八幡台地区 目次
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布川地区の中央にある小さな区域。それが八幡台地区。旧町名では内宿と呼ばれる地域です。
東端に集会所がありますが、他の地区のそれとちがってとくに石祠群等は見つかりません。
この地区では、唯一、八幡宮という小さな社があるだけです。
でも、八幡宮(八幡神社)は、稲荷神社と同様、日本に数多く存在していますが、
利根町では、鳥居があり境内をもった八幡宮は、
鎌倉街道の入口にある社 とこの八幡台の八幡宮2社だけ。
ほかに石祠だけのものも2基しか見つけていません。
稲荷神社は、利根町では20社近くもあるのに不思議ですね。
八幡台は布川地区、以下のマップ中央上部の地域に相当します。
県道千葉・龍ヶ崎線を
布佐方面から北に向かい、
徳満寺への入口を過ぎ天神宮から
さらに少し北東に進むと、
左手斜めに入る道路があります。
それを曲がってしばらく行くと、
道に沿って左手に柵があり、
その内側になだらかな坂道が
続いています。
坂道の前方に鳥居が見えます。
これが八幡宮です。
坂道は、ミニ参道という感じでしょうか。
2013年再訪問時、鳥居等撮り直しました。平成24年(2012)10月26日内宿講中奉納の幟が2旒立っていました。
鳥居の神額は八幡大菩薩とあります。
しかし、本殿の上部の額は
八幡宮と記されています(写真下左)。
本殿内に安置されている石祠も、
笠の下の柱部分の上部に
「八幡宮」と彫られています。
(下右写真)
このちがいは何でしょう?
というより、八幡宮はいいのですが、鳥居に「八幡大菩薩」とあるのは何か奇妙な感じがします。
「鳥居」が神社の象徴なのに対して、「菩薩」は仏教関連の言葉だからです。すべて神仏習合のなせる業なんですが・・・。
八幡宮の由緒・沿革を『利根町史』等で調べてみましょう。
左は、本殿前上部、文字が消えかかっている「八幡宮」の扁額。
本体: 高30cm、幅70cm。
祭神は、誉田別命(ほむだわけのみこと)。
これは前記 鎌倉街道の入口にある社 と同じです。
誉田別命とはつまり応神天皇のことです。
全国で25,000社を超えると言われる八幡社の共通の祭神です。
したがって八幡神とは応神天皇(誉田別命)のことなのですが、
八幡大菩薩もそうなのでしょうか?天皇が菩薩とは?
実は、八幡大菩薩とは、八幡神に仏教との習合思想が加わって
菩薩号を奉じたもの、ということが分かりました。
ただ明治以降、これら八幡大菩薩という号も
八幡大神(はちまんおおかみ)と改称されるようになったようですが、
利根町の八幡宮のように八幡大菩薩として
残っているところもあるわけですね。
左は本殿内の石祠ですが、けっこう大きくて立派です。
本体: 高76cm、幅76cm、厚60cm。
さて、祭礼が10月17日とありますが、その日に訪ねてみたことがないので
どんな神事が行われているのか分かりません。
由緒沿革としては、以下の高橋牛松氏談が『利根町史』に記載されています。
「天正18年(1590)、豊島氏滅亡のあと、多賀谷氏が布川関所へ派遣した家臣の氏神として創建されたと伝えられている」
本殿扉の上にも八幡宮の扁額がありました。
「昭和十二年十月三日 日支事変記念」とあります。
昭和12年(1937)7月7日、盧溝橋事件から始まった日中戦争。
日本側はほかに支那事変・日華事変と呼んだもの。
いやな時代ですが、武神を祀る八幡宮への祈願は増えたでしょう。
徳満寺25世の俊渓書。
本体: 高40cm、幅126cm。
本殿左にも戦時関連の額。
「祈願 武運長久」
「昭和十五年参月」
昭和15年(1940)「内宿部會」によるもの。
本体: 高31cm、幅70cm。
これは、本殿の左側。額が飾られていますが、昭和48年(1973)10月「八幡宮銅板・屋根葺替記念」と記されています。
ほかに発起人として、大貫千代松・伊藤勝太郎・荻清作・北嶋政吉・五代薫・小倉利雄・川上鼎そして一金壱万円フジタ工業
奉納の文字がレリーフのようになっている手水。
それがうっすらと赤く見えるのも珍しいですね。
利根町の寺社の手水は、水の出ないものが多いですが、
近くに児童公園があるせいか水道蛇口が設置されています。
でも、上向きにねじられていますね。
飲みやすくするために曲げたのでしょうか。
しかし、少子化で、ここで遊ぶ子どもたちは、
もうほとんど見かけません。
あっと、蛇口をひねっても水は出ませんでした。
元栓が閉じられているのかもしれません。
本体: 高72cm、幅98cm、厚57cm。
本殿右には2基の石祠が並んで建てられているのですが、
彫られている文字等は風化が激しくほとんど読めません。
辛うじて、左の石祠の下部に「・・・大神」と読めますが、
これだけではなんとも・・・。
2基とも、本体: 高48cm、幅28cm、厚17cm。
この石祠の由緒が分かりました(「利根町の歴史散歩61」『広報とね』)。
石祠の右側面をよく見ると「植村七兵エ」の文字が見えます。
この植村氏は、捕えられて来見寺下の施設で働いていた人だといいます。
植村氏は大森(現印西町)の人で、姓も名乗れた身分の高い武士だったそうです。
慶応元年(1865)に許されて自由の身になりました。
そのとき、自分は八幡さまのおかげで自由になれた、と
この石祠を1基は本人が、もう一基は親戚のものが寄付したのだそうです。
そうすると、・・・大神とは、「八幡大神」なのでしょうね。
(13/08/05 追記・13/08/02 撮影)
この八幡宮境内は、本殿左横から階段を降りると
八幡台児童公園につながっています。
(公園は、じぶん探訪その5.宇宙の塵、渦中の地理 で写真紹介)
ここには特記すべきものがあまりありません。唯一、土地区画整理事業の記念碑が建てられているだけです。
(15/03/29・15/03/26・13/08/05・11/11/15 追記再構成) (05/11/13) (撮影 15/03/29・15/03/24・13/08/02・05/11/16・05/09/04・05/06/12・04/09/24)
本コンテンツの石造物データ → 八幡台地区石造物一覧.xlsx (11KB)