更新経過
2013年より石造物データをページ末に掲載するため
各コンテンツを順次見直ししていくことにしました。
大平神社の石造物は、大平神社2が中心なのですが、この大平神社1でも若干、あります。
今回の更新で、本コンテンツでは「5.大平神社 vs 蛟@神社」を新規に追加しました。
(15/03/31)
利根町にある鎌倉街道の通り道でもある大平(だいへい)地区。
その象徴とも言えるのが、大平神社で、かねてより訪ねてみたい神社でした。
そこで、探索の初期から訪問、コンテンツを作成したのですが、
作成してから数年たち、少し変化も出てきましたので、再編成することにしました。
前のコンテンツと異なるところは、本殿の建物が変わったことと、
神社右手の空き地がきれいになったこと(以前はゴミ捨て場のようでした)。
今回は、前のコンテンツの流れを踏襲しながらも、
本来、冒頭にあるべき基本情報の欠落部分を補ったほか、画像処理等を大幅に変更。
また、目次の改訂をし、大平神社1と大平神社2のリンクを分かりやすくしました。
余談ですが、あらたに石塔を撮りなおして差し替えしようと思ったところ、
5年の歳月の差で、新しい写真のほうが不鮮明になる、という事態も起こりました。
このことは、5年前に調べていなかったら、もう石塔の文字が判読不能になっていた、
ということを意味しています。もちろん、タヌポンだけのデータであり、
しかるべきところでは、当初よりデータ管理はできているかも知れませんが・・・。
では、大平神社を初めて訪問する方のために、
やはり、見つけにくさでは上位にランクする
大平神社へのアクセスの話からやはり始めましょう。
大平神社1では、全般的な紹介。
大平神社2では、鳥居脇に並んだ石祠・石塔類の詳しい紹介を掲載します。
なお、写真は、叙述に沿って掲載していきますが、撮影時間が不連続の場合があります。
たとえば、記念碑の裏と表の2枚を同時に並べたとしても、
それらの撮影日が異なる場合もある、ということです。
したがって、画像の印象・トーンが異なるものが併記される場合もありますのでご了承ください。
(11/02/28)
大平神社・鎮座地
〒300-1605 茨城県北相馬郡利根町大平56-1
当初、大平神社に行ってみようと思ったのですが、
探しても探しても見つかりません。
この辺りにあるハズと見当をつけても
何回かはハズレに終わりました。
そして、「こんなところにはないよねえ」と、
探検のつもりで入り込んだ小路の先に
それはひっそりと建っていました。
また、裏側からも入れることも分かったのですが、
それはそれで、まるで小学生のときのように、
わくわく探検気分を味わえました。
大平神社に行くには、ただしくは、表から、だけなのです。でも、物事には往々にして「裏」ってあるものなのですね。
今回もそうでした。ただ、大平神社の場合、表も、裏も、ちょっとやそっとでは姿を現してくれません。
とにかく、どちらも見つからないのです。探し当てたとしても、大きなクルマで境内まで、なんてとんでもない。
表門も裏口も、きっかけとなる入り口からはわずかな距離ですが、入ってしばらくは何があるかドキドキします。
千葉龍ケ崎線を布川から北に向かい、
スーパー・ランドロームを過ぎて、
龍ケ崎南高に行くちょうど中間地点。
曲がり角にある目印が、
利根川浄水場調圧水槽。
これって、危険!らしいですが、
何なんでしょうか?
まあ、それはともかく・・・。
←でも、これですよ!
こんな道、分かります?
私道じゃあないの?ホントに勝手に入っていいのかな?でも、もう行くしかないです。最初左、次に右にカーブしてます。
何か見えてきましたね。
おっと、こんなところによくもまあ!
やっと、見つけましたよ!ここですね。
ちなみに、この先は行き止まり。
この路地は大平神社専用道路ですね。
裏からのアクセスとかんたんに言いますが、結局は表から入って、そこから裏通りに出られることが分かったというわけです。
余談ですが、実をいうと、この裏通りはタヌポンがなぜかとても好きな通りなのです。なぜなのかな?
あっ、なんか見えてきましたが・・・民家?これは裏口?神社らしくは見えませんが。鳥居が見えないせいかな。
左は2005年当時。右は2011年。建物(本殿・後述)の様子が少しちがいます。
もう少し進んで、表に回って鳥居を見れば・・・なるほど確かに神社ということが分かります。
(参考)
裏からの入口2. を、
もう少し分かりやすい写真で紹介します。
写真の右の柵があるところが
旧ナイルス部品という会社です。
現在、操業していないみたいです。
その左隣の青い柵の横から入るのです。
クルマで来る時はむしろ
こちらからのほうがいいかも知れません。
この道路に駐車しておけば
青柵から歩いてすぐですから。
しかし、ここはあくまでも正規の入口ではありませんので「不法侵入」になるかも知れません。ご注意ください。
でも、お断りしようにも神社関係者はどなたもいつもいらっしゃらないのですね。
夏は
←こうなってしまいますので、
ますます分からなくなります。
大平神社の創立は不詳。
『町史』には、万治年中(1658〜)
諸人の崇敬社となる、また明治41年
(1908)無格社大龍神社を合祀、
(『茨城県神社誌』)とあります。
大龍神社はどこにあったのでしょうか。
鳥居は明神鳥居。背面には、
平成5年(1993)4月建立の記録。
コンクリート製になっています。
さて、大平神社の祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)、配祀は天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)とあります。
地元の言い伝えでは、大平村を開拓した「お大平様」(おだいへいさま)を祀っているといいます。
「お大平様」についてはいろいろな伝説があるので次項で紹介します。
朱色の文字が鮮やかな神額。
でも、大平神社のこの額も、鳥居も、
いつも撮影がうまくいかないもののひとつ。
南向きで逆光ではないのですが、
すぐ南に竹やぶがあり、その陰になって、
陰にならない上部石段上とのコントラストが付きすぎて、
真っ黒になってしまいます。
上の鳥居の写真は、いろいろ画像処理したものです。
カメラが得意な人にはかんたんな撮影なのでしょうけどね。
むしろ曇りの日のほうがうまく撮れるかも知れません。
鳥居をくぐって、石段を登れば拝殿。
引き戸になっていますが
施錠されてはいません。
なかには賽銭箱がありますが、
ほかには特筆するものはありません。
これが以前の本殿。
いや、本殿自体は変化ないのですが、
本殿全体を覆う建物ができました。
以下がそうです。
ということで、前より、
本殿そのものが見づらくなりました。
最近、訪問してなかったので、
これができたのはここ数年の間
(2006〜2011)としか言えません。
流れ造りの本殿。幣殿にあたる通路が短いので真正面からの引きの撮影ができません。
本殿の扉は施錠されていますので・・・あれっ、この写真では開錠されているような?じゃあ、見せてもらえばよかったかな。
拝殿前右に建てられています。平成5年(1993)4月、改築です。
大平神社の改築となっていますが、少なくとも鳥居は同時期ですね。次の常夜燈も本殿等々すべてなのでしょうか。
裏面には五十嵐姓の方がたがズラリ列記されています。
次項で紹介するお大平様伝説を、利根町史に提供されているのも五十嵐さんですね。
本体: 高95cm、幅82cm、厚11cm。
いつ建てられたかは分かりませんが、
改築記念碑と同時期でしょうか、
まだ新しい感じです。
当然、左右2基あります。
高さは210cm程度。
ほかに狛犬などはありません。
ふつうは建立日がどこかに
記されているのですが・・・。
拝殿前、左に置かれています。
ほかの設備とちがって、手水は若干古そうです。
ただこれも建立日が記されていません。
「奉納」、とだけ。
背後は以下で紹介する神木の公孫樹。
本体: 高29cm、幅62cm、厚29cm。
公孫樹ですね。直径を計ってみると約70cmでした。
大樹というほどではありません。
さて、大平村を開拓し、大平神社に祀られているとされる「お大平様(おだいへいさま)」ですが、
『利根町史』第5巻には、お大平様に関する言い伝えが4編ほど掲載されています。
いずれも大平の五十嵐五郎さんという方からのものです。以下、その要旨をご紹介します。
ある日、大平村の権現様が東の押付本田の沼で釣りをしていました。
それを見た押付本田の水神様は「わしの沼の魚を勝手に・・・」と怒り、
潜牛に乗ってやってきて権現様の釣竿を奪おうとしました。
権現様は驚いて近くの藤づるを潜牛めがけて投げつけました。
狙い通りそれは牛の右角に引っかかり、お互いに引っ張り合いとなりました。
結局、牛の角が折れて両者とも後にひっくり返ったということです。
大平の権現様はいいものが手に入ったと牛の角を手に走り帰っていきました。
その後、大平様の死後も村の宝として大切に保管していたのですが、
大平神社の祭礼の時だけお供えしていたそうです。
しかし、そこでは盗まれそうだというので村人の持ち回りで預かることになりましたが、
五十嵐角右衛門家が当番の時に、押付本田に返却したということです。
大平村の権現様とは、つまりお大平様のこと。東の押付本田の沼とは、現在のどの箇所かは不明です。
現在、押付本田(布川)水神宮 には、右角のない河牛に乗った水神像が本殿に安置されているそうです。(タヌポン未確認)
お大平様が亡くなられるとき
「我死なば、我が身を立てたまま埋葬せよ。
しからば、この村に今後我同様の大男を3人ずつ絶やさずに出現させ、外敵より守らせるであろう」
と遺言されました。
しかし、村人たちは相談の結果、
大平様のような大男が3人も絶やさずに現れたのでは死後の埋葬の折はたいへんだ、
として結局、横にして埋葬してしまったということです。
祀られている人は、守永親王ではないかと言われています。
親王は常陸の小田城にいたが、北朝との戦いに敗れ下野の栃木まで逃れたが安住できず、
小貝川を下ってこの地に逃げ、大平村を開いたといいます。
守永親王というのも興味深いですが、次の最後の話はタヌポンにとってさらに興味深く思われました。
大平様の一行に玄慧法師という名僧がおり、
大平様を助けて村を開いたと言われています。
また彼はここで太平記を書き上げたと伝えられています。
大平様の死後に法師は亡くなりましたが
大平様の死後も守っていただこうと大平様の眠る権現塚に埋葬したということです。
これは驚きですね。玄慧法師とは、『奥州後三年記』を著したといわれている人ですよね?
また、『太平記』は小島法師著という説がありますが、なんと、
『利根町史』には続いて注釈で、玄慧法師は小島法師とも言ったそうである、としています。
『太平記』とお大平様、字が少しちがいますが、もしかして何か関係あるのかしらん?
これはもっと調べてみる価値がありますね。
五十嵐さんという方の家にはもっと貴重な文献など残されていないのでしょうか。
なんてタヌポンが言っても、もう利根町の教育委員会では調べているのでしょうね。
タヌポンはゆっくりいきます。守永親王というのも調べてみたいですね。いったい大平様とはだれなのでしょう。
小島法師のことなどが真実なら、歴史上、かなり有名な人である可能性が高いのではないでしょうか。
ちなみに大平様が祀られた権現塚というのは、もえぎ野台のどこかにあったようなのですが、
工事で崩されてしまったのかいまは見当たらないようです。何かもったいない話です。
以前の『広報とね』におもしろい記事が載っているのを発見しました。以下、転記します。
大平神社・・・お大平さまとも呼ばれた南朝方の皇族浄光院さまを祭っています。しかし、明治の神礼法で届け出をした時、浄光院さまの詳細が分からないため、祭神は大国主命として届け出てしまったと伝えています。もとは現在地より百メートルほど西の氏神という所に鎮座しておりました。もっとも、お大平さまより古い時代から神社はあったようです。昔、大平の人はこの神社を、相馬一ノ宮にしようと考えていました。折しも延喜式神名帳が編さんされることになって、代表が都へのぼりました。ところが、伊勢のあたりで、あとから出発した立木の代表たちに先をこされてしまいました。こうして蛟@神社が相馬郡一座の式内社になったのでした。
南北朝期になると、前述のとおり大平は南朝方。一方、立木は地内から出土した板碑に貞和五年(1349)という北朝の年号が刻まれていたように、北朝方でありました。こんなことも原因になったのでしょう、大平の人は蛟@神社の崇拝には熱心ではないのだそうです。※参考資料 五十嵐五郎著『大平村の歩み』草稿その他
(『広報とね』第245号「利根町の歴史散歩11−大平神社周辺」 より)
なるほど、延喜式神名帳が編さんされたとき[延長5年(927年)]、すでに大平神社は存在していた、ということですか。
『大平村の歩み』は貴重な文献のようです。読んでみたいですね。
(15/03/31 追記)
探索初期の頃、大平神社を見つけて初めて鳥居前に立ったとき、ずらりと並んだ石祠・石塔類に驚かされました。
そんなに多くの石塔類を一同に見たのが初めてだったのです。
これはひとつ念入りに見てみようということで、
1日かけてひとつひとつをよく調べながら、
大平神社2にコンテンツを分けて紹介しました。
しかし、利根町探索を続けていると、
大平神社の19基をはるかに上回る数の
石塔類が並んだところも発見しました。
たとえば、惣新田の 石塔群全28基 や、
上曽根の観音堂にいたってはなんと 左右に全42基の石仏群。
そういう意味では、大平神社で「初体験」した、「石祠・石塔の数」や「宝篋印塔」「念仏供養塔」も、
いまとなっては、タヌポンにとってはそれほど珍しいものではなくなりました。
そのため、上記の惣新田の28基や観音堂の42基などは、大平神社コンテンツのように詳しく調べていません。
ちょっと怠惰といえば怠惰ですね。でも、大平神社の場合、地面に座り込んで調べたものでした。
その倍の数の石塔類をメジャーで寸法を測ったりするのは、もう気力と体力が続きません(笑)。
ということで、当初のカルチャーショックだった大平神社の石祠・石塔類は、
宝篋印塔や念仏供養塔の解説を大平神社1に記載していましたが、
それらも含めて大平神社2にすべて移行して再編成しました。
2011年2月にコンテンツ更新のため訪問したとき、
以前、廃棄物などの山だった境内脇が一変していました。
ゴミひとつない美しい空間に。
やっぱりこのほうが気持ちいいですね。
大平神社とは無関係の敷地なのかも知れませんが、
清掃された方、お疲れ様でした。
(15/03/31・11/02/28 追記再構成) (06/07/30追記) (05/05/01)
(撮影 11/02/23・06/07/29・05/05/05・05/05/03・05/05/02・05/03/13・05/03/12)
大平神社2(境内石祠・石塔類紹介)へ続く
本コンテンツの石造物データ → 大平神社1石造物一覧.xlxs (11KB)