更新経過
2013年より石造物データをページ末に掲載するため
各コンテンツを順次見直ししていくことにしました。
大平神社の石造物は、大平神社2が中心ですのでこのコンテンツは
2015年春に、再調査を何度か行い、細部にわたって、
誤謬等の修正、画像差換えや追加、新事実の追記を行ないました。
(15/03/31)
初めて大平神社(だいへいじんじゃ)の鳥居前にきてびっくりしたのが、ズラリ並んだ石塔群。
壮観です。また、これらはかなりの年代物のようです。
いちばん左奥には妙な形の塔もあります。台座にも興味深い彫り物がされているのもあります。
それぞれの碑文は、もう幽かにしか読めないものばかりですが、
何とか想像力も働かせて読み取ってみました。
しかし、当然、まちがっている可能性も大いにありますし、
まったく判読不能の箇所もたくさんあります。
この点、ご了解いただきますようお願いします。
当初のコンテンツ作成から約6年経過し、このたび再編成したのですが、
あらたに撮りなおした写真を見ると、以前読み取れたはずの文字が、
この歳月の風化で読み取りづらくなっているものが数多くありました。
せっかくあらたに撮ったのにその掲載をあきらめて、以前の写真に画像処理を加える、
というような変更・更新が多くなってしまいました。
年月が経ち風化していくのはそれはそれで味わいがありますが、
やがては朽ちて土に還ってしまうのでしょうか。
大平神社2の更新に関しては、あらたに神社南にある大平集会所のポイントも追加しました。
(11/02/28)
大平神社1で、入口1と2の説明をしました。
入口1の少し南にも西に入る細道があり、
これはすぐに下り坂となっています。
その坂を下っていくと・・・。
本コンテンツの後半に、あらたに
大平集会所とその前にあるポイントを紹介しました。
このポイントから、さらに南に続く道も、
なかなか魅力的なところなのですが、
まとまって掲載するというところまで、
まだ探索は進めていません。いつかは・・・。
このページでは、まず、神社の鳥居付近に並んだ、
多数の石塔類から紹介していきます。
大平神社の真正面に立つと、
鳥居脇にたくさんの石塔が
並んでいるのが見えます。
鳥居に向かって左には
一番左の大きな塔を含めて
11基も建っています。
さらに鳥居の右にも・・・6基(↓)。
ところが、『利根町史』の記述には、石塔として「念仏供養塔」寛永15年(1638)ほか10基とあります。
すでに、左と右とで合計17基あるわけですから、10基というのもよく分かりません。
「念仏供養塔」ほか10基とあるからには「念仏供養塔」は1基という意味なのでしょうか。
また「宝篋印塔」が、寛永4年(1627)北方村や早尾村、大平村など10村の念仏衆によって建立されたとあります。
「宝篋印塔」という言葉をこのとき初めて知りましたが、それと「念仏供養塔」とは写真のどれを指すのでしょうか?
「念仏供養塔」とは文字通りの意味のものでしょうが
「宝篋印塔」とは何でしょう?
まず、これを知らなければ分かりませんね。
だいたい読み方、分かります?
「宝篋印塔」は「ほうきょういんとう」と呼びます。
この塔の中に、宝篋印陀羅尼(ほうきょういんだらに)
というお経を納めるのだそうです。
特徴は、上部が段々になった笠と、その下に
4方に飛び出た隅飾りと呼ばれる突起物があること です。
とすれば、「宝篋印塔」は、
上の写真2枚のいちばん左の塔がそれらしいですね。
← 左に、再掲します。見るからに奇妙な塔です。
この塔のなかにお経を納めるって、いったいどの部分?
下部の四角い部分があやしいですが、
現実にいまもお経が入っているのでしょうか?
お経といっても巻物のようになっているものなのか、
疑問が尽きないですが、これ以上は探りようがありません。
宝篋印塔は神社ではなく寺院に本来所属するものでしょうから、
どこかのお寺の住職のかたにお聞きするしかないようですね。
中国の呉越王銭弘俶(せんこうしゅく)が延命を願って、諸国に立てた8万4千塔の形をまねて簡略化したものだとされている。これは、インドのアショーカ王が釈迦の入滅後立てられた8本の塔のうち7本から仏舎利を取り出して、新たに8万4千塔に分納したという故事に習ったものだという。日本には鎌倉中期以後に造立が盛んになった。
名称は、宝篋印陀羅尼(宝篋印心咒経/ほうきょういんしんじゅきょう)を納めたことによる。ただし、他のものを納めていても同形のものは、すべて宝篋印塔と呼ぶ。本来的には、基礎に宝篋印心咒経の文字を刻む。五輪塔と同じく密教系の塔で、鎌倉期以降宗派を問わず造立されるようになった。(Wikipedia より)
さて、「念仏供養塔」ですが、
一見しただけでは、
どれがそうなのか分かりません。
しかし、もうひとつ
見落としていたものがあります。
「宝篋印塔」の斜め後にあるもの。
ほかの11基とは別格のように
少し高い位置に置かれています。
←これです。
なんだか、怪しいですね。
これじゃあないでしょうか?
上記の疑問等をクリアにするために、
石祠・石塔類をひとつひとつ
調べてみることにしました。
その結果が、以下です。
入口1.から入ってくると6基、鳥居を過ぎて奥にはズラリ11基、盛り上がった坂の中腹に1基、
それと神木である公孫樹脇の1基を加えて都合19基、ずいぶんありますね。
各石祠・石塔の位置と大きさのバランス等は以下の境内図と上のパノラマ写真を参考にしてください。
(入口1.入口2.の意味については大平神社1の 表と裏の2アクセス 参照)
★ 各施設・石祠・石塔の画像部分をクリックすると、当該説明にリンクします。
★ @Aの2基は、鳥居の両脇ではない場所にある別格の石祠です。
この石祠は個人の氏神様であることが判明。持ち主のご意向により情報を削除します。
祠の内部をのぞくと(写真右)
2段重ねのような丸い石が見えました。
その背後の壁面をよく見ると、
「寛永十五年」「念佛之」「九月十九日」
という文字が断片的に見えます。
寛永15年(1638)建立のものが
ほかには見つからないことと、
ほかとは別個の特別な位置に置かれ、
注連縄も張られていることから
『町史』にある「念仏供養塔」と推定しました。
なお、その後の経過により、この塔が、
「十九夜塔」に分類されるべきとのことで、
タイトルを変更しました。
それにしても、この石は何?
本体: 高92cm、幅78cm、厚78cm。
台石を含めると、高さは123cmとなります。
また、この扉の左の部分が壊れて
下の土に破片が落ちていました。
ジグゾーパズルのように合わせてみるとピタリ!
こういう扉を見ると、念仏供養塔というより、
羽中の稲荷大明神 で見た
「石龕」というものではないかとも思ったりします。
石龕(せきがん)とは、石窟・岩屋のことで、
その中に仏像などを安置、祀るための石の入れ物を言います。
ちなみに、壊れた左扉の大きいほうの断片は、
現在、紛失したのか見当りません(15/03/29 現在)。
2012年春に「HN:さわらびY」さんという方からコンタクトいただき、有意義なサジェスチョンをいただきました。
タヌポンのほうでは解明できないこともしっかり調べられています。それを参考に、以下、何回か再調査し直しました。
さわらびYさんの指摘は的確で、ほぼ以下に記されていることを引用させていただくような結果となりました。
→ さわらびYの歴史・民俗・考古探索ノート(利根町大平神社の謎の「念仏供養塔」と「時念仏」)
これは供養塔の内部ですが、さわらびYさんの調査では以下。
(種子アーンク)寛永十五年壬寅(1638)
奉造立文間五ヶ村念仏之誦衆
九月十九日 本願三海敬白
種子は大日如来をあらわしたもので、
下の丸い石は、五輪塔とされています。
円形の水輪の部分だけが残されているということでしょうか。
あっと、宝珠形の空輪、ということですね。なるほど。
ともかく、十九夜塔としては、寛永十五年という年代は、
現出するもので最古に近い貴重なもののようです。
以下、3.宝篋印塔から13.道祖神までの11基は、鳥居の左にある石塔類です。
「段々になった笠と、その下に4方に飛び出た 隅飾り と呼ばれる突起物がある」
宝篋印塔とは で説明しました独特の形から宝篋印塔であることは確実です。
「寛永4年建立」を探してみましたがどこに記されているか判別できません。
でも、『利根町史』に載っているということは何か調査記録が残ってのでしょうね。
塔の中央より少し上の円筒形の面に
写真のような梵語(サンスクリット語)の文字が
彫られていました。
これは阿弥陀三尊を現わすものと思われます。
上部の文字は阿弥陀如来、左下は勢至菩薩、
右下は観世音菩薩、
梵語の読み方は順にキリーク、サク、サです。
寛永4年(1627)建立。
本体: 高215cm、幅56cm、厚51cm。
これは、宝篋印塔の基礎の右側面です。
寛永四丁夘三月十四日
時念仏結集敬白
と記されているようなのですが、相当読みづらいです。
これも、宝篋印塔の基礎ですが、
なんとか文字が見えるものを撮影しました。
タヌポンが判読できるのは、「成就」の文字だけです。
正面に「奉造石塔1基時念仏三年三月」のほか
文間郷10ヵ村284人の村ごとの人数が記されて・・・
とさわらびYさんは書いておられますが、この面でしょうか?
ここにも天満宮がありました。
大平神社の境内社になるのでしょうか。
満の字は妙な異体字が彫られています。
上部に亀裂が入っていますが、
3.11大地震後、セメントで修復された様子。
左側面は「文化五戌辰三月吉日」。
つまり、文化5年(1822)3月の建立。
台石には「講中」とあります。
本体: 高52cm、幅38cm、厚27cm。
台石を含めると高さは68cm。
5.若木大権現(おさなぎだいごんげん)
利根町探索で、若木神社関連のものは、2015年3月現在、この1基だけしか見つけていません。
わかき、もしくはわかぎ、と読んでしまいそうですが、「おさなぎ」と呼ぶようです。
山形県東根市神町に「若木神社」があり、疱瘡(天然痘)の神様として知られているそうです。
これは、疱瘡社・疱瘡神という種類の神社・信仰と関連がある造立でしょうか。
石祠の右側面には「願主 角右ヱ門 六兵ヱ」。左側面には「天保五午年二月吉日」とあります。
天保5年(1834)2月の建立ということですね。これも、大平神社の境内社でしょうか。
本体: 高60cm、幅42cm、厚26cm。
スマートなお地蔵様です。
背面には「智光童女」「幻夢童女」と
彫られています。
幼い女の子を亡くしたのでしょうか。
心なしか、地蔵菩薩の顔も、
なんとなく柔和な感じです。
丸彫り像の宿命か、
銘文のないものがほとんどなので、
建立年等は不明。
本体: 高117cm、幅32cm、厚29cm。
右に「奉待子安觀世音」
台座のすぐ上に縦に2文字ずつ「當村 女人 講中 十一人」とあります。
子供の健やかな成長はいつの世も母親の願いですね。
表面上部左には「文政九戌三月吉日」とあります。
すなわち、文政9年(1826)3月の建立。
本体: 高70cm、幅29cm、厚18cm。
光背の右部に「奉供養十七夜講」とあります。
刻像されているのは、如意輪観音。
十七夜塔の主尊は聖観音・勢至菩薩などもあり、
如意輪観音はむしろ十九夜塔がメインです。
でも、利根町は十五夜塔などにも如意輪観音が刻まれたりして、
とくに好まれているようです。
左には「宝暦八寅天」、次行「十一月十七日」と続いています。
宝暦8年(1758)11月17日の造立です。
余談ですが、今回の2015年の再調査まで、上記の「寅天」を
「焔天」などと読み込んで首をひねっていました。
天=年の意味であることを知らないときの初歩的誤謬です。
寅の文字が読み辛くとも宝暦8年が寅年であることが分かれば
いまは、なんということもなく寅と判別できるから不思議です。
ほかに、台石には「大平邑 同行□十人」とあります。
本体: 高69cm、幅27cm、厚19cm。(最下部の台石含めると高さ77cm)
石祠中央に「道祖神」と記されています。以前は読み辛かったのに再調査では明瞭に見えます。不思議ですね。
右側面には「講中十五人」、左側面には「明和五子十月吉日」とあります。講は異体字を使っています。
明和5年(1768)10月造立ですが、当初は、明和五午と読み込んで、そのままここに記していました。
石祠の子の横に点のキズがあるので午に見えたのですが、明和5年が子年であることを調べていない怠慢のなせる業です。
本体: 高54cm、幅31cm、厚34cm。
これは風化が激しくてほとんど分かりません。
右側面「施主 □や□」ではなにも分からず、
左側面も「□月吉日」だけです。
本体: 高37cm、幅26cm、厚14cm。
この塔は当初、光背右部の「奉供養十九夜念佛」の部分だけが読み取れたので、
とりあえず、十九夜念仏供養塔として紹介しました。
その後、以下の 再調査3 でのさわらびYさんの指摘や、
tanupon 自身の再調査等を含めて検討し、造立年等が分かりました。
今回、2015年春にもういちど写真を撮りなおしたりして、
銘文の解読を進め、以下のようにまとめました。
光背上部に、種子(阿弥陀三尊か?)が彫られているようですが判然としません。
光背右部は「奉供養十九夜念佛二世安樂導所」。
次行に「奥山村泉光寺」という文字も読み込めました。
左は、「元禄十丁丑年」「十一月十九日」
そして、「大平村同行十八人」
刻像されているのは、もちろん如意輪観音、
大平村だけでなく、奥山の泉光寺もからんだ、
元禄10年(1697)11月19日造立の十九夜塔、となりました。
本体: 高68cm、幅30cm、厚19cm。
さわらびYさんの調査で、建立が、
元禄16年(1703)
とされていたので、「えっ?」と思って、なんと3回も確かめに出かけました。
上の「元」の文字がどうしても最初からタヌポンには見つけられず、
そのために、直下の文字が「禄」ではなく「保」に見えたりして、
ずいぶん頭をひねりましたが、あるとき、「元禄」がパッと読めて、氷解しました。
なるほど、熟達者との差がこんなところにあるのですね。
何十枚も撮った写真で、これがいちばん文字が分かりやすいものです。
さわらびYさんは、レフ版持参での撮影や、
拓本などもとられる本格派。とてもかないませんね。
元禄10年(1697)説浮上!
その後、この写真をさわらびYさんと共有して再検討してみました。
すると、「元禄十丁丑年」と読むほうが妥当と、意見が一致。
暫定ですが、ここで修正しておきます。(12/06/22 追記)
地蔵菩薩を刻像した十六夜塔。
光背右から、「宝永五戊子年大平」
「奉供羪十六夜念仏爲二世安楽也」。
左方には「奉供養爲寒念佛現當二世祈所辺」「十一月吉祥日」、
ほかに左下方に「願主回西」も微かに見えます。
銘文中に「寒念仏」という言葉があり、この塔は「寒念仏塔」とも分類されます。
「寒念仏塔」は利根町では初めて発見しましたが、不思議なことに、ほぼ同時期に、
おなじ刻銘のある塔をもう1基、押付新田不動院で見つけました。
「寒念仏」には、寒中30日間、寒夜に鉦をたたき念仏を唱えて諸所を巡る修行と、
村堂に講中が集まって和讃・念仏を唱えるのと2種あり、この塔は前者のようです。
宝永5年(1708)11月の造立。
本体: 高64cm、幅36cm、厚18cm。
これは石祠中央の「道祖神」をはじめ、いちばん文字が分かりやすい石祠でした。
右側面には「女講中十一人」、左側面には「天保二卯十一月吉日」が、くっきりと彫られています。
17.の青面金剛王も読みやすかったのですが、いずれも天保年間の造立でまだ200年も経っていないからでしょうか。
天保2年(1831)11月造立。
本体: 高51cm、幅35cm、厚24cm。
以上は鳥居の左側の石塔類、以下は、鳥居の右側の石塔6基です。
中央に「奉納西國秩父坂東供養塔」。典型的・代表的な巡拝塔の一種です。
この碑の左タイトル文字の真上にも、阿弥陀三尊の種子が彫られています。
タイトル右に「文化四卯」、左には「九月吉日」。
ということで、文化4年(1807)9月の建立。
本体: 高60cm、幅25cm、厚27cm。
なお、この塔の表面に赤い斑点が見えますが、何かペンキなどが付着したような・・・
おそらく造立当時からのものではないと思います。
これも中央に「奉納西國秩父坂東供養塔」。
前記同様、阿弥陀三尊の種子があります。
右側面には、「文政九戌 十一月吉日」
「五十嵐治郎右ヱ門 同□□」とあります。
□□は仮名の様子。奥方の名でしょうか。
五十嵐さんのご先祖夫妻でしょうね。
(改築記念碑 の項目参照)
文政9年(1826)11月建立。
本体: 高66cm、幅28cm、厚20cm。
小さな如意輪観音の刻像の下に、「奉供養十九夜講と記されています。
右には「文化十一歳」、左には「戌二月日」とあります。
文化11年(1814)2月の建立。
本体: 高84cm、幅22cm、厚19cm。
「青面金剛王」と言えば、庚申塔。
利根町は「青面金剛」がなく
「青面金剛王」ばかり。不思議な傾向です。
タイトル右に「萬延二辛酉年」、
左には「三月吉日」。
これは、ちょっとおかしいのです。
なぜなら、万延2年は2月19日に改元されて、
3月なら、「文久元年」と刻銘すべきなのです。
しかも、万延元年は庚申の年なので、
1年早ければ庚申塔らしいのですが・・・。
右側面には「當村中」、
その下に横書きで「丗ハ人」(世話人)、
縦書きで、「治郎右エ門・長左エ門・弥治右エ門・六兵エ」の4名が列記されています。
万延2年(1861)3月の造立。
本体: 高69cm、幅26cm、厚18cm。
これも、「青面金剛王」。
右に「寛政十二庚申年」、左に「十月吉日」。
造立は、寛政12年(1800)庚申の年で、
前記の万延元年よりちょうど60年前です。
左側面ですが、右に「天下泰平 國家安全」
左の行は「武運長久 家内安全」
下方に「施主 源蔵」とあります。
庚申塔は、三猿が多いのですが、
この塔は三猿ではなく「二童子」です。
本体: 高79cm、幅34cm、厚23cm。
最後は、一般の像と比べておとなしい2臂合掌の青面金剛が刻像された庚申塔。
邪鬼を踏み、三猿に加えて二童子も彫られています。
二童子の間に縦に「大平村講中」「享保十六亥十月吉日」の文字(以下拡大写真)。
享保16年(1731)10月の造立ということですが、この塔にはちょっと違和感が・・・。
本体: 高112cm、幅33cm、厚12cm。
この塔は一見すると、やけに縦長に見えます。
左右の幅に対し、丈がやたら長い。
その理由は、最下部に台石があるからなのですが、
これがちょっと妙なのです。
よく見ると、ここにも「三猿」らしきものが彫られています。
もしかすると、上にセメントのつなぎ目があるので、
別の庚申塔の断片である基礎部分をつなげたのでは?
どう考えてもひとつの塔に、
「六猿」というのはありえないと思います。
六地蔵ならありますが、もし六猿があれば、これは大発見です。
大平神社への入口1.の路地の南に、
南西の方向に下り坂になっている道があります。
その坂を下りる途中に大平集会所があります。
集会所前には、四郡大師の堂と、
何か道標のような石塔が立っています。
左は、祠のなかの大師像。
下の台に文政2年(1819)とありますが、
これは大師堂が建立された年なのでしょうか。
座布団のせいで、この写真では、
2月なのか3月なのか判別できません。
本体: 高29cm、幅21cm、厚18cm。
上記の「2月なのか3月なのか」を確認しようと再訪問。
上の写真を持っていって見比べてみたわけではないので、
台座をとにかく調べてみましたが・・・。
持参したタオルで拭いてみてもなにも文字が見えません。
これは、地震で像が倒れたりして、直すとき
台座の向きが変わってしまったのかも・・・と想像。
さあ、どうするか、です。
台座の向きを変えて各辺を確かめてみるには、
上の大師像をいったん下に降ろさないとムリのようです。
しかし、そんなことをしていたら、
もしかすると「お叱り」だけではすまなくなるかも知れません。
「調べてみたい」という欲求にかられて、とんでもないことまでやってしまいそうで、今回は自重しました。ところが・・・
台座が代わっている!
帰宅して、写真を比べてみると・・・これ、台座そのものが別のものに変わっていますね。幅も高さもちがいます。
地震のせいで、もし壊れたとしたら台座ではなくまずは大師像のほうが先だと思います。その像は変化ないようです。
したがって、台座は損壊があったわけではなく、むしろ意図的に別のものに代えたと考えたほうが妥当と思います。
ではなぜ、台座を代えなくてはいけなかったのか?
文政2年(1819)云々の建立銘の台座は、もしかすると大師堂とは関係のない石仏・常夜燈等の一部だったのでは?
前のままでは誤解をまねくということで、あえて代えたのではないか、というのがタヌポンの推定ですが・・・。
しかし、大平の住民の方がそこまで、律儀に設営し直すものかどうかは、それはそれで疑問です。
もしくは、以前のものだと高すぎて、バランスが悪くまた地震があると大師像が落下しやすいから・・・という理由。
でも、その場合、文政2年(1819)云々の建立銘が大師堂と関連があるならどこかに記録しておいてほしいと思います。
「2月なのか3月なのか」は自力ではもう確かめようがなくなりましたが、さて、真相は?(12/06/23 追記・撮影)
大師堂脇に立っている石塔。「新四國六十一番」とあります。左右には、「大平村」「大日堂」。
ということは、この堂は四郡大師の61番札所で大日堂と名付けられたということでしょうか。
右側面には、「文久二壬戌歳閏八月吉日」「世話人五十嵐儀助」と、ここにも五十嵐さん、です。
四郡大師は河内、相馬、印旛、埴生(はぶ)の
四郡を四国に見立てて巡礼を行うもので、
文政元年(1818)には200ヵ所の霊場を
開設し終えたとあります。
この塔は、霊場開設から40数年遅れて、
文久2年(1862)、新四国巡礼を終え、
その記念として建てられたものでしょうか。
なお、大師・空海と大日如来の関連ですが、
「この世の一切を遍く照らす最上の者」
つまり、大日如来を意味する遍照金剛
(へんじょうこんごう)の灌頂名を
空海が与えられたことによります。
ちなみに、この塔の上部には、
大日如来を示す種子アークがあります。
本体: 高83cm、幅31cm、厚18cm。
閉園していた大平野生植物園が再開されたと聞いたので、神社石仏調査の帰りに探してみました。
前に事情をよく知らなかったとき、この近辺をぐるぐる周って探したこともありました。
ランドローム右斜め前の坂道を下って、上記大師61番の前の道をずっと行けばたどり着きますが、
以下の写真のように、早尾天神社の脇道を下ったところから左折するほうが近いですね。道標も立てられています。
上記交差点からまもない地点にもうひとつ道標が立っています。もうまもなく、という感じです。
見上げると、坂道を下って来る道が見えますが、あのこんもりとした場所が「堂山塚」と呼ばれる塚かも知れません。
でも、それも以前、いろいろ見て周ったのですが、特筆するようなものを発見できませんでした。
道標の前の道を進めばすぐに左手に建物が見えてきます。
以前は、この道なき道をずっと先までバイクで進んで、
わけのわからないところに行ってしまったりしました。
これが「大平野生植物園」の入口。
無人ですが、芳名帳などもあります。
貼紙「来園者の方へ」を読んでみると、
植物園は平成9年(1997)まで維持
管理されていましたが、その後放置、
平成21年(2009)4月から、
「リ・スタート6期生と有志」により復元。
なるほど、タヌポン探索時は、
ちょうど放置されていた期間でした。
復元にたずさわった皆様、
お疲れ様でした。
入園は無料のようですが、
カンパをぜひ、ということです。
では、些少ですが・・・。
さあ、ついにそのときが・・・。
なのですが、この日は暑くて、
神社の調査でへとへとで、
・・・ということで、
この階段を見上げて、敵前逃亡。
まあ植物園ですので、
春か秋の花盛りのころに、
再訪問ということで、
今回はここまでで退散します。
(15/03/31・12/06/22・12/06/21・12/06/19 追記) (11/02/28 追記再構成) (10/12/30 追記) (05/05/05)
(撮影 15/03/31・15/03/30・15/03/28・12/06/15・12/06/10・11/02/23・05/09/10・05/05/05・05/05/03・05/05/02・05/03/13・05/03/12)
本コンテンツの石造物データ → 大平神社2石造物一覧.xlxs (14KB)