じぶん探訪

遠出はできないと思っていたけど、一生に一度はね。ということで。

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その7-10.イタリア紀行](最終章) 「アリベデルチ、ローマ」

最終日

4月8日から始まったわたしたちのイタリア旅行も14日でいよいよイタリア滞在としては最終日を迎えることとなった。旅行自体は翌日15日までだが、14日夜からの飛行機のなかでの10数時間はもはや紀行を記すには値しないだろう。
さて、前日、本来ローマでの自由時間であった、まる1日分をカプリ島オプションにあててしまったわたしたちは、この最終日1日が、「初めてのローマ」の体験日となる。
街をあるけば遺跡に遭遇するというローマ。大都市、首都ローマをたった1日で制覇できるはずがないことはもちろん明らかである。そのうえ貪欲にそれらを回ろうとする気力ももたないわたしたちだから、ほんの数ヵ所を訪問するだけとなったのは仕方のないところ。ローマはまったくの消化不良に終わったが、それが「もういちど」という強い気持ちにつながれば、いつかまたそんな機会が来るかもしれない。娘はともかく、妻とわたしはムリかな。
見て回るポイントが少なかったとはいうものの、わたしに限って言えば、その前々日の夕方、食事前に30分程度ホテル近辺を散歩したとき「何だろう?」と気になった建物などがあった。実は、このローマ編を作成するときに調べてそれらが名所であったことを初めて知った。それらもここで再掲載し説明をしよう。また、ホテルの部屋から眺めた景色のなかで目だった建物を調べてみると、それも観光スポットだったので、それらも若干の解説をする。
午前半日の旅行社が選択した観光スポットと午後のわたしたちの行動を含めて、この無数にあるローマの名所のうち、どこを体験できたのか、上記の散歩などの箇所も含めてそのリストを以下に紹介する。メインは太字の5ヵ所。そのうち午後、わたしたちだけで訪問できたのはわずか1ヵ所、食事や買物等があったためスペイン広場を訪れるのがせいいっぱいであった。

体験スポットリスト

ローマの予備知識

「ローマは一日にして成らず」という諺もある古代から大国であったローマ。美しさから「永遠の都」ともいわれる。ティレニア海にそそぐテヴェレ川河口から25kmほどさかのぼった位置にあるローマは、イタリアで最も人口が多く約270万人(2008年現在)で、西洋文明圏を代表する都市のひとつである。また、ローマには、市に囲まれるようにローマ教皇の居住するバチカン市国があり、全世界のカトリック教徒にとっての中心地であるとともに、歴史・宗教・文化的にはローマ市地域と密接な関わりがある。
ローマ市内には古代遺跡や美術館などが多く残っているがこれら歴史的に由緒のある地区は意外に狭く、過去の栄光をしめす記念建造物の大部分は市内を南北に蛇行して流れるテヴェレ川東岸にある。世界各国からたくさんの観光客が集まるヨーロッパを代表する観光都市だから当然、観光が重要な産業となっており、労働者の大半はこの分野と卸売、小売業などのサービス業に従事している。国際的には、国連食糧農業機関(FAO)、国際農業開発基金(IFAD)、世界食糧計画(WFP)の本部がある。
また郊外には、ムッソリーニが作った映画撮影所「チネチッタ」があり、フェデリコ・フェリーニ監督の「甘い生活」など多数の名作が撮影された。ローマに関する映画といえば、なんといってもオードリー・ヘップバーン主演の名画「ローマの休日」があり、観光に寄与している数かずの名スポットがそこに登場する。「ローマの休日」プランという旅行社企画もあるくらい有名。ほかにも古代ローマが舞台となる「グラディエーター」や最近では、バチカンが登場する映画「ダ・ヴィンチ・コード」や続編の「天使と悪魔」がある。イタリアが舞台というよりイタリア映画ということでは、個人的にはホラーの「サスペリア2」がわたしの好みである。

[ローマの歴史]

伝説では、ローマは紀元前753年、テヴェレ川東岸の「ローマの七丘」のひとつであるパラティーノの丘に、ギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロムルスとレムスにより建てられた。牝狼に育てられたというロムルスとレムスは、ローマを築く場所について争い、ロムルスがレムスを殺したためにその名にちなんでローマとなったといわれる。ロムルスは王政ローマの初代の王となる。
ローマは、都市国家ローマ、王政ローマを経て共和政ローマ・ローマ帝国の首都となり、皇帝アウグストゥスの時代には100万人の世界最大の都市となった。その後、皇帝ディオクレティアヌスによるニコメディア遷都までは世界帝国の中心として繁栄した。
395年にローマ帝国が東西に分かれた後は西ローマ帝国に属するが次第に衰え、再びローマが脚光を浴びるのは15世紀半ば以降。ローマ教皇領の首都となり、教皇ニコラウス5世の時代には、主な芸術家や建築家がローマで活動、15世紀末にはローマはフィレンツェにかわってルネサンスの中心地となる。
16世紀末の教皇シクストゥス5世の時代には、大規模な建設工事が行なわれ、大聖堂の改修や数多くの道路と橋が補修されてローマ市内が整備された。また、17世紀にはベルニーニやボロミーニなどバロックを代表する彫刻家・建築家がローマの外観をかえていった。
1797年、ナポレオン1世がローマを占領。ウィーン会議ののち、ローマはふたたび教皇領となるも、オーストリアによるイタリア支配、さらにはナポレオン3世による占領を経て1861年、イタリアの大部分はサボイア家のもとで統一をはたした。教皇の本拠地だったローマは、1871年にイタリア王国にローマ教皇領が併合され、フィレンツェに代わってその統一イタリアの首都となった。

ストリートビューで確認、ホテル近隣のスポット

8日間連続晴れの奇跡

以下は最終日の早朝、ホテルの部屋から見た窓外の景色である。左は、6時半東の窓から。右は出発8時少し前、南の窓から。
文句なしの晴れである。振り返ってみれば、ベネチアでの2日間ほど午前中が曇っていただけで、今回は全旅程を通して雨は一滴も降らず、ほぼ100%晴れといってもいいほど天候に恵まれた。この時期の北イタリアは、雨季ではもちろんないにしてもこんなに晴れが続くのはめずらしいことだろう。まさに幸運といっていい。わたしはここ数年、こと天候に関してはじぶんでも驚くほどの「晴れ男」になっているようだ。

ホテルルームから朝日を ホテルルームから南を

ホテル南側にあるスポット

さて、右上の画像に@Aの番号をつけたが、ホテルの窓から眺めたときにあの塔は何かなとは思った。が、そのときは地図を広げてみるわけではなし、そのまま分からずじまいであったのだが、このコンテンツをつくるときに初めて地図でホテルの位置を確認(あまりにも遅い!こんなレベルだから当日の自由時間に多くのポイントを周れるはずもない)したところ、寺院であろうその名前をやっと知ることができた。バチカンやコロッセオなどの名所よりは少し知名度が落ちるものの、ローマに何日か滞在すれば訪れても不思議はないスポットである。それらの概略を以下、紹介するわけだが、地図などを調べているうちにプライバシー問題で悪評高い、あるツールがとても有効に活用できることを発見した。それは、Google のストリートビューである。

Google のストリートビューとは

ストリートビューは、2007年に開始された Google の Web サービスで、カメラを自動車の屋根に設置し道路沿いの風景を360度のパノラマ写真として撮影、Google マップや Google Earth 上で表示するというもの。当初、アメリカの主要都市のみだったが、現在はパリ、ロンドン、ローマ、東京など世界各国の主要都市もカバーしている。サービス提供以来、今日まで、自分の顔写真や自宅内部を勝手に公開されたという理由で、プライバシー侵害の問題として各国で物議をかもしている。日本でも表札の文字、洗濯物等々が写っていることなど様ざまなクレームが寄せられている。
わたしはうわさで少し聞いてはいたが、操作方法が分かりにくそうだったのでまだ試してはいなかった。たまたま、ローマで今回昼食をとったレストランの案内カードに所在地が書いてあったため、その地番で Google 検索してみたときに、ストリートビューというコマンドが表記されているのを発見した。
見てみるとなんと今回の旅行で訪れた箇所がそのままの姿で写っている。これはおもしろい、と、今度は宿泊したホテル近辺を調べてみると、これも旅行時とまったく同様の街並み。さらに、わたしが歩いたとおりの道順で、散歩時に見た建物等の再確認もできたのである。
こうなると、外観だけなら、わたしが行きたくて行けなかった場所を、まるで歩いているかのように探して見て回ることができる。日本にいながらにして「海外旅行」の雰囲気が楽しめるわけだ。ただし、それもすでにいちどその街に訪れているからこそ、その延長線上での探訪にも価値があると感ずるわけだが、まったくの未体験の都市だとやはり臨場感・感慨は薄らぐだろう。
今回訪問したイタリアの都市では、ローマ、ミラノ、フィレンツェはすでにストリートビューが対応していたが、ベネチアはまだである。撮影がクルマで行なわれるのであれば、クルマが走れないベネチアの街はストリートビューに出てこないのは当然かも知れない。

ストリートビューによるポイントの紹介

ということで、今回の旅行記のフィレンツェ・ローマ編では、建物の位置関係を知るのにこのツールが大いに役立った。Googleは世の批判に「現代では完全なプライバシーなど存在しない」などと反論しているが、それならと、以下、若干ではあるが、Google自身がストリートビューで公開しているローマの建物写真のなかからこのコンテンツに有効な建物の写真を切り取って紹介してみよう。
(※被写体のプライバシーはともかく、この写真自体の所有権は Google にあるのでしょうか?ここでの掲載は実質的には転用となりますので予めお断りしておきます。実験的な試みなので、後日問題が発生する場合は、ストリートビューからの掲載写真は削除します。補足的なカットであり10点にも満たないので、削除しても本編には影響ありません=tanupon 補注)

@ホテルの部屋から見える建物:サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂

サンタ・マリア・マッジョーレ教会(南側の正面)
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂正面。この前に同名のサンタ・マリア・マッジョーレ広場がある。南向き。
サンタ・マリア・マッジョーレ教会(北側の背面)
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂背面。ホテルから見えたのはこの北向きの姿。前にエスクィリーノ広場がある。

ホテルからの写真の@におそらく該当するだろうと思われるのがこのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(Basilica di Santa Maria Maggiore)。前面と背面では姿が大きく異なる。「聖母マリアに捧げられた聖堂」の意味で、5世紀に創建。バチカンのサン・ピエトロ大聖堂などとともに、ローマの4大バシリカ(古代ローマ様式の聖堂)のひとつであると同時にローマ最大の聖堂でもある。
@では、ドーム型のクーポラと尖塔のようなものが見えるがいずれもこの大聖堂の一部と考えられる。最初、それらが少し離れているように思えるので地図を調べてみると、近くにもうひとつ教会があることがわかった。尖塔はその教会のものかと思ったのだが・・・。

サンタ・プラッセーデ教会

サンタ・プラッセーデ教会

地図上で確認されるもうひとつの教会とは、サンタ・プラッセーデ教会(Basilica di Santa Prassede)。しかし、この教会は、左のストリートビューで確認すると高い尖塔を持っていないようだ。したがってホテルから見える塔はサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のオベリスクのような気がするのだが・・・。
ところで、殉教した聖女プラッサーデに捧げられたというこのサンタ・プラッセーデ教会だが、その内部は、地味な外観から想像できない美しさで一見の価値があるという。とくに聖ゼノの礼拝堂にあるモザイク「キリスト四天使」が圧巻。
わたしが前々日の夕方の散歩で見たのはホテルの北であり、もう何日かローマに滞在していたとしたら、このホテルの南側にある、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂とサンタ・プラッセーデ教会は必ず訪問していたスポットになるだろう。

Aホテルの部屋から見える建物:サンタ・プデンツィアーナ教会

サンタ・プデンツィアーナ教会

もうひとつホテルから見える尖塔の建物は、サンタ・プデンツィアーナ教会(Basilica di Santa Pudenziana)ではないかと想定している。この教会はローマで最も古い教会のひとつで、紀元2世紀の中ごろに建てられたものといわれている。この上で紹介した聖女プラッセーデと聖女プデンツィアーナは姉妹で、いずれも迫害されたキリスト教徒に手を差し伸べた女性だという伝説もあったが、実在はしていない人物のようだ。ここにも貴重で美しいモザイクがあるという。
なお、前々日夕方の散歩で撮影した写真で、ストリートビューと地図とで判明したスポットは、本編の巻末 で紹介する。

ホテルからバチカンまで移動

さて、最終日のツアーは8時半ホテル出発で、まず西方、テヴェレ川を渡った先にあるバチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂に向かう。その途中で、バスの窓外から見たいくつかのスポットを以下に紹介。

ベネチア広場とヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂

ベネチア広場とヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂 ベネチア広場とヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂

テルミニ駅近くにあるホテルからナツィオナーレ通りを15分ほど西南に下ると、市の中心部であるベネチア広場(Piazza Venezia)に差し掛かる。ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂(Monumento Nazionale a Vittorio Emanuele II)が目印となっている。この記念堂は、1870年にイタリアを統一した初代国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世を称えて建てられたもので、1911年完成。上写真がその記念堂だが、右はストリートビューの写真。左はバスからわたしが撮影したもの。右のように真正面からきれいに撮りたいところだが、動いているバスの中からでは構図もなにもなかなかうまくいかないのが残念。
ローマのへそであるベネチア広場の近くにはあとで訪問するトレビの泉が北にあるほか、南に向かえばカピトリーニ美術館のあるカンピドリオ広場、さらにフォロ・ロマーノやコロッセオなどがある。

ヴィットリオ・エマヌエーレ2世橋とサンタンジェロ城

ヴィットリオ・エマヌエーレ2世橋とサンタンジェロ城
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世橋のたもと。右手奥にサンタンジェロ城が見える。

ベネチア広場からさらに西に、今度はヴィットリオ・エマヌエーレ2世通りを進んでいくと、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世橋(Ponte Vittorio Emanuele II)に差し掛かる。この橋を渡ればすぐ左手がバチカンである。
この橋から右手には、サンタンジェロ城が見える。サンタンジェロ城そのものへは、ひとつ右隣りのサンタンジェロ橋を渡れば真正面である。イタリア統一の立役者ヴィットリオ・エマヌエーレ2世の名は、他にも、先に訪問したミラノの ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガレリア など各地の建造物につけられているようだ。

ヴィットリオ・エマヌエーレ2世橋とサンタンジェロ城

サンタンジェロ城(Castel Sant'Angelo)は、ローマのテヴェレ川右岸にある城塞で、139年に皇帝ハドリアヌスの霊廟として建設されたのが始まり。霊廟は円形で、頂上にはハドリアヌスが戦車を引く像が設置された。正面にはサンタンジェロ橋(Ponte Sant'Angelo)がある。1527年に神聖ローマ皇帝カール1世によってローマが略奪されたとき、教皇がこの城に避難した。西の近距離にあるバチカンのサン・ピエトロ大聖堂とは秘密の地下通路で繋がっていて、教皇はそこから逃れたといわれている。霊廟は403年にはアウレリアヌスの城壁の一部に組み入れられ、その後、教皇の住居として、また要塞として強化されるとともに、牢獄としても使用された。

ヴィットリオ・エマヌエーレ2世橋

橋の中央付近でホームレスを見かける(左写真)。
この橋の右下の河川敷にはかつては水上レストランがあり「ローマの休日」の舞台にもなっていた。また、王女と新聞記者のラブシーンもこの橋の下あたり。いまはホームレスの住処となっているようだ。

さて、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世橋を渡れば、バチカンはもうすぐである。

バチカン サン・ピエトロ大聖堂

バチカン市国の予備知識

ここで、かんたんにバチカン市国の概要を紹介しておく。
バチカン市国(Stato della Città del Vaticano)は、ローマの北西部のバチカンの丘の上、テヴェレ川の右岸にある世界最小の主権国家であり、ローマ教皇庁によって統治されるカトリック教会と東方典礼カトリック教会の「総本山」である。このバチカンの丘の上に教会が建てられ、カトリック教会の中心地となった本来の理由は、この場所でキリスト12使徒のひとりのピエトロが皇帝ネロにより殉教したという伝承があったためである。教皇庁はもともとはラテラノにあったがアヴィニョンに移ったあと1377年のこの地にやってきた。1929年に教皇庁とイタリア政府との間でラテラノ条約が締結されてバチカンは独立国となった。約0.44km²のわずかな領土の中にサン・ピエトロ大聖堂、バチカン宮殿、バチカン美術館、サン・ピエトロ広場などがある。公用語・公式文書はラテン語が用いられているが、通常の業務においてはイタリア語。ただし、スイス人の衛兵はドイツ語を話す。

入口

バチカン入口付近 バチカン入口付近 バチカン入口付近

バチカン付近にて上の左2画像を実際に撮ったのだが、いまとなってはこれがどの位置にあたるのか当初は分からなかった。
そこで、この付近のストリートビューで似たような場所を捜しているとようやく該当するものを見つけた。それが右端の画像である。このコーナーはロヴェレ広場といい、右の奥に見える塔は、サン・スピリト病院のものということも分かった。
これは、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世橋を渡ってすぐ左折してしばらく進んだ地点である。橋を渡って左折せずに真っ直ぐ北上し、しばらく行ったところを左折すればバチカン正面前の大きな通りに出るのだが、確かにこのときはその進路をとらなかった。バチカンの南の道路を迂回するように進み、上の門のようなところから北上したわけである。しかし、その後の道順は不明である。いずれにせよ、この近辺から、バチカンに近づき、地図上では左上、北西の方角にある入口から聖堂内に入ったのだろうと思われる。

スイス衛兵

バチカン 何の入口?

左は、バスから降りた後に初めて撮影したものである。その直後にバチカンの広場と建物等を撮っているのだが、だからといって、これがバチカンの広場へ通じる門ではなかったような・・・ここには入っていないような気がする。なにか別の建物に入るための門ではないかと思うがいまとなっては不明である。
門衛には、ミケランジェロがデザインしたという説のある黄色と紺の縞模様の制服を着たスイスの衛兵が立っている。とすれば、これは教皇の執務室へと通じている門である可能性が高い。

サン・ピエトロ大聖堂(外観)

サン・ピエトロ大聖堂正面

サン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano)はカトリック教会の総本山で、バチカン市国の南東端に位置する。サン・ピエトロの名は、この地に墓所があったとされるキリスト教の使徒ペテロのイタリア語読みに由来する。ピエトロは死後に初代ローマ法王の座についた。
大聖堂は4世紀にピエトロが処刑された地にコンスタンティヌス帝が建設し、16世紀に再建された。再建初期は、公募によりブラマンテそしてラファエロ、カルロ・マデルノなどのすぐれた芸術家が建設に携わったが、後半はミケランジェロの功績が大きい。ミケランジェロは1546年にこの寺院の建築を72歳で先任者から引き継ぎ、大クーポラのデザイン・建築を担当したが、すべての完成はミケランジェロの死後の1626年となった(クーポラは1593年完成)。大聖堂の中には名作「ミケランジェロのピエタ」があり、ミケランジェロとは縁の深い寺院である。ミケランジェロの死後、仕事を引き継いだマデルノがファサードと柱廊を設計した。宗教的また芸術的な価値に加えて、建物自体の美しさなど、イタリア・ルネッサンスを代表する建築である。
高さ約120m、最大幅約156m、長さ211.5m、床面積23,000m²、総面積は49,737m²で、キリスト教の教会建築としては世界最大級の大きさを誇る。大聖堂の前は長径200m、短径165mの楕円形のサン・ピエトロ広場となっており、その周りを包み込むようにコロネード(列柱廊)が建てられている。
大聖堂とそれに連なる広場全体は東西に長い鍵穴形をしており、北には、大聖堂と隣接して、ミケランジェロの天井画で有名なシスティーナ礼拝堂などが設置されたローマ教皇の住むバチカン宮殿、そして数かずの芸術品を収めたバチカン美術館があるほか、南には教皇謁見所と宝物館などがあり、大聖堂を含めて国全体が世界遺産に登録されている。
わたしたちは、最初、大聖堂に向かって右手(北西)の入口からこの広場に入ってきた。以下の写真は、それから広場を横切ってずっと右手(東)のピウス12世広場あたりから西向きに撮った遠景だが、もう少し、道路の中央から全体が見渡せるように撮ればよかったと後悔している。(どうしてそうしなかったのだろう?車道の真ん中だから進めなかったのかな?)
なお、背後に見えるクーポラについては、大聖堂内部の クーポラ の項目で説明する。

サン・ピエトロ大聖堂正面遠景 サン・ピエトロ大聖堂正面遠景

[大聖堂ファザード]

大聖堂ファザード

大聖堂には5つの扉があり、左から、死の扉(Porta della Morte)、善と悪の扉、フィラレーテのブロンズの扉(Porta dell'Antico San Pietro)、秘蹟の扉(Porta dei Sacramenti)、聖年の扉(Porta Santa)と呼ばれている。いちばん右の聖年の扉は25年に1度の聖年(次は2025年)に開かれるという。ファサードの前に立っているのは、ペテロではなく、聖パウロの像。

大聖堂ファザード前の聖パウロの像

聖人像がずらりと並んでいる(写真左下)。柱廊の上には全部で140体、聖人像があるということだ。
ファザードには優美な8本の円柱と4本の角柱が立ち9つのバルコニーがその間に並んでいる。

サン・ピエトロ大聖堂建物屋上の聖人の彫像群 サン・ピエトロ大聖堂の建物の柱

[バチカン宮殿と北側のコロネード(列柱廊)]

以下は、南側のコロネードから北側および北東を見たもの。オレンジ色の建物がバチカン宮殿で、その右側は教皇の執務室などがある建物になっている。建物とオベリスクの間に小さく見えている噴水は、この後で紹介する [マデルノの噴水(北)とフォンターナの噴水(南)] で、撮れなかったというマデルノの噴水である。
なお、美しい花壇や教会堂前の演壇、大画面のビデオスクリーンなどは、つい2日前(4月12日)にここで約6万人の熱狂的(語弊があるかも?)なイースター(復活祭)イベントが実施されたことを物語っている。当日がローマ訪問日だったとしたらまずバチカン見学は不可能だっただろう。それとも思いがけない写真が撮れたかも?テルミニ駅にローマ人がいなくなる、というほどの日なのだそうだ。

サン・ピエトロ大聖堂 サン・ピエトロ大聖堂
サン・ピエトロ大聖堂

左が、バチカン宮殿の右横の建物。教皇の執務室があるという。
上からひとつ下のフロア、左から2番目の窓から、時々ローマ法王が顔を出すということだ。
ところで、ローマ法王とローマ教皇とは同じ意味だろうか?
こたえは、「同じ」である。
正式には教皇が正しい。しかし、過去、混同されていたほか、バチカンのことを最初に「ローマ法王庁」と日本では登録されたままになってることもあって、どちらも使われている。これからは、ローマ教皇と呼ぼう。

[南側のコロネード(列柱廊)]

とても美しい列柱廊。その前のたくさんの座席も壮観である。壮大なるミサがここで行なわれる。

大聖堂に向かって左側のコロネード サン・ピエトロ広場左側のコロネード

[オベリスクと噴水]

オベリスク

帝政末期、皇帝ネロは、この場所に庭園や競技場を築き、エジプトから運ばせたオベリスクを建てた。
それが、サン・ピエトロ広場の中心に聳えるオベリスクである。
これはもともとは大聖堂の南に立っていたものがここに移された。

オベリスク先端の十字架
オベリスク

[マデルノの噴水(北)とフォンターナの噴水(南)]

以下はどちらも同じ南側のフォンターナの噴水の写真である。

カルロ・フォンターナの噴水 カルロ・フォンターナの噴水

オベリスクを挟んで北と南に対称に2つの噴水が設置されている。似ているようだが制作者がちがうのだ。どちらも同じに見えたので、1種類でいいだろうと北側のはワンカットも撮らずに南側のばかり撮ってしまった(なんと横着な)。右上写真2枚はいずれもカルロ・フォンターナが1677年に造ったものである。北側のはカルノ・マデルノが1613年に制作。

[コロネード(列柱廊)先端]

コロネード(柱廊)先端とヒウス12世広場

楕円状のサン・ピエトロ広場をとりまくように連なる美しいコロネード。左は、大聖堂に向かって右、北側のコロネードの先端にあたる部分。
写真の右方の建物の前は、ピウス12世広場(Piazza Pius XII)。ここから右手へ広い道幅のコンチリアツィオーネ通り(Via della Conciliazlone)が続いている。

[コンチリアツィオーネ通りの様子]

バチカンに続く美しい道路。本来はここから歩いて訪れたとしたら、もっといい写真が撮れたかも知れないのだが・・・。
しかし、通常はもっと観光客が多くて、とくに大聖堂内部に入るのには時間がかかりそうだ。

コンチリアツィオーネ通りの様子 コンチリアツィオーネ通りの様子 コンチリアツィオーネ通りの様子 コンチリアツィオーネ通りの様子 コンチリアツィオーネ通りの様子

サン・ピエトロ大聖堂(内部)

[入口]

サン・ピエトロ大聖堂(内部)入口

大聖堂正面のいちばん右が、内部への入口となる。いちばん右といっても 先に紹介した5つの扉のひとつ聖年の扉 ではなく、そのさらに右にある通用門である。
内部には、名作ミケランジェロのピエタや、主祭壇であるベルニーニのバルダッキーノ(大天蓋)、聖ペトロのブロンズ像などのほか、大クーポラへ上るための階段入口や聖堂下の地下霊廟(Sacre Grotte Vaticane)への入口がある。わたしたちは、このフロアをざっと見ただけで、クーポラには登っていない。クーポラもそうだが、あとから思えば、バチカン宮殿内のシスティーナ礼拝堂やバチカン美術館の2重らせん階段なども見てみたかったという気持ちが強いが、時間がとても許さなかった。すべての施設を見るには5時間、まる1日は必要だろう。また、混雑していればそれでもムリかも知れない。

[ミケランジェロのピエタ]

ミケランジェロのピエタ

大聖堂に入ってすぐの右側にあるミケランジェロのピエタ。ピエタとは聖母子像の一種で、処刑され十字架から降ろされたキリストとその亡骸を抱く聖母マリアをモチーフとする宗教画や彫刻などのことである。今回の旅行ではミラノのスフォルツェスコ城で、同じミケランジェロの未完の大作、ロンダニーニのピエタ を見た。
ミケランジェロのピエタは合計4つあり、残りの2つはフィレンツェのピエタ(フィレンツェ、ドゥオーモ博物館)とパレストリーナのピエタ(フィレンツェ、アカデミア美術館)にあり、いずれも未完であり、完成されたのはこのサン・ピエトロのピエタのみである。
ロンダニーニのピエタと同様、時間がなければこれだけでも見ておくべきともいわれる、大聖堂の目玉的存在である。1972年にハンマーで一部を破壊されるという事件があり、その後、防弾ガラスで保護されたため、写真写りが悪い。
余談だが、もともと大聖堂内が室内であることと、なぜかこのあたりからカメラの具合がおかしくなってきて、ぼやけた写真しか撮れなくなってきた。
美術愛好家の人には垂涎の的というべき作品なのだろうが、どうもわたしには、こうした宗教関係のものはいまいちありがたみが伝わらない。というより、彫刻作品を鑑賞する眼がまるでできていないからかも知れない。

[天窓と採光]

大聖堂内の特徴としては、天窓が各所にあり、採光がふんだんに取り入れられていることだ。

天窓と採光 天窓と採光
サン・ピエトロ大聖堂(内部) 天窓と採光

[主祭壇とベルニーニのバルダッキーノ(大天蓋)]

大聖堂の中央、内陣で威容を誇っているのが、主祭壇を飾るブロンズ製の大天蓋「バルダッキーノ」。このいちばんの特徴は、ねじれた4本の、20mはあろうと思われる巨大なブロンズ製の柱だろう。このねじれた柱は再建前から小規模のものがあり、再建時にジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini)が伝統として再び採用したらしい。大量のブロンズ柱を鋳造するだけで2年を費やしたともいう。またブロンズはパンテオンから剥がしてきたともいわれる。この主祭壇の下に聖ピエトロの墓が祀られている。なおバルダッキーノは1633年完成のベルニーニ作だが、主祭壇はカルロ・マデルノの作。

ベルニーニのバルダッキーノ(大天蓋) ベルニーニのバルダッキーノ(大天蓋)下部

[クーポラ]

上記主祭壇の上にそびえる119mのクーポラも、ミケランジェロが設計した傑作。このクーポラへの上り口は大聖堂の右端にあり中途まではエレベーターで行けるが、その先にもかなりの登り階段があるという。もし時間が許したとしてもそうとう足に負担がかかっていたかも知れない。ただ、そこからの景色を思えば・・・。

クーポラの内部 クーポラの内部

[聖ピエトロのブロンズ像]

聖ペトロのブロンズ像

主祭壇に向かって右側にあるのは、聖ピエトロのブロンズ像。フィレンツェの彫刻家・石工であるアルノルフォ・ディ・カンビオの13世紀の作品とされるが諸説あるらしい。
像の右足(左足も)が、多くの巡礼者が口づけしたりなでたりするためすり減っている。これに関しては、信徒でもなく、そんな趣味もないので、わたしは遠慮しておいた。

[グレゴリウス13世の記念碑]

グレゴリウス13世の記念碑

これは、グレゴリウス13世の記念碑と呼ばれるもの。グレゴリウス13世といえば、日本では、天正遣欧少年使節がローマを訪問したときに謁見したその人である。天正遣欧少年使節とは、1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団で、少年の名は、伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルティノ。この4人の「その後」は興味深いが、ここでは割愛しよう。
以下は、適当に撮ったもので、なにであるのか説明ができない。

不明 不明 不明

バチカンからコロッセオへ移動

さて、9時少しまえから入場してバチカンを離れたのが10時20分ころ。これから、方角的には元来た方向に逆戻りし、コロッセオに向かう。その途中で、バスより見たいくつかのポイントを紹介する。

真実の広場とサンタ・マリア・イン・コスメディン教会

[真実の口とサンタ・マリア・イン・コスメディン教会]

コロッセオにいく途中で、真実の口(Bocca della Verità)がある教会の前を通るという。真実の口とは、海神ネプトゥヌス(ポセイドン)の顔をモチーフとして彫られているが、いわずと知れたあの「ローマの休日」での著名なシーン(新聞記者に手が抜けなくなるふりをされ驚くアン王女)がつくられた場所。わたしはそれが教会のなかにあるとはこのとき初めて知った。サンタ・マリア・イン・コスメディン教会(Chiesa di Santa Maria in Cosmedin)というのだが、この教会は道路に面していて、道路から向かって左端のコーナーに真実の口があるという。バスからのぞいて見たが、かすかに輪郭が見えるだけ(下左写真)。ちなみに、この真実の口自体は大理石だが、古代のマンホールのフタだったとか。そんなものがどうして教会に飾られるようになったのだろうか?
午後からの自由行動では、わたしの希望としては月並みだが、「ローマの休日」関連でこの真実の口とスペイン広場に行きたいと思っていた。しかし、真実の口は、ただそれだけを見るために長い列に並び拝観料を払って教会に入らなければならない。日本人ばかりがまるで巡礼のように「真実の口」に手を入れて記念写真を撮っているその光景を頭に描くと、このバスからの垣間見(ほとんど何も見えなかったが)とその所在地である教会が確認できたことで十分かなと思った。
なお、バスからはとても教会の全容は撮れないので、以下の右の写真は、Google のストリートビューから切り取ってみた。

バスの窓から真実の口を見ようとするが・・・ サンタ・マリア・イン・コスメディン教会

なお、サンタ・マリア・イン・コスメディン教会は、8世紀にローマ法王ハドリアヌス1世がギリシア人のために建てたのだが、ギリシア人が教会を飾り立てたためコスメディン(装飾)の名が付いたという。どういう風に飾り立てたのだろうか?

[真実の広場と2つの古代ローマ時代の神殿]

この真実の口があるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の前は、真実の広場(Piazza Bocca della Verità)と呼ばれている。その広場に差し掛かったときに、わたしは何気なく、2つの遺跡のような建物をカメラに収めた。それにはガイドや添乗員はノーコメントだったのだが、いま調べてみるとなかなか魅力的なものだった。以下の2つの神殿なのだが、実は、これも「ローマの休日」に出ていることが分かった。アン王女たちがスクーターで暴走して警察に捕まった後、釈放されたときの背景にこの2つの神殿が映し出されているのだ。

[フォルトゥーナの神殿]

フォルトゥーナの神殿

一部工事中のようだが、正面に4本の円柱を持つ四角い神殿で、これは、フォルトゥーナの神殿(Tempio della Fortuna)と呼ばれている。紀元前2世紀後半に完成したもので、港の神、ポルトゥヌス(Portunus)に捧げられたものといわれる。

[ヴェスタの神殿]

ヴェスタの神殿

20本のコリント式の柱に囲まれた直径8mの円形の神殿である。フォルトゥーナの神殿の南側に建っているこの神殿は、ヴェスタの神殿(Tempio di Vesta)と称される。ローマに残る大理石の神殿としては最も古く、紀元前2世紀後半に建造されたという。
さっと素通りしてすっかり忘れかけていたが、こうして写真に残っているのを改めて見てみるとなかなか美しい。
ちなみに、見てはいないのだが、このヴェスタの神殿と同名の遺跡が後述の フォロ・ロマーノ にもあるらしい。フォロ・ロマーノの遺跡もそうとう古いものらしい。この同名というのはよく分からないが、日本でいえば稲荷神社が各所にあるのと同じような意味合いなのだろうか。ヴェスタとは女神で暖炉や竃の火を司る家庭の守護神である。
さて、バスはサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の前を抜け、南のチルコ・マッシモ通りを南下し、サングレゴリオ通りにぶつかってそこを左折し、今度は北上するかたちでコロッセオに向かう。その途中で見かけたのが以下。

[ウーゴ・マルファ広場]

ウーゴ・マルファ広場

実は、道路を挟んでこの反対側のチルコ・マッシモ(Circo Massimo)のほうが、古代ローマ時代の10万人以上収容できたといわれる巨大競技場跡としての観光スポットなのだが、いかんせんバスの右側の座席のため右側にある景色しか撮れなかったわけである。
チルコ・マッシモ通り中ほどの車窓からの景色は、そこが、ウーゴ・マルファ広場(Piazzale Ugo La Malfa)という名の広場であることを示している。

[フォロ・ロマーノ]

フォロ・ロマーノ(Foro Romano)は、東西約300m、南北約100mにわたって存在する古代ローマの中枢だった場所で、紀元前6世紀には既に建設が開始されていたという。ラテン語で「フォルム・ロマヌム(Forum Romanum)」と呼ばれていた。ローマ帝国の栄光を物語る政治・経済・文化・宗教の中心地で、カエサルの共和国時代から帝政ローマ時代に最も栄え、たくさんの市民が集まった。
このフォロ・ロマーノがどこにあり、また何であるかは、実は知らなかった。かなり広い範囲にわたる遺跡であると分かったときは、そこに時間をとって見て回ることをしない限り、断片的な写真を撮っても仕方がないと思った。しかし、それと知らずに撮ってしまったのが、ここにある写真で、結果的にそれがフォロ・ロマーノの一部だったということで、ここで仕方なく(笑)紹介することにした。ほんとうは全遺跡もれなく撮ってしっかり紹介したいのだがそれはままならない。

フォロ・ロマーノ入口

[フォロ・ロマーノへの入口]

左は、コロッセオに到着する寸前、バスから降りたところを撮ったものだが、どうも、これがフォロ・ロマーノへの公式入口のひとつだったらしい。わたしは、ここでコンテンツをつくるまで、コロッセオとフォロ・ロマーノが隣接していることすら知らなかった。したがって、次の写真も、コロッセオから撮ったものだが、情けないことにそれもフォロ・ロマーノの遺跡だとはまったく気がついていなかったのである。よく似たものがローマにはたくさんあるし、有名なもので既に写真などで見ていない限り、ひとつひとつガイドがあれは何々ですと教えてくれなきゃ分からない。

コロッセオから見たフォロ・ロマーノ(東から西を見る)

これは後述のコロッセオの中に入ってその上から西に眺めたフォロ・ロマーノの景色である。著名な遺跡の大部分は、ここから見える建物等の背後に隠れてしまっている。
コロッセオから見えるものでは、左奥の緑地部分がローマの七丘のなかで最も古いといわれるパラティーノの丘(Monte Palatino)で、その右手の白い門が「ティトウスの凱旋門(Arco di Tito)」。これが唯一、ここから見える主要な遺跡である。
真ん中の塔は、遺跡というより、サン・フランチェスカ・ロマーナ教会(S. Francesca Romana)で、ほかに考古学博物館がある。

コロッセオ前から見たフォロ・ロマーノ(北東から南西を見る)

ティトウスの凱旋門は、高さ15.4m、幅13.5m。現存するローマ最古の記念門で、ユダヤ戦争(帝政ローマ期66-73年)の戦勝記念として81年に建立。この背後奥に、真実の広場のとは別のもうひとつの「ヴェスタの神殿」があるのだがここからではまったく見えない。
左は、コロッセオの中ではなく、その前の広場からフォロ・ロマーノを見たもの。このときはホントにいい天気になったなあ。暑くはないし、最高!

さて、先ほどのフォロ・ロマーノへの入口あたりからは、もうコロッセオが見えてきているのだが、そこに行く前にもうひとつ紹介しなければならないものがある。

[コンスタンティヌス帝の凱旋門]

見えてきたコンスタンティヌス帝の凱旋門

コロッセオと先ほど説明したパラティーノの丘の間に立っているのが、コンスタンティヌスの凱旋門(Arco di Costantino)。
古代ローマ時代の凱旋門で、312年に西ローマ帝国の副帝であったコンスタンティヌスが、正帝マクセンティウス帝に勝利し、唯一の皇帝となった事を記念して建てられたものといわれているが、コンスタンティヌスの時代より200年前の建築物の装飾が用いられていることが分かった。このため、近年はこの凱旋門は実は2世紀頃に建設されたもので、コンスタンティヌスはこれを改変しただけであるとする説も出てきている。

コンスタンティヌス帝の凱旋門

高さ21m、幅25.7m、奥行きは、約7.4m。
3つの門があり、中央の門の高さ約11m、幅約6.5m、左右の門は高さ約7m、幅3m。ローマにある凱旋門では最大である。
外観で見ると少し黄色味があるが、これは黄色大理石の円柱が採用されているせいか。円柱以外は白大理石から構成されている。
左の写真で分かるように、すぐ右隣りにもうコロッセオが見える。
下左は側面からのアップ写真。右は、これもフォロ・ロマーノと同様、コロッセオの上から撮ったものである。
コンスタンティヌス帝の凱旋門は、1960年のローマオリンピックでマラソン競技のゴール地点に選ばれたほか、パリのシャンゼリゼ通りの西端、シャルル・ド・ゴール広場にあるエトワール凱旋門のモデルにもなっている。エトワール凱旋門は上に登ることができたが、このコンスタンティヌス帝の凱旋門はどうなのだろうか?

コンスタンティヌス帝の凱旋門サイドのUP コロッセオから見たコンスタンティヌス帝の凱旋門

コロッセオ

コロッセオ

コロッセオ(Colosseo)は、ローマ帝政期に造られた4階建ての円形闘技場、300年以上も血なまぐさい試合が行なわれた舞台である。ネロ帝の死後、黄金宮殿(ドムス・アウレア)の庭園にあった人工池の跡地に建設、工事はヴェスパシアヌス帝が72年に着工した。フラウィウス朝の皇帝が建設者のため当初「フラウィウス闘技場」と名づけられたが、ネロ帝の巨大な像(コロッスス)がそばに立っていたためコロッセウムと呼ばれるようになったという。
長径188m、短径156mの楕円形で、高さは48m、45,000人を収容することができた。各階の建築様式が異なり、1階はドーリア式、2階はイオニア式、3・4階はコリント式となっている。1階は大理石張りの元老院議員席、2階は騎士席、3階は市民席、最上階は市民権をもたない者の立見席だった。

コロッセオ コロッセオ コロッセオ

かつて数多くの人の血が流された場所であることから、現在、死刑廃止のイベントに使用されている。

コロッセオ コロッセオ コロッセオ

下はコロッセオ内部。過去の地震や石切り場として切り崩されたこともあり、競技に使われた床が崩れて、現在では地下施設がむき出しになっている。

コロッセオ コロッセオ コロッセオ
コロッセオ

危うく迷子になりかける

上記の写真を夢中で撮っているうちに、イヤホンの声に気がついた。
「では、外に出ましょう・・・大丈夫ですね。えーと・・・皆さんいますね・・・OK。では、参りましょう」
おいおい、OKじゃないよ、わたしがまだ残ってる!あわてて、後ろの階段を駆け上がって左右を見たがやっぱり、だれもいない!
えっと、どこから来たんだっけ?
方向音痴のわたしは、さあ迷った。これはもう完全に迷子である。
前方、左右、いずれも少し先で通路が折れているためまったく先が見えない。しかもみなよく似ている。これではまるで迷路・ダンジョンだ。RPGのゲーム上では得意だが、実際の迷路では、わたしはまるでダメなのだ。
「皆さんいますね・・・OK」って、いったいガイドも添乗員もいい加減な人数確認。わたしがいるではないか。それにしても、わたしの「連れ」は、わたしのことを忘れているのか!(笑)
もう、手当たり次第にそれらしい方向からつぶしていくしかない。まず右に曲がってしばらくいくと、まったく見慣れない風景。来るときは逆向きだからそういう風に見えることもあるのだが、なんとなくちがう。頭を抱えて、あせってもとの場所に戻る。
ああ、こんなやり方ではダメだ。どうしよう。正直、少し動転していた。落ち着け!
だがこういうことも思った。
「そんなに時間は経ってはいない、3方向のいずれかを深入りせずに少し進んでみれば、きっとすぐに出口がみつかるはずだ」
そして、今度は左方に向かって、その先で通路を曲がると、やっとそれらしい光景を見つけた。あーよかった!
足が痛いのにもかまわず、走ってみんなと合流した。幸いだれにもなにも気づかれずにすんだ。
どこを向いても人ばかりで、なかなか撮影ポイントもままならない。せめてわたしたちのツアー客がみんな去っていくまで待って撮ろうとしたのが、こんなことになってしまった。危ない危ない。もうこりごりだ。この歳で迷子なんて、とんでもない!

トレビの泉

さて、コロッセオを後にして、ツアーでは最後の観光スポットであるトレビの泉(Fontana di Trevi)を目指す。11時20分ころにコロッセオを出たが、北に1,500m程度のところのトレビの泉についたのは、渋滞もあってか正午少し前だった。
トレビの泉は、実は単独の噴水ではなく、背後にある「ポーリ宮殿」の壁と一体となっている。このポーリ宮殿は、ローマのバロック建築を代表する建物である。下の写真のように、中央に海神ネプトゥヌス(ポセイドン)が立ち、左に豊饒の女神ケレス(Ceres)、右に健康の女神サルース(Salus)が配置されている。これらはノコラ・サルヴィの設計でブラッチが制作した。また、ポセイドンの足元には海馬や半人半魚の2人の海神トリトンがいる。
後ろ向きにコインを泉へ投げ入れるとまたローマに来られるというのでやってみた。実は投げるコインの数によって叶う願いが異なるらしい。コイン1コは再度ローマに来ることができる、2コでは恋人と永遠に一緒にいられる、3コになると恋人や夫・妻と別れることができるとか。あれっ、小銭3コほど入れたかも?投げ入れられたコインは半分がカトリック系団体に寄付されるという。残りの半分はどうなる?

トレビの泉 トレビの泉

下左は、古代ローマの騎士の姿、というのだろうか。彼らににカメラを向けて撮ったりすると料金を要求されるということなので、わたしは撮らなかったのだが、こっそり妻が撮影した。

トレビの泉 スタチュー

ここにも、フィレンツェの シニョーリア広場 と同様の スタチュー(statue:人間彫刻) がいた(右上)。これも妻が撮影。いたっけ?気がつかなかったな。
ここでは、昼食前ではあるが、後ろのジェラートの店でアイスクリームを買って食べたりした。ジェラートのは乳脂肪分が基準に達していないので日本ではアイスクリームとは呼べなくて、アイスミルクの分類だがまあまあの味。アイスクリームはやはり脂肪分たっぷりのアメリカのがいままでではおいしかった。太るけどね。

昼食とホテル近辺

ローマ三越

ローマ三越

トレビの泉はせいぜい30分程度で、そこから、東に少しバスに乗り、共和国広場に近いローマ三越まで行きそこでツアーは解散、夕方6時にホテルに戻るまで、フリータイムとなった。
もちろん、旅行社とローマ三越とは提携しているので買物の案内があったのは当然である。
わたしたちも買物をする予定はあったのだが、荷物になるので、食事をとって観光を終えた後で再度、三越に寄ることに決めた。
この三越の写真もとくに撮ってなかったので、ストリートビューのを借りることにした。
さて、問題の昼食なのだが・・・。

昼食はなんと三越の真ん前のレストラン

レストラン「ゼウス」の名刺表 レストラン「ゼウス」の名刺裏

実をいうと、わたしはこのローマでの昼食のことをまるで忘れてしまっていた。店の場所も雰囲気も、何を食べたのかも・・・。
ただ、何気なく店頭にあった店の名刺を持ち帰ったのと、妻と娘から聞いたことで記憶をたどりながらようやく少しは思い出すことができた。ただ、店の場所については3人ともすこぶるあいまいである。
そこで、この名刺の表記をたよりにインターネットやストリートビューで調べてみると・・・なんと、店は上の三越の通りを挟んだ真向かいの場所だった。なんと安易な!
しかし、娘の言によれば、「この店でやっと食事らしいものを注文することができた」そうである。
この店の名はZEVSとあるが、これはラテン文字でしゃれているので V を U に変えて ZEUS、つまりゼウスである。これはちゃんと ネットでHPをもっていた。そしてそこには、わたしたちが見たのと寸分変わらぬ 「日本語のメニュー」 が掲載されていたのである。
そうそう、生ハムとメロン、ピザのマルゲリータ、魚介類のフレッシュパスタなんかを注文した。それに、この名刺やHPのイメージに使われている広場の写真は、すぐ近くの共和国広場である。これは、実は、一昨日の夕方の散歩で訪れているのだ。つまり、ここや三越から、ホテルまでは至近距離なのである。
それでは、ここで、最後のスポットであるスペイン広場を紹介する前に、この三越から逆にたどってホテルまでの道筋のなかで、2日前の散歩で見たポイントを確認してみよう。

2日前の夕食前散歩時に見たスポット

[共和国広場]

共和国広場(北西向き)

散歩の後半で、北西向きに歩いて広場に遭遇したときが左の写真。ここはロータリーになっていてそこから5本の道路が周りに延びている。次の左下の写真に見えている左方の曲がり角を曲がればすぐ右手がローマ三越だ。
実は右下のこのマクドナルドもこの広場の一角にあり、なんのことはない、最初に広場にぶつかったときの左の角なのである。
さて、この広場こそ、共和国広場(Piazza della Repubblica)と呼ばれるものだが、16世紀終わりまでは「エゼドラ広場」と呼ばれていた。広場の中央には、「ナイアディの泉」(Fontana delle Naiadi)があり、彫刻家マリオ・ルテッリにより1901年に完成、4人の妖精が周りを取り囲んでいる。ちょっとクルマの往来が激しいが、なかなか美しい広場で、夜間にはライトアップされるそうである。

共和国広場(北西向き) 共和国広場(西南向き)

また、ディオクレティアヌスの浴場を囲んでいた建造物の跡地を利用してこの広場が造られたとある。ん?また、翼廊を利用したサンタ・マリア・デリ・アンジェリ・教会が広場には面している・・・ってもしかして、あの遺跡のような建物?

[サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会]

サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会

ああ、これだ。サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会(Basilica di Santa Maria degli Angeli)。ちゃんと十字架が見える。
これも、共和国広場に面していたのだ。広場のちょうど北東向きに見えたはず。
これがもともとは、紀元305年に完成した「ディオクレツィアヌスの浴場」だったそうだ。右側の遺跡のような風貌がそれを物語っている。そして、16世紀に教皇ピウス4世の命により、この教会の設計・改築をまかされたのがミケランジェロだった。

[ディオクレツィアヌスの浴場跡]

ディオクレツィアヌスの浴場

散歩で最初に見たのがこちらの風景。これが上のサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会の右手に位置している。遺跡は東西に広く長いわけである。このディオクレティアヌス帝の浴場跡(Terme di Diocleziano)の形状をなるべく生かしてミケランジェロはサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会を改築しようとしたのである。

[ディオクレツィアヌスの浴場という名のレストラン]

さて、散歩のときに見かけたホテルのすぐ近くの奇妙な円筒形の建物。実は、これをストリートビューで再確認してみたのが右下の写真。左のほうの入口に何か文字が見える。上のほうはどうやら RISTRANTE とあるからレストランだということが分かる。右の文字は拡大機能があるので見てみると、TERME DIOCLEZIANO とあるようだ。これは・・・ディオクレツィアヌスの浴場のことである。なるほど。これはよくあるネーミングのつけ方である。たとえば、富士山のそばにある食堂に「食堂富士」と名づけるようなものだ。
そこで、RISTRANTE と TERME DIOCLEZIANO をネット検索してみると、一発でそのサイトが見つかった。

ディオクレツィアヌスの浴場跡という名のレストラン ディオクレツィアヌスの浴場跡という名のレストラン

それが http://www.termedidiocleziano.it/ である。この妙な遺跡のような建物は、レストラン「ディオクレツィアヌスの浴場」だったわけだ。しかし、こんな 悪い評判 もあるようだ。

[5百人広場とテルミニ駅]

左下写真は結局は直進せずに左方に進んだのだが、真っ直ぐ進むと右側には5百人広場(Piazza dei Cinquecento)という広場がありその奥がテルミニ駅(Stazione di Roma Termini)に通じている。また、右下の写真は、右手の方向を見たところだが、前方左手に見える建物がテルミニ駅で、これが左手で5百人広場と結びつくようになっている。

右手は5百人広場 前方左がテルミニ駅

[ローマ国立博物館(マッシモ宮殿)]

ローマ国立博物館(マッシモ宮殿)

散歩のとき、ちょっと気になったこの建物は、ローマ国立博物館(Museo Nazionale Romano)のマッシモ宮殿(Palazzo Massimo)と呼ばれるものだった。なんと、宮殿である。
ローマ国立博物館は4ヵ所に分散していて、本館がこのマッシモ宮殿、分館としては近くのあのディオクレツィアヌスの浴場跡が博物館のようになっているそうだ。そのほかの分館は少し離れて、ナヴォーナ広場のすぐ北にアルテンプス宮殿(Palazzo Altemps)およびクリプタ・バルビ(Crypta Balbi)がある。
わずか30分程度の散歩だったけど、宮殿あり、遺跡あり、著名広場ありと、ほんとにちょっと歩けば遺跡・名所にあたるローマ、というのを、改めて実感した次第。
さて、いよいよ本紀行も、オーラス。

スペイン広場

革製品の店に立ち寄り

食事を終えて14:00。ホテル集合18:00まで4時間だが、買物もしなければならない。どこか見て回るにしろせいぜい2ヵ所が限度である。わたしはとにかくスペイン広場へということでこれは妻や娘も依存はない。娘のほうで何か革製品の店に行きたいというので、まずそこへタクシーでいくことにした。運転手には所在地が載った本を見せると簡単に理解してもらえた。以下、その店の店頭風景だが、ここは見てもらうだけにしよう。店に入ってしばらくすると、同じツアーの新婚カップルが偶然、来店した。若者たちの見るものは同じ情報源のようだ。

タクシーを降りて細い道を 石畳

場所は調べてみるとサンタンジェロ橋の東南にある路地の途中。午前中に訪ねた西の方角へ逆戻りしたわけだ。
クルマが入れない通りなので少し歩く(上左)。ローマは石畳(上右)なのでクルマは結構、ガタガタと揺れる。長距離だと疲れるかも。風情があるのと、快適さとどちらを選ぶ?

IL BISONTEという店 真向かいには東洋系骨董品?店も

着いた店は、瀟洒なブティック(上左)。IL BISONTEは フィレンツェに本店をもつ革製品の著名ブランド。ここローマの店には日本人の店員もいる。真向かいに妙な骨董品店らしい店がある(上右)。わたしはこちらのほうが気になった。
30分程度すごして、またタクシーに乗り、今度はそこから北東のスペイン広場へ。イタリアでは、タクシーは店で呼んでもらうのが常道である。

スペイン広場

スペイン広場

スペイン広場(Piazza di Spagna)の名の由来は、単純に近くにスペイン大使館があったからというもの。観光地図で探してみると、近くにはすぐ南にスパーニャ宮殿というのが見つかったがスペイン大使館は記されていない。大使館があったのは命名される17世紀の時点で、ということかも知れない。広場の中央、階段下にある船型の噴水は、ピエトロ・ベルニーニ作の「バルカッチャの噴水」。ピエトロ・ベルニーニは、サン・ピエトロ大聖堂の「ベルニーニのバルダッキーノ(大天蓋)」 をつくったジャン・ロレンツォ・ベルニーニの父である。ということは、この噴水もルネサンス後期17世紀のころのものということになる。バルカッチャとは、テヴェレ川でワインの運搬に使われていたおんぼろ船のこと。
ローマの休日でオードリー・ヘップバーンのアン王女がアイスクリームを食べながら登った階段、すなわち「スペイン階段」は通称で、正式には、上のトリニタ・デイ・モンティ教会(Chiesa della Trinità dei Monti)へと続くトリニタ・デイ・モンティ階段という。ちなみに、トリニタ・デイ・モンティ教会は1502年フランス王ルイ12世が建てさせた(1585年完成)フランス人のためのもの。イタリアにあり、フランス人が造り、スペインの名が付く奇妙な階段といえる。現在は広場での飲食は禁じられているため、映画のようにジェラートを食べることはできないようだ。

バルカッチャの噴水 バルカッチャの噴水 スペイン広場の端にあるオベリスク

イタリアに旅行するまでは、まさか、このスペイン広場に自分が来るなどとは夢にも思わなかった。
すっかり満足して、映画のシーンだけ思い浮かべて、下から階段を見上げてばかりいた。
どうして、階段を登り、最上階まで行ってみなかったのだろう!いつものわたしなら多少足が疲れていてもそうするのに。
このことが不思議でならない。

旅行を終えて

レオナルド・ダ・ビンチ空港(フィウミチーノ空港) レオナルド・ダ・ビンチ空港(フィウミチーノ空港) レオナルド・ダ・ビンチ空港(フィウミチーノ空港)

ローマのレオナルド・ダ・ビンチ空港(フィウミチーノ空港:上写真)を飛び立ってからすでに2ヵ月経った。いまから思い出しても、イタリアに行ってよかったとわたしも妻も心からいえるのは幸せなことだと思う。細かいところではもう少しこうだったら、というのはあるが、わたしたちサイズでいえばちょうどいい理想的な旅行だったといえる。

もし僭越ながら、これから旅行しようという人たちにアドバイスするとしたら、やはり、若いうちにぜひイタリアを!ということに尽きる。もちろん、経済的には決してカンタンではない。しかし、極論すれば、つまらない小規模旅行を繰り返して散財するより、そのお金をためてぜひ一気にヨーロッパをといいたい。帰国後必ず思うにちがいない「もういちど行きたい」をかなえるためには、まず訪欧の初体験をなるべく早くすませておくべきである。そうしないと再訪問の成就の確率がどんどん下がる。熟年になってから、もしくは定年になってからヨーロッパへ、というのは断じてまちがいである。
趣味の問題もあるが、個人的にいうなら、アジア・アメリカ・オセアニア・もちろんアフリカと国内などはやめて、まず最初からヨーロッパを目指したい!最初の海外はハワイで、というのは実にもったいない話しだ。
トラブルさえなければ、ヨーロッパは決してあなたを後悔させないだろう。そして、2度目の訪欧に向けての働く意欲をわかせてくれるにちがいない。(イタリア紀行 了)

(09/06/017) (09/04/14・09/04/12撮影=現地時間)