遠出はできないと思っていたけど、一生に一度はね。ということで。
誤算
誤算というより無知というしかない。行く前から調べておけばすべて分かっていたことなのである。でも、何もかもが初めてのわたしたち(少なくともわたし)には、それはそれで大した問題ではなかったのだけれど。無知というのは、以下。
1. 晴れていても風が吹くと・・・。
相変わらず早朝から起きだして、連続6日の晴れをホテルの窓から確認したとき、わたしはその日、青の洞窟が見られるものとばかり思っていた。しかし、当日の現地ガイドのはなしを聞いて必ずしもそうではなく運の要素もあることを知った。
結論からいうと、わたしたちは少々ツキがなかったことになる。雨が降っていなくても、曇りであっても関係なく、問題は波の高さ。海が荒れていたら洞窟の小さな入口には危なくて入れない。わたしのように図体のでかいのはさらに危険である。晴れ曇りより、むしろ風が吹いているかどうかが問題。その日は、晴れてはいたが、少し風が強かった。だいたいは夏が見られる確率が高いというが、そういう意味では、風が穏やかそうな日を選んで満を持して臨んでも、たまたま風が吹いて海が荒れればそれでおしまいである。たった1回のチャンスをものにした人もいれば、3度来て3度とも無念だった人もいるらしい。
風は気まぐれでいつ突風が吹くかも知れないが、逆に運よく風が止むかも知れない。したがってナポリの港を出た時点ではまだ青の洞窟が見られるかどうかの断定が下されない。わたしたちがそれを確認したのは、船に乗り込んで20分ほど経ったころだったろうか。前の座席に座っていた別の日本人ツアー客のイヤホンに彼らの添乗員からの報告が入って彼らから知ることとなった。
しかし、不思議なことに、そのとき以降も、外国人も含めて観光客には、それほど落胆の表情は伺えない。「ピサ観光におけるピサの斜塔」のように、「カプリ島での青の洞窟」は同様の位置づけではないのだろうか?
それはわたしの認識不足だった。カプリは魅力と美しさがいっぱいの島だったのである。
山が多いローマ-ナポリ間 |
ここも山 |
休憩所。観光バスが並ぶ |
休憩所近くの景色 |
2. 時間をかけても行きたいカプリ島
移動時間だけで9時間もかかるのでは、まる1日の観光となるのはムリもない。でも、こんなに移動時間がかかることは初めから聞いておけば分かることだった。北イタリア観光が主のツアーで、南のカプリ島まで行こうというのがそもそも欲張りともいえる。これは、ローマに過去何回か訪れていて、ローマ観光は少しだけでいいという人が選ぶオプションなのだろう。わたしたちはみなローマも初めてなのだから、このカプリ島はちょっと無謀だったともいえる。現実に、ローマ観光は翌日の最終日のみ、しかもガイド付きは午前中だけで、さらに午後も土産物などで半分は帰り支度となるわけである。
ところが、今回のツアー客35人中、半数以上がこのオプションツアーに参加していた。彼らのすべてがわたしたちと同様、認識不足であったとはいえないだろう。中には、青の洞窟が見られなくとも、あるいは9時間以上の移動時間があったとしても、カプリ島にぜひ、という熱い気持ちをもっていた人がいたにちがいない。
カプリ島は夏がいちばん似合うと思う。青い空と碧りの海。白い波。眩い太陽。瀟洒な通り。お洒落な店・・・。できれば真夏、1日だけでなく1週間ほどここにいたい。治安もよく、キアヌ・リーブスなどの別荘もあるリッチな島。駆け足で青の洞窟さえ見ればいい、というのが認識不足ということなのだろう。
それでも、もし、効率的に観光をするなら、やはり南イタリア限定のツアーあたりで、ナポリに宿泊して、そこからゆっくりと船に乗るのが妥当だ。船の往復2時間はともかく、バスでの移動7時間は、窓外の景色を楽しむにしてもちょっともったいない。ローマから移動する場合はナポリに宿泊するか、もしくはナポリに前日から滞在していてカプリ島を観光した後に同日ローマにというのなら、片道だけの移動で済むからまだムダが少なくていいだろう。
途中の立体交差 |
山頂の白は岩塩のようだ |
田園風景 |
ナポリは近いかな? |
3. ナポリはナポリだけで日程を
ということで、それほど移動時間を要するわけだから、ナポリの町を見て歩く時間などいっさいとれないわけである。ましてや、そこで食事をすることも。
実は、このオプションを決めたのは、青の洞窟目的ではなかったのである。
ではなにかというと、娘の「ナポリの本場のピザがぜひ食べたい」ということで、本体のツアーに「ナポリ」を加えたかったのである。カプリ島のオプションにナポリという文字が見えたから単純にそれを加えただけなのだ。しかしこれも、ナポリで自由時間がとれるかどうかは初めからかんたんに確認できたことだ。まったく安易といえば安易な選択である。
ただ、そんな短絡的な計画を立てたのも、わたしたちにとってはやはりすべてが初めてだったからということがある。極端な話、初体験だからすべての訪問地の価値がほぼ同格なわけでいわばどこでも大した差がない。もしイタリアが2回目だったら重複を避けてもう少し慎重に計画を立てたことだろう。この意味では、青の洞窟に行けなかったことも、また、本場のピザを食べられなかった ことも、ほとんどダメージにはならなかった。また、往復の移動時間すらも、疲労が蓄積していたわたしたちにとって「睡眠不足」を多少は回復できたことだろうし、なによりも、エメラルドグリーンが美しい、カプリ島の素晴らしさを「新発見」できたのだ。
ナポリの町にはとどまれなかったが、そのナポリが見えてきたところから、以下、紹介しよう。
やっと見えてきた。ローマから3時間。 |
これが、ナポリの街。うーむ。 |
ナポリを見てから死ね、というが・・・。 |
朝7時にローマのホテルを出発して、ナポリの街が見えてきたのは、10時。ナポリに着いてからはただちに港へ向かって、10:35発のカプリ島行きの船に乗ることになる。
「ナポリを見てから死ね」ということわざがあり、またジリオラ・チンクエッティの「ナポリは恋人」の唄で知られるように、わたしたちにとってとてもイメージのいいナポリだが、最初に見た印象では、なんとなく煤けた感じがする。ビルが林立している景色も、すでに高層ビルを見慣れている現代の日本人にはさほどの感慨もないと思われる。「ナポリを見てから死ね」といわれる風景は、どこにあるのだろう?
ナポリ市は人口約100万の大都市だがいかにも過密という感じがする。ミラノと比べて経済力ではそうとう水準が低い都市のようだ。ゴミ問題も顕著らしく治安の悪さも含めて、フィレンツェほどは美しさは望めないかも知れない。ここは地中海に面した温暖な気候と豊富な魚介類による庶民的な味覚等を楽しむ町であるといえよう。南イタリアでは、こうした大都市(ナポリのほかにどこがあるか知らないが)よりも、海辺や山村、農村と田園、地中海に浮かぶ島など、歴史的建造物よりも自然の景色を見てまわるほうがいいのかも知れない。
いまとなっては、本場のマルゲリータよりむしろアメリカ進駐軍と日本人が作り上げたナポリタンが似合う町かも知れないなあ、などと勝手に考えて思わずひとり笑いする。
世界三大美港、ナポリ港
ナポリ港に着いたが、ここは世界三大美港のひとつという。が、とくに何ということもない港に見える。カプリ島行きの船着場まで徒歩で進む。以下はその途中でのなにげないスナップであるが、後で調べてみると、これらはナポリの観光ではおそらく訪問するであろうスポットのひとつだった。
ベスビオ山(Vesuvio)
東方(写真正面)にベスビオ火山が見える |
ナポリから東へ約9kmのナポリ湾岸にある休火山で標高は1,281m。西暦79年8月24日の大噴火でポンペイ、ヘルクラネウム(現在のエルコラーノ)を埋没させた。最近の噴火は1944年3月22日で、1880年に開通した登山電車(フニコラーレ)を破壊したが、1990年に復旧・再開されている。噴火前のフニコラーレ開通を記念して作られた世界初のCMソングがナポリ民謡「フニクリ・フニクラ」である。この唄もボニー・ジャックスも娘は知らないだろうなあ。また、ベスビオ山のたたずまいがちょうど桜島のそれとよく似ているということで、ナポリ市と鹿児島市は姉妹都市になっている。なるほど、直に桜島は見ていないが似ている気がする。ナポリツアーだったらきっとわたしはフニクリ・フニクラに乗っているだろう。ちなみにフニコラーレ(Funicolare)とはイタリア語でケーブルカーのことだが、フニクリ・フニクラはこれをもじった愛称である。日本流でいえば、ケーブルカーをもじってケーブ・ケビ(実在しない造語である、念のため)とかそんな感じなのだろう。
ヌオヴォ城(Castel Nuovo)
いかつい建物は、ヌオヴォ城 |
新しい= Nuovo の意味は先に建てられた卵城(Castel dell'Ovo)と区別するため。また、別名アンジュー砦とも呼ばれるのはフランスのアンジュー城をモデルにしているからで、13世紀にアンジュー家出身のナポリ王カルロ1世が建築。正面に3つの円筒形の塔があり、右の2つの塔の間には凱旋門があるということだがここからでは見えない。
それなら、卵城やそれに近接するサンタ・ルチアはどこだ?また、サンタ・ルチア港とはすなわちナポリ港なのだろうか。ここのところがよく分からない。
→ 調べてみるとどうもサンタ・ルチア港とナポリ港は同じことらしいが、サンタ・ルチア港というときはとくに南にある卵城と隣接しているところを示している場合が多いようだ。そして、ここから北に眺めたナポリ湾(港)全体の景色がいちばん美しいようである。また、世界三大美港というのも諸説粉々。シドニー、ナポリ、香港、リオデジャネイロ、サンフランシスコ・・・といろいろ候補・組み合わせがあるがサンタ・ルチア港という名は出てこない。桜島の鹿児島港はともかく、神戸や横浜もなんとか候補にならないものかねえ。
サンテルモ城(Castel Sant'Elmo)
丘の上はサンテルモ城、その周りは高級住宅街 |
ここを通り過ぎるとき、現地ガイドは、写真の高台の白い建物を指差して、「あれは高級邸宅でお金持ちはあの丘に住んでいます」というようなことをいっていた。調べてみると、たしかにあの辺りはボメロの丘といって高級住宅街のある地域だが、あの白い建物はサンテルモ城だ。1275年頃の建築で、16世紀に改修されている。
ナポリの町が一望できる高台にあるわけだから、ナポリ観光ではまずここを訪問することになるのだろう。
以下、港から。この後、いよいよ乗船である。
この先が船着場 |
これがカプリ島行きの船か |
乗船時間までのトイレタイムに |
カプリ島の概略
カプリ島(Isola di Capri)は、ナポリの南約30km、ナポリ湾にある島。ローマ皇帝ティベリウスが統治期間の後半を過ごすなど古代ローマ時代より代々の皇帝が保養地としてきた。特産物にレモンがあり別名「レモン島」ともいわれる。リモンチェッロなどのレモン酒が土産物となっている。面積は10.36㎢、外周は約17km。最高峰はソラーロ山(Monte Solaro, 589m)。
島にはカプリとアナカプリの2つのコムーネ(都市)があるが、島の中心は高台にあるカプリ地区で、ウンベルト1世広場から伸びる通りにはブランド品やレストランがならぶ。島の北側には、ナポリやソレントなどからの船が発着する島で唯一の港、マリーナ・グランデ(Marina Grande)と呼ばれる海岸がある。マリーナ・グランデの広場からはカプリ地区とを結ぶフニコラーレ(ケーブルカー)が架設されていて、広場にも、プラダ、グッチなどの高級店やホテル、レストランがある。島の高台には各界著名人などの別荘がある。
いよいよカプリ島へ出航
これが乗船券。ほぼ定刻の10:35に出航した。(右はチケットの裏面)
出航の直前は、タラップの前は大勢の各国の観光客がわれ先にと先陣争い。このエネルギーとマナーに関しては概して日本人より外国人のほうが質は悪そうだ。イタリア人の「横入り」も定評あるところ。それもみなカプリ島についてから「青の洞窟」を見るための船が早いもの順になっているからなのだが、現地ガイドは「そういうわけで、この船には乗ったら奥には進まずにすぐ入口の付近に席をとるように」との指示。それはそのとおりと納得。
座席は最後部。すぐ左からデッキへ出られる。周りは東洋人ばかり |
ところが、なんとも不思議なのだが、われ先にと他人を押しのけてわたしの前に割り込んできた屈強の毛むくじゃらプエルトルコ人(いやどこの国かわからない外国人)たちが、その甲斐あっていち早く乗船したというのになんとどんどん船の奥に進んで行くではないか。おかげでわたしは出口のいちばん手前の席をやすやすと手に入れることができた。ここまでは至って順調。よく見ると手前の席にいるのは、すべてが日本人かどうかは分からないが東洋系ばかり。外国人(欧米人)というのはバカではないのか?それとも青の洞窟にいちばん近い席より、彼らにとって「いい席」は別にあるのだろうか?
(なあーに、カプリに着いたら着いたで、弱っちい東洋人など突き飛ばし蹴散らしてまた先に出て行くだけさ・・・なるほど道理)
「ナポリを見てから死ね」といわれる風景
別の日本人ツアー客に席をお願いしてすぐ後ろの階段からデッキに上ってみた。
なるほどこんないい席があるわけだ。
なんとか人を掻き分けて後方に去るナポリの町をカメラに収める。
少し暗い雲があいにくと出ていたが、ここからのナポリの景色はなかなかである。
ナポリはベスビオ火山とともに、沖から狙ったほうがいいなと思った。
帰りは甲板の座席をと心に決めた。
それは叶えられたのだが、ひとつ 誤算 があった。思ってもいないつらい境地を帰りの船で味わうことになる。その話はのちほど。
デッキに上がってみる。人でいっぱい |
豪華客船。後方にはサンテルモ城 |
船とナポリの町とベスビオ火山 |
ナポリを出航して約50分、カプリ島が見えてきた。
全体に白っぽい建物が多いのは地中海周辺地区の特徴だろう。スペインのコスタ・デル・ソルにいったときもまさしくこんなイメージだった。もっとも、もっと燦然とした太陽が欲しいところだが、ちょっと雲が多い。真夏だと、どんなに素晴らしいだろうか。
カプリ島のマリーナ・グランデに着いたのが11:30。ローマを出てからかれこれ4時間半もかかっているわけだ。その間、とくに観光はなく、ひたすら移動で、これが帰路もそうなるということである。せっかくきたカプリ島だが、わたしたちはすでにさきほど青の洞窟には行けないことを知っている。これからさて、どうしようというのだろうか。レストランで食事してさあ帰りましょう、ということはないよね。
そんな疑問にこたえて、現地ガイドは、島の右奥(西)の山のほうを指差して、「あの絶壁付近にクルマ(マイクロバス)で登ります」。(上の写真は北の沖から島の中央〜東部を眺めたもの)
港の景色
港の広場と店
カプリ島で残念なのは、むき出しの電線と電柱。せっかくの景観がだいなしだ。 |
わたしたちはマリーナ・グランデの広場からマイクロバスに乗って、島の西方にあるコムーネ(都市)のひとつであるアナカプリ(Anacapri)に向かうことになった。実は青の洞窟はこのアナカプリ地区の北の海岸の位置にある。カプリ地区のほうがメインとはいうものの、アナカプリの高台にはやはりブランド品などの店が並ぶヴィットリア広場があり、高級リゾートホテルやレストランなども点在している。ここにはスウェーデン人の医師で、小説「サン・ミケーレ物語(La Storia di San Michele)」の著者であるアクセル・ムンテが建てた別荘があり、その前はアクセル・ムンテ通りと呼ばれる瀟洒な小路が通っていてひとつの観光スポットとなっている。青の洞窟の代替観光は、どうもその別荘の見学となるようだ。
アナカプリのヴィットリア広場へはフニコラーレ(ケーブルカー)が架設されていないので、バスで登ることになったが、それがすごかった。
わずか軽自動車が1台通れるかどうかという細い坂道を猛スピードで駆け上がっていく。隣は断崖絶壁のような箇所でもバスはスピードを緩めないし、また対向車が来てもお互いにほとんど徐行しないで、適当な幅の道路の膨らみを利用して、あっという間にすれ違っていく。そのドライバーテクニックは並大抵ではない。ヘアピンカーブもなんのそののスピードだから、乗客のほうが加速度で振り回され、すぐ脇の絶壁の下を見せつけられて悲鳴が上がるほど。このスリルもサービスのひとつということなのだろう。
バスから見たナポリ湾。前方遠くにはソレントの町も。こんな景色も → |
→ 猛スピードで絶壁まで20〜30cmのところを駆け抜ける。ヒェーッ、ちょっと恐い〜、スピード落として〜 |
アナカプリ入口
クレージーバスにかれこれ10分程度、翻弄されて、高台のアナカプリ入口に着いた。ここでバスを降り、アクセル・ムンテ通りという細い路地を歩いてアクセル・ムンテの別荘に向かう。駐車場近辺にはヴィットリア広場があり、後ほど別荘の見学を終えて昼食をとりに広場に戻ってくることになる。(広場の様子は後ほど紹介)
アナカプリ入口の駐車場。強者ドライバーが勢ぞろい。 |
駐車場からヴィットリア広場。各種の店が立ち並ぶ。 |
アナカプリ入口の高級リゾートホテル。Hotel Caesar Augustus |
広場は後にして、かすかにではあるが上り坂になっている小路を進む。風変わりな街路樹と洒落た店が並ぶ瀟洒なアクセル・ムンテ通り。この時点ではまだ行き先が分かっていなかった。
VIALE AXEL MUNTHE とはアクセル・ムンテ通り |
ヴィッラ・サンミケーレに向かう |
ここではクルマは通れない。
高級レストランも並んでいる。
アクセル・ムンテの写真も展示 |
ヴィッラ・サンミケーレ前のアクセル・ムンテの石碑 |
ヴィッラ・サンミケーレ(Villa San Michele)は古代ローマはアウグストス帝時代の廃墟跡にあった家および聖人ミケーレを祀った古い礼拝堂を改築したもので、現在はスウェーデンのムンテ財団が所有、一般に公開(有料)されている。建物は様式にとらわれない荘厳な造りで、周囲には手入れの行き届いた広大な庭園がある。ここには、創設者アクセル・ムンテの多くの貴重な書物や素朴な家具類、また古代ローマ時代の無数の出土品が独特の雰囲気の中に収められている。
アクセル・ムンテ(Axel Munthe: 1857-1949)は1857年、スウェーデンのオスカルスハムヌ市(Oskarshamn)で薬剤師の息子として生まれ、ビンメルビとストックホルムで育てられた。1876年ウプサラ(Uppsala)大学で医学・哲学を修めてから、肺の治療のため、フランスのリヴィエラにあるメントン(Menton)に送られた。その旅行との関連で初めてカプリ(Capri)を訪ねたという。
カプリ島の魅力に取り付かれたアクセル・ムンテは、1890年にカプリ島のアナカプリ地区に土地を購入し別荘を建て始めたが、偶然、建設現場で古代ローマ時代の皇帝の住居跡を示す多数の考古学的遺物が発掘され、以降、住居はヴィッラ・サンミケーレと呼ばれる。
室内調度
邸内にはアクセル・ムンテが利用した様ざまな室内調度がそのままに展示されている。
飾り棚 |
洗面所 |
台所 |
寝室 |
椅子と絨毯 |
居間 |
美術展示品
美しく展示された彫刻や美術品は多数。以下はそのほんの一部である。
アーチが美しい展示場 |
アーチの柱にも彫刻 |
庭園から見た展示場 |
出土品 |
出土品 |
出土品 |
メデューサの首も |
極彩色の大理石テーブル |
カプリ島のトカゲ の模型 |
足を触るとご利益があるという |
ナポリ湾を眺めるスフィンクス |
石のベンチ |
アクセル・ムンテは、母国語スウェーデン語のほかに英語、フランス語、イタリア語に堪能で、ドイツ語も話す国際人だった。スウェーデン皇室の侍医およびビクトリア女王の主治医としても勤めていたが、ナポリのコレラ大発生のときなど自分の医療行為で貧しい人々を治療するほか危険な戦争や災害時にも進んで手助けしたりしたという。晩年、目の病に侵されたアクセル・ムンテはカプリ島の強い日差しを避け、やむなくスウェーデンへ戻ることになる。そして、島にあるすべての所有物をスウェーデン政府に委託し、92歳でその生涯を終えた。医師・精神科医だけでなく作家としても成功していたアクセル・ムンテはカプリ滞在中の自伝と言われる「サン・ミケーレ物語(La Storia di San Michele)」を発表。日本を含む世界50ヵ国語に訳されている。
庭園
ユダの木 |
別荘の建物周辺には庭園となっていて四季の花々が美しく咲いている。
その中で、海を背景に紅梅に似たあざやかなピンクの花を咲かせた潅木がある(写真左)。
これは、和名がハナズオウ(花蘇芳)で、花がスオウ(蘇芳)で染めた色に似ているためこの名があるが、イスカリオテのユダがこの木で首を吊ったという伝説からユダの木とも呼ばれている。
ちなみにイタリアでも桜は存在し、すでに開花の時期は終わったという。わたしのところでは、この旅行の出発日に満開を迎えていた。
ユダの木の下で花見酒というのもオツかも知れない。
庭園樹木1 |
庭園樹木2 |
庭園樹木3 |
庭園樹木4 |
邸内からナポリ湾眺望
上記のユダの木近くから、絶景を発見。
先ほどのクレージーバスで震えながら見たあの景色を、さらに高い場所から今度は「安全に」眺めることができる。
前方に突き出たところはアマルフィ半島。その左手にはソレントの町がある。
帰れソレントへ〜♪とつい口ずさみたくなる。
邸内からナポリ湾眺望 |
見学終了
別荘の外観 |
別荘の外観 |
登ってみたくなる階段 |
もう少し眺めていたい景色だが、時刻はもう13時近く。おなかも空いてきたところだ。ノドも渇いたし・・・。
ヴィットリア広場(Pza. Vittoria)
ひときわ明るいヴィットリア広場 |
ボールで遊ぶ子どもたち |
青空も増えてすっかり明るくなった広場に戻ってきた。
アクセル・ムンテ通りからこの辺りにはレストランやブティックも多く、ぶらぶらするのも楽しい。わたしもヴィッラ・サンミケーレ帰りの土産物店で、初めて自分用にカプリ名産のレモンで造ったリキュールを買った。強いと聞くから何度かと思ったらアルコール分25度でたいしたことはない。甘いからそのまま飲める。ちびちび飲んでたが帰国してわずか数日でなくなってしまった。
この広場からリフトに乗ってカプリ島でいちばん高いソラーロ山(標高589m)にも登れるという。いい景色が見えるだろうな。
もうひとつ別のウンベルト1世広場のあるカプリ地区といい、見所はいろいろありそうだ。小さな島だと思っていたが、とても1日や2日ではカプリ島の主なところをすべて見ることはできないだろう。
昼食のレストランの時間待ちでこの広場で少し待機する。
入りたくなるレストラン |
入口はここから |
これがいわゆる「ローマの松」? |
サボテンもある |
これは最高峰ソラーロ山か |
これがカプリ島のトカゲの実物。模型 |
昼食
何やかやで、レストランに入ったのは、14時少し前になってしまった。島の雰囲気のある洒落た店だが、ツアー客はみんなこの店なんだとか。ただし日本人ツアーだけではなくという意味。店名のPIGNAとは「松ぼっくり」という意味。
ここで出された魚介類のリゾットはこれまででいちばんよかったような気がする。白身魚のソテーも新鮮でまあまあ。デザートのチョコレートケーキはちょっとボソボソな感じか。いつもこのメニューらしいのがちょっと安易といえば安易。
とはいうもののこのような店に入ると、カプリ島ではもう少しのんびりしていたい気がする。もっとカーッと晴れて白い家に太陽が燦燦、青い空に碧の海が似合うだろうなあと思ったが、同時に、やはりカプリ島はなるべく若いうちから訪ねて何回か来れるようにしないともったいないなとも。歳を重ねたわたしにはなんとなく眩すぎるカプリではある。
昼食を終えれば、また例のクレージーバスに乗り、マリーナ・グランデへ。もう帰り支度というのが、ローマからの日帰りカプリ島オプションのつらさというべきか。
でも、港で、思いがけないシーンに出会うことになる。
マリーナ・グランデに戻って、帰りの船に乗る前に見た景色。
船着場で、カプリ島の周遊航路が記された看板を見つけた。
マリーナ・グランデの反対側、島の南にも青の洞窟とは別の洞窟があるらしい。美しい景色、エメラルドグリーンの海が見えるスポットがたくさんあるにちがいない。
が、そこへ行くことは与えられた時間ではとうてい叶わない。帰りの船の乗船時間が迫っていた。
ナポリへ
15:25、今回も定刻どおり、船はナポリに向けて出航した。
帰路は「早いもの順」の青の洞窟はないのだから先を争う必要はないのだが、わたしはなんとかして船の甲板の見晴らしのいい席に乗ろうと思ったため、するすると列の先に進んでいったのである。そして首尾よく思い通りの席に就くことができた。
しかし、思わぬ誤算があった。
誤算とは・・・風が強く、寒くなる・
最初のうちはよかったのだが、沖に出るにつれて、猛烈に吹き付ける風が少し冷気を帯びてきたのである。
雲が出て日が陰ると寒いくらいになった。午前中よりも気温が下がっているのだ。わたしはデブとはいえ、薄手のTシャツ1枚だけ。長袖なのがせめてもの救いというくらい。
では、席を立って下の1階席のほうに退避すればいいわけなのだが、なんと通路側の座席になにかフットボールの選手のような4.5人のむさくるしい岩のような外人客が占拠していて、一見、通してくれそうもない雰囲気。また、ほかも満席で、いったん席をはずすと立ちっぱなしとなる気配が濃厚である。娘も、同じツアーの新婚カップルもすぐ隣りにいて寒さに震えながら、それでもがまんしている様子なので、太陽が雲間に隠れないよう祈りながらそのまま乗っていることにした。
ナポリが見えてくるのがホントに待ち遠しかった。
もうすぐナポリ
ああ、やっと。心なしか、ナポリの町が、来るときよりも美しく見えた。
やっとナポリ
あと10分乗っていろといわれれば、席を立っていたかも知れない。
とにかくバスに戻りたい。あと1日だが、ここで風邪などひいてはたまらない。
ローマへ
バスから見たベスビオ山。いつか桜島も |
19:30、日没が近いが、ここから少し渋滞が始まる |
16:30ころにナポリに船が着いて45分ころにはもうナポリを発つことになる。
これから結局は約4時間かけてローマを目指すことになる。
もしも渋滞がひどいとローマに着くのは21時を過ぎるかも知れないとガイドはいっていたが、若干の渋滞ですんだ。それでもローマ着は20:30を過ぎていた。右上の写真は、日没近くで、高速道路の料金所の手前あたり。さかんに標識に「TEREPASS」とあるので、まさかテレパシーかなにかと関係あるのかと思ったが、ETCのことでイタリアではそう呼んでいるらしい。バスは TEREPASS でノンストップのはずなのにその通路に TEREPASS をもたないクルマが割り込んでいて渋滞していたのである。ちなみに超能力のテレパシーは Telepathy で、スペルが少しちがっていた。
移動時間の長くカプリ島での観光は正味、昼食も入れて4時間程度だったが、最初は予期していなかったカプリ島の美しさを知ることができた。わたしがもしもっと若ければ、ここにはまたもういちどという思いを強くしたかも知れない。
でも、あの碧色の海の色は、きっといつまでも忘れないだろう。( イタリア紀行Ⅹ 最終章 に続く)
番外1: アッピア街道
往路でガイドが少し説明していたアッピア街道の景色をどうしても撮りたいと、復路で狙っていたのだが、結果は左のような始末。
街道の説明は割愛するが、こういうところを撮りながら旅をしてみたいという気持ちにかられる。
しかし、妻はきっと「1人で行きなさい」というだろうなあ。
番外2: ローマでの夕食
ローマ着が20:30と遅くなったためわたしたちの夕食にも予期しないことが起こった。
疲労と寝不足等々で食欲のないわが女性軍は、明日にそなえて食事をとらずに就寝するという。
わたしも疲れてはいたが、食べられないわけではないし、またそうだからこそアルコールも欲しい。
手持ちにあればそれで済ますこともできたかも知れないが、ホテルのルームのビール等だけではちょっと心持たない。
仕方なく、1人で夜のローマへ。ちょっと出遅れたために、いっしょにカプリ島から帰ってきたツアー客は先にホテルから出かけてしまった後だった。
こんなときは、やはり日本食か中華。なんとホテルのすぐ近くに中華料理店を見つけた。昨夕の散歩でちょっと目にした記憶があったのだ。しかも、中華ならなくてもだいたい分かるが、やはり親切な日本語メニュー付きだ。
喜んでいいのか複雑な気持ちだが、そのときの夕食は、今回のイタリア旅行でいちばんおいしかった。
番外3: ホテルに戻って
さあ寝ようかというところ。ふらっとめまいがする。
中華レストランで飲んだ酒量などでわたしが酔うはずもない。では、何か神経系の病気か、それとも疲れか?
いや、これはちがう。地震だ!
しかし、せいぜい震度2程度だろう。あわててテレビをつけたがしばらくたってもなんの News もない。
日本は震度1程度でもすぐ速報がでるがイタリアではだめなのかもしれない。
イタリアのホテルの耐震度を考えて酒が醒めるような思いもしたが、その夜はその1回だけであとは揺れは感じなかった。
出立直前のイタリア大地震 の震源地ラクイラが近いことでちょっと気味が悪かったが、結局、こうしてわたしはいま日本にいる。
(09/06/01) (09/04/13撮影=現地時間)