タヌポンの利根ぽんぽ行 早尾天神社1

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早尾天神社目次



関連リンク


更新経過

2013年より石造物データをページ末に掲載するため
各コンテンツを順次見直ししていくことにしました。

その一環で早尾天神社も再調査をしたのですが、追記することが多くなり、
当初のコンテンツの一部修正では内容が煩瑣になります。
そこで、「早尾天神社」と「早尾天神社奥の宮」のページを合体させ、その上で、
「早尾天神社1」、「早尾天神社2」に分離再編成することにしました。
早尾天神社1では、早尾天神社の概要全般、早尾天神社2では、
当初の探索で苦労した芭蕉句が彫られた楳華碑と、その探索過程で発見した石祠、
そして、境内の石仏、最後に早尾天神社奥の宮のコンテンツをまとめました。(15/05/13)


祭神像開帳

祭神像

33年毎にご開帳される菅原道真公の祭神像。
2013年がその年にあたります。
1月27日(日)の祭礼日に取材してきました。

33年毎ですから、tanupon にとっては
これが最初でおそらく最後のワンチャンスでした。(13/01/27 追記)



2011年拝殿改築
参道と改築された拝殿 凍った手水地震後でしばらく訪問していない間に、
改築されたことを聞きました。
手水も凍る寒い冬の1日でしたが、
なんとか撮影。
(12/01/28 追記)



下段は探索当初の記述。その後、いろいろ調べてみると、利根町の天神と呼ばれる施設は
石祠だけのものを含めて全部で10社見つかりました。
(目的別索引 神社編 の系統別索引天神社の項目参照)
そして2010年12月現在、当コンテンツは追記が重なり、構成が複雑になったため再構成し、
あわせて誤表記を修正、画像の更新等を行い、新しくUPしました。
神木の現況、一部の石祠等、不明のところがまだ若干あり、引き続いて調査をすすめます。

早尾天神社所在地は、利根町早尾74。境内敷地940坪。

天神社、天満宮、天神宮の呼び名のちがいについては、神社の呼び方 参照。(10/12/26)


天神様といえば、梅。そして合格祈願の絵馬。
梅をこよなく愛し、また学問の神様といわれる菅原道真公が祭神なればこそのモチーフです。

利根町の天神様は合計3社ありますが、この早尾天神社がいちばん大きく有名です。
ちなみにほかのは 押戸の天満宮徳満寺脇にある天神宮 です。
でも鳥居のない石祠だけのものなら各地域で見かけました。
全部でいくつになるか、いつかまとめてみようと思っています。(05/04/03)



利根町北部マップ

早尾天神社の由緒・沿革

早尾天神社への入口

バス通りからの入口

左は、早尾天神社への通常の入口。
これは、表通り(バス通り)に面しています。

しかし、早尾天神社の正規の入口と言えば、
鳥居の立っているところ・・・なのだと思いますが、
それは早尾のメインのバス通りではなく
その東端を右折したすぐのところにあります。

ですが、そこには数段ですが石段がありますし、
バス通りからの入口のほうがすんなりと入れますので、
だれもが左写真の場所から境内に入っていると思います。

表通りからの入口?

上記の入口のほかに、ムリをして(笑)境内に入ろうとする場合は、
バス通りには上記より少し西にも抜け道で入れる箇所があります。

左がそうで、写真の坂道を登れば境内中央への近道になります。
たいした坂ではありません。大雨後でなければラクラク登れます。

右奥に見えるのが 拝殿。左の祠が境内社の 大宮大明神
その隣には小梅園があり、石祠などがおかれています。

また、小梅園の西には 早尾の梅園 があり、梅園とその近辺では、
梅だけでなく 早尾梅園の桜 なども楽しむことができます。

それでは、天神社の由緒・沿革説明の前に、まずは正規の入口である鳥居と、そこから拝殿へと続く参道を紹介します。

鳥居

鳥居正面

道路から4、5段の石段を
昇ってすぐが鳥居ですが、
ここは午後は逆光。
また、神額がもともと明瞭ではない上、
石段前道路は道幅が狭いので、
鳥居正面からの撮影が難しい所です。

それなら、朝撮ればいい、ですって?
11時過ぎでもダメだったんです。
もっと早く?朝はなにかと忙しくてね。
いや、朝は苦手なんです。

どうも。

さて、この鳥居には人名も含め、
銘文が多く彫られているのですが、
近世幕末の頃の造立の割には、現在、
風化が激しく、銘文は読み辛いです。

以下、左から、鳥居柱右の背面、柱左の背面、柱左背面下部。左2枚は2012年撮影時。現在は文字が見にくいです。
左柱背面には「當所氏子中安全 嘉永五壬子年企起至 万延二辛酉歳正月悉皆成就」と刻まれているようです。
嘉永5年(1852)に計画し、万延2年(1861)正月に建立計画がすべて成就したということのようです。
右柱背面は「寄進村々 護摩講中 安穏」とあり、下部には数多くの講中、世話人の名前が彫られています。
この講中・世話人の名前は、いつか調べてみようとは思っていますが、全員読み切れるかどうか・・・。

ちなみに、寄進の「寄」と安穏の「穏」は異体字。「寄」はともかく、「穏」はどうしてこんなヘンな字を?書体として有り得る字?

鳥居右柱裏面 鳥居左柱裏面 鳥居左柱裏面下部

神額

神額は以下の写真でご確認を。早尾天神社ではなく天満宮となっています。これも、なかなか撮りづらい撮影でした。
鳥居のすぐ下から石段となっているので足場が悪く、真正面からの接写ができません。
右下は境内側からの写真。これなら難なく撮影できるのですが、如何せん裏側です。

また、隣に大きな石碑(御神楽百人講紀念碑)が建っていますが、これも表面は道路向き。しかも、すぐ前に金網。
この撮影はさらに難しくなりますが、なんとか斜めから撮りました。あとで紹介します。

鳥居神額 鳥居(裏側)と石碑

神額 Topics

降ろされた神額

大地震から1年以上経った頃にやっと気が付きました。
なんと、神額が鳥居からはずされてすぐ脇の
御神楽百人講紀念碑 の裏に立てかけてあります。

これは地震直後ではなく、最近のことでは?
額が地震で落ちたのなら、どこかに
ひび割れとかありそうですが、大丈夫のようですし。
少し傾いた程度だったものを危険なので
氏子の皆さんで、とりあえず降ろしておこうと
いうことにしたのではないかと推察します。

でも、おかげで真正面からの撮影が可能に!
よく見ると、額周囲の龍神の装飾もなかなか立派で
これは利根町随一の神額かも知れません。

降ろされた神額の裏

ここで、tanupon は「あっ!」とひらめきました。
「裏返して見る絶好の機会!」

もくろみは大成功です。
この額程度の重さなら難なく持ち上がります。
さあ、なんと記されているのでしょう。

萬延二辛酉初春廿五日
施主 坂本伊右エ門
石工 飯江永剣
(飯江=はえ)

万延2年(1861)1月25日の奉納でした。
先ほどの鳥居の成就年月と合致しますね。

あっと、ちゃんと表面に直しておきましたよ。

本体: 高81cm、幅38cm、厚4cm。

御影石製。石造りの鳥居はなかなか技術の要るものと聞きました。神額も鳥居も早尾天神社のは立派なものです。
ところで、神額の「天満宮」の文字も達筆で、もしかして、杉野東山かも、と思いましたが、東山は明和6年(1769)生まれ。
万延2年(1861)には92歳の計算で、これはちょっとナシですね。なお、2015年春現在、神額は鳥居上に戻されています。

参道と境内全景

鳥居から境内の中を見る

鳥居から境内の中を見たところ。
いちばん手前にみえるのは、常夜燈。
その奥に 早尾天神祠碑、手水舎。
右手には境内社 大宮大明神 の鞘堂。

左は参道で、奥に見えるのが拝殿。
写真は2005年の正月3日のもので、
まだ改築(2011)前の拝殿です。
早尾天神の梅は、早咲きの梅なのか、
正月から開花していることが多いです。

この天満宮がいつ創立されたのかは
実は分かっていません。
『茨城県神社誌』に「応永年中(1394〜) 別当西光院奉務す」とありますが
それ以前ということでしょうか。

早尾天神社の由緒・沿革については、
以下の石碑に概要が記されています。

早尾天神祠碑

境内の中央、御神燈の背後に立っているのが、早尾天神祠碑。最初これが芭蕉の句碑である楳華碑なのかなと思いました。
紅梅の花がちょうど碑のそばで咲いていたので、いかにもそれらしく見えたのです。(→ 芭蕉と楳華碑

さて、祠碑とは「しひ」と呼びますが、祠をほこらの意味ととると早尾天神社の場合、ちょっと違和感があります。
でも、祠には社(やしろ)の意味もあり、早尾天神祠碑は早尾天神社碑と置き換えてみると碑の目的が明確になります。
すなわちここには、早尾天神社縁起つまり天神社の由緒・施設等々などの情報が記されています。
このうち祭神、配祀、神像、神紋、社名額等々は以下拝殿、本殿の項目、神木その他当該項目にて付加説明します。

早尾天神祠碑と紅梅 早尾天神祠碑

[碑表]以下。赤字はおそらく誤謬と思われる個所。(上右写真はクリック拡大できます。詳細は以下)

早尾天神祠碑
早 尾 天 神 社 縁 起  町 指 定 文 化 財
一、鎮座地 利根町早尾七四舊文村
一、御祭神 菅原道眞公正二位太政大臣
一、御配祀 大山毘賣命外八神
一、御祭祀 例年新暦一月廿五日 御開帳は三十三年目昭和五十五年に御開
      帳をなし梅の植樹をする
一、由 緒 創立不詳なるも應永年中丹波の人某 別當となり奉務
      別當寺西光院
一、神 像 御祭神像
一、神 紋 梅鉢
一、神 木 樹齢五百年餘の松の大木にして樹相神巖詣人の仰望せし處なり
      しも昭和五十四年五十五年にり虫害により枯死せる爲止むな
      く伐採小賀玉の木に替え之を記念しこの碑を建つ
一、社名額 天満宮 東京女子藥學校長 恩田重信書
一、境 内 九百四十坪
一、御神樂百人講念碑 多田好問書


早尾天神祠碑碑陰

[タヌポン補注]
町指定文化財:早尾天神社は、町の文化財に指定されてはいないハズ・・・。
大山毘賣命:大宮比売命のまちがい?
:亘の文字が正しいでしょう。
:実際の碑は「紀」念碑と刻まれています。


[碑陰]右写真の通り。

一、建設費 金五十八萬二千円
     神木代に依る
一、宮司兼代表役員 岩井 實
一、責任役員 氏子総代
一、     氏子一同
昭和五十八年一月二十五日


昭和58年(1983)1月25日が建立日ということでしょうか。

本体: 高207cm、幅92cm、厚16cm。台石: 高44cm、幅182cm、厚75cm。

早尾天満宮縁起

早尾天神社の由緒等については、早尾の東隣りの村の横須賀地区に、『早尾天満宮縁起』が残されています。
これは上曽根の勝村家に生れ、横須賀の北沢家に婿となった北澤官知が嘉永3年(1850)に著したもので、
現祭神像のことと思われる神像の由来などが記されています。

詳細は以下参照 → 北澤官知と早尾天満宮縁起

拝殿

2011年改築された拝殿

2011年の暮れに
拝殿が改築されたことを聞きました。
3月の大地震直前に訪問しましたが、
それ以降、ご無沙汰していました。

写真を撮りに、と思っていましたが、
この冬は前年よりずっと寒く、
ようやく厚手のジャケットを調達して
バイクで出かけました。

瓦葺ではなくなったせいか、
前よりも瀟洒な印象です。
注連縄も新調されたようです。
華美なものではなく
落ち着いたいい感じです。
(12/01/27 撮影)

雑感:拝殿改築によせて

瀟洒な改築とはいうものの、時節柄、氏子の皆さんがいろいろ努力されておられることと思います。しかし、拝殿改築等は「利根町レベル」のことであり、芭蕉の句碑をどうあつかうかは「全国レベル」のことのように思います。注連縄の新調等も無論、大切ですが、全国的に著名な芭蕉の句碑が、参詣客がまったく気がつかないような場所にひっそりとただただ風化を待っている、というのはとてももったいない気がします。しかも、台座に対して上部の句碑本体が正しい向きに設営されていません。せめて、七福神のとなりに、句碑の読み方や杉野東山書などの説明看板等を含めておいてあげたい気がします。全国からの早尾天神社への訪問など望んでいるわけではないでしょうが、町の「数少ない財産」とも言える句碑をもう少しなんとかできないかな、と思うしだいです。(12/01/28 追記)

旧拝殿

旧拝殿

左が旧拝殿。瓦葺です。

早尾天神社の祭神は、いわずと知れた菅原道真。
先ほどの祠碑には、正二位太政大臣とあります。

以前は注連縄がないようですね。なくてもいいのかな?

拝殿は、1月25日の例大祭時には、
扉が開かれるとともに、幕などで美しく飾られます。
それは、後半 御歩射と例大祭 で紹介します。

社名額と鈴

社名額

拝殿上部には、鈴と社名額が設置されています。
社名額は、東京女子薬学校長恩田重信氏の書ということです。
奉納 天満宮
東京女子薬学校長恩田重信従六位 恩田重信書
布川町 長谷川つる」とあります。

恩田重信[(おんだ・しげのぶ)、文久元年(1861)−昭和22年(1947)]は、日本の薬学者。明治薬学専門学校の創立者。信濃国松代生まれ。1882年東京帝国大学医学部製薬学科を卒業。内務省に入省。千葉医学校附属病院薬局長を経て陸軍薬剤官から二等薬剤官となった。1902年(明治35年)東京市神田区に東京薬学専門学校(のち明治薬学専門学校に移行)を創立し初代校長となる。1907年、東京女子薬学校(日本最初の女子薬学校)が設置され初代校長となる。薬剤師の地位向上や市井における保健衛生の普及向上に努めた。1947年(昭和22年)没。享年87。(Wikipedia)

社名額と鈴 社名額その後

上右写真は、当初の撮影時より数年後で撮ったもの。社名額の両脇には松の写真が新たに飾られています。
これは、おそらく 早尾天神祠碑 にあったように昔の神木だった頃の松を撮ったものと推察されます。

早尾天神社の絵馬

早尾天神社にも、絵馬が2点奉納されています。なぜかおもしろいことに2点とも「源義経」に関連する絵馬です。

常盤御前図

常盤御前図

左は「常盤御前図」。
サイズは、縦33.5×横48.0cm とそれほど大きくはありません。

雪の中を牛若を抱きながら、裸足の今若・乙若を連れて
常盤御前が逃げ延びる姿が描かれています。

作者は「布川たこや」こと「堀内八十松」。
柳田国男の末弟で後の日本画家となる松岡映丘
その画才を見抜いたという人物です。

牛若丸修行図

牛若丸修行図

左は、「牛若丸修行図」。
サイズは、縦60.0×横90.0cm。作者は、齋藤良郷。

左上は烏天狗と格闘している牛若丸、右上には大天狗、
左下は、吉次信高と推定されています。

利根町の中田切地区には、義経が宿をとり
東北方面に逃れたという伝説が残っています。

早尾天神社の常盤御前図・牛若丸修行図に関しては、いずれも制作年代は不詳となっています。

本殿

本殿と拝殿

この写真は、拝殿の後方から、
本殿・拝殿を撮ったもの。
本殿は拝殿正面からは見えませんが、
拝殿よりも大きいですね。
木造で流れ造りです。瑞垣も設置、
朱色に青となかなか鮮やかです。

祭神像はここに安置?通常は
閉ざされていて見ることはできません。

また、早尾天神社の神紋は
梅鉢ということですが、
まあそれが妥当なんでしょうね。

本殿 本殿

祭神

早尾天神社の祭神は、もちろん 菅原道真公。一般に神社の祭神は、天照大神などの古代の神々が多いのですが、
このように皇族関係ではない明白に実在が証明されている人物を祭神とする場合も少なくありません。
『利根町史』に祭神像の写真が掲載されていましたが、33年に1度のご開帳。その機会が2013年にやってきました。

祭神像開帳

祭神像

これが、菅原道真公の祭神像。
木造で、高さ30cmほどでしょうか、
大きくはありませんが風格があります。
造られた年代・作者等は不明です。

tanupon としてはもう少し間近で撮り、
大きく掲載したいと思いましたが、
氏子総代の方より、御神体ですので、
掲載はなるべく控えめの大きさに、
という注意がありました。納得です。

祭神像

開帳時の神事

担当宮司さんの話では、神事としては、前夜21時に、御神体を本殿から取り出す「宵宮祭(よいみやさい)」、
そして、当日13時からの氏子のお祓い、そして、17時に御神体を戻す「還御祭(かんぎょさい)」が行われるということです。

以下は、例大祭当日13時からの儀式。宮司さんを先頭に正門の鳥居の外から並んで参道へ向かい、手水で清めて拝殿へ。

祭神像 祭神像

祭神像の前で氏子の皆さんにお祓い。儀式の後で、境内に記念植樹も行いました。もちろん、「梅」ですね。

氏子のお祓い 梅の記念植樹

参詣客の一人ひとりに宮司さんがお祓いをしてくださいます。拝殿の隣りではいつもの例大祭のときと同様、焚き火なども。

お祓い 焚き火

広報が行き届いたのか、また33年に1度というチャンスのせいか、いつもの例大祭より多くの参詣客でにぎわいました。
さて、なぜ33年なのか、という疑問ですが・・・。
菅原道真公が33歳で、文章博士(もんじょうはかせ)に任じられたということしか思いつきませんが、宮司さんのお話では、
やはりここが元は別当寺ということもあり、神仏混交で、33回忌とかそういう関連もあるのでは、ということでした。

(13/01/27 追記・撮影)

配祀

さて、主祭神の菅原道真公に対して、配祀は、祠碑には、大山毘賣命(おおやまひめのみこと)ほか八神 とあります。
ところが、『利根町史』には、以下の九神の名が記されています。

見比べると祠碑の大山毘賣命(おおやまひめのみこと)は、『利根町史』の九神のいずれにも該当しません。

これは、おそらく大山毘賣命と大宮比売命のいずれかにまちがいがあるものと思われます。
大山毘賣命という名は、調べてみると古代の神には見当たらないので、この場合は、祠碑のほうが、
咋命(おおやまくいのみこと)と大比売命(おおみやひめのみこと)を混同したのではないでしょうか?
以上のことや単純な表記ミスと思われるものもあり、早尾天神祠碑 の撰文はちと甘い、と言う気がします。

※配祀とは・・・主祭神にそえて、その神と縁故のある他の神をまつること。

御神木

松からオガタマノキに

御神木?

一般に天神の御神木は梅の木と聞きましたが、
早尾天神社ではそうでないことが分かりました。
先ほどの早尾天神社祠碑には、樹齢500年余の松の大木が、
昭和54〜55(1979〜1980)年にわたり虫害により枯死したため、
やむなく「小賀玉の木」に替えたこと、
また、それを記念して建てたのがその祠碑であると記されています。

拝殿の上部に飾られている写真の松がその神木のように思われますが、
樹齢500年というには、ちょっと細すぎるような印象もあります。

さて、それでは、現在の御神木であるオガタマノキとはどの木なのでしょうか。

左の写真は、鳥居前すぐ右手の境内でいちばん大きな樹。
これがオガタマノキなら問題解決ですが、昭和55年はわずか25年前。
写真の樹はその当時からも結構な巨木だったとしたら、
それを他から運んでくるというのはちょっと難しいような気もします。
果たして、この樹はオガタマノキか否か。
もし、否ならば、神木は境内のどこにあるのでしょうか。

→ 上記記述直後、利根タブノキ会のTさんに教えていただきました。これはスダジイでした。
幹周3m47cmの立派な巨木ですとのこと。さあ、それでは、神木オガタマノキはどこに?

公孫樹

上の樹のほかにもう1本、目だって大きいのが、これ。
境内中央奥にあるイチョウの樹です。
公孫樹であることは最近、分かりました。
それまでは、これが神木?などと。
黄葉の頃に写真を撮りに来ようと思っています。

さて、神木オガタマノキですが、モクレン科の常緑高木。
とくに神社に植えられることが多いそうです。
神前に供えるときに使われたようで、
小賀玉(おがたま)は、招霊とも書きます。
神霊を招きよせる意味があるのですね。

どうも、境内中央あたりまでには、神木はなさそうな感じです。
ここから境内奥に、探索を進めます。

もしかして、これが神木のオガタマノキ?

何のまじない?

本殿裏で見つけた妙なもの。
木の根元から3本の棒が扇を広げるような角度で伸びています。
棒の先端には紙垂のようなものが巻きつけてあります。
魔よけか何かのおまじないでしょうか。

当初はそう思いましたが、いまひとつひらめいたのは・・・
もしかしてこれが枯死した松の替わりに
神木となった樹ではないかと!?
tanupon のカンはさて当たるかどうか。

でも、25年経ってこの木の太さでは、
貧弱過ぎますかねえ。やっぱりちがうかあ?

神木はカラタネオガタマ

やはり、上記の樹が、神木と判明しました!しかし、ちょっと、注釈付きです。
利根タブノキ会より、オガタマノキの同属であるカラタネオガタマではないかとコメントをいただきました。
見分け方は、オガタマノキの開花は2〜4月なのに対して、カラタネオガタマは5〜6月で、バナナの香りがするとのこと。
カラタネオガタマ(唐種招霊)【モクレン科 オガタマノキ属】。別名トウオガタマ。分布:中国原産、江戸時代に渡来。

カラタネオガタマの花

そこで、5月31日の本日、訪問して確かめてみました。
まさしく、カラタネオガタマの花で、
花の匂いをかぐと確かにバナナの香りがします。

これで、神木がこの樹であることが決定しました。

ちょっと疑問に残るのは、オガタマノキではなく、
カラタネオガタマと分かった上での植樹だったのかどうか。
でも「オガタマ」=「招霊」という意味ですので、
どちらも神木にふさわしい樹といえるでしょう。

ちなみに春先に咲くオガタマノキのほうの花の香りは、
バナナではなく、フェイジョアの果実の香り、
パイナップルとバナナの中間の様な芳香だそうです。
(12/05/31 追記・同日撮影)

早尾天神社の境内社

大宮大明神

大宮大明神

これは、境内社の大宮大明神。配祀は
大宮比売命(おおみやひめのみこと)。

元大宮台に鎮座していたものを、
昭和56年(1981)に天神社に遷宮、
と『利根町史』にあります。

遷宮の理由も知りたいところですが、
大宮台とは、どこなのでしょう?
利根町では聞いたことがありません。
まさか、さいたま市大宮区?
千葉市若葉区に大宮台の地名があり
大宮神社もあるようですが、それ?
→ なんのことはありません。
天神社のすぐ真北の地名(旧地名?)
と判明(下に追記)

この社殿もなかなか立派です。木鼻の獅子などにも色がついています。
ところで、この色なのですが、黄色に見えますが、もともとはどんな色だったのでしょうか。
当初は朱色で、年代を経てこうなったと思っているのですが・・・?

大宮大明神 大宮大明神木鼻

大宮台は天神社の前

大宮台

左は、「利根町小字地図」(『利根町史』第一巻付録より)。
ここに、「大宮台」の地名が出ています。
このあたり一帯を tanupon は早尾・早尾台と総称していましたが、
団地ができたときに大宮台の地名は削除されたということ?
(それとも、正式な地名としてはまだ残っているのかな?)。
まあ、まさか埼玉県の大宮とは思いませんでしたが・・・。
いずれにせよ、当初は大宮神社があり、
その上で大宮台という地名が付いたと思われますが、
区画整理等々で早尾天神に遷宮されたと同時に、
地名もなくなり、忘れられていくということになるのでしょうか。

余談ですが、昨年(2011)の大地震による液状化で、自分の住んでいるところがもともとどんな土地であったかを
改めて調べる傾向が出てきたという話がありますが、旧地名なども知っておくといいかも知れませんね。

実は、以上のことは、今年(2012)になって知己を得ました『利根町歩き ある記』著者のNさんから、教えていただきました。
Nさんもわたしと同様の疑問をもち、町史編纂に関わった方より利根町小字地図のヒントをもらって調べられたということです。
おかげさまで、これも永年の(怠惰によりなにも調べないでほおっておいた)疑問がこれで解決しました。お礼申し上げます。
(12/02/15 追記)

富士浅間大菩薩

富士浅間大菩薩

上記のおまじないの樹(神木でした!)の隣にあった石祠。
当初はまったく分かりませんでした。でも、いまなら・・・。
石祠のなかをよく見てみると・・・
まず、下に大菩薩と彫られているのが分かります。
その上に、浅間。さらにその上にもう1字。士・・・ですか?
士浅間大菩薩・・・なんですかこれ?
???・・・・・!!!!ととのいました。いや、判明しました。
見えませんがもう1字、富がつくハズです。
そうです。「富士浅間大菩薩」。これにまちがいないでしょう。
それにしても、浅間神社+仏教菩薩とは、
神仏習合はいつも奇異な感じがしますね。

富士浅間大菩薩その後

2015年春、造立年を調べようと再訪問。石祠をまず正面から見ると・・・。なにかヘンです。

富士浅間大菩薩2015 富士浅間大菩薩左側面2015

右側面(実際は左側面)を見てみると、
なんと天地さかさまに置かれています。
これは例の大地震で石祠が倒れてしまい、
のちに直したときに間違えたのでしょう。

こうしてみると、以前に見にくかった「富」が、
さかさまですが、よく見えます。

造立年は「萬延元申年六月吉日」。
つまり万延元年(1860)6月の造立です。

台石正面には「當村中」、
右側面には「世話人」として以下6名の名、
□□傳左エ門 □□伊右エ門 大久保藤兵□ 矢口五兵□ 大久保彦左エ□ 加藤弥兵□

大久保彦左エ門はどこかで聞いたような・・・。
時代が違いますので別人ですが・・・。

本体: 高60cm、幅42cm、厚28cm。

さて、上記の富士浅間大菩薩は、一般には木花咲耶姫を祭神とする浅間神社の範疇に分類されると思いますが、
これが、正当なる手続きで早尾天神社に勧請された境内社といえるものなのかどうかについては不確かです。
また、神道系の石祠は、早尾天神社2「境内の石祠と石仏」でも数基紹介しますが、それが境内社かどうかは分かりません。

主な境内施設

御神楽百人講紀念碑

御神楽百人講紀念碑 御神楽百人講紀念碑碑陰

神額 の項目で説明した鳥居脇の石碑。
道路側向きのため石碑を正面から見るには、
境内から前のほうへ回りこむしかありません。
ところが柵があり、石碑との間が狭いため
真正面からは全景が撮影できません。

上に「伊勢太太」「御神樂百人講紀念碑」、
左隣には「従四位勛四等多田好問書」。
ちなみに勛四等とは勲四等のこと。この碑は
早尾天神祠碑 の末項に記されています。

多田好問[ただこうもん](1845−1918)は、明治時代の官吏。弘化2年生まれ。京都の人。維新後、岩倉具視にしたがって東京に行き、新政府につかえる。有職故実にくわしく、内閣書記官、宮内省御用掛・記録課長として皇室行事の典例調査に従事した。著書に『岩倉公実記』がある。大正7年11月17日死去。74歳。号は東蕪。(『日本人名大辞典』等より)

御神楽百人講紀念碑碑陰上部 御神楽百人講紀念碑碑陰下部

左は碑陰の上部と下部の拡大写真。

明治三十三年十月建立
明治33年(1900)10月の建立。
ほかに「布佐町 石工 大塚岩吉」。

下部には講中の名が数多く彫られています。
以下末尾の講元の部分だけ紹介します。

講元 坂本晋齋 飯田與助
有儀子樂敬書」の銘も見えます。

本体: 高246cm、幅102cm、厚20cm。

御神燈

御神燈

鳥居から境内に入って最初に目につくのが、この御神燈。
『利根町史』には、松平上野介附人 鈴木専右衛門建立とありますが、
御神燈では、三州西尾城主松平和泉守内鈴木専右衛門となっています。
『利根町史』の松平上野介というのはどうもちがうような気がするのですが・・・。
慶応4(1868)年正月の建立ということは、もう半年強で明治元年ですね。
松平和泉守とは、松平乗全(のりやす)で幕末の老中とのこと。
こんな維新間近の押し迫った頃にこんなところにこんなもの建てて・・・
と、建てたのは附人の鈴木専右衛門?いや、やはり老中命でしょうか。

御神燈由緒書

本  体: 高155cm、幅54cm、厚54cm。
台石上: 高33cm、幅63cm、厚64cm。
台石中: 高24cm、幅82cm、厚82cm。
台石下: 高76cm、幅84cm、厚85cm。

竿石銘文

ユニークな形の竿石(さおいし)ですが、正面(下左)と左側面(下右)に文字が彫られています。
正面は「奉献」。左側面には「天下泰平領主 安穗五穀成就」が2行で記されています。
字切れとしては、「天下泰平 領主安穗 五穀成就」が3つの四字熟語でぴったりなのですが、
真ん中の「領主安穗」の意味が不明です。「領主安穏」が正しいのではないでしょうか。これは異体字?

竿石正面 竿石左側面

(台石銘文・竿石銘文は 12/06/24 追記) (12/06/23 撮影)

台石銘文

『利根町史』との差異が気になったので、御神燈の台石(上)の四方を精しく調べてみました。すると・・・。
tanupon が調べたのは正面ではなく右側面。正面には、『利根町史』と同様のことがちゃんと明記されていました。

正面

御神燈正面

御地頭所
松平上野介様
御附人
鈴木專右エ門殿
建立之

ここでは、御神燈を建立した鈴木専右衛門は、
松平上野介の御附人となっています。
下の右側面では、松平和泉守内と記されています。
御附人と所属とは別次元のものなのでしょうか。

それはそうとして、幕末の松平上野介については、ちょっと興味があり、別個に調べてみたいと思っています。
また、新撰組の鈴木三樹三郎の父に鈴木専右衛門という名がありますが、同一人なのでしょうか。

右側面(再掲載)

御神燈由緒書

三州西尾城主
松平和泉守内
鈴木專右衛門
慶應四辰年
正月吉祥日

赤字の文字は読みづらく暫定です。

寄進は2家より

『利根町の文化学芸碑』には、以下のことが記されています。

・御地頭所 松平上野介とは、当時の早尾を支配した持高1300石の松平一太郎。地頭とは1万石未満の旗本の支配者。
・三州西尾城主 松平和泉守は、現在の愛知県西尾市にあった西尾藩の藩主松平乗秩(のりつね)で、6万石の大名。
・この御神燈は、上記の1旗本と1大名の2家が寄進したもの。

なるほど、と思いましたが、『利根町史』では西尾藩の藩主が松平乗秩ではなく松平乗全(のりやす)となっています。
松平乗全は、西尾藩第4代藩主ですが、松平乗秩はその後を継いだ最後の第5代藩主で、乗全の弟。
文久2年(1862年)11月23日に乗全は幕府から隠居を命じられたため、兄乗全の養子として家督を継いだ、
という経緯で、幕末押し迫ったころの寄進ですから、松平乗秩のほうが当事者ではないでしょうか。(13/04/20 追記)

左側面

御神燈由緒書

向後破損等之節
者其時之當住於
氏子修覆可致也

これはおもしろいですね。
今後御神燈が破損などしたら、
そのときの住職や氏子らで修復すべし。
建立者に修理費を要求するなということでしょうか(笑)。
→ というより、幕末、一寸先は闇の
不安定そのものの時代でしたから、そのような意味なのかも。

背面

御神燈由緒書

當住
恵珊
世話人
名主 喜兵衛

建立当時のこの地での住職名と世話人が記されています。
ここでも、赤字の珊の字がちょっと自信ありません。
また「代」というのは、その住職の代に建立という意味のようです。

村社早尾天神社紀念碑

早尾天神祠碑 の背後にもう1基、石碑が見つかりました。「村社早尾天神社紀念碑」とあります。
しかし、なにを紀念しているのか要領を得ません。村社に正式になった記念なのでしょうか。
下中央は、碑陰の右上部、右の写真は、同じく碑陰の左下部の拡大。

村社早尾天神社紀念碑 村社早尾天神社紀念碑碑陰上部 村社早尾天神社紀念碑碑陰下部

碑陰右上には「村社早尾天神社寄附連名」とあり、以下名前が多く刻まれています。
左下には「大正九年十二月建之」、つまり大正9年(1920)の建立。
石工 大塚岩吉」は、この時代の石碑に数多く名が記されています。
別当寺(後述)としての徳満寺末寺である西光院が廃寺となったのはおそらく明治維新後と思われますが、
その関連で、神道神社としての早尾天神社が浮上し、こうした石碑の建立につながったのではないかと推察します。
この件に関しては、次に紹介する手水石に彫られた紋様について当初、不思議な思いを抱いたことにもつながります。

本体: 高170cm、幅72cm、厚14cm。

手水舎

拝殿前の左手、境内中央にある手水舎。この脇に1基ずつ常夜燈が建てられているのは、ちょっと奇異な感じがします。
拝殿や本殿近くにあるのがふつうかなと思いましたが、でも、もっと気になるのは・・・。
手水本体ですが、よく見ると卍のレリーフ(浮き彫り)があります(上右の写真)。これが神社とは異質な感じがしませんか?

手水舎 手水

中央に大きく「」。右に「納御寶前」と小さく「海老原」の名。右端に「早尾村西光寺住法印快請」とあり、
左には「享保九甲辰十二月吉日」つまり、享保9年(1724)12月の造立で、「願主 子々津氏 半之亟」と刻まれています。

早尾天神祠碑 や『利根町史』にあるように、徳満寺の末寺でいまは廃寺となっている西光院という寺の存在。
この手水は、その西光院に奉納されたものであり、当初からの早尾天神社の付帯設備ではない、というべきでしょう。

創立不詳なるも、応永年中丹波の人某 別当となり奉務 別当寺西光院」、
ここに記されている別当・別当寺とはなにかを知るとこの手水の卍の意味もさらに理解できるでしょう。

別当・別当寺(べっとうじ)とは・・・神仏習合が許されていた江戸時代以前に神社に付属して置かれた寺のことで、神社の祭祀を仏式で行う者を別当(社僧ともいう)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と言った。神仏習合の時代には、神社で最も権力があったのは別当であり、宮司はその下に置かれた。(Wikipediaより抜粋)

応永年中とは1394〜1427で江戸時代より前の室町時代ですから、上記の説明に従えば、早尾天神社は、
仏式である別当寺西光院そのものか、もしくはその下部組織であったというべきです。
したがって、手水に仏式の卍をつけて奉納されてもなんら不思議はありません。当時の別当が法印快請でしょうか。
この手水の造立は、享保9(1724)年が記されており、江戸時代に入っても別当寺と呼ばれていた様子で、
早尾天神社というより西光院が主体として神社が存続していたと考えてよさそうです。
おそらく明治維新以降、廃仏毀釈などでこんどは寺と神社の地位が一時的に逆転したときに、
前述したように、西光院は衰退・廃寺となり、こんどは早尾天神社の名が前に出てきたということでしょうか。

この手水でちょっと気になるのは、小さく彫られた「海老原」の名。どういう立場の人でしょうか。
願主は別に明記されているので、造立の世話人代表か、当時の早尾村の名主あたりでしょうか。

本体: 高46cm、幅106cm、厚48cm。

常夜燈

常夜燈左 常夜燈右

手水舎の左右に一対の常夜燈があります。
右の方が少し風化・剥落していますが、
正面はいずれも「御寶前」。

下写真は、左から、常夜燈左の右側面、
同じく左側面、最後は右燈の左側面。
いずれも「天保八年酉十二月吉日」とあり、
天保8年(1837)12月の造立。
横須賀 岩井重右ヱ門」の横須賀は、
利根町の横須賀地区 だと思います。
岩井姓は 御神楽百人講紀念碑 にもあり、
現早尾天神社担当宮司も岩井さんなので、
もしかすると関係があるかも知れません。

左本体: 高114cm、幅47cm、厚47cm。
右本体: 高113cm、幅47cm、厚46cm。

常夜燈左の右側面 常夜燈左の左側面 常夜燈右の左側面

絵馬掛け

絵馬

拝殿から見て右手、手水舎の正面に
向かい合わせに立っているのが絵馬掛け。
千羽鶴なども取り付けられていますね。
入試はうまくいったのでしょうか?

tanupon の奥さんも娘の高校入試のときに
ここでお願いしたんだとか。
お願いばかりするけど
お礼はあまりしませんね。
いまがチャンスです。
では ⇒

ん・・・やはり
二拝二拍手一拝?

二拝二拍手一拝

四郡大師31番

四郡大師の存在を知らないときは、祠に番号札がついていることなどまったく留意していませんでした。
これらの写真は時期を別にして撮ったものです。四郡大師については 「四郡大師とは」 参照。
祠の中には3体の像が安置されています。いちばん右のお坊さんはずいぶん小さいですね。この差は何なのでしょう?

四郡大師 大師31番
大師像

中の3体のお坊さんは、
それぞれだれになるのかはいまだ不明です。
少なくともひとりは
大師(空海)なのでしょうが。

左本体: 高33cm、幅23cm、厚17cm。
中本体: 高32cm、幅26cm、厚17cm。
右本体: 高12cm、幅12cm、厚8cm。

利根七福神

利根七福神の福禄寿

手水舎のすぐ左隣りには 利根七福神の福禄寿 があります。
七福神詳細は、リンクを参照。

本体: 高99cm、幅40cm、厚32cm。

利根七福神の福禄寿

御歩射と例大祭

例大祭の1週間前

例大祭に初めて訪れたのは2007年の1月でした。
1月25日が菅原道真の縁の日ですから、その前後の日曜日ということで見当をつけて訪ねてみたわけです。
2007年の1月25日は木曜日なので、まずその前の日曜日である21日に行ってみると翌週であることが分かり、
2週続けて28日も行くことになりました。
でも、21日にもちょっとした行事があり思いがけないシーンを撮ることができました。

左は21日、右は28日、例大祭の日。飾りつけがちがいますね。屋根の庇のところもちょっとちがいます。
でも、ふだんは、28日の飾りつけはおろか21日のように扉さえ開けられてはいないのです。

21日の拝殿 28日の拝殿

左の21日の拝殿内では氏子の皆さんと宮司さんで。右は例祭当日。お賽銭だけでお祓いしてくれるのかも?
奉納幕の「第48回全国高校野球選手権大会出場記念」というのが、実に現代らしくていいですね。
ちなみに第48回大会は昭和41年(1966)で、茨城県立竜ヶ崎第一高等学校 が44年ぶり6回目の出場。
奉納が昭和42年とあるのも大会の翌年ですからつじつまがあいますね。

21日の拝殿内 28日のお祓い

お札を買わないとお祓いをしてくれないのかどうか聞き忘れました。えっ、当り前?すいません。
右の例祭当日の「古札納処」にふりがながあったので、初めてこれが「ふるふだおさめどころ」と読むことが分かりました。
別のお寺などにもこれが記されているところがあり、「こさつのうしょ」と読むのかな、なんて思っていました。

菅原道真のお札 古札納処
焚き火をする氏子の人たち

21日に訪れたとき、10数人ほどの壮年男性が焚き火をしたり、
宮司さんもいて祝詞をあげたりしているので、
例大祭なのかなと思いましたが、
案内で翌週ということを知りました。
では、きょうはなに?

大宮大明神で祝詞をあげる神主

左は大宮大明神に参拝する宮司さんと氏子の人たち。
聞いてみると、「菅原道真公の天神社とは別なのですが境内社の大宮大明神もわけへだてなくお参りしているのです」とのこと。

早尾天神社にはどうして大宮大明神があるのか、
その特別な関係と遷宮の経緯を聞きたかったのですが、
tanupon の疑問の趣旨はうまく伝わらなかったようです。

ちょっと質問が高度すぎたかな・・・
いや質問の仕方が言葉足らずのせいでしょう。

御歩射

写真を撮ったりしていると、拝殿脇に置いてあった弓矢と的を取り、境内に的を設えようとしています。

「なんか流鏑馬(やぶさめ)でも始まるのかなあ」と tanupon がつぶやいていると、
氏子の1人のかたが「ああ似ていますが、御歩射(おびしゃ)ですよ」。
上曽根の稲荷大明神のコンテンツで前に紹介したことのある儀式 でした。実際に見たのはこれが初めてです。
以下、御歩射の道具と境内に立てた的、実際の様子です。

御歩射の道具 御歩射の的
氏子たちによる御歩射 氏子たちによる御歩射

御受渡の儀式

御受渡の儀式

一眼レフでバシャバシャ撮っている tanupon を
なにか報道関係の人間と思ったのか、氏子代表のような方から、
「これから‘おうけわたし’の儀式をやるのでよかったら・・・」
ということで、社務所にお邪魔して写真を撮らせてもらいました。

くわしくお尋ねする時間がなかったので、
内容はさっぱりなのですが、
何か神社関連の引継ぎの儀式のようで、
毎年、神様の役割を氏子の人たちで持ち回りにする
というそんな印象を受けました。

御受渡の儀式

儀式のなかで、お酒を立て続けに
何杯も飲まなければならない様子で、
このハイペースは飲める人でも結構、つらそうです。

儀式のお供えには昔なら大きなフナを
生簀に入れて飾ったりしたものだということです。

写真をお送りする予定なので
もしまたお話しできる機会があれば、
この儀式のことなどもう少しくわしいことを
聞いてみたいと思っています。
タイトルの「御受渡」の文字も暫定ですのでご注意。

例大祭

出店も少しながら

さて、28日例大祭の日に再度、訪れました。
昔は、日曜日ということにこだわらず、
厳格に25日に決めていたようです。
また、それにもかかわらず、昔は、こうした出店も、境内を出て、
鳥居の前の通りから坂の下までずらりと並び、
たくさんの人が参詣したというのです。
いまは出店もわずか3店。
なぜか流れている演歌には、
なんともいえない哀愁がありました。

紅梅

昨年は少し寒くて1月中は梅は咲いていませんでしたが、
ことし(2007)は咲いています。
一昨年(2005)は元旦から咲いていました。
早尾天神社の紅梅は
どの地区よりも少し開花が早いように思います。
さすがは梅が縁の天神様ではあります。

(どうも早咲きの梅のようです)

菅公の幟旗

幟旗

tanupon がとても興味を抱いたのは、この幟旗。
さて、何と書いてあるのでしょう?
いちばん上の3文字は菅公之ではないでしょうか。
「菅公」すなわち菅原道真公の、ということですね。
その下がまた達筆で・・・、梅とか桜とか松とか・・・。
要は菅原道真公の梅は松や桜よりも価値がある、
なんていう趣旨なんではないでしょうか。
氏子の方のひとりに聞いてみましたがご存知ないようでした。

→ これについては、「がらん」さん(匿名?)より
メールをいただきました。

菅公之徳、馨於梅、高於松」つまり、「菅公の徳、梅より香り、松より高し」。

なるほど、徳と馨ですかあ。徳を梅、梅を桜と読み間違えていました。「がらん」さん、ありがとうございます。(13/01/19 追記)


手水

例大祭のときだけなのでしょうか。
手水の前が、榊の樹で飾られていました。
ふだんはなかったハズです。
これからもこのままになるのかしら。
後日、また訪れて、どうなっているか確かめてみることにしましょう。

手水

← (確認)
「榊」は祭礼など
特別な日だけの
装飾のようです。

episode

なにの皮?

皮をむかないで!

2011年正月に来てみたら、こんな貼紙があちこちに。

「皮をむかないで!」

皮って、なんの皮?
樹木の皮?面の皮?それとも、化けの皮?

女性3人の初詣客もこれを見て、ヤダ、コレ、ナニ、キモ・・・
笑いながらも、首をかしげていました。

正解は、みかんの皮と思うでしょ?でも、それだったら、
「皮を捨てないで!」じゃあないですか?
ちがうんですよ、きっと。なんだろう????

→ 意外な方より解答をいただきました。蛟蝄神社奥の宮の宮司さんより。
「最近、神社などの樹木の皮をお守りみたいにして剥いでもっていく人が増えている」とか。
なるほど。そういうことでしたか。でも、困ったものですね。樹が可哀想です。(11/01/19 追記)


(15/05/13 再編成) (13/01/27・13/01/19・12/06/10・12/06/03・12/05/31・12/05/16・12/02/15・12/01/28・11/02/25・11/01/19・11/01/07・10/10/26・07/05/19・07/02/06・05/09/11・05/05/01・05/04/29・05/04/16 追記) (05/04/03)
(撮影 15/04/24・15/04/16・15/04/15・15/03/28・13/06/27・13/01/27・12/06/23・12/06/04・12/05/31・12/01/27・11/02/23・11/01/02・・10/12/23・08/02/29・07/05/05・07/01/28・07/01/21・06/09/16・05/09/17・05/04/08・05/04/02・05/01/04・05/01/03)


本コンテンツの石造物データ → 早尾天神社1石造物一覧.xlxs (14KB)