じぶん探訪

遠出はできないと思っていたけど、一生に一度はね。ということで。

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その7-6.イタリア紀行Y 「眠ってはいられないフィレンツェへの道」

ベネチア観光を終えた翌朝、向かった次の訪問地はフィレンツェ。ベネチアからフィレンツェまでは274km、高速バスで約3時間半の距離である。ちなみに当日のスケジュールは以下。

  1.   8:00〜11:30 ホテル出発〜フィレンツェ到着
  2. 11:30〜12:30 ミケランジェロ広場
  3. 12:30〜14:00 昼食
  4. 14:00〜14:30 中央駅まで行きバスを下車。徒歩で街の中心部、ドゥオーモ広場に
  5. 14:30〜15:00 サン・ジョヴァンニ洗礼堂・ジョットの鐘楼を見てドゥオーモ内を見学
  6. 15:00〜16:30 南のシニョーリア広場まで歩き、広場・ヴェッキオ宮殿を見て、隣のウッフィッツィ美術館を見学
  7. 16:30〜17:30 徒歩移動・旅行社定番の革製品店ショッピング
  8. 17:30〜18:00 徒歩+バス移動でホテル着
  9. 19:00〜21:00 ホテルレストランにて夕食

なかなかの強行スケジュールであるが、後で振り返ればこれはわたしたちにとってありがたかった。というのは、この日の翌日は午前中が自由行動で本来なら見落としたフィレンツェの街を見学できるわけだが、わたしたちはピサへの半日オプションを入れていた。その午後からすぐにローマへの移動となるので、つまり、このフィレンツェ到着当日の午後だけがわたしたちの唯一のフィレンツェ観光時間だったわけである。
わずか半日強の観光だが、初めてのフィレンツェはさすが世界遺産というだけあってどこもかしこも想像以上に美しく、また、ほぼ主なポイントを見たという実感、短時間でよくもここまでという思いがあり、足が疲れはしたが十分満足だった。
しかしながら、本編に記すのはそのことではない。
今回の旅で、わたしがいちばん気に入ったのは、このフィレンツェの美しさではなく、実は、そこに至るベネチアからのバスでの移動中の景色だった。フィレンツェのメインスポットは次の7-7で紹介するとして、この7-6では、ちょっと私的になるがバスの車中での想いなどそんな話をしてみよう。(多分に独善的な内容なのでご容赦を)

ベネチアからフィレンツェまで(a Firenze da Venezia)

ベネチアのローマ広場からバスに乗り、途中、半分くらいの距離にあるフェッラーラという街で20分ほどトイレ下車しただけで、あとはフィレンツェまですべて車中であり、残念なのは、窓外の美しい景色をバスのウィンドウ越しに撮るしかなかったことである。(せっかくバスから降りたフェッラーラのポイントでは、あたりに田園風景はなく郊外の閑散とした工場のような町並みで撮りたい景色はなかった)
行程の途中からはこれぞまさしく「麗しのトスカーナ」に入っていく。フィレンツェはそのトスカーナ州の州都である。ほんとうにできることなら途中でわたしだけバスから降りて、自由にその風景を撮らせてもらいたかった。トスカーナのほかにも、南イタリアの田園やうわさに聞く南フランスのプロヴァンス地方も、さぞかしこれに似た景色なのだろうと想像すると、ああもっと以前から体験していればという思いがしきりである。
なぜこんなにも美しく見えるのか。そんなことを考えながら、わたしは前の座席で首を右に折り曲げて熟睡しているわが娘のポニーテール(じゃあないな、ちょんまげか?)やその隣で寝息を立てている妻にときどき目を向けるほかは、一睡もせずに窓外に目をやっていた。娘たちよ、こんな景色を前にして眠っているなんてもったいないではないか!?

霧のローマ広場

以下、出発のローマ広場からフィレンツェの街が見えてきたところまで、スライドショーで。
写真のゴーストはバスの反対側ウィンドウの映りこみで、反対側のいい景色を撮れなかったこともあわせて実に残念である。また、この日も、ベネチアは朝から霧が出て、かなりの距離まで離れてもなかなか晴れなかった。青空になったのはトスカーナ州の山道に入った付近で、10時半を過ぎていた。※画像が表現されないときは何回か再読み込み(F5キー)してみてください。

初めてのカルチャーショック

ちょっとむかし、日本にはなんでも舶来主義の時代があって、釈然としない思いを抱いていた。
そんなに欧米が日本よりすぐれているのか?戦争に負けたからといってそんなに卑屈になることはないではないか。
脱脂粉乳とコッペパンをどうしてもおいしいと感じないわたしは、子どもながらそんなふうに思っていた。
歳を重ねていくと日本人の勤勉さや繊細さ、頭脳の明晰さ、逆に欧米人の粗野な振る舞いと傲慢さ等々を見るにつけその思いはどんどん増していった。やがてそんな日本が GNP 2位になりエコノミックアニマルと呼ばれるようになったとき、わたしは初めて海外に行く機会を得た。その最初の訪問地はハワイでも東南アジアでもなく、偶然だがフランスのパリとなった。
そして、パリの街に一歩足を踏み入れたとき、わたしはそれまで勝手に自分でつくりあげていた日本人としてのアドバンテージがもろくも瓦解していくのを感じた。ただ、それは必ずしも不快なものではなかった。
なんという景観!どう逆立ちしたって、このパリの街並みの美しさは日本人にはまねができない!
どこを切りとっても絵になる絵画的バランスのよさと歴史を経た風格の重み、それを現在までしっかりと残してきたその国民全体の美意識。圧倒されてしまった。
戦後、わたしの父母にあたる先輩たちは懸命に日本経済を立て直してきたのだけれど、その努力も、わたしが大切に思っている美意識の奥深さとそれを造りあげる実行力、またその意識の国民全体への浸透度等という面で比べると、とうていヨーロッパ人のそれに及ばない。日本人は、ヨーロッパ人(欧米人とあえていわない)と比べてこの点では劣った、いろいろな意味で貧しい民族であると断定せざるをえない。

電線・電柱のない景観

電線は見えないがパラボラアンテナが見えたりするトスカーナの町
電線は見えないがパラボラアンテナが見えたりするトスカーナの町

それから何年かたって、こうしたパリの街並みを見たときのカルチャーショックの根底に、ある象徴的な事象、集約的な現象があることを発見した。それは、パリも含めてヨーロッパ、いや世界のどこでもいいのだが、美しい街並みというものに共通している最低条件がなんであるかということである。
それは電線、電柱がないことである。正確に言えばそれらおよびそれらの機能が地中化されているか、またはメンイストリートから隠されたところに敷設してあるか、ということである。
この観点でたとえばソウルの町を思い起こしてみればいい。ソウルも電線・電柱だらけのトウキョウとほとんど変わらない都市である。まるで少し前の日本、雑然とした街並み。裏にまわれば戦後すら感じるゴミのような一角。そこにはきまって野放図な電線が縦横に走り、無粋な電柱がまるで戦後復興の象徴かのように突っ立っている。
アジアのいわゆる後進国であり同時に経済新興国とよばれる国はおしなべてこうである。経済で日本に追いつけ追い越せという国。日本と同様に美術振興よりも経済発展を優先する国。というより経済のためには美と自然を破壊してもなにも感じない国。しかも、後になって取り返しがつかなくなったころにそれが欲しいという国。日本がそのいいお手本なのに、同様にその過ちをなぞらえている。
資金が潤沢ではなく残された時間の少ないわたしには、こんな国をいま旅行先に選ぶ余裕はない。
むしろ世界の超後進国でも電気すら通わない秘境のほうが、格段に美しい。(もちろん、そこには治安や宿泊設備の問題など国力と経済発展で解決できる皮肉な面もあるのは事実だが・・・)
なまじの経済成長をとげた美意識のまったく欠落した東洋人が場当たり的で低俗、アンバランスな都市を造ってしまう。醜悪で無計画な薄汚い都市を拙速で建造し、公害を撒き散らし、自然破壊の限りを尽くした後で、思い出したように自然・緑が少ない、安らぎがない、などという。その元凶が日本人だ。
やはり、わたしたちは短絡的で、美意識の欠落した民族なのだろうか?
いや、利便性を最優先する、現実的で、クールな思慮だという人もあろう。
でも、わたしは、これまでもそうであったし、これからも生涯、美意識序列で生きていきたい。
都会に安らぎがたりないといって地方を浅薄なリゾートという名のものに改悪し、おまけに貴重な干潟を温水プールにかえてしまう。さらに緑をきりはらってゴルフ会員権を買わせる。一見、壮大な一大観光地のようだが、すぐとなりは産廃のごみ捨て場になっている。こんな「安らぎの郷」は、すぐに飽きられ、化けの皮が剥がされ、不採算のもとに手の付けられない廃墟と化する。仮に素晴らしい(とは思わないが)近代建築を造り上げても、それはすべて局地だけであり、少しズームアウトすると、まわりとの景色の調和など微塵もない空間。一時的に脚光を浴び、不況ですぐ壊滅しお荷物になるいかにも浅薄な「テーマパーク」。そんなものになんの価値があろうか。
たしかに食い意地の張ったわたしにとって韓国料理は魅力である。しかし、いまの日本ならほぼ同様なものが麻布十番等々で食べられる。わざわざ釜山までチェジュまで行くことはなかろう。そんな金があれば、もう少し貯めて、美しいヨーロッパへ行こう。
もしかして、あのテポドンの北朝鮮なら、経済開発の資金を投入できないという貧しさの理由で、いまは亡き先輩が懐かしがっていた元山などは現在も風光明媚で美しいたたずまいをのこしている(いないか?)かもしれない。もし電線すらまばらで治安がよくそのうえ虫のいい話だがホテルが日本ほど完備していたら、わたしはそこを訪れたい。煤けたビルの壁面に、原色の赤や黄色のけばけばしい広告や、他を押しのけて目立ちたがっているPOP・看板等に埋め尽くされているニューヨークなどへ行くよりも。
こんな思いのわたしが、わたしたち家族の1回こっきりに等しい海外旅行をヨーロッパにしたのは当然のことではないか?

田園は都市よりもさらに美しく

田園風景
こんな濁ったヘタな写真より実際は数倍美しい

とにかく、電線・電柱のあるなしは、景観の面で致命的というほどの影響をあたえる。
だが、わたしはいままで欧州のわずか3、4都市、しかもロンドリ、パリ、マドリードなどいう大都市だけしか訪問したことがなく、これら海外の国の田園地帯が果たしてどうなっているのかはそれこそテレビやインターネットの写真程度しかしらない。ライブでないとやはり実感はない。今回もイタリアの主要都市ばかり行くわけだから田園地帯をまのあたりにするとは実は想定していなかったのだ。
そして、そのあまりにも鮮やかな初体験にしびれてしまった。
日本はもはや農村・田園はおろか寒村、山林にすら高架線も含め電気関係の設備が乱立している。かりにそれが比較的少ない農村・山村地帯であったとしても、町並みは不ぞろい、建物の様式はバラバラ、屋根の色も壁の色もちぐはぐ、1軒1軒は現代建築、あるいは昔風の美しい建物、あるいは相当資本をかけた豪壮建築だったとしても、全体的な町の姿を見るとまるで調和というものが感じられない。とても、全体で、街の、村の、景観を創っていこうという意識が希薄である。それを軽薄に個性的とよぶ人間のセンスを疑う。他人の近隣の家と調和してこそ街並みなのである。
いや、そうではなく、みんな何とかしたいと思っているが、なかなか資金的にも統一見解を出すにも難しい、などと弁解をする。では、ヨーロッパのあの圧倒的な美しさは、どうして中世というあんなにも昔から破壊されずに存在しているのか。
日本の街づくりというのは、経済振興オンリーを目指したものといってもいい。美しい町づくりという名目はウソである。みんな美しさより「経済的に」豊かな街づくりを目指していることは明白だ。
どうして、わが町をもっと美しくしようとはしないのか。自分の街が近づいてきたとき、ああ、あの美しい街に、村にもうすぐ戻れる、などという思いをもつ日本人は現在どれほどいようか。ご近所の底力などと称して落書きを消すための努力をして美しい街づくりをしているというような話をよく聞く。しかし、消しても消しても、落書きは絶えない。なぜなのか。
トスカーナの点在する美しい町に落書きをしようとするものはいるだろうか。たまたま落書きを瞬間の底力で消した東京中野区でもすでに電線や電柱という邪魔者が街の景観を壊している。落書きを消すだけでは街は永久に美しくはならないことに気づかない。美しくない街は、いつだってさらに汚されていく。ゴミを拾っても拾っても、景観のない街、愛着のない街には、ゴミも唾もいつまでも吐かれ続ける。人間とはそういうものだ。落書きを消す努力をするよりも、落書きなどとてもしたくない美しい街並みを築くことだ。美観の前にやるべきことがあるだろうとか、変圧器がどうとかコストがどうとかいっている人間は結局はなにもしない。
トスカーナは、このイタリアの田園は、電線がないとかいうレベルではなく、局地的ではなく、どこまでいっても美しい。
食い入るようにわたしが窓外に見入ってしまうのはあたりまえではないか?

無骨な護岸工事が施されていないこと

自然が豊富な小川
小川も日本でいう二級河川も自然のまま。コンクリートなど微塵もない

そして今回、電線のほかにもうひとつ、日本が犯している致命的な失態を再確認した。
それは、小川や河川の無粋な護岸工事である。これがまったくここには見られないのだ。
みな、あの懐かしくも美しい、日本の昔の童謡に出てくるそんな岸辺をすべてが保っていた。
なぜ、わが日本ではこうならないのだろう。
子どもが危険だから。水害対策として必要だから、というもっともな理由。ならば欧州ではなぜそうしない?
護岸工事をしないために欧州では河川での水害事故や、氾濫水害事故が日本より圧倒的に多いのだろうか。もしそうなら、イタリア政府は自然保護を人命より重視しているというのか。
ほんとういうと土建業の懐を潤す以外にはこんなものたいした効果はないのではないか?
日本の川が急流が多く暴れ川が多いから必要、砂防ダムも必要。ではなぜ、農村の片隅を流れる危険度のまるで少ない小川までも無骨なコンクリートでおおってしまうのか。
土建業の皆さんのセイカツのためです、そのかわりに当選させていただいている政治家でございます、とはっきり言ってくれたほうが気持ちいい!
それとも、国土交通省のお役人はこれほどまでも美意識がないのか。美よりもやはり経済優先といいたいわけか。
ならどうして昨今、自然回帰、環境保全などといまさらのようにいうのか。

日本における電柱・電線の地中化

調べてみると、なんと驚いたことに、電柱・電線の地中化は国土交通省が昨今、進めているのだそうだ。
しかし、それには相当の資金がかかり、むしろ住民のほうがその費用分担で反対しているとか、欧州のそれは、美意識からではなく必要に駆られての結果だとか、日本のは美意識の欠落からくる国策ではなかったなどいうばかげた言い訳をしているらしい。
必要に駆られようがなんだろうが結果としてそれを行なった国の価値観がそうなのだ。日本は、明らかに美に関する意識が希薄というより完全に欠落していたというほかない。やっと余裕が出てきて、フランスなどから、日本は先進国の仲間入りをしたと思っているようだがきたない国だといわれ、あわててそうしようとしているだけに過ぎない、とわたしは見ている。
わたしが初めて社会に出たときの勤務先が東京日本橋だったが、あの名所たるべき「日本橋」の真上にどうしてあんな無粋な高速道路を築いてしまうのか首をひねるばかりだった。愚か者の仕業というほかない。中世のイタリアなら、そんな建設大臣はギロチン刑に処せられていたにちがいない。
また、地中化に資金がかかるのは当然。すでに、地上に愚かなものを造り上げたうえで、新しく地中に作り直すのだから、最初から造るより金がかかるのはあたりまえだ。それは、既存のものを壊す一時的な不便と税金の高騰に反対する住民への折衝費という観点を含めた話である。愚かさのつけは倍になって必ず戻ってくる。いまの日本がそのいい例だ。
電柱等が敷設されていない当初から都市の景観に考慮し地下に埋設するという発想ができたかどうか。そんな美意識が日本人に、いやそれを実行する当時の高級官僚・政治家にあったのかどうか、ということをわたしは論点としているのだ。フランスやイタリアにはあった。日本にはなかった。ただそれだけの理由ではないのだろうか。もしそれが事実なら、日本人としてとても悲しい。日本は経済大国になって豊かになったというがとんでもない。心がこんなに貧しくては、いつまでたったも尊敬される真の大国にはなれない。
あんな電柱を建てた当初の日本人は、明治以前の自国の豊かな自然が美しく大切なものであるという意識が欠落していたのだろうか。そんなことをすれば景観が失われてしまうことを指摘した人はひとりもいなかったのだろうか。
物質的な豊かさを得たそのかわりに失ったものが計りしれない日本。それでも、電柱・電線を見えなくし、歴史的建造物の真上の高速道路を撤去し、川岸のコンクリートを廃棄すれば少しは元に戻れるかも知れない。また、そうしないと、日本人はいつまでも心の中で欧州人からは軽蔑され続けるだろう。京都だけをいくら磨いてもダメなのだ。わたしはそう思っている。
(ただし、中世のフィレンツェを築きあげたのは、メディチ家等の支配者の圧倒的な財力とその支配下にあった多くの犠牲者や奴隷たちであっただろうことも考慮する必要がある。が、わたしの本題とするのはそうしたことではなく、あくまでも美意識の次元である)

もうひとつ、広告の規制

フィレンツェの街並みに唯一掲げられる広告ポスター
フィレンツェの街並みに唯一掲げられる広告ポスター(写真内左中央)。

こうした想いを抱きながら、フィレンツェの街に到着しかけたのだが、そこでもうひとつ、重大なことにいまさらながら気がつくことになる。
今回の旅行全体を通してもいえることだが、ローマ市内の繁華街近辺を除いて、屋外広告、看板、POP、ネオンサイン等々が、あまりにも少ないということである。あるところでは皆無といってもいいくらいの徹底さである。
このことは、広告を生業としているわたしには少々つらい発見でもあったが、さもありなんとも思う。
ベネチアやフィレンツェではそんなものはほとんど見た記憶がない。小さなA3程度のシックな案内ポスターを1枚見た程度。それは広告ですらないかもしれない。
窓外から見た田園に至っては皆無である。
日本では列車の窓から「イ○コロリ」だの「○○○○浣腸」だの、大昔の「○○ナミン」などがあちこちに見える。ときどき農村と田園の間でリトル・ラスベガスさながらのびっくり仰天のイルミネーションが深夜ドライバーを驚かせたりする。
広告はひとつひとつが自己主張を極めようとするものだから、いくつかそれが競合並存するときの不調和感も極まりない。これでどうして、美しい街並みを構成できるというのだ。
美しい広告を創ろうとしていた。美しいデザインを追及していた。キャッチフレーズにぴったり合致する美しい書体の模索に何日もかけた。1mm単位で文字の大きさと配置を変化させ、もっとも美しく見えるレイアウトを追求した。さらに、美しい海外の景色をロケハンすらした。
そうして、できあがったポスターや電飾看板が、街や道路の景観を損ねる元凶となっている。この矛盾。
アメリカの広告手法をいつも手本にしてきた日本の広告業界。高度成長時代は、アメリカは神様のような存在だった。高度成長の少し前にパリでカルチャーショックを受けたわたしは、アメリカ志向には成りきれずにヨーロッパへの憧憬ばかりが強くなってしまった。しかし、広告の世界はいまも依然としてヨーロッパではなくアメリカが本流である。どうしても価値観に違和感のあるアメリカを師匠としなければならない葛藤。
でもいまはもうわたしはアメリカをさっぱりと棄てて迷わない。ミラノの世界でいちばん美しいといわれるアーケード、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガレリア へのマクドナルド出店でそのトレードマークのロゴの赤をNon!としたイタリアの矜持にエールを送りたい。

ああ、フィレンツェの街が近いようだ。これからまもなく、素晴らしい眺望を眼にすることになる。( イタリア紀行Ⅶ に続く)


フィレンツェ、ミケランジェロ広場

余談だが、この高速バスの中では、たえず懐かしい60年代のカンツォーネが流れていた。
ジリオラ・チンクエッティの「 夢見る想い 」「 愛は限りなく 」「 ナポリは恋人 」、ボビー・ソロの「 ほほにかかる涙 」、ミーナの「 月影のナポリ 」(ああ、これは日本では 森山加代子が唄って いたな)・・・。
人のよさそうなドライバーはおそらくわたしたちに聞かせるというより自分が好きなのだろう。
知ってるぞ!と声をかけて肩を叩き、彼の国の歌手を褒めちぎり、彼が商売する1本1€ の水を何本も買ってやりたい衝動にかられたものである。

(09/05/13) (09/04/11撮影=現地時間)