
[音響効果の実演]
どこからともなく1人の女性が現れて洗礼盤の前で上を見上げた。彼女はボランティアで、ここで洗礼堂の音響効果の実演をしてくれるのだという。みんなが静まり返ると、高らかなソプラノで発声した。それは、ドーム天井の空間に響き渡りこだました。短いが、拍手喝采。アンコールはなし。
[説教壇]
1255年から1260年にかけて制作されたニコラ・ピサーノの処女作。上部が6角形になっていて各種のレリーフ・装飾が施されている。台座にはライオン像が彫られている。息子のジョヴァンニ・ピサーノもドゥオーモ内に説教壇を制作しているということだが今回は見られない。
大聖堂(ドゥオーモ)とそのファサード
やはりドゥオーモはドーム型とは限らないその証拠!でも後ろに小さなドームもあるが・・・。とても美しいけど太陽の向きがねえ。午後に撮りたいなあ。 |
緑の芝生が生える広場の中央に鎮座する大聖堂(ドゥオーモ)。1063年、海運王国のピサが、パレルモ沖の海戦でサラセン艦隊を破ったことを記念し、聖母マリアに捧げる大聖堂の建設が始められた。
建物の構造は、奥行きが95m、幅32mで、上から見ると、縦長で横木が軸木のやや上に付けられているラテン十字の形をしている。
建物内部には68本の円柱が立ち並び5廊式となっているが、その多くは戦利品としてパレルモの古代遺跡から運ばれたものともいわれている。内装はビサンティン様式の影響も見えるが、大聖堂の建築様式は11〜13世紀初めまでのロマネスク様式と考えられている。
やっと太陽が少しいい向きに。でも人も多いなあ。ときどき邪魔だ、どけーなんて・・・こちらもいわれそう。 |
ファザードの後ろ側の後陣(斜塔側)も優美な柱とアーチが並んでいる。 |
[ファサード(正面)]
ドゥオーモ正面には3つの青銅の扉、その上に4層の細い柱と小アーチを組み合わせた構造になっている。最下層はブラインド・アーチ(開口部のないアーチ)で構成され、ピサ様式の特徴でもある菱形模様で飾られている。右上の写真で分かるように後陣(斜塔側)の最下層のブラインド・アーチの上には、やはり2段の細い柱廊が載っている。ファサード全面には無数のアーチが5段にわたって美しく並び、2段目からは優美な柱が小アーチを支えるように並んでいる。
なぜ下が切れているのかというと、人だかりがそこにあるからである。光の具合といいなんとも残念。 |
アーチと菱形装飾の上は、優美な柱が4層に。柱は土台というよりこれも装飾の一部というのが妥当か。 |
[青銅の扉]
この中央の扉に「マリアの生涯」が描かれている。 |
中央扉の左のいちばん下の図。右下にはたしかに金色の犬が見える。真ん中上にトカゲ。カエルはどこ? |
ファサードにある3つの青銅の扉は1602年にジョヴァンニ・ボローニャによって作られた。
中央に「マリアの生涯」、左右2つの扉に「キリストの生涯」が描かれている。
「マリアの生涯」の扉の左部分に、犬、カエル、2匹のトカゲなどが描かれており、触れると夢が実現するとして多くの観光客等に触られてそこだけ光っているからすぐ分かるという。探したが、犬は右下に見つかったがカエルがどこにいるか分からない。トカゲも光っていないので自信がない。
一番左の扉の横には12世紀にドゥオーモの建築に着手した「ブスケット(Buschetto)の墓碑」があるというが、これはまったく見落としている。
向かって右側の扉には門番が立っている。ここがドゥオーモの入口らしいが・・・。 |
[ドゥオーモの内部]
建物内部には、ルクセンブルク皇帝の「ハインリヒ7世の墓」やピサの守護聖人の「聖ラニエリの墓」などがある。
また、身廊のほぼ中央にブロンズ製の「ガリレオのランプ」が吊り下がっているという。このランプの揺れをみてガリレオが振り子の法則を発見したというが、ランプができる前に法則が発見されているらしい。
ほかに、イタリア・ゴシック様式を代表する彫刻「説教壇」がある。これは前述のジョヴァンニ・ピサーノの14世紀始め頃の作。
鐘楼(ピサの斜塔:Torre di Pisa)
白大理石を用いた円筒形の8層建てで、296段の螺旋階段がある。高さは北側で54.8m南側で55.65m。外周の直径は17mにおよび、内径は約4.5m。建物全体の総重量は、14,453t(推定)。最下層はブラインド・アーチが並び、ピサ独特の菱形模様で飾られている。2層目からはドゥオーモの後陣の装飾と同様に、優美で細身の円柱の回廊が6層分取り巻き、最上階の鐘釣場にはひとまわり小さな回廊がのっている。塔の内部は直径7.7mの空洞となっていて、重心を内側に落とすよう工夫がされているという。
この位置から見ると斜塔がいちばん傾いて見えるという。ただし、ここも東向きなので午前中の早い時間は逆光になる。 |
やはり時間があれば登りたい。1日観光でないとダメかな。 |
[傾きを止めたある少女の素朴な発想]
斜塔の建設着工は1173年、設計者はボンナーノ・ピサーノといわれるが、近年ではディオティ・サルヴィ説が有力。幾度もの工事中断を経て1372年に完成。工事が長引いた原因は、着工直後から始まった塔の傾きである。着工時には垂直だったが13世紀には傾いていることが発覚。このため、塔は本来100m以上の予定のところ約半分の高さに計画変更せざるを得なくなったという。
少女が救ったピサの斜塔。でも地震が起きたらどうなのだろうか?やっぱり登るのは恐いね。 |
ピサはアルノ川が運んできた土砂の上にあるため地盤が軟弱で、地盤沈下を起こしやすいことが傾きが生じた主な原因とされている。事実、塔ばかりではなく洗礼堂ほか各種建造物も同様に多少なりとも傾いているという。
1935年、薬液を注入して地下水の浸入を止めようとしたり、沈み込んだ側と反対の北側におもりを載せることなど様ざまな方法を試みたが根本的な解決には至らず、1990年には一時立ち入り禁止となった。その後、世界各国の建設会社から様々な提案がなされたが、最終的に、北側の地盤を掘削するという工法が採られた。これはなんと北欧のある少女の素朴な発想だったという。そして2001年、10年間にわたる傾斜防止作業が終了し、一般公開を再開。現在の傾斜角は約3.97度で、傾斜の進行は止まっているそうで、少なくともあと300年は倒れる危険がないとの見解が出ている。
ちなみに、世界で最も傾斜している建物といわれていたが、15世紀に建造されたドイツ北西部エムデン付近の教会の尖塔のほうが傾いているとギネスブックが判定している。
また16世紀にガリレオ・ガリレイによる落下の実験が行われたとあるが、ガリレオがピサで実験を行った事実は無いのだそうだ。
カンポサントとシノピエ美術館
ドゥオーモの北側には、連続したアーチの美しい中庭回廊をもつカンポサント(納骨堂、Camposanto)がある。回廊の壁には14世紀に描かれたフレスコ画があったが、第2次世界大戦での空襲でほとんど消失したという。
シノピエ美術館(Musio delle Sinopie)は、ドゥオーモを挟んで反対側南にあり、その前には土産物店が並んでいる。シノピエとはフレスコ画の下絵のことで、カンポサントのフレスコ画を剥がした際に発見された貴重な朱色の下絵が保存、展示されている。
写真左に少し見えるドゥオーモの裏手にある白い建物がカンポサント。もしかして工事中で入れない? |
右手のシノピエ美術館へ入るという発想はこのときはまるでない。店に目が行き、存在すら知らなかった。 |
素通りする土産物店
高級免税店は興味がなかったけどピサの店はわたしもちょっと見てみたかったな。写真撮るだけでせいいっぱい。
あっ、いつのまに! |
やはりここも素通り。 |
気になるけど素通り。 |
せめて水だけでも。 |
やっぱり気になる。 |
Road Train TschuTschu
行き帰りに妙な乗り物に乗せられた。路上列車(ロードトレイン)とでもいおうか。夏暑く、冬寒そうな乗り物である。
Tschu で検索したら、TschuTschu の紹介サイト が見つかった。
観光客は子どもも多い?修学旅行が多いのかも。それとも童心に帰れ? |
ドイツ製のようだ。Tschu-Tschu はどう発音したものか。チュチュ? |
もう少しお店を見たかったなあ。まだ後ろ髪をひかれている者が約1名いる。 |
さて、無事、ピサ観光を終えてフィレンツェへの帰途に向かう。11時ちょうどにピサを発つことができて、現地ガイド女史は実に機嫌がよく声も弾んでいた。追い立てられるようにバスに乗り込んだわたしたちは、少々疲れ気味。妻も、わたしの知らぬ間にミラノやベネチアなどで2度ほどころんで足をくじいていたらしく、このあたりから疲労も重なっていたようだ。
フィレンツェまでは元来た道をたどるわけだが、わたしもここで若干の仮眠をとったせいもあろうが、窓外の風景はあまり撮れていない。撮れたものもピンボケのひどいものばかりなので紹介はやめておこう。
そして、フィレンツェでは、なんと、今回、初めてのわたしたちだけでの昼食となる。
12:30少し前にフィレンツェに到着。14:00ホテル前にということで約1時間半の昼食自由時間を与えられたが、もとより、どこで食事をとるかはなんら決めていない。娘もノーアイデアである。しかも、地図も本ももたないわたしたちである。ガイドは中央駅あたりでバスを止め、ここで各自ご自由に、ということになったが、土地勘のまったくないわたしたちは、タクシー乗り場の位置を確認しようとガイドに尋ねたが説明されてもよく分からない。駅のすぐ近くですよでは分からない。駅の東西南北のどの方向に近いのかで大きな回り道をしてしまうこともあるのだから。とにかくこのガイドは早くフリーになりたいのかいまいち不親切だ。しかし、他のツアー客といっしょに他力本願で食事をというのはちょっと煩わしい気もしていたので、3人で要領を得ないままなんとかなるだろうと隊列を離れてふらふらと・・・。
この店でいいよ。どうせ探したって分からないし時間ばかりかかるもの。ピザもあるみたしだし・・・。 |
半日あるわけでなくたった1時間半である。たいした食事は期待できない。不慣れな場所では、レストランを探し当てて食事をとることがせいいっぱいだろう。現実に、同じピサのオプショナルツアーに参加した夫妻などは結局、レストランに入ることはできず、露店かなにかのハンバーガーなどを食べただけだったという。
しかし、わたしたちはまあなんとか適当な店に入ることができた。
娘はいろいろ探してみたい雰囲気だったが、はじめから本などで調べていたわけではない場合は、こんな1時間半程度で探そうというほうがおかしい。わたしは、とにかく手短かな店にはいってしまおうと提案した。当たり外れはあるかも知れないが、本に出ている店だってひどいところもあるわけだし。味はともかく、地理をまったく知らないわたしたちにはそれで正解だったと思う。
適当に入った店のメニューを見て驚いた。なんと日本語のメニューがついているのである。これならなにも問題はない。
それなのに、返す返すも残念なのだが、このときは時間もなかったせいもあるが、「イタリア料理」をいろいろ試してみることができなかったのだ。喉が渇いていたが食欲はいまいち。とくに妻はほとんど食欲はなさそうだった。そこで、オーダーメニューはいつも食べているようなものを少しだけ。いまから思えば、もう少しマシなものを注文できていたら・・・などと思うが、まあ無事、食べられたことに感謝しよう。前菜もデザートもとらず量的に大したものではなかったせいか勘定は安かった。
日本のビールがいちばんと思っていたけど水っぽくないし、なかなかいいね。 |
味も素っ気もないパンだけど、ワインと塩っ辛い料理には合うのかも。 |
窓から中庭が。藤が咲いていたり、風鈴があったり、亀がいたり・・・。 |
Tシャツの背中には年号が。1954年からの老舗?それともおじさんの年齢? |
食べたことのないメニューにすればいいものをつい無難にボンゴレなどを。 |
見ただけで大体味は分かるんだよね、わたしは。まあふつうの味かな。 |
ホテルまでタクシー
食事を終えてレストランを出たのが13時10分ころ。このコンテンツを創っているいまはそのレストランからホテルまで何ほどの距離もないことが分かるのだが、そのときは中央駅とホテルの位置関係など何も分からない。
したがって、わたしとしてはまず駅のタクシー乗り場がどこにあるかの確認をしたかった。娘は適当に1人でぶらついてくるなどというが、とんでもないはなしだ。地図ももたずに迷子になって14:00に間に合わなかったらみんなに迷惑をかけてしまうではないか。ということで、妻と2人で娘をたしなめてまず駅に向かう。
ピサでの欲求不満がまだ尾を引いて土産物屋が気になってしまう。 |
欧州はこんな店があって楽しい?でも日本のコンビニのほうが便利そうだ。 |
タクシーはずいぶん客が並んでいた。これは並んで待つしかないだろう。 |
考えてみれば今回の旅行で初めてイタリアのタクシーに乗ることになる。発音の問題があるので行き先のアルファベットが書かれているものや地図を運転手に見せれば概ねなんとかなるだろう。わたしたちの乗ったタクシーは女性運転手だったのでなんとなくホッとした。ちなみに、日本のように自動ドアではなく自分で開ける。娘はへえっーと驚いていたが、海外が初めての人は要注意だ。ドアの前に突っ立っていてもどうにもならない。結局、ホテルへは13:30過ぎに着いてしまったが、これでいいのだ。30分はホテルという拠点をもって安心して過ごせるわけだから。だいたいトイレや小荷物の整理、水の補給などしていたらあっという間に14:00になった。
ふらふら店を探していたり、混んでるのを知らずに時間まぎわでタクシーを当てにしていたらきっと遅刻していたことだろう。
イタリアはタクシーは流しがないので所定のタクシー乗り場を探すか、入った店で呼んでもらうしかない。タクシー乗り場が混んでいたからといってすぐ店に入るというわけにはいかないのだから、時間の制約があるときは十分注意が必要だ。
ローマは最終訪問地なのだが・・・。
フィレンツェホテル前より出発。いい天気でフィレンツェの街をもう少し撮りたい気分だが・・・。 |
あわただしいピサ半日観光を終えて、いよいよフィレンツェから最後のローマに向けて出発することになる。でも、翌日カプリ島へのオプションを入れているため今回の旅行の「最終訪問地」という印象が薄い。
とてもよく晴れてきて、バスに乗るのがもったいないくらいだが、この移動はちょっと長そうだ。
フィレンツェからローマまでは約285km。途中、トイレ休憩で下車したりはするが、14:00にフィレンツェを出てローマに着いたのは18:00近くだった。さすがにわたしもここ数日の寝不足で今回の移動では多少、居眠りしたようだ。それでも、やはり美しい窓外の風景を撮ったりしたのだが、どうも集中力が欠落していてほとんどダメカットばかりである。田園風景はベネチア−フィレンツェ間のものを 「イタリア紀行Y」 で紹介したのでここでは下の1カットだけ。
相変わらず美しい田園風景。でもいいシーンは見る間に後方に去っていく。 |
ローマ市内に入るとやはり田園風景から一変し首都という雰囲気が出てくる。 |
こんな感じは東京麻布などでもありそうだ。フィレンツェとは少しちがう。 |
スターホテル メトロポール
本ツアーでは4ヵ所のうち3つまでがスターホテル系。そのすべてに日本語警報アラームがあった。旅行社御用達のホテルのようだ。また、ミラノで苦労したトイレのボタン はどうもイタリア独特のデザインらしい。
ホテル外観 |
エントランス |
ルームもまあまあ |
バスルームもOK |
夕食前の散歩
夕食の19:30までは小1時間ほど間がある。そうとなれば、やはり散歩撮影である。女性軍は休憩。室内写真を撮ったりしてホテル前に出たときはちょうど19時。正味30分の散歩である。相変わらず地図も持たず、ただいい景色がないかと近くを。しかし、ローマは首都、ところところに遺跡っぽいものが見えるほかは東京でいうオフィス街とさほど変わらない。まあどちらかというと、日本橋三越のあの仰々しい建物近辺に似た光景ではある。以下、地名も建物の名前も不明なまま、とりとめもなく。
→ 最終章のローマ編を創っているとき、以下を地図やグーグルのストリートビューなどで調べてみたら・・・なんといくつかの観光スポットをすでに見てきていることに!遺跡や建物の名前も発見。これらの説明は 最終章7-10 で紹介する。(09/06/02追記)
ホテル前の道路 |
円筒形の建物が見える |
何だろう?(後で判明1) |
交差点 |
交差点の右は(後で判明2) |
真っ直ぐ進むよりも・・・ |
何の建物?(後で判明3) |
いまは珍しくない2階建て |
突然の遺跡(後で判明4) |
晴れていればこれもいい |
何かの記念碑 |
15分経過だがもう少し |
本屋それとも古書店? |
ここは?(後で判明5) |
また古い建物(後で判明6) |
マックを見てもうホテルへ |
さっきの円筒形建物 |
ユーロはまだあるね |
左に曲がればホテルはすぐ |
売店の後ろがホテル |
カンツォーネを聴きながら夕食
カンツォーネ歌手2名 |
シーフードリゾット |
夕食はカンツォーネを聴きながらということで、男女ペアの歌手によるおなじみの「サンタ・ルチア」や「帰れソレントへ」など数曲を。上手だが、終了後、CDを買ってもらおうと2人にテーブル席を回られる。なんとなく気まずい。よく知らない歌手のCDはみんな買いたくはなさそう。高い安いではなく、モノにあふれた現代日本人にはタダでも不要なのだ。
さて、メニューは、シーフードサラダにシーフードリゾット、スズキのグリル、アイスクリーム、コーヒー・ミネラルウェーター・ワイン付。どうということないが、リゾットはミラノで食べたよりマシだったか。観劇しながらの食事はわたしはあまり好きではない。だいいち赤とブルーのライティングではせっかくの料理がおいしく見えない。××パンしゃぶしゃぶに例えるのも下品だが、二兎を追うもの一兎を得ずだ。わたしは食べるときはそれに専念したい。
さあて、明日は7:00出発、朝が早い。あと2日で終わりというのに、しみじみとした実感がない。なぜ?( イタリア紀行Ⅸ に続く)
(09/05/27) (09/04/12撮影=現地時間)