じぶん探訪

遠出はできないからまず身のまわり、心のそばからというところでしょうか。

TOPページわびさび写真館>じぶん探訪その6

その6.武蔵野への憧憬

人は時としてみずからが憧れることのその本質的な理由が自身でもよく分からない場合がある。
なぜそれが好きなのか。
なぜその光景に惹かれるのか。
なにゆえにそれを追い続けるのか。
それらには問われても答えきれない不可思議な衝動がある。
じぶん探訪1そしてで記したわたしの「武蔵野への憧憬」。
それが果たしていかなるわたしの心中から発する思いなのか。
この春、再び到来した日立中央研究所の庭園解放の日。
いまいちどかの地を訪れ、散策するなかでそのことを洞察してみた。

(日立中央研究所の庭園の各スポット紹介に関しましては秋編であるじぶん探訪4とセットでご覧ください。このコンテンツはその春編ではありますが、じぶん探訪4の補足的な記述に留めました)


最新庭園開放情報

2011/03/01現在のお知らせです。なお、本コンテンツは04秋の開放時のものです。05秋以降は訪問していません。


今回もまず庭園の地図から。

日立中央研究所庭園Map

日立中央研究所庭園Map

本年(2005)春の庭園開放日は4月10日の日曜日。
7日あたりから関東地区の桜が満開を迎えて少し散り始めかと思われたが十分、間に合ったようだ。
しかも花冷えなどなく、少し汗ばむほどの絶好の行楽日和。前年秋の時雨残りとは一変した華やかな開放日となった。

正門と受付の雑踏

正門 受付の雑踏

返仁橋

じぶん探訪4で宿題とした「返仁橋」の様子からその雰囲気を見ていただこう。

返仁橋 05/11/14時

左がこの春、右が昨秋(再掲)。人の波がこんなに異なっている。

さて、宿題の橋から見下ろした南北の景色だが・・・。
左が北。右が南。じぶん探訪4の写真と見比べていただこう。

以下は昨秋の再掲。

秋、返仁橋、北 秋、返仁橋、南

これは今回。

春、返仁橋、北 春、返仁橋、南

春はほとんど水が流れていない。
日立の人に聞くと、「はけ」から大池、そしてここへと導かれる間に、
「春は、さまざまの樹木が水を吸い上げてしまうのでしょう」。
なるほど、食欲の春か。
ちなみに「返仁橋」には「変人橋」の異名がある。日立のインテリ科学者たちが自称しているという。


わたしは古都金沢に生まれ金沢で育った。高校まで郷里に住んでそれから受験のため上京した。
ごく普通の首都に対する憧れというものはあった。大都会そのものの魅力というよりも、とにもかくにもNo.1の都会に出てみなければ仕方がない、という気持ちが強かった。それまでのわずかな年月の中で知りえた一目置く先人たちはたとえ最終的にはそこを離れることになろうとも皆、東京という地を必ず一度は訪れそこで名を上げている。昨今、インターネット等のインフラの驚くべき進展でこんなにも世界は狭くなったがそれでも首都の若者への吸引力は衰えていないだろう。

とするならば、だれしも、大都会すなわち東京の象徴といわれるものに視点がいくはずである。
たとえば林立するオフィスビル群。トレンドうずまく渋谷、麻布、原宿。エンターテイメントのシンボル新宿、歌舞伎町。大人の世界、銀座。ITのすべてがそろうアキバ(どうもしっくりこないね、やはりアキハバラと呼ぼう)。政治のフォーカス、永田町。芸能界とステージ、民放各局・・・等々。

それらは決して自然ではなく人工のものであることはまちがいない。
それなのに、なぜ「武蔵野」なのか?

本部前広場

本部前広場

この素晴らしい人の群れは「武蔵野」とはいささか趣きを異にする。
きょうばかりはここは「はけ」の武蔵野ではなく、「都心に花開いた行楽地」という位置づけであっただろう。
ボール遊びに勤しむ子供たちに武蔵野を説いても意味がない。

中央ステージ近辺

研究所前の桜

美の背景にサイエンス。

美の間にステージ。

そして、美の下にセイカツ。

野外園遊場 研究所前の桜

野川への水門

野川への水門 野川への水門
野川への水門 野川への水門

現実に、「野川へ続く水門」や「ハケの湧水」については・・・。
入場者が昨年より優に倍はいて混雑して撮影は困難かと思いきや、その探訪者は意外と少なく、
多くの人の関心はもっぱら地面を流れる透明の水ではなく青とピンクの空だった。
上の最後の写真は隣りの金網から中を撮影したもの。

はけの湧水


日立マークの花壇

そばに立っていた「はけ」スポット担当の日立の人もなんだか所在なげであった。
わたしは何か気の毒になって、すぐ近くにある花壇、日立のオブジェを指差しながら、話しかけた。
「せっかくのマークなのに、近くに見下ろせる小山かなにかがあるといいですね」
「そうなんですよ」
係りの人はそれでもにこやかに応えてくれた。
マークを認知するには目線が低すぎるのだ。日立の人もそれは分かっているようだ。


都市の喧騒に疲れた40代ころからそれを意識したわけではないのだ。
上京した18歳の当初からわたしは武蔵野に憧れていたのだ。これをどう説明すればいいのだろう。
このことを追求すると果てはわたしの職業観へも発展する。
その飛躍はのちほど触れるが、武蔵野への憧憬の意味づけをするために、
当時、つまり高校生くらいのころ、わたしがほかに何に憧れを抱いていたかを振り返って見てみるといいかも知れない。

当時の心的事情や背景等を詳しく述べるつもりはない。
文学青年とはとても言えない読書量であるにもかかわらず、わたしは当時、ある2人の作家に打ちのめされていた。
そのひとりは太宰治、もうひとりは川端康成である。
川端康成はともかくもうひとりのほうは「ああ、太宰ね」と言われそうである。
しかし、いわゆるダザイズムとかそんなのではない。だいたい川端とのセットが理解できないだろう。

打ちのめされたというのは、理念や生き様、小説のモチーフではなく、2人の文章の美しさに、なのである。
志賀直哉などもうまいと人はいうが、わたしはだれがなんといおうとこの2人がいちばん上手だと当時、信じていた。
(昨今、年をとると採点が甘くなったか、後発の村上春樹なんかも、なんだとても上手じゃあないか、などと関心したりしている。ほかにも読んでいないだけで随分上手な作家もいるのだろう)

大池(北から)

大池(北から)

前回と異なるのは、カメラマンだけでなく、画家が多く見られたことだ。素人かプロかは分からない。
美を愛でる人、美を写す人、美を描く人・・・その手法は様々だが切り取った美が果たして美しいかどうかは分からない。

美しくない例として・・・当時、盾の会を率いて割腹自殺した三島由紀夫などはわたしはどうしても評価できなかった。
(以下は単なる好みからくる個人的見解ですのでご容赦ください)
一言で語れるテーマをペダントリックな言葉の羅列で飾り立てたような金閣寺。もし衒学するなら小栗虫太郎レベルまでせめて上げてほしいと思った。意味のない難解さゆえに受験問題に出るというので読まされたわれわれ高校生はたまったものではなかった。また潮騒などという青少年に媚びたようにしか思えない小説もあった。石坂洋次郎のまねをしてどうしようというのだ?東大首席(だったか?)卒の頭脳と美の表現力とは必ずしも比例しないというまことにいい例を彼は示してくれたように思う。人一倍美を求めていた本人がいちばん醜悪なものを創造していることに気がつかないとは皮肉な話である。しかし、そんな彼を絶賛する人もいる。わたしの親しい友人のなかにもいるかも知れない。まあ、見解の相違だ、気にしないでほしい。

大池(南から)

大池(南から)

さて、本題にもどろう。
桜桃忌という太宰治の命日を偲ぶ会が彼の墓がある三鷹の禅林寺で毎年、行われているという(現在もそうなのかは知らない)。たまたま上京した最初の住まいがその寺のある三鷹市であったが、そのような意味のファンではない。現実に散歩がてら墓には行ってみたことがあるが桜桃忌に参加したことはいままで一度もない。太宰の墓の真向かいに眠る森林太郎(鴎外)が気の毒にも思っていた。
確かに小説の内容も嫌いではないのだがわたしの太宰への憧憬はあくまでもその文章力・表現力の卓越さにある。いや、というのも正確ではない。テクニックへの賛美ではなく、結果として仕上がった文章の美しさが重要なのだ。川端も同様である。
このことが「武蔵野への憧憬」につながるとしたら飛躍だろうか?

メタセコイア

メタセコイア

これが秋に写真を撮れなかった、「生きている化石」と呼ばれるメタセコイア。200万年前に絶滅したと当初、考えられていたが、1941年に初めて中国湖北省で発見されたという。その後、種子が育てられ世界で栽培されるようになった。日本では、1949年に皇居に2本植えられたのが最初である。
日本でも太古には生えていて化石が発見されており、その頃からあまり進化していない植物なのだが、針葉樹の美しい樹形を保っている。
アケボノスギという和名があるがもっぱらメタセコイアという属名のまま呼ばれている。
ことしは花粉が猛威を奮ったが、このスギも花粉を出すのだろうか。

また話は飛ぶが、首都への一般的な憧れもあると記述したが、さきほど述べたようにわたしが最初に上京して住んだところが東京都下、三鷹市だった。それは浪人生ばかりを集めた賄いつきの下宿屋だったのだが、翌年、高田馬場の大学に入学したときの移転先がこれも都下保谷市の4畳半のアパートであった。

東京そのものに憧れるなら是が非でも都心に・・・というのが本来の若者の姿ではないだろうか?
もちろん当時、いまから35年も昔でも、既に立地による見事な不動産価格設定がなされていて都心のアパート代も例外なく高く、わたしの住居選択には経済的なことがかなりの比重を占めていた。
それでも必死に探せば都心でも格安の物件だってあったはずである。現実に、大学のさほど裕福に見えない地方出身のクラスメートたちは大体が都心に住みかを見つけていた。
わたしはやはり首都が生み出す一流性に魅力を感じてはいても、都会そのもの、いや都会のすべてにはそれほど拘泥していなかったというしかない。

このことは後にパリとニューヨークの双方を訪れて私自身の性向を如実に知ることができた。
わたしが職に就くころからずっと、おそらく今日に至るまでもずっとアメリカイズザナンバーワンである。
とくにわたしが糊口の道として選んだ広告業界は、アメリカがすべてといってよかった。
アメリカ、とくにニューヨーク大好き人間じゃないとクリエイター足り得ない、そんな雰囲気があった。
少なくともわたしはそう感じた。

これにはずっと抵抗があった。
しかし、そう思っているだけでわたしはすでにこの業界では不適合であったというしかない。
職業観というのはこのことである。
アメリカよりヨーロッパが好きなタイプは広告業界では失格である。
この理由はここでは詳しく言わない。

そして、東京とは、いつもニューヨークトレンドに従おうとしている醜悪な日本気質そのものに思えた。
わたしにとってその服従は心酔からではなく、所詮、便宜上の理解、知識の吸収にすぎなかった。
好きになれといってもムリだった。
しかし、超一流は、好きでないと、愛せないと、創れない。
広告業界にはわたしの求める美はなかった。
「武蔵野」はそこにはなかった。

ます池

ます池 ます池

これが真実のます池。やはり前回見たのはます池と呼ばれるものではなかったのだ。
しかし、ここでは日立の人が意外なことを話してくれた。
「ああ、昨年の秋はここは解放していなかったんです」
誤解していた小さな池のことを話すと、
「えっ、むこうの小さな池?どこですか、そんなのあったかなあ」
どうもわたしが昨年記した池は単なる貯水池のようだ。

ます池は見落としていたわけではなく、入れなかったのだ。
始めからそれに気付いていたなら後悔することもなかったのだが・・・。

ます池に向かう路

ます池に向かう路の右側には、南北に連なる堀があるが、その先はきっと返仁橋下へと続いているのだろう。
水はもうここから枯れかかっている。


立入禁止区域にしなくとも、路は立ち消えていて先へは進めそうになかった。

立入禁止 立入禁止区域

それではわたしの武蔵野への憧憬は、東京という概念とはまったく関係がないのだろうか?
武蔵野とは何か?
意外とこの問いに答えられる人は少ないのではないだろうか。
なんのこともない。わたしもそうである。
武蔵野の定義をしてみる必要があるかもしれない。

武蔵の国にある野。丘陵。雑木林・・・。
武蔵の國というなら茨城も千葉も該当するのか?
必ずしもそうではないだろう。
やはり、東京、なのである。
正確に言えば東京都下なのに、野であるところ。
田舎であっても田舎臭くない。
標準語、都会語を話す自然人。
農業をなりわいとしない田園に住む人。
知識人ではあるが汗臭い山登りなどしない人のいる場所。

武蔵野は野それだけでは武蔵野足り得ないのかも知れない。

ふいにつれづれ草のわたしの好きなあの一節が思い浮かんだ。

神無月のころ、来栖野の・・・。
柑子を囲わない人のすむ筧のある山里。
だんだんイメージが近くなってきたか・・・。

大都市の喧騒に近いところでその排気音がふっと途絶えた空間。
それが武蔵野。
もちろん雑木林は必要だ。

余談だが・・・。
先日、龍ヶ崎森林公園を訪ねた。
2度目の訪問だったが、なぜかいずれのときも興趣が湧いてこなかった。
すべてが人工的に思えた。鬱蒼とした森林があるというのになぜだろう。
自然、森林・・・といっても杉林である。
この整然とした針葉樹はどこかつまらない。
きれいに立ち並ぶ、林立するオフィスタワーのような気がする。
また、地元に近い北浦川緑地というところにも行ってみたが、これも空疎な感じがしてならなかった。
広大な広場。起伏のない平坦な空間。
開けっぴろげなくせに意外性を一切拒んだ傲慢なる空き地。
澄み切った大気が充満しているというのに、それ以上に感ずる人工の空しさ。
もはやそんなものには心が動かない。

御衣黄

御衣黄

春の庭園開放時に撮るのが妥当、と記した御衣黄桜だったが、開花は4月下旬になるという。

「すると、われわれには永久に見られないわけですね」

答えの分かっているわたしの質問に日立の人は、苦笑して頷いた。


大岡昇平の「武蔵野夫人」より国木田独歩の「武蔵野」を読み直してみた。
小さな書店にはもうこんな古典は置いてなくインターネットで注文した。

読んでみると、ちゃんと、武蔵野の定義を独歩なりにしているではないか。

それは、はやり同じ自然でも杉林のような整然としたものではなく、
四季折々の風、雨、太陽、草、雑木、光、雲、路、道、鳥、小動物、川、せせらぎ、曲線、意外性、小高い丘、虹、湿度、夏の日差しもあれば幽玄な霧もある・・・あげていけばきりがない。
そんなすべてのものが「東京」のすぐそばにある。
これが武蔵野である。
美、そのものである。

とにかく、美しいのだ。
人工物のなかでいちばんの美である「文化」。
その発生の中心地に隣接して、それを批判せず、無視もせず、ただそこにある。
人には絶対にまねのできない超然とした自然の美。
作家も、ミュージシャンも画家も、すべての芸術家が逆立ちしてもその美は築き得ない。
昨今のアーティストなら?
人である限り、成し得ない、創り得ない。
それが、武蔵野だ。

やっと分かった。わたしの憧憬の理由。

そして、春の日立はそれを見せてくれたのか?

日立中央研究所 春の庭園開放 ハイライト

少々このページが重くなってきたのでリンク・スライドショーで見ていただこう。
画像では以下が美しい。

春の庭園開放 ハイライト 春の庭園開放 ハイライト
春の庭園開放 ハイライト 春の庭園開放 ハイライト

秋の探訪時からの宿題

独歩の武蔵野、抜粋

以下、国木田独歩の「武蔵野」から、「武蔵野」を如実に表現している箇所を抜粋してみた。
とくにわたしが共感する部分をとりあげた。

・・・美といわんよりむしろ詩趣といいたい

・・・落葉林の美

・・・楢の類いだから黄葉する。黄葉するから落葉する。時雨が私語く。凩が叫ぶ。一陣の風小高い丘を襲えば、幾千万の木の葉高く大空に舞うて、小鳥の群かのごとく遠く飛び去る。木の葉落ちつくせば、数十里の方域にわたる林が一時に裸体になって、蒼ずんだ冬の空が高くこの上に垂れ、武蔵野一面が一種の沈静に入る。空気がいちだん澄みわたる。遠い物音が鮮かに聞こえる。

・・・武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。
武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当もなく歩くことによって始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつきしだいに右し左すれば随処に吾らを満足さするものがある。これがじつにまた、武蔵野第一の特色だろうと自分はしみじみ感じている。武蔵野を除いて日本にこのような処がどこにあるか。北海道の原野にはむろんのこと、奈須野にもない、そのほかどこにあるか。林と野とがかくもよく入り乱れて、生活と自然とがこのように密接している処がどこにあるか。じつに武蔵野にかかる特殊の路のあるのはこのゆえである。

・・・僕の武蔵野の範囲の中には東京がある。しかし・・・このようなわけで東京はかならず武蔵野から抹殺せねばならぬ。
しかしその市の尽くる処、すなわち町外ずれはかならず抹殺してはならぬ。僕が考えには武蔵野の詩趣を描くにはかならずこの町外れを一の題目とせねばならぬと思う。

・・・首府東京を顧った考えで眺めねばならぬ。
ことに東京市の町外れを題目とせよとの注意はすこぶる同意

・・・すなわちこのような町外れの光景は何となく人をして社会というものの縮図でも見るような思いをなさしむるからであろう。言葉を換えていえば、田舎の人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹するような物語が二つ三つそこらの軒先に隠れていそうに思われるからであろう。さらにその特点をいえば、大都会の生活の名残と田舎の生活の余波とがここで落ちあって、緩やかにうずを巻いているようにも思われる。


原本はこれ→
これも参考→


(05/04/30) (05/04/10撮影)