タヌポンの利根ぽんぽ行 利根川百景

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じぶん探訪その2 でも紹介しましたが、利根川と小貝川の合流地点は割と気に入っています。

このページではとにかく利根川の景色をゆっくりとお楽しみください。

↓以下5タイプのスライドショーをどうぞ。利根川遊歩道は YuTube となります。
また、メインサイト わびさび写真館 利根川編 もどうぞ。

利根川に架かる橋、布川と布佐をつなぐ栄橋架橋の経緯についても、追記しました(13/05/02)。


利根川変化

利根川と小貝川の合流地点を時期を変えて撮ってみました。
04年秋から冬にかけての景色です。

利根川夕日

  • 利根川夕日
  • 利根川夕日
  • 利根川夕日
  • 利根川夕日
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  • 利根川夕日
  • 利根川夕日
  • 利根川夕日
  • 利根川夕日

朝日(初日)もいいけど夕日もきれいです。

利根川 from 栄橋

栄橋から眺める景色もバツグンです。
栄橋とは千葉龍ケ崎線上、
千葉と茨城の県境の利根川に架かる橋です。

利根川遊歩道

遊歩道前半


利根川遊歩道

タヌポンの散歩道。
タウンの階段を上がって遊歩道に出てすぐ右へ曲がります。
そこから利根川に沿って上流、戸田井橋方面に進みます。

途中の工事中はスーパー堤防をつくっているようです。
集落の移転等もあり、かなり長期にわたって工事しています。
2010年正月現在も継続中です。

また、工事中の手前の遊歩道には桜が182本植樹され、
今後の成長が期待されています。
(10/01/24追記)


戸田井橋までは約3km。
2/3の距離までくると観測施設があり
その直後に川は左手に利根川本流、
右手に小貝川と分かれていきます。

今回紹介する画像はその小貝川に分かれる前まで。
その辺りが景色がいいところです。

写真写りのよさは景色だけでなく、
高圧線があるかどうかなども影響します。
電線などがあるとどうもいまいちの写真になってしまいますね。

この先、戸田井橋まで行って、
橋を渡り川を戻るように沿って歩く道も気に入っています。
取手松陽高校の裏手から路も再び北西にずっと続いており、
タヌポンの調子のいい時のウォーキングコースにしています。

これは 小貝川 の項目でいつか紹介しましょう。

戸田井橋を渡らずに右手の方面に行くと、
諏訪神社 などへ行く細道もあり、
これもなかなか楽しい散歩路です。

遊歩道後半

やっと後半の遊歩道の写真を撮ってきましたので紹介します。なんと2005年の大晦日に撮りました。


(06/01/06追記) (05/12/31撮影)


(05/02/04追記) (05/02/03)
(撮影04/09/24・04/10/02・23・24・25・04/12/25・05/01/01)

利根川遊歩道の桜づつみ

桜づつみの開花

2005年の春先、
利根川遊歩道の脇(東側)に
町民有志による基金により、
約200本の桜の植樹がなされました。
それから4年、2009年には、
こぶりながらも
桜が開花しているのを確認。
これからがますます楽しみになりました。

桜づつみの開花

フレッシュタウン脇の遊歩道上り口近辺から北に向かって
小貝川との分岐点あたりまで植樹されていますが、
タヌポンが散歩していたとき、試しに本数を数えてみると
確か183本だったと記憶しています。
でも、いつのまにか立てられていた
植樹の内容を記した立て札には182本となっています。
(左写真クリック拡大参照)
やっぱり数えまちがいしていましたかね?おかしいな。

桜づつみの開花 桜づつみの開花

鳥かごを設置した木(上写真右)もあります。もっともっと大きく育ってほしいですね。

共に栄える栄橋

関東一の大吊橋 旧栄橋

旧栄橋

昭和の初期、利根町に
一大エポックとなる事業が行われました。
それが、昭和5年(1930)3月21日に
開通した「栄橋」の架橋。
「関東一の大吊橋」と評され
一世を風靡しました。

開通当時の経緯は、利根町史第7巻に
精しく述べられていますが、
その史料ともなった「豊島浅吉ノート」で
概要を知ることができます。

豊島浅吉氏は元利根町史編纂委員、
tanupon が懇意にさせていただいている
豊島ホームページ の作者豊島昌三氏の
お父上にあたる人です。
今回、豊島昌三氏より、達筆で記された
ノートの当該ページをご提供いただき、
以下、ご紹介させていただきました。

また上の吊橋写真も同様にお借りしましたが、これは開通当時ではなく、昭和40年(1965)頃のものだそうです。
さらに、後半の(現)栄橋開通時のパレード等のスナップ写真もご提供いただきました。この場を借りて重ねてお礼申し上げます。

豊島浅吉ノート

豊島浅吉ノート 豊島浅吉ノート

栄橋架橋

 利根町の布川が布川千軒と称せられ、かなり殷賑して地方文化中心の観を呈して居たのはいつの頃からであろうか。

新利根川開鑿の効果が豫期に反した爲に再び旧川を開通した以後の事と推察されるのであるが時代については、はっきり立証できる記録が發見されなくては、文化文政以前からとは言ひ得ないようである。

 併し江戸市街の急激な勃興につれ利根川の舟運の便がますます活用されるに伴ひ船着場としての好條件に恵まれた布川が年一年繁栄して来たことは事実のように想察されるのであるが果たして千戸あったかどうかは確証がない。

 利根川圖志には百余年前当時の鎮守祭禮や地藏市の光景が美しく書かれてあり、文化文政の頃杉野東山が揮毫した大幟(1)が今も数十旒現存(2)して居るのを見ると、寛永、元禄の頃のことはわからないが、文化文政頃の繁栄はかなりのものであったように思はれる。

 然るに布川はそれから次第に衰運を辿った。その原因は、屡々襲った水害や天保の飢饉。これらの天災に虐げられて萎縮し、自己本位になって仕舞った民生にもあるようであるが指導層の人達が先見の明なく自分の貨殖の事に齷齪して、郷土の隆昌に挺身する者が少なかった爲めでは無かろうか。

 故郷を離れ他郷で成功した人が案外生れ故郷に冷淡なのも一面から見るとそんな所に理由が潜在して居るのではあるまいか。

 明治に入って西歐文化が急速に都鄙を風靡し始めたとき、布川は常磐線鉄橋架設の候補地として選ばれたのだが、その時の有力者が猛烈に反対した爲に鉄道が取手を通ることになり、布川が時勢の波に乗りそこねて仕舞ったのも町勢不振の一大原因になったのだという話もある。

 その後、町長その人を得ず町政紊乱して上司から事務管掌をされたり、完納同盟と称する滞納連盟などが出来て、町の運営が阻害されたりして町勢は沈滞の一途を辿ったのである。

 かゝる状勢の間にあって三共商会を組織し紀念館を設立して現状打開に腐心して居た香取文次郎、佐原浪之助、金子利平等三人(3)のグループに布川出身である布佐の呉服店主中臺吉藏が参加談合し利根川に架橋して両県交通の便を開く方針を立て、有志に力説して利根架橋期成同盟會を結成して両町の当時者を動かし小川理学士(4)の協力を求め、金融業から二十萬円(5)の資金を借り入れ昭和初頭に着工して昭和五年春、モダンな吊橋が出来あがって芽出たく開橋の式典を擧げることになったのである。

 その時の町長には小池銀次郎が就任して居た。式典の盛大を計って、當時有名だった本県の民謡作家野口雨情に大利根小唄の作詞を依嘱し、記念品として関係者に贈るために画壇の重鎮牛久の小川芋銭画伯に河童の絵の揮毫を懇請した。

 画伯の芋銭の号は恐らく苦学当時の体験を表現したものではなかろうか。聞く所によれば小池町長が執筆を依頼したとき画伯は「橋を渡る人からは橋銭(6)を取るとのことだが無銭者の渡橋は拒むのか」と問ふたので町長は「無銭者の渡橋を拒否するようなことは絶対致しません」と答えたのでそれならよろしいと快く揮毫して呉れたとの事である。

 開橋祝賀の當日は両県の首脳が列席し両町長を始め関係者多数が参列して祝典を擧行し花火の連發、大利根小唄の踊などで誠に盛大であった。

 何しろ関宿以東蜿蜒四十里の利根川、常磐線の鉄橋以外に一橋もなかった時代に初めて架った近代的の釣橋であったので、遠近からの見物客雲の如く二日間空前の賑ひだったので両町の飲食店が全部賣り切ったといふことである。

(以下、大利根小唄の歌詞が紹介されていますが、それらは後述します)

tanupon 補注

(1) 地蔵市(現在地蔵祭り)時に、徳満寺山門下に立てられる「延命地蔵大菩薩」の幟でしょうか。杉野東山の揮毫?
(2) 数十旒(りゅう)。いまもそんなに数多く現存しているのでしょうか。
(3) 香取文次郎、佐原浪之助、金子利平のほかに町史では和田野新吉の名もあります。
(4) 小川理学士とは小川東吾。旧布川町の名家。万延元年(1860)生、昭和8年(1933)没。茨城県初の工学博士。柳田國男が明治22年(1889)13歳の多感な時期を小川家で過ごしたのが有名。来見寺に墓があります。
(5) 二十萬円の資金は、正確には、総工費16万6000円で最終的には18万3695円に予算が膨れました。
(6) 旧栄橋は、賃取橋で、渡るには橋銭が必要でした。ちなみに、大人1人は3銭、小人は2銭。自転車・自動車・牛・馬・馬車・荷車等細かく決められていました。いちばん高額なのは自動車の荷積貨物車(運転手込)で50銭。昭和初期の貨幣価値は以下参考まで。昭和元年(1926)の価格。米10kg 3円20銭、コーヒー1杯 10銭、ガソリン1ℓ 18銭、映画館入場料 30銭。

開通記念の歌

栄橋開通時の布川町長小池銀次郎は、当時の話題の詩人野口雨情に、開通記念の歌の依頼をしました。
突然のことで、そのときの経緯を野口雨情は、「小川芋銭先生と私」(『ちまき』昭和12年6月号)のなかで次のように述べています。

布川と布佐の間を流れる大利根に橋がかかった。布川の町は小池赫山(小池銀次郎のペンネーム)と云ふひとであるが、突然私の宅にやって来て/「利根川に橋がかかりましたから、その唄を書いて下さい。布川町の唄も作って下さい。芋銭先生をよく知って居るから、寄付をしてくれた人への記念のため扇子へ絵を描いて貰って配るのです。先生の唄の扇子と共に一対にして配りたいのです」/とのことであった。

以下が歌詞ですが、2題目の 布川も布佐も共に栄える というのが「栄橋」命名の由来ということのようです。

野口雨情 作詞
藤井清水 作曲


春の三月 大利根川に
橋がかかった さあわたれ
開橋 開橋だ 栄橋開橋だ

鉄の釣り橋 布川も布佐も
共に栄える
 さあわたれ
開橋 開橋だ 栄橋開橋だ

御代も輝く 昭和の春に
共に輝く さあわたれ
開橋 開橋だ 栄橋開橋だ



野口雨情は著名ですが、藤井清水は tanupon は知りませんでした。ということで、以下略歴を紹介します。

藤井 清水(ふじい きよみ、1889年2月17日−1944年3月25日)は、日本の作曲家。童謡作曲家、民謡研究家。広島県安芸郡焼山村(現・呉市)出身。生涯に約1900曲も作曲、編曲しながら、あまり世に知られることのなかった人である。のちに、『日本民謡大観』のもととなる民謡の採譜をたくさん行い、民謡の楽譜化に力を尽くして、日本民謡の音楽的研究の推進に多大な貢献をした。(Wikipedia より抜粋)

大利根小唄

上記の歌のほかに、同じ作詞家と作曲家による話題作「大利根小唄」がつくられました。豊島浅吉ノートではこれが記されていました。
当時民謡歌手で売れっ子だった梅若(後の小梅)が唄い、ビクター蓄音機会社がレコードに吹き込んでいます。
昭和5年(1930)7月には、ラジオJOAKの番組でも放送され、町民は当時普及の「鉱石ラジオ」で聞いて楽しんだといいます。
それは、地元芸者の出演する番組「地方里謡と新小唄」で、唄が布川の「よねやてる子」と「なかやみつ子」、
三味線は布佐の「いせやかめ子」と「藤間喜代子」、太鼓が「文次郎」でした。
ところで、小梅って、芸者歌手の赤坂小梅のことですよね?1906年生まれだから当時は21歳かあ・・・。

大利根小唄

左は、大利根小唄の歌詞が記された手拭。
仕上がりは左写真の縦半分のサイズ(縦16.8cm横11.2cm)で
古文書のように綴じて、表紙込みで10ページ、1枚ずつめくると
見開きで2題ずつ歌詞が紹介されるようになっています。
歌詞2題は色違いで分かりやすく印刷されています。

栄橋開通を記念して、布川地元の酒屋である「伊勢五商店」が、
「栄橋」というブランド名の記念酒を新発売した販売促進ツールです。
ただし、現在の下柳地区にあったという伊勢五商店は見当たりません。
銘酒「栄橋」も呑んでみたいですが、近所の酒屋さんでも聞きませんね。

なお「二上り」(にあがり)とは、三味線の調弦法のひとつで、
第2弦を長2度高くし、はでで陽気な気分を表現するもの。

(手拭は、二見達夫氏よりお借りして撮影)

大利根小唄1.2

1.大利根の 水は流れるつばめの鳥よ
  布佐と布川が  ソラ近くなるヨウ
   ちょいと見えます釣橋がアラドッコイサ
   あれは大利根 ソラ栄橋ヨウ


2.大利根の 上り下りに白帆をあげて
  唄で川船  ソラ寝てて行くヨウ
   ちょいと見えます釣橋がアラドッコイサ
   あれは大利根 ソラ栄橋ヨウ

大利根小唄3.4

3.大利根の 銚子川口二十里のぼりゃ
  橋があります  ソラ釣橋がヨウ
   ちょいと見えます釣橋がアラドッコイサ
   あれは大利根 ソラ栄橋ヨウ


4.大利根の 土手の上まで出は出てみたが
  来るは見知らぬ  ソラ人ばかりヨウ
   ちょいと見えます釣橋がアラドッコイサ
   あれは大利根 ソラ栄橋ヨウ

大利根小唄5.6

5.大利根の 布佐の布川か布川の布佐か
  布佐と布川は  ソラ川一重ヨウ
   ちょいと見えます釣橋がアラドッコイサ
   あれは大利根 ソラ栄橋ヨウ


6.大利根の 布川金比羅様ではないか
  只じゃ素通りゃ  ソラさせやせぬヨウ
   ちょいと見えます釣橋がアラドッコイサ
   あれは大利根 ソラ栄橋ヨウ

大利根小唄7.8

7.大利根の 布佐の大師へ両手を合わせ
  かけた願いじゃ  ソラ無にゃせまいヨウ
   ちょいと見えます釣橋がアラドッコイサ
   あれは大利根 ソラ栄橋ヨウ


8.大利根の 川の眺めを絵に書いたなら
  紙の百帖じゃ  ソラ尚足らぬヨウ
   ちょいと見えます釣橋がアラドッコイサ
   あれは大利根 ソラ栄橋ヨウ


「布佐の大師」とは、どれを指しているのでしょうか?

小川芋銭の龍図

小川芋銭の龍図

左は、栄橋開通時に配られた扇子の原画。
平成14年(2002)に開催された
「小川芋銭展」にて紹介されました。

(ほか以下の資料等も二見達夫氏より提供)

小川芋銭の龍図解説

小川芋銭といえば河童、が有名で、
「豊島浅吉ノート」にも河童図が想定されていますが、
実際の扇子は、虹蜺(こうげい)を思わせる龍の図柄。

雌雄の龍が虹を吐き、布川と布佐の架け橋となる、
そんな意味が込められているとか。

「无(=無)描所」は芋銭の落款。無の境地に
真の芸術、書の心が存在するという意味でしょうか。
白文は陰刻、長方印は長方形の印のこと。

「いはらき」の記事

「いはらき」は、1891年創刊。当初の題字。後1942年に、県内の各地方紙を経営統合し「茨城新聞」と題号を変更。

「いはらき」の記事 「いはらき」の記事

芋銭後日談

芋銭書簡拾遺の1ページ

左は、宮崎稔氏編集『芋銭書簡拾遺』の1項目。
栄橋開通の同年(昭和5年)8月29日付の、芋銭から宮崎氏への手紙。

このときすでに、上流の取手・我孫子間を結ぶ「大利根橋」の架橋が、
着々と進んでいました。
大利根橋の架橋は、栄橋のそれとは規模が大きく異なり、
長さも3倍強、総工費も143万円と7倍以上。
栄橋が県道に架かる橋に対して大利根橋は国道が対象。
せっかくの架橋の浮かれ気分もわずか半年で萎んで・・・。

それはともかく、この大利根橋の架橋についても、
なにか作曲などされた様子ですが、
芋銭の手紙にある「大利根橋小唄」は、果たして作曲されたのでしょうか。
また、芋銭も記念の揮毫をしたのでしょうか。

(13/05/08 追記:資料提供 二見達夫氏)

栄橋

新旧栄橋

上記の旧栄橋が老朽化し、
現在の栄橋が造られ開通したのは
昭和46年(1971)10月21日のこと。

この日も、盛大な式典が催されましたが、
tanupon は当時は学生で
東京西荻窪に住んでいたので
まったくこの件は知りません。

左の写真は、その開通当日のもので、
奥に見えるのが新しい栄橋、
手前が吊橋の旧栄橋。
この2橋が同時に写っている写真は
とても貴重です。
以下の写真等も含めてすべて
豊島昌三氏より提供していただきました。

式典開始と建設大臣・知事・市長等々。

栄橋開通 栄橋開通

パレード。下右は自衛隊松戸女子鼓笛隊。

栄橋開通 栄橋開通

陸上自衛隊第1師団音楽隊。右は子供神輿なども。

栄橋開通 栄橋開通

そして、平成の現代、栄橋は相当前からの大渋滞で苦吟しています。第2栄橋の建設が期待され、それがいつしか、
若草大橋の架橋に姿を変えて、渋滞問題がまるで解決したかのような・・・。しかし、現実は・・・。その件は、若草大橋 で。

(以上、共に栄える栄橋は 13/05/02 編集)


(18/01/05・13/05/08・13/05/02 追記) (12/08/09 目次等修正) (10/12/08) (09/04/06撮影)