第2段 狸囃子
わたしが実際に体験した不思議、そのひとつは、狸囃子という現象である。
もともと狸囃子とは、文字通りに狸が腹鼓を打つというのではなく、笛太鼓のお囃子が、夜、どこからともなく、聴こえてくることをいう。音源を追えば遠のいたり、消えてしまったり、近くで太鼓などお囃子の演奏がされていないにも関わらず、ポンポコ・・・といった音が現実に聞こえてくるというものである。
音ばかりで、実際に狸を見たものはもちろんいないのだが、江戸は本所(ほんじょ)七不思議のひとつとしても、狸囃子は昔から有名な怪奇現象であったという。別名「馬鹿囃子」ともいう。
わたしが初めてそれを聞いたのは、茨城県の現在の自宅を買って住み始めたころだった。いまから20年以上も前で正確なことは覚えていないが、季節は、多分、夏の終りころだったと思う。現在も主に晩夏から秋にかけて聞こえることが多いように思う。
夏の終りだから最初は本当に近隣の夏祭り、盆踊りなどの太鼓の音が聞こえてくるものだと思っていたわけである。
家のなかのどこでそれを聞くのかというと、1階のトイレ(わたしの家は2階建てで2階にもトイレがある)に入っているときである。
ちなみに、わたしには家族として妻と娘が各1人ずついる(妻の1人とは当然だろう)が、そのだれもがそれを聞いている。わたしだけの幻覚ではない。だが、わたしはこの町の人とはほとんど付き合いがないので、近隣のだれともこの話をしたことがないから、ひょっとすると、わが家だけの怪奇現象なのかも知れない(そうは思っていないが)。
さて、最初は当然ながらだれもが別になにも不思議に思わなかったわけである。ただの祭囃子だと思っていたわけだから。
みんながあれっ?と思い始めたのは、深夜2時を過ぎてもなおもそれが聞こえてきたときからである。(わたしと娘は夜型人間で、睡眠不足に弱いAB型の妻は父娘の夜更かしにつきあっていつもグチをこぼしている)
いくらなんでもこんな遅くまで祭りがつづいているわけがない!
そう思ってついだれということもなく家族でそのことを話したわけである。
そうすると、奇妙なことにみんなが同じころ、同じように、ヘンだなと感じ始めていた。
というより、家族のほかのだれかにそのことをそろそろ話してみようか、という気になったのもなぜか同じころだったように思う。
それは娘が中学から高校生になったころだったようだが、ここに住み始めた当初、娘は2歳で、それならばその2歳から中高生までの何年間の期間に、わたしと妻がそのことを2人だけで話し合っていたとしても不思議はないのだが、なぜか3人同時に、この話題を持ち出したように思う。
このこと自体も少し不思議なことなので、ちょっと脱線するが、テーマが「不思議」である以上、先にこれを分析してみる。
1・・・時間差の謎
狸囃子は娘が小さかったころのその何年間、絶え間なく聞こえていた(・・・とはいっても毎日毎日聞こえるものではもちろんなく、ある年に一度も聞こえないことはない、という程度なのであるが・・・)のに、なぜその当初から話題にならなかったのか、ということである。
- 理由その1
その当時は妻とはこうした不思議なことについて話をする土壌が(おもに妻側の趣味的に)まだなかった - 理由その2
高学年もしくは年頃の娘という存在があって初めてそうしたことを話せる雰囲気になった - 理由その3
不思議と思いつつ、それが恐怖とか害をあたえるものでなかったからそのままにしておいた
こんな理由が考えられるが、わたしのほうから話題提供しなかった理由としては、もしかすると、
狸囃子の科学的な根拠を当時はまだ知らなかったから
というのが正解かも知れない。
「不思議だねえ、みんなも聞いてる?」というような話題の投げかけだけでは少々家父長(古いね)としては威厳が足りないと思ったのか・・・。
不思議大好きなわたしとしては、実はこれはこういうことなんだとちゃんと「解明」を用意してから話題提供したかったのかも知れない。
だが、以上のことは、わたしの想像だけできちんとした「時間差の解明」にはならない。妻や娘に聞いてみれば真実がわかるかも知れない。
ここでさらにまた余談・脱線になるが・・・。
この話題が初めて提供された、正確に言えば家族間で初めて話題になった時も、それの正確な時間、ほんとうに娘が大きくなってからなのかどうかということや、加えてその最初の話題提供者が実はわたしであったのかどうかすらも疑わしくなってくる。
こうした時間的記憶(記憶というものはすべて時間的なものではあるが)の不可思議なことについて・・・。
2・・・男の記憶のいい加減さ
記憶、とくに男のそれがいかに曖昧なものであるかということをわたしは知っている。そして、そのことを指摘するのはいつもなぜか身近な女性であることも。
例えば、テレビなどのトーク番組、対談・インタビューなどがあって、どこそこの教授が昔の体験談などを話すとする。そのエピソードに彼の奥さんがからんでいるなら、きっと帰宅してから、その日の教授の記憶違いをただすにちがいない。
「あなた、あれはちがうでしょ!先に・・・したのはあなたのほうでしょ」というぐあいに。
だから、今回の件も何のことはない。妻がこの話を聞くと、
「狸囃子のことは、娘が小さいときからいつもあなたが話していたことじゃない!」
と指摘するかも知れない。
もしかすると、この話題の最初の提供者はわたし自身だと思っているにもかかわらず、
「でもいちばん最初に不思議ねえといったのはわたしのほうよ」
とまで妻、いや同じ女である娘のほうが言い出すかもしれない。
そんなとき男たちは、きまって
「そんなことない、オレが言い出したんだ!」
と顔を真っ赤にして反論するが、女性側が提供する豊富な状況証拠の前に結局は屈してしまい、
「そうだったかなあ」
と、半分、自分の記憶力に自信をなくすのだ。
しかしながら、妻や娘の記憶のほうが圧倒的に正しいとしても、そのことがすなわち狸囃子の不思議さを損なうものではない。その現象は妻も娘も認知していることであって、わたしの時間的な記憶違いそのものは、別次元のつまらないことだからだ。
脱線してしまったが、脱線ついでに、もうひとつ(まだ、あるの?)。
3・・・時空と不思議
記憶というものは時間という範疇に大きく含まれている事象である。わたしたちが不思議を感ずるとき、それは必ず時空に関することではないか、と私は思っている。
例えば、こういう風に言ってみよう。
あるはずのないところ(とき)に、それがある(起こる)とき。
また、その逆もある。
ある(起こる)べきところ(とき)に、それがないとき。
そんなときに人は、ある感情を抱く。
そのなかで、好ましくない感情が、戦慄、恐怖というもの。
なんとなく好きな感覚が、不思議、ということではないだろうか。
ちなみに、幽霊や人魂、デジャ・ヴなどすべてこれのどちらかにあてはまる。思春期のデジャ・ヴなど、だれも恐怖などは感じない、むしろ何か懐かしい、いい意味で心が騒ぐような感じがしないだろうか。
それらはすべて、時間と空間、つまり時空に関しての違和感から派生するものだ。
この時空という概念については、それ自体がなかなか興味深くまた不思議な概念であるので、また別項目で言及することもあるだろう。
・・・しかし、こう書いてきて・・・ある人は言うだろう。
「すべては時空に関係する」とは当たり前ではないかと。
それもそうだ。時空とはこの世の事象をすべて包括している言葉だろうからである。
わたしの発見も、なんのことはない。
当然のことだったのかもしれない。
「時空に関しての違和感」では当たり前なので、時に関する違和感か、単に違和感とでもしておこうか・・・。
さて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
さて、そろそろ、本題に入らなければならない。狸囃子の科学的解明を、である。
狸囃子の科学的解明
この不可思議な現象を調べるには、とにかくいろいろな資料を見つけて、読んでみる必要がある。
そうなのだが、ここしばらく調べ物をしていて、実は、狸囃子の具体的な解明文献がまったく見当たらないのである。
素晴らしいインターネットも、「七不思議にあります」とか「不思議ですねえ」という感想ばかりで、皆さん実際に体験もされていないようで、そのせいか科学的説明が記されているのが皆無なのである(少なくともわたしが検索した範囲においてであるが・・・)。
英語サイトにはあるのかも知れないが、とてもそれはわたしの語学力では調べるのは不可能だ。(だいたい外国にタヌキはいるのか?英語で狸、狸囃子はなんというのか?)
いまはすっかり無用の長物(といっては失礼かもしれないが)になってしまった百科事典を見てみたが、ムダであった。
それでは、もともと、その解明が記されたものをわたしはどこで知り得たのであろうか?
実は、いまから5〜10年前(とこれもいい加減な記憶)、たしか読売新聞の日曜版か夕刊で見た(筈な)のである。
記憶をたどってみると、そこにはこんなふうな説明がされていたように思う。
狸囃子とは、昼間の雑踏等の音が一旦、雲(など)に吸収されて、夜、静かになって、少し離れたところにまで反射して響いて聞こえてくる現象
なのだと。
この時間差というのもホントかな、と思うが、そのときはなるほどという感がしたことは記憶にある。
しかし、この程度の説明ではあまり読者の皆さんへも説得力がない。
実際はもっと鮮明な解釈がされていたような気がするがどうも覚えていない。新聞に載り、科学者らしい作者の文章だったようだからそのとき信じる気になったのだと思う。要するに、人をばかす狸のせいではないことは確かのようだ。
不思議といえば、この狸囃子のことをわたしのまわりの人はあまり知らないことだ。
友人や知人に話しても、何それ?とそっけなく、ほとんど認知さえされていない。
こんなに知名度が低い現象なのだろうか?
これもたいへん「不可解」なことである。
ともかく、いちどそれを聞いたらほんとうに不思議な気分になる。また、とても懐かしく、いい気分になる。
たとえれば・・・夏の終わり、宴のあとの余韻、そんなイメージ。
皆さんに聴かせてあげたいが、いつその現象がおきるかわからないし、聴こえる場所はわが家のトイレである。ご招待するわけにもいかない。
だれか、もっと正確に現象を説明してくれる方がいるとありがたいのだが・・・。
→ 仕方ないなあ、教えてやるか(よろしくお願いします)
(04/09/18)

追記:狸囃子については、「狸囃子について」のコンテンツにて別途、解説しています。(04/10/12)