狸の巻物 神社・神話の巻

神代の物語11. 大八島国平定

(おおやしまこくへいてい)
TOPページ狸の巻物TOP神社・神話の巻>神代の物語11. 大八島国平定(おおやしまこくへいてい)

全国統一に向けて、日本武尊の波乱万丈の生涯

神々の系譜はこちら。


  • 神武天皇の東征で九州から大和地区が平定され天下が確立したわけですが、最終的に、それより東の地区を含めて大八島国すべての統一を果たすのは12代天皇の時代まで待たねばなりません。そしてそれを成し遂げたのは12代景行天皇の第2子、幼名を小碓命(おうすのみこと)という、つまりあの有名な日本武尊(やまとたけるのみこと)でした。
  • 全国統一を果たした日本武尊ですが戦いの最後には病に倒れ、結局、第13代の天皇に就任することなくこの世を去りますが、その扱いは太子のごとくだったといわれています。しかしながら、その気性はとても激しく、父景行天皇も恐れて疎んずるほどで、これは何か素盞鳴尊の再来を思い浮かばせます。単に武力だけてなく謀略も得意な戦上手の日本武尊でしたが、統一後の平和時の政治には向かなかったかも知れません。その粗暴な性格を如実にあらわすものとして、実兄の大碓命(おおうすのみこと)殺害のエピソードがあげられます。
  • ある日、兄の大碓命は父の景行天皇から美濃の国の兄比売(えひめ)・弟比売(おとひめ)の姉妹を召しつれてくるように言われますが、その美貌に惹かれた大碓命は別の娘を差し出してごまかそうとします。これが父に知られ、バツが悪くなってしまったのか大碓命は大事な儀式はおろか朝夕の食事にも出てこなくなります。
  • そこで景行天皇は兄に食事の席に出るように諭してこいと小碓命(日本武尊)に命じました。小碓命は兄に会い教え諭してきたというのですが、大碓命は顔を出しません。景行天皇は小碓命にどのように諭したのかをたずねると、平然として「朝、兄が厠(かわや)に入ったとき、手足をもぎ取り、体を薦(こも=菰)に包んで投げ捨てました」とのこと。
    注)大碓命の好色・小心にも問題ありますが、小碓命の乱暴さもちょっと常軌を逸している感じです。
  • 景行天皇は、兄を平気で殺害する小碓命に末恐ろしいものを感じ、彼を遠ざけようと、九州の熊襲建(くまそたける)征伐を命じました。当時、熊襲建兄弟は武勇に秀でていて、天皇の命に従わおうとしなかったのです。息子のほうがもし倒されても仕方ないだろうという考えだったのでしょう。それは小碓命がまだ16才のときでした。
  • 熊襲建のところではそのとき家の新築の祝いの宴が催されていました。小碓命はその宴に紛れ込み、叔母である倭比売(やまとひめ)からもらった小袖を着て少女のように髪を結い、酒を飲んで上機嫌になって油断していた建兄弟に擦り寄り一気に斬り殺してしまいます。弟の建は小碓命の武勇に驚嘆し、「これからは倭建命(やまとたけるのみこと)と名乗られるがよい」と言い残し絶命しました。このときから小碓命は倭建命(「建」は勇敢な者という意味)、別字として日本武尊と名乗ることにしました。
  • 意気揚々大和の宮へ。その帰途においても、日本武尊は各地のまだ帰順していない者たちを征伐。なかでも出雲の国の出雲建(いずもたける)を征伐するときは、赤檮(いちひ)づくりの木刀を出雲建の大刀とすり替えて太刀合わせをして斬り殺すなど、ここでもちょっとした計略を使って敵を倒しています。こうして、日本武尊は大和以西の豪族、神々をことごとく平定して、帰還したわけです。
    注)宮に戻った日本武尊は羽曳野で弟橘媛(おとたちばなひめ)に出会い、妻とします。弟橘媛との逸話を後述しますが、これは当コンテンツ「弟橘媛の櫛塚(通称だんご塚)」でも紹介しています。
  • ところが、景行天皇は日本武尊の膂力によほど驚愕したのか、わが子が帰還するやいなや、今度は直ちに東方十二道の賊や荒ぶる神々を平定せよと命じます。東方十二道とは伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総、常陸、陸奥の12か国です。それでも、ぐっとガマンを堪えて旅立つ日本武尊でありました。
    注)これにはさすがに日本武尊はわが父の真意を疑ったことでしょう。
  • 日本武尊は、途中で伊勢神宮に参内し神宮の斎王である叔母の倭比売に会います。日本武尊も人の子、父が自分を嫌って死んでしまえと思っているのではないかなどと愚痴をこぼします。倭比売は、そんな甥をなだめ、伊勢神宮に祀ってあったあの八岐大蛇の尾からでてきたという宝剣天叢雲剣と御袋を授け、火急のときに開くとよいと助言します。
  • さて、伊勢を出発し尾張にきたとき、日本武尊は宮簀姫(みやずひめ)という姫と出会います。宮簀媛の兄建稲種命(たけいなだねのみこと)は尾張の水軍を率いており、副将軍として東国の平定に出かけることとなりますが、日本武尊と宮簀姫はお互いに惹かれあいます。後ろ髪を引かれる思いで、宮簀媛を残したまま日本武尊は帰り道に立ち寄るという約束を残して尾張を発つのです。
    注)この直後、相模の国に入る前に妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)が合流するとあります。夫を追いかけてきたのでしょうか。宮簀媛との出会いの後だけに何かわかるような気もしますね。
  • 相模国に至って、いよいよあの有名な「そのとき」が訪れます。これは日本武尊が叔母の倭比売から預かって携帯していた天叢雲(あめのむらくも)の剣の名が「草薙(くさなぎ)の剣」と改名されるときでもあります。土地の賊に出会うのですがなかなかの知恵者だったらしく、ある草原に呼び込まれ火計にかかり弟橘媛ともども焼かれてしまう危機に遭遇します。このとき叔母から授かったもうひとつの袋を開けるとそこにはなんと火打石が入っていました。火計にあっているのに火打石とはちょっと解せない面もありますが、風向きが変わったのでしょうか、これを利用するとともに天叢雲の剣で草を薙ぎ払って難を逃れると同時に戦局を逆転させ一気に勝利へ持っていったということです。
    注)三種の神器のひとつであるこの「草薙の剣」は名古屋の熱田神宮に祀られているようなのですが、タヌポンは見ていません。だいたい拝観できるものなのでしょうか。また、静岡市(旧清水市)にある草薙神社にも祀られているとも聞きますがどちらがどうなのかよく分りません。草薙という地名も残っているとか。この草薙の剣をなぎ払った場所も現在の焼津という説もあります。地名では日本平とか日本武尊の神話に関連して名づけられた場所などがほかにもいろいろあるようです。古事記では相模国(神奈川)となっていますが、駿河国がどうも正しいようですね。
  • 日本武尊はさらに東行し、走水(はしりみず)の海にやってきました。現在の東京湾口でしょうか。ここから房総に渡ろうと船出をした日本武尊たちを嵐が襲い、船は波に飲まれ転覆しそうになります。この時、弟橘媛は、「自分が身代わりになって、海神の怒りを鎮めましょう」と言って入水します。やがて海は静まり最愛の妻の死という犠牲のもとに、日本武尊はなんとか海を越えて上総に渡ることができました。
    注)このとき海岸で日本武尊は櫛を見つけました。それは弟橘媛のものでした。(弟橘媛の櫛塚参照)
  • 悲しみとともに東国を平定し終えた日本武尊は帰途へ就きます。尾張国に着き結婚を約束していた宮簀姫と再会し、大御食(おおみけ)、大御酒盞(おおみさかづき)を用意して祝宴を開きますが、この時、草薙剣が不思議な輝きを放ちます。それは両人を祝福するかのようで、あらためてこの剣に神が宿っていることを感じとった日本武尊は、姫に、この剣を自分の御影だと思って大事にするよう言い渡しました。
  • さて、尾張でもうひとつだけし残していること、それは近くの伊吹山にいる邪神の征伐でした。日本武尊は素手で戦うと言って草薙の剣を宮簀姫に預けて出かけることにしましたが、神剣を手放したこのときから彼の武運が尽きはじめていたのでしょうか。山の麓で、白い猪と出会いますが、日本武尊は殺すこともないだろうとそのまま先へ進もうとします。が、実はこの猪は山の邪神が変身していたものでした。突然、天空から大氷雨が襲い、日本武尊一行はこれに打たれて壊滅状態になってしまいます。日本武尊自身も病にかかりついに伊吹山を下りることになります。
  • なんとか急場はしのいだものの、日本武尊はもはや自分の命が短いことを悟りました。そのときに詠んだのが、有名なこの歌です。
    倭は 国の真ほろば たたなづく 青垣、山ごもれる 倭しうるはし」。
    故郷を目前にしての辞世の句、そこにはどんな気持ちが込められていたことでしょうか。
  • 日本武尊絶命の知らせは宮にいる妃たちにも届き、急遽、終焉の地、能褒野(のぼの)に陵を造ります。その陵からは、一羽の白鳥が空へ舞い上がり、大和の方へ飛んでいったといいます。この白鳥が舞い降りたという神話は各地に残っており、人々が日本武尊の武勇をどんなに愛していたかが分ります。宮簀姫は、生前の日本武尊の言葉通りに草薙剣を御影として祀り、尊の冥福を祈りました。

(神代の物語 全11話 了)

(05/07/02)