目 次
小貝川のコンテンツは、わずかな写真の紹介だけの貧弱なものでしたが、全コンテンツ文法チェック完了の機会に、このたび大幅に加筆し、再構成しました。
もともとは小貝川と相野谷川と題していましたが、相野谷川は主に取手市管轄の川ですので削除し、代わりに利根町に近い豊田堰の要素を加えました。
また、戸田井橋に近いポイントもあわせて紹介しています。
TOPのバナー的な写真サイズも若干の変更をし、今後、全コンテンツこれに修正していく予定です。
(10/01/26現在)
小貝川および豊田堰はこの地図の左上に位置しています。豊田堰は利根町ではなく龍ケ崎市と取手市管轄です。
小貝川は、利根川水系利根川の支流で、全長111.8km。関東平野を北から南へと流れる一級河川です。
昔から洪水をおこす「暴れ川」として知られています。
とくに、1986年の台風10号による豪雨では堤防が決壊して大きな被害をだしました。
20年以上も前のことで記憶もあいまいですが、タヌポンはすでに利根町にいたわけなのですが、被害にはあいませんでした。
利根町に来る直前の1981年の洪水では、いま住んでいる地域までちょろちょろと水が流れてきたそうですが、
床下浸水とまではいかない程度だったようです。かなり上流の箇所が決壊したのだったかも知れません。
でも、この1981年の水害のときに少し小貝川の(あまりよくない)知名度があがったような気がします。
とはいうものの、かつての暴れ川小貝川も、現在は護岸工事やいろいろな対策で水害もほとんどなくなりました。
小貝川の名前は、古くは小飼川、蚕養川と表記されている場合があります。
小飼川はちょっとわかりませんが、蚕養川というのは、この地方が養蚕が盛んだったからという理由でしょうか。
現在は小貝川は、流域に貝塚が発見されることから「小貝がたくさん採れる川」ということで変化したと推測されています。
小貝川の下流は、昔、文巻川と呼ばれたそうです。
「水茎の書き流せども流れぬは文巻川といえばなるべし」という歌が語り伝えられていますが、
それはまさしく、小貝川が暴れ川であったことを示すもの。別名、逆川(さかさがわ)とも呼ばれました。
逆川とは文字通り、上流にあった鬼怒川が増水すると川が逆流すること。どういうことかというと・・・
このことを説明するには、利根川の東遷事業、鬼怒川と利根川の変遷の話からしないと理解できません。
なにしろ小貝川ひとつだけで、関東の3大堰と呼ばれる福岡堰、岡堰、そして後述の豊田堰が造られていることが特筆されます。
このあたりは、少しアカデミックな話になるので、よく調べないと書けません。宿題です。
小貝川の南端がこの合流地点。利根町の押付新田付近です。
ここの景色がタヌポンは大好きで、とくに夕日などのカットをもう数え切れないほど撮っています。
えっ?それならもっといい写真がないかって?・・・これ以上は自力じゃムリです(笑)
下の左に写っている白い建物が取手松陽高校の校舎。右の写真は、戸田井橋から小貝川の下流を眺めたカット。
ちなみに、橋から上流を眺めると豊田堰が見えます(後ほど紹介)。
利根川と小貝川の合流地点から遊歩道を戸田井橋方面に進むと、
空が晴れて澄み切っているときは、前方に筑波山が見えてきます。
戸田井橋は、利根町と取手市の境を流れる小貝川に架かる橋。
この橋の上に立って下の小貝川を見たのが左下の写真。
川岸にはいつ見ても釣り舟が何艘か、もやっています。
右下は、橋をわたらずに遊歩道から道路を横断直進、
橋の地点から少し越えたところで撮ったもの。
いずれも桜の開花直前の頃の同日のカットなので、
筑波山がきれいに見えています。
戸田井橋を渡り、道路を道なりに取手駅方面には向かわずに、
すぐ左手の小貝川の土手に入ることができます。
ここから松陽高校の裏手を経由して、
小貝川合流地点付近、そしてさらに利根川上流に沿って
ずっと遊歩道が整備されているのです。
左の写真が松陽高校前を通り過ぎてしばらく行ったところから
戸田井橋方面を振り返ってみたところ。
遠くに豊田堰(北浦川水門かな?)が見えます。
いつも向こう側からの眺めですが、
こちら側から見るのもなかなか趣きがありますね。
ただこの遊歩道は、このあと少し行くと合流地点の川岸まで行かずに右折しています。必ずしも小貝川や利根川を真横に見える位置で、というわけではなく、一部は川から少し距離を置いたコースになっています。
川が見えないのは河畔林がずっと続いているせいでもあり、とても静かです。平日などはほとんどだれもいなかったりします。
川の反対側には、東京芸大の校舎などが見えたりします。また、その方面へ向かういくつかの小道、なかには獣道のようなのもあり、ちょっとした探検気分も味わえます。
かなりの長い距離が整備されていますので、いいジョギング&サイクリングコースとなっています。
tanupon の散歩コースでもありますが、家から戸田井橋まではちょうど30分かかりますので、ここからさらに30分進むと、往復となりますからつごう2時間コースとなってしまいます。体調と天候、季節のいいときにそこまで足を伸ばすことにしています。
さて、戸田井橋から東に100m程度行ったところが陸橋になっていて、それには琴平橋という名がつけられています。
利根町の琴平神社から少し離れていますし、近くには諏訪神社がありますから、諏訪橋とでもつけたほうが妥当のような気もします。
琴平橋と命名した以上は、少し離れてはいても同じ利根町の琴平神社との関連でしょうから、やはり、ここは「ことひらばし」ではなく、「こんぴらばし」と呼ぶのでしょうね。
前置きが長くなりましたが、この琴平橋陸橋の上にたって、豊田堰方面を眺めると、いい景色なんですが、下のほうにもうひとつ橋のようなものが見えるのです。
しかし、その橋の両端は雑木に覆われていてどの道へと続いているのか分かりません。
これも偶然、この前の道路を歩いているときに見つけました。この陸橋の上を歩くのはタヌポンのコースに入っていなかったので、長らく気がつかなかったのです。
いったいこの橋へは、どこから行けばたどり着くのでしょうか。
最初にこの橋を見つけたときは、実は即座に探そうとしたのです。
向かって左は土手のほうですが、そこは見通しもよく、いままでよく通ってきたところでそんなわき道があったようには思えません。
そこで、向かって右手の方向、つまり陸橋から少し東に進んで、裏通りに回りこめないかと道を探してみたのです。
ところがかなり回り道などして調べてみましたが、どうしても見つかりません。
時間切れでその日はあきらめざるを生ませんでした。
それから約1ヵ月後、再度、探索のチャンスが訪れました。
以下は、実は、その橋にたどり着いた後に、その橋の上に立って東の方向を向いたものです。
左の写真は鬱蒼と茂った雑草で先が見えません。これを掻き分けて進むと右の写真のようになります。
その右手に見える道路は、こちらから見て初めて、陸橋から少し東に入った道路であることが分かります。
しかし、この前の道はほとんど消えているわけで、逆向きに見てもその先に橋があるとは到底思えません。
1ヵ月前のときに、このあたりにも近づいたと思いますが、まったく気がつきませんでした。
それにしても雑草の伸びがすごいです。
では、どこからこの橋にたどり着いたかというと、やはり向かって左の土手側からでした。
しかし、最初から、ずるずると小山を滑り降りるようにして降りて、やはり雑草を掻き分けた先に、それが見つかったのです。
左がそうですが、ここに写っている橋のたもとを調べているときに、毒虫に右手親指の上を刺され、みるみる腫れて痛くなってきたので、探索をいったんそこで中断し、近くの薬屋さんまで薬を買いに行ったというハプニングすらありました。
ようやく橋にたどり着きました。しかし、見つけて少し満足したと同時に新たな疑問も出てきます。
どうしてこんな橋がここにあるのだろう?左右が行き止まりなのに。
そこで、あることを思いつきました。
橋にはその多くはたもと部分に橋の名前などが記されています。
それを調べてみようと思ったわけです。
しかし、橋のたもとの四隅はいずれも雑草が
背丈以上もみっしりと生えています。
それをなんとか掻き分けてまず1ヵ所を調べてみましたがハズレ。
なにも記されていません。
そして、2番目に、東南の隅を調べてみました。
雑草を掻き分けるだけでなく、引き抜いたりもしなければなりません。
そして、ようやく、左写真のような感じまでこぎつけました。見てみると・・・
琴平橋と記されています。
ただ、そのときは、実はまだその上の陸橋の名が同じ琴平橋だとは知らなかったのです。
後で調べてなるほど、と思いました。
おそらくこれは上の道路ができる前の旧道だったのでしょうね。これが元祖琴平橋だったのでしょう。
こんどは、琴平橋陸橋からではなく、
発見した元祖琴平橋の上から、
豊田堰方面を眺めてみました。
すると、眼下に見える用水が、
真ん中の仕切りによって
2つに別れているのがはっきりと見えます。
この左のほうが豊田南用水、
右のほうが新利根川に
なっていくのですね。
こうして並んで流れているのが
はっきりと見えるのは
ここが初めてです。
新しい発見でした。
戸田井橋地点からさらに小貝川をさかのぼると・・・。前方に、水色のさわやかなイメージの橋が見えてきます。
これは高須橋といいます。
高須橋で写真を撮っていると、知らないおじさんが、「そんなもの撮ってないで、撮るなら、あれを撮れ」と指差しました。
おじさんが指差す方向は、橋のたもとから降りて戸田井橋方向へ少し戻った地点。
そこに「決潰口の跡」がありました。昭和10年の災害時の跡のようです。
この近辺にはほかにいくつかこのような「決潰口の跡」があるようです。
小貝川がいかに暴れ川であったかを物語るものでしょう。
高須橋からさらに上流へ。
すると、こんどは真っ赤な橋が見えてきました。
なにかとても繊細で素敵な感じです。
はやく渡ってみたいと急いだのですが・・・。
なんか橋のたもとの様子がヘンです。
なんと、柵がしてあり立ち入り禁止です(下左)。
また、近づいて見てみると、なんとまあ、細〜い橋。
おまけに下からのぞくとすけすけシースルー(下右)。
こんなの怖くてとても渡れません。
これはいったいどういう目的で作られた橋なんでしょう?
立ち入り禁止の表示の横に案内看板があり、「小貝川水管橋」と記されていました。
ははあ、と、またタヌポンは勝手読み。「川の水質管理のための橋」なんだろうなあ。
しかし、それはまったく的外れでした。
水管橋とは
水道管を渡すための橋ということです。軽さと強度の面から鋼管を利用したものが多く使用され、
通常の橋を架けるより10倍ものコストがかかるそうです。
なんと、水道管のための橋ですか。するとあの見上げた写真では左右の太い管の中に水道管が入っているのかしら?
すけすけのところはやはり関係者が通る道?うーーん、怖くないのかなあ。
ちなみに、水管橋とは一般名詞。この小貝川の橋だけに付けられた名前ではありません。ですから、「小貝川水管橋」と記されていたんですね。水管橋は日本全国にあるようです。
ところで、
「赤い橋」といえば「浅川マキ」。
先日(10/01/17)なくなられました。
残念ですね。
水管橋からさらに上流へ・・・。すると、川の蛇行のせいか、また筑波山が見え始めました。
見るとここには、もうひとつ水門のような設備も見えます(下左)。あれはどこの水門でしょうか。
川の洲には鷺、でしょうか、白い鳥の群れも見えます。
少し先に行くと、こんどは筑波山を背景にマンションのような建物が建っていました(下右)。
よく見ると、その前は、高架線。これはどうも、常磐線のようですね。これが通っている地点まで来てしまいました。
日も少し傾いてきたので、きょうは、ここまでですね。
豊田堰は、龍ケ崎市と取手市にまたがる小貝川に築造された可動堰で、龍ケ崎市西部をはじめ利根町全域の1800ヘクタールの灌漑用水源として、穀倉地帯を支えています。ちなみに龍ケ崎市は小貝川の左岸、取手市は右岸になります。上流から下流を見て右が右岸、左が左岸と呼びます。
豊田堰築造の歴史は古く、寛文7年(1667)に徳川幕府の代官、伊奈半十郎忠治が豊田村と羽根野村(利根町羽根野)の間に洗堰を設けてかんがい用としたのが始まり。当初は豊田羽根野堰と呼ばれるものでしたが、天保10年(1839)に豊田村地内に移され、豊田堰と称するようになりました。
「総州六阿弥陀詣」(江戸馬喰町の東都書林・西村屋与八版として刊行された和本)に上記のことが若干、ふれられています。参照→ 「タヌポンの利根ぽんぽ行 総州六阿弥陀詣」 供養所瑞光寺の口語訳
その後、明治15年(1882年)にようやく木造堰に造り替えられた豊田堰も、相次ぐ洪水でたびたび流失・破損し修理に多額の費用を要しました。そこで、永久構造物としての堰建設の機運が高まり、ついに煉瓦造りのものに改築されたのが明治34年(1901)。これが旧豊田堰と呼ばれるもので、長年にわたり大きな働きをしてきました。レンガ造りというのもなかなか風情がありますね。この旧豊田堰は、現在の豊田堰からは約150メートル下流にあったそうです。
旧堰が建設から60余年経過して、老朽化するとともに、計画高水流量の増加にともない、用水のさらなる確保と取水を容易にする目的等が加わって、堰改築の必要性が生じました。現在の豊田堰は、昭和43年(1968)に建設計画が立ち上がり地盤調査が開始され、昭和47年(1972)より工事に着工、総工事費約27億円をもって昭和52年(1977)3月に完成しました。
下は戸田井橋から見た豊田堰。左が初春。右は初秋。
下左は、取手市のほうから豊田堰を眺めたところ。下右も、同じく取手市側から。
実はタヌポンは、この北浦川水門も豊田堰だと思い込んでいました。
写真にもちゃんと「北浦川水門」と写っていますね。なっとくです。
この水門がある場所は、
取手市ではなく、
北相馬郡藤代町神浦というところだったのですが、
2005年に藤代が取手市に編入されたため、
やはり取手市といっていいことになりました。
ややこしい話です。
この戸田井橋近辺は、
複数の行政区が入り組んで
境界地点となっています。
西のほうは取手市ですが、北は同じ取手市でも元は北相馬郡藤代町ですし、
北東は龍ケ崎市、南東は利根町、そして南西には我孫子市があります。
さて、北浦川水門ですが、この地点へ北東から流れ込んでいる川の名が北浦川なのです。
つまり、この水門が北浦川と小貝川の合流地点になるということですね。
(11/11/19・10/01/26 追記再構成) (04/12/24) (撮影 04/12/05・06/09/10・06/10/09・06/10/28・07/05/26・07/07/08・09/04/02)