じぶん探訪

遠出はできないと思っていたけど、一生に一度はね。ということで。

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その7-7.イタリア紀行Z 「フィレンツェはなにもかもが美しく」

さて、ミラノ、ベネチアに続いて第3番目の訪問地は、「花の都」フィレンツェ。ベネチアからの3時間半、一睡もせずのバス移動も、7-6で記した理由により、なんの苦もなかったわたしだが、フィレンツェに着いてすぐの最初の観光スポットで、また、その美しさに圧倒されることになる。
昼食前に立ち寄ったのは、街の東南にある丘の上のミケランジェロ広場である。
フィレンツェ市内観光は、この ミケランジェロ広場 と、午後の予定になっている ドゥオーモ広場、そして シニョーリア広場 と、3つの広場を訪れれば、ほとんどの著名なスポットを見ることができる。
それらの説明の前に、フィレンツェのプロフィールを以下。

フィレンツェの予備知識

フィレンツェ(Firenze)はトスカーナ州の州都で「花の都」とも呼ばれる。古代ローマ時代に、花の女神フローラの町としてフロレンティア(Florentia)と名付けたことが語源とされ、英語やフランス語ではフローレンス(Florence)という。中世には一時神聖ローマ帝国が支配したが12世紀には自治都市となった。毛織物業などの製造業や金融業および交易で莫大な富を蓄積したフィレンツェはトスカーナの大部分を支配したフィレンツェ共和国の首都になる。
その中で金融(銀行)業で台頭したメディチ家は、政治でも中心的な役割を果たし、富裕層と労働者の抗争のなかでコジモ・デ・メディチは1434年、敵対者を追放、一市民ながら共和国の支配者となった。権力は子のピエロに継承され、孫のロレンツォの時代には、フィレンツェはルネサンスの中心として黄金時代を迎えた。
メディチ家の歴代当主は、フィレンツェを美しい都市にする事業に着手・推進するほか学問、芸術を手厚く保護。絵画、建築、彫刻におけるルネサンスの発展に大きく貢献した。フィレンツェは、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、サンドロ・ボッティチェッリ、ラファエロなどの巨匠が活躍するルネサンスの中心地となる。
その後、紆余曲折を経てメディチ家は1569年、教皇によりトスカーナ大公の称号が授与され、フィレンツェはトスカーナ大公国の首都となるが、以降は次第に衰退、1737年にはついに継承者がとだえメディチ家のトスカーナ支配は終了する。トスカーナ大公国はオーストリアのハプスブルク家に継承、フィレンツェはその支配下におかれるが1860年にイタリア王国に合併される。1865年から王国の首都となるも1871年、ローマに首都は移された。
歴史的な人物としては、フィレンツェ近郊で生まれ、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂ジョットの鐘楼 に着工した画家・建築家のジョットがいる。ほかに、ピサ生まれで、斜塔からの落体の実験で有名な物理・天文学者のガリレオ・ガリレイ。この「天文学の父」はメディチ家コジモ2世の家庭教師もしていた。フィレンツェが舞台の映画には、名作「羊たちの沈黙」の続編の「ハンニバル」やマギー・スミス主演のイギリス映画「眺めのいい部屋」などがある。

ミケランジェロ広場

フィレンツェ最高の眺望が楽しめるのが、市内東南の丘にあるミケランジェロ広場。日中はもちろん、夕景や、教会や橋などがライトアップされた夜景も素晴らしいとのこと。ただし、わたしたちが観ることができたのは日中だけ。それでも十分満足の美しさだった。

ミケランジェロ広場から。フィレンツェの街の眺望

広場のある丘にバスが登っていくときから、ツアー客みんなが予感していたことだろう。オレンジ色のフィレンツェの街の姿がいかに素晴らしいものであるかを。
そして、それは、予想をはるかに超えたものだった。
バス停が東側にあったため、最初に目にしたシーンは、記念写真に出てくるものより少し右方にずれていたが、わたしはむしろこのアルノ川の上流を向いた自然が豊かな景色のほうが気に入った。アルノ川(Arno)は、ファルテローナ山に源を発し、フィレンツェの街を東から西に横断して流れ、ピサの西側でティレニア海に注ぐ、長さ241kmの川である。著名な ヴェッキオ橋 などが架かっている。

ミケランジェロ広場から。フィレンツェの街の眺望

左がミケランジェロ広場からの定番の風景。フィレンツェの街の主な建物が一望できる。
左から、アルノ川に架かる屋根つきの橋が ヴェッキオ橋、その右に高く聳えているのが ヴェッキオ宮殿、その左手付近にはボッティチェッリの「ビーナスの誕生」などが所蔵されている ウッフィッツィ美術館 がある。さらに少し右手、写真の中央付近には、ドゥオーモ広場の中に サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 があり、これは、左から順に サン・ジョヴァンニ洗礼堂ジョットの鐘楼ドゥオーモ(大聖堂) の3つの建物で構成されている。写真で白色の高い建物が ジョットの鐘楼、その右が ドゥオーモのクーポラ である。洗礼堂 は8角形の建物だが高くはないのでこの写真では見えづらい。
写真のずっと右にも高い塔が見えるがこれはバッツィ家礼拝堂か?地図上では サンタ・クローチェ聖堂 あたりの位置のようだが、聖堂の建物はもっと低いし形がちがうのでこれが何なのかはよく分からない。
この景色を満喫したあとで、背後の広場をやっと見回してみることになる。

ダビデ像

ミケランジェロ広場とダビデ像 ダビデ像

ダビデ像はフィレンツェには合計3ヵ所にあるという。オリジナルはアカデミア美術館にあり、残りはこのミケランジェロ広場の中心と ヴェッキオ宮殿前 にある。残念ながら今回はオリジナルのあるアカデミア美術館には行けなかった。
色から判断すると青銅製だろうか。足下の台の周囲には、ミケランジェロが1524年から10年もかけて制作し、メディチ家礼拝堂にあるという昼、夜、黄昏、曙光をあらわす4つの寓意像がある。

ミケランジェロ広場 ミケランジェロ広場と絵画

パリのモンマルトルのようにここにも絵画を売る人たちがいた。絵は、高くはないが安いわけでもない。
土産物の店もいくつかあるが、日本のように食べ物・飲み物というのはなさそうだ。

土産物店

土産物露店 土産物露店 土産物露店

昼食は隠れ家レストランOMERO

ミケランジェロ広場をあとにして、さらに少し南の奥まったところにある隠れ家レストランとやらに昼食をとりに行く。
イタリアの著名人やハリウッド・スターも来るところらしいが、出されたメニューはいまいちだった。まあわたしたちのは高価な料理ではないのだろう。
ガイドブックにも出ているし、近隣は高級住宅街で景色等もよかったからここで紹介することにした。
少し手前でバスを降りて、5分ほど歩いて行く。

レストランOMEROへ行く途中の道 レストランOMERO前からもと来た道を振り返る

フィレンツェの郊外になる場所なのだろうが、ここも街並みが美しい。(写真↑)
レストランの外見は質素。隠れ家風ということか。見上げると確かにOMEROとある。(写真↓)
ちなみに TRATRIA(トラットリア)とは店名ではなくて一般名詞。高級店を RISTRANTE(リストランテ)、食堂を TRATRIA と大別するが程度はまちまち。TRATRIA でも高級店があり、大衆的な RISTRANTE もある。ここはいちおう高級・・・には見えないなあ?

レストランOMERO入口。TRATRIAのサイン レストランOMERO

メニューと味

メニューは、ワイン付きで、生ハム、クロスティーニ、ラビオリ(リコッタチーズ・ほうれん草入り)、ローストポーク、ケーキとコーヒー。
どうということもない料理。わたしはいまはOKなのだが、小学生時代の劣悪給食コッペパンのトラウマでパン類が長い間苦手だった。最初に海外に行ったときも3日目に根を上げて、ツアーで用意したディナーをキャンセルして日本食店に行ったりした。イタリアのパンはボソボソした味も素っ気もないのが基本としてあるが、それもいまはさほど苦にならない。だからといって、好きだというわけではない。パン系でいえば、このラビオリ(写真左下)というのもわたしにとっておいしいという範疇には入らない。フィリングだけを食べればこんなものかと思うが、こうした厚手の小麦地のものはモサモサして概して好きではない。したがってアンコが大好きなのにどら焼きに躊躇するときもある。それに対し、大酒のみの割にはしっとりケーキ類は大好物。ここのデザート(写真右下)もまあ、こんなもんかな。

ラビオリ(リコッタチーズ・ほうれん草入り) ドルチェ(デザート)のケーキ
samuraiという店の爪楊枝

昔は海外のレストランには爪楊枝は置いてないから日本から持っていくようにしていたものだ。この店はどうか不明だが、最近は日本人客が多いせいか常備している店もあるらしい。
左写真の楊枝は、若いもの同士でいつのまにか娘と親しくなっている新婚カップルの新郎氏よりいただいたもの。よく見ると、samurai と記されている。どんな店か聞き忘れたが、日本を意識した店だからか。
爪楊枝だけでなく、日本人の店員やホテルのコンシェルジェが多いのには少し驚いている。これは昨今ではイタリアだけの傾向ではないのだろうと思う。わたしのような語学オンチには買物と食事がスムーズに行くのはたいへんありがたいが、これではますます外国語が話せなくなるともいえる。でも、それはもういいか。

店内

OMERO店内

店内には食材などが陳列されている。
設備的にはどこにでもある珍しくもないものだが、この土地でしか見かけないものがあるかも知れない。

OMERO店内 OMERO店内 OMERO店内 OMERO店内

田園風景

下の写真左は店内奥から見た東方の景色。やはり美しい。地図上では、サン・ミニアート・アル・モンテ教会のある方角なのだが、教会らしきものは・・・もっと右にあるのかも知れない。
中央と右下は、バスに戻るときに撮影した西方の田園風景。建物は別荘のようだ。ここもミケランジェロ広場と同様、フィレンツェ街中より少し高台にある。夕暮れもさぞかし素敵にちがいない。こういう景色なら一日中、眺めていたいものだ。

OMERO店内奥から西方の田園を見る バス停までの道、西方の田園と民家 バス停までの道、西方の田園

おまけ

ミニてるてる坊主

ベネチアからの道で気になっていたバスのフロントグラス手前のてるてる坊主。
上になにか小さな人形がついている。
ほかのバスでも見かけたのだが、これがイタリア風?
あと、いい忘れたが、ミケランジェロ広場を12:30に出て、この昼食を終えてバスに乗ったのが14:00。1時間半要したわけだが、行き帰りの徒歩や店内回遊の時間等差し引けば、食事としての実質は30分程度。ガイドブックには「サービスも丁寧で1時間半は最低かかる」とあったが、これはツアーという悲しさだろう。食事としての評価は5段階で2程度しかつけられないが、もっとちゃんとした客としてメニューを選べばそこそこいける店なのかも知れない。

サンタ・マリア・ノヴェッラ中央駅とサンタ・マリア・ノヴェッラ教会

アルノ川岸の建物

さて、昼食後は、ミケランジェロ広場からいったんフィレンツェ市内のメインのポイントを挟んで対角線上の北西にあたる中央駅(正確にはサンタ・マリア・ノヴェッラ中央駅)まで向かう。
左写真は、その途中でアルノ川を渡るときの風景。バスの窓から撮った風景だが、これも美しい。
サンタ・マリア・ノヴェッラ中央駅は市内唯一の鉄道駅(写真左下)で、そこでバスを下車して、あとは夕方ホテルに向かうまではすべて徒歩になる。

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会

駅から徒歩15分程度のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂へ向かうのだが、駅の少し南に駅と同名のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会(Chiesa di Santa Maria Movella)がある(写真右下)。この教会は、黒と白の大理石をはめ込んだ美しいファザード(正面)がもっと西(写真では右)にあるのだが、ここからは見えない。ガイドの説明もなく(あったかも知れないが記憶にない)素通りした。

サンタ・マリア・ノヴェッラ中央駅 サンタ・マリア・ノヴェッラ教会

以前からこの地にあったサンタ・マリア・ヴィーニェ礼拝堂が起源で、1211年にドミニコ会の修道士によって新たに建てられた。当時から修道僧たちが薬草を栽培して薬剤を調合、サンタ・マリア・ノヴェッラは世界最古の薬局といわれ、現在も続いている。
ちなみに、メディチ家の Medici は医師(複数形 medici)もしくは薬種商の意味であり、銀行業もさることながら、メディチ家の先祖はこの教会とも何か関係があるのかも知れない。

ドゥオーモが見えてくる

教会を右手にして東方へ道を進むと、前方にドゥオーモが見えてくる。
そこがドゥオーモ広場であり、フィレンツェ観光の中心的存在である、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂がある。

ドゥオーモ広場とサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

ドゥオーモ広場

ドゥオーモ広場に到着。ということは、本日のメイン、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(Cattedrale di Santa Maria del Fiore:花の聖母の大聖堂)に到着したということでもある。

ドゥオーモ広場 ドゥオーモ広場

ちょっとややこしいのだが、言葉の説明だけ先にしておこう。
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂とは、ドゥオーモ広場にある3つの建造物、サン・ジョヴァンニ洗礼堂・ジョットの鐘楼・ドゥオーモ(大聖堂)の総称である。ただし、ドゥオーモ(大聖堂)の建物だけを、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂と呼んでいる場合もあるようだ。そして、ドゥオーモだが、これはイコールドーム型の建物(あるいは天井)という意味ではない。イタリアでは、ドゥオーモとはあくまでも大聖堂の意味であり、アメリカや日本などのドームとはちがう。ということは、ドーム型ではないドゥオーモもあるわけである。イタリアでドームを意味する言葉はクーポラ(cupola)である。したがってイタリアの教会等であえてドーム型のものを意識して示すときは、ドゥオーモのクーポラという表現を使う。とはいうものの、この DUOMO が英語の DOME の語源の一端になっているというのだからややこしいわけだ。
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は、イタリアにおけるゴシック建築と初期ルネッサンス建築を代表するもので、現在の形になるまで600年を要したフィレンツェの街のシンボルでもある。ルネッサンス最盛期にはフィレンツェに集まった多くの芸術家が競い合って、絵画、建築、彫刻などを担当、新しい文化を築いていった。

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

これは西からの眺め。
手前から、8角形の建物がサン・ジョヴァンニ洗礼堂、その後ろの背の高い建物がジョットの鐘楼、その横は、ドゥオーモ(大聖堂)のファザード、そしていちばん背後に見えるのがドゥオーモ(大聖堂)のクーポラである。
ドゥオーモ(大聖堂)は1296年から140年の歳月をかけ1436年に完成。建物の奥行き153m、クーポラの高さ106mを誇る。正式にはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂と呼ぶわけだが、花の聖母の名にふさわしい、白を基調としローズ、グリーンの計3色の色大理石を使用した壮麗な外観がひときわ鮮やかである。

花の聖母の大聖堂ファザード

花の聖母の大聖堂ファザード

13世紀末、最初に大聖堂の設計を担当したのは当時もっとも高名だった彫刻家のカンピオ。しかし、彼が手がけたファザードの装飾は1587年に取り壊され、現在のものは19世紀、コンクールで選ばれたファブリスによって再建された。

花の聖母の大聖堂ファザード 花の聖母の大聖堂ファザード 花の聖母の大聖堂ファザード

ドゥオーモのクーポラ

公募で選出された建築家ブルネレスキが15世紀半ばに完成させた傑作。高さ106mの大クーポラである。木の仮枠を組まずに作られた世界初のクーポラであり、建設当時は世界最大だった。クーポラの上部は見晴らし台になっていて、頂塔の突端の金色の十字架と球はダ・ヴィンチがいたヴェロッキオ工房の作といわれている。内部 はのちほど。

ドゥオーモのクーポラ ドゥオーモのクーポラ

サン・ジョヴァンニ洗礼堂

ドゥオーモの西隣りに立つ8角形の建物。フィレンツェの守護聖人である聖ジョヴァンニ(洗礼者ヨハネ)に捧げるために11世紀に建てられたロマネスク建築。青銅の3つの門扉のうち南門はピサーノ、北門と東門は公募で選ばれたギベルティの作。東門はその美しさをミケランジェロが絶賛し「天国の門」と名づけた。ただしレプリカで本物はバルジェッロ美術館にある。

サン・ジョヴァンニ洗礼堂
背後の8角形の建物が洗礼堂。混雑と時間がないためこの建物はまともに撮れなかったのが残念。
天国の門
10枚のパネル構成のレリーフ。完成まで27年を要した「天国の門」。透視画法で奥行きを出している。

ジョットの鐘楼

ドゥオーモの南側に立つ繊細な塔。高さは約84m。画家であり建築家でもあったジョットが着工、第1層を完成させ他界、第2層は弟子のピサーノ、第3〜5層はタレンティが引き継ぎ、14世紀末に完成させた。
色大理石を使った装飾が鮮やか。第1層の6角形のレリーフは人間の再生の過程が描かれ、オリジナルはドゥオーモ裏手の付属美術館に所蔵されている・・・とは後から知ったこと。肝心の最下層を撮ってないとは!(高さのある建物は予備知識がないとどうも上部にばかり気をとられてしまうね。下のほうは人垣でびっしりだし、混雑でとても引きの全容写真も撮れそうもない・・・)

ジョットの鐘楼 ジョットの鐘楼

ドゥオーモ内部

ドゥオーモ内部へ

わずか数分の見学だが、いちおう並んでドゥオーモ内部へ。
入口のファザードはちょうど「天国の門」の真向かいとなる。
ここは意外とがらんどう、といった印象。道理で拝観料は無料である。
駆け足見学で、写真はどうもうまく撮れていない。もっと時間があれば・・・。

ドゥオーモ内部。天蓋には「最後の審判」
天井のフレスコ画は旧約聖書を題材とした「最後の審判」がテーマ。ファザーリなどの芸術家によって16世紀後半に描かれたもの(もっとちゃんと撮らないと!)
ドゥオーモ内部。正面入口上には24時間時計
正面入口の上には、画家パウロ・ウッチェロ設計の「24時間時計」が掛かっている。が、この写真ではよく分からないなあ。これじゃあダメだ。

南へ移動

シニョーリア広場へ向かう道

さて、次の目的地はヴェッキオ宮殿のあるシニョーリア広場。
これは、ドゥオーモ広場からまっすぐ南下すればものの数分でたどり着く。
その途中で見つけたポイントを以下、紹介。

ホテル「ブルネレスキ」

ホテル ブルネレスキ

進行方向右手の少し奥まったところに古い塔のような建物が見つかった。
向かって左手の建物には HOTEL BRUNELLESCHI とある。
これは、ドゥオーモのクーポラ を建てた建築家ブルネレスキにちなんだホテルのようだ。
この塔はかつては牢獄だったという。
これでもわたしたちがその夜泊まったホテルより1ランク上のようだ。
ここはメインスポットのすぐそばだから便利。ホテルの中に「歴史」を感じさせるものがあるのはいいなと思った。

小広場

イタリアには、こんな小広場が街のところどころにある。
ちょっとした店があるのも楽しい。
しかし、立ち寄って見る時間はなさそうだ。

落書き

美しい街でも落書きがないわけではない。中央駅でも見かけた。
不届きなヤツはどこにでもいるわけだが、歴史的に重要なものにまではさすがにいたずらしないだろう。
ここの落書きも、ベースはなにか掲示板的なもののような気がする。
概して現代に作られた平板な土台に落書きする傾向があるような気がする。
土台をもっと芸術的なものにすれば落書きは減るかも知れない。
先年、どこかの国で観光客の落書きがニュースになったが、「旅の恥は掻き捨て」といったものが外国人にもあるのかな、なんてことも考えてみる。

ヴェッキオ宮殿が見えてくる

何か通りの向こうに、高い建物が見えてきた。
どうもあれが、「ヴェッキオ宮殿」らしい。

ヴェッキオ宮殿が見えてくる

シニョーリア広場とヴェッキオ宮殿、ウッフィッツィ美術館

シニョーリア広場

シニョーリア広場 シニョーリア広場

13〜14世紀にできたシニョーリア広場は、中世以降政治の中心となってきた。ヴェッキオ宮殿とウッフィッツィ美術館とが並び、ドゥオーモ広場と同様、観光客でいつもあふれている。宮殿前には、16世紀に造られたネプチューンの噴水やダビデ像、北側のカフェテラス横にはコジモ1世のブロンズ像がおかれ、さらに、美術館前の彫刻回廊(ランツィのロッジャ)にもいくつかの彫刻が並んで、さながら屋外美術館のようである。

コジモ・デ・メディチの騎馬像

コジモ・デ・メディチ

広場の北の一角に立っているコジモ・デ・メディチ(Cosimo de' Medici 1389〜1464年)の像。このコジモ1世のときに、メディチ家の支配体制の基礎が確立した。コジモ・イル・ヴェッキオともいわれている。

海神ネプチューンの泉

海神ネプチューンの泉

噴水となっているこの像が海神であるネプチューン。
ギリシア神話のポセイドンにあたる。
ポセイドンといえば三叉の矛を持つのが特徴なのだが・・・持ってないようだ。

ダビデ像

ミケランジェロ広場のダビデ像 に続いて本日2体目のダビデ像(写真左下)。残念ながら、これもレプリカで、本物はアカデミア美術館にある。でも、もともとはオリジナルはここに置かれていたのだという。フィレンツェには都合3体ダビデ像があることになるのは前述どおり。
ダビデ像の右に立っているのが右下の写真の像。これが何の像なのかは分からない。(後で判明↓)

ヘラクレスとカークス像 であることが判明。ヴァンディネッリ作(1533年)

ダビデ像 ダビデ像右隣りの像

ヴェッキオ宮殿

14世紀に建てられた政庁舎で、現在でも一部が市庁舎として使用されている。鐘楼は高さ94mある。
16世紀にコジモ1世が居城とし、ヴァザーリによって内部が大改修された。2Fの大会議場「500人広間」のフレスコ画が見所なのだが見学はなし。

ヴェッキオ宮殿 ヴェッキオ宮殿

ランツィのロッジャ

宮殿の右隣り、ウッフィッツィ美術館手前に、アーチ型の彫刻回廊、ランツィのロッジャ(Loggia di Lanzi)がある。
ここにはベンヴェヌート・チェッリーニ(Benvenuto Cellini)作のメデューサの首を持つ「ペルセウス」像(写真右下)やジャンボローニャ(Gianbologna)の「サビネの女の掠奪」など数かずの彫刻作品が並んでいる。

ランツィのロッジャ メデューサの首を持つペルセウス
石像の真似をする芸人

スタチュー(statue:人間彫刻)

左は、石像の真似をしている芸人。パリやロンドンでも見かけたことがある。今回は直前に動いていたので生身の人間とすぐわかったが、こう白く塗っているとほんとうに石像と間違えてしまう人もいるだろう。でも、この人たち、どのようにギャラをかせぐのかな?それとも単なる修行?(もしかすると賽銭を入れる皿などがそばに置いてあったかも知れない)
上野の東京都美術館前で日本人でこれを行なっているのを初めて見た。スタチューという「じっと動かないでガマンする芸」であることを教えてもらう。お金(小銭でOK)をカンパすると動く、というのが通常なのだそうだ。(09/05/21追記)
ローマでも発見! (09/06/17追記)

ウッフィッツィ美術館

ウッフィッツィ美術館入場チケット半券

さて、著名なウッフィッツィ美術館(Galleria degli Uffizi)なのだが、本日でいちばん時間をかけたポイントであるにもかかわらず、内部から外への撮影以外は禁止されていたため、なにもここでは紹介ができない。ただ、所蔵されている絵画等はあまりにも有名なものばかりだから、以下、主なものを列記するので、内容を確認したいかたはドラッグ右クリックして検索されると、すぐ映像が見つかるだろう。
なお、右写真は入場チケットの半券。
参考: ウッフィッツィ美術館のサイト
(09/05/25追記)


[美術館所蔵の主な作品]

サンドロ・ボッティチェッリでは「東方三博士の礼拝」「春(プリマヴェーラ)」「ヴィーナスの誕生」「マニフィカトの聖母」など、ピエロ・デラ・フランチェスカの「ウルビーノ公爵夫妻の肖像」、ルーカス・クラナッハの「アダムとイブ」、ティツィアーノ・ヴェチェッリオの「ウルビーノのヴィーナス」、レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」ほかフィリッポ・リッピの「聖母子と二天使」、ミケランジェロの「聖家族」、ラファエロ・サンディの「ヒワの聖母」、パルミジャニーノの「長い首の聖母」、カラヴァッジオの「バッカス」等々・・・。

ウッフィッツィ美術館は着工が1560年、メディチ家のコジモ1世の依頼で建築家ヴァザーリが担当、uffizi が英単語 office の語源であるように当初、行政と司法のオフィス(uffizi)を建築、そこからアルノ川を越えた西南のピッティ宮殿までをつなぐ大回廊(ヴァザーリの回廊)を築いた。1591年より部分的に公開し1765年からは一般公開されている。近代美術館としてヨーロッパ最古のもののひとつ。メディチ家歴代の美術コレクションを収蔵、イタリア国内の美術館としては収蔵品の質、量ともに最大のもので、展示物は2,500点にのぼり、古代ギリシア・ローマ時代の彫刻からイタリアルネサンスの巨匠たちの絵画、さらにそれ以前のゴシック時代、以後のバロック、ロココなどの絵画が系統的に展示されている。

ウッフィッツィ美術館

ウッフィッツィ美術館は北向きに口を開いたコの字型をした建物で、底辺部分の回廊からのみ外を撮ることができる。
左がその2Fの回廊の窓から北向きに撮ったもの。正面に ヴェッキオ宮殿、その奥に ドゥオーモのクーポラ が見える。
あいかわらずここでも改修工事がされているのが見える。新築の建物の工事はほとんどなくこうした補修・改修工事ばかりなのだろう。
コの字の内側、写真前方右下に美術館の入口がある。これだけ著名な芸術品があるわけだから、いつも混雑して、予約しないと相当待たされそうだ。

▼余談1: いま日本では上野と六本木の2ヵ所の美術館でルーブル美術館展をやっている(注:2009春開催)。ルーブルならパリ訪問時に見てきたし、もとより知っているのだが、実をいうとウッフィッツィ美術館なんて名は聞いたことがなかった。もちろん「ヴィーナスの誕生」等々有名な作品は見知ってはいたのだが、その所在地についてはほとんど知識がない。常識なのかも知れないがここのあたりはわたしは実に無知である。それと白状しておくが、絵画についてはまったく薀蓄が語れない。とくに、「宗教画」といっては語弊があるとは思うがこうした関連の芸術品はわたしには「ネコに小判」で、あまり興味がないから勉強もしていない。だから絵画鑑賞は少々苦手なのである。
確かに精緻・重厚なタッチでとてもこんな絵を描くのはすごいことだと思うのだが、むしろ、こうまでキリスト教が当時の芸術家の活動に影響を与えたということのほうが、どうも無宗教で不信心なわたしには不思議であり驚異に思う。美しい好きな作品という意味では、最近、拝見させていただいた地元の日本画家の巨樹の作品のほうが数倍もわたしにとって親しみやすく価値が高い。ルネッサンス・文芸復興などといってもギリシャ神話や聖書等々のテーマを除くと、なにも残らないのではないか?わたしと同じ宗教レベルの日本人が大勢、こうした美術館へ殺到するのがまた不思議にも思う。わたしは同様に、日本の仏教美術というものにもあまり食指が動かない。最近、阿修羅像が騒がれているが、とくに重い腰(事実、重い)をあげてわざわざ実物を見に行く気持ちにはなれない。そんなわたしには、イタリアの美術館はもったいなさすぎるだろう。事実、ほんとに有名なものだけでわたしは十分、できれば建物外観の写真を撮る時間が欲しい。ただ、エッシャーのだまし絵なんかは喜んで出かけて見に行くのだが・・・。
▼余談2: ツアーガイドの話だが、少し苦言をいいたい。ウッフィッツィ美術館はいちどに35人の団体はお断り、というので2組に分かれることになった。当然、ガイドが2人要ることになり、これは予め旅行社でキャスティングしてあったわけだが、わたしも知っていながら失敗した。
失敗というのは、愚図愚図前を譲り合ってNo.2のガイドの組に図らずも入れられてしまったことである。だいたいNo.2はどんな場合でも能力が格段と低下する。今回も例外ではなかった。
17人の組だったのだが、どこかで人数を確認したときそのB組No.2ガイド女史は自分で数えて「16人しかいませんね」という。
どうするのかと思ったら「まあいいでしょう、行きましょう」。
おいおい、まあいい、とはどういうことか。それはないだろう!添乗員はさっさとA組についていき、団体の責任は彼女にあるというのに。わたしは素早く目で妻と娘を確認し、さっと人数を数えてみた。2度数えてちゃんと17人いたので、ガイド女史に文句をいうのはやめた。もし16人だったらおそらくクレームをつけていただろう。
そして彼女のガイドそのものが偏執的でよくなかった。先を急ぎながら、自分の個人的興味がある絵画では長く立ち止まり、解説は繰り返しが多く異様に伸ばす。そして、肝心の「ヴィーナスの誕生」などでは、さらりで「次、急ぎましょう」。
妻もあきれてイヤホンをはずし、ちがうツアーのガイドを聞いたりしている。
「ヴィーナス全体が浮き上がっているように見えるのは全身の輪郭に沿って無数の細い線が書き足してあるから。写真では分からないのでこの機会に近づいてごらんください」という別組ガイドの説明を盗み聞いて妻は、「あっちはいいね。うちのガイドはなにもそんなことを説明していなかった」と憤慨。まあ、わたしは、そのとき、足首が痛くて、部屋の真ん中の長椅子に座ってぼーっとしていたんだけどね。
そんなわけで、ツアーを2組に分けるときがあった場合、必ず最初の組に急いで並ぶようにしたほうがいいことを申し上げておく。バスはもちろん、ボートや船に乗るとき、美術館、レストラン、店に入るとき、トイレに行くとき、どんなときでも同様。すべて「先」が優遇されるだけでなく「後」はとても損をする。これは覚えていたほうがいい。残り物には福などないのである。
▼余談3: またトイレの話で恐縮だが、たしかこの美術館だったと思うが、ここのトイレは「圧巻」である。相当長い距離をたどっていかねばならないのも驚いたが(もれそうな人はくれぐれもお早めに)、着いた先は何か遺跡のようなところ。トイレばかり撮っていると妻に叱られそうだし、撮影禁止というのもあり、また不審者に見られるのもいやなので撮らなかったが、まあぜひ訪問されたときはお立ち寄りを。

ヴェッキオ橋

ウッフィッツィ美術館から見たヴェッキオ橋

妻がここにはぜひ訪れてみたかったと未練がましくいっているヴェッキオ橋。
景色的には、このウッフィッツィ美術館2F回廊からのカットがいちばんきれいに撮れるのではないだろうか。流れているのはもちろんアルノ川。右手の美術館脇から橋の上をずっと伸びて連なっているのがピッティ宮殿までをつなぐヴァザーリの回廊である。ただ、この回廊はふだんは閉じている。もし開いていたら、妻は、ガイドの説明を無視して真っ先に橋へ向かっていたかも知れない。明朝にピサのオプションを入れたため、フィレンツェでの自由時間のないわたしたちは橋へ直接行く時間がない。橋の両脇には金細工の店が並び両側からアルノ川の景色が楽しめる。

革製品ショッピングからホテルへ

ウッフィッツィ美術館を後にしてショッピングへ

さて、ウッフィッツィ美術館の見学を終えればフィレンツェの観光はほぼ終了である。時刻は4:30。これから、お決まりの革製品の店へやはり徒歩で訪問することになる。その後、バスの停車位置へ行き、ホテルに向かう。
ホテルは街の西にあるのだが、革製品の店は、ウッフィッツィ美術館からさらに東の地区。ホテルとはまったく逆向きなのに店に行くために回り道をすることになる。地理関係を知っていれば、添乗員に言ってショッピングへ行かずに美術館辺りにとどまって撮り損ねたカットを撮りたい気分だったが下調べを怠ったから仕方ない・・・。
足が相当疲れていたし、わたしは物欲がほとんどない人間なので旅行社御用達の革製品の店およびその製品にはまったく興味がなく、早々に店を出て道端に座り込んで休んだりしていた。妻もここでは見てまわるだけでとくに気に入ったものはなかったようだ。娘は、何か買ったのか分からない。革製品の店はもしかしておすすめの優良店だったかも知れないがそんなわけでここでは紹介しない。
店に行く途中で、瀟洒な教会のファザードにであう。後から調べると、これが、サンタ・クローチェ聖堂だったようだ。

サンタ・クローチェ聖堂

サンタ・クローチェ聖堂が見えてくる サンタ・クローチェ聖堂

サンタ・クローチェ聖堂(Basilica di Santa Croce)は、フランシスコ会の世界最大の教会。ミケランジェロやダンテ、ガリレオ、マキャヴェッリといった有名なイタリア人たちの埋葬場所でもある。日程に余裕があれば、聖堂内を見学するのもいいかも知れない。有料である。ちなみにサンタ・クロースとはなんら関係がないようだ、念のため。

ホテルへの道と夕食

ショッピングのあとは、もと来た道の方向へ逆戻りして、アルノ川の川岸に停車しているバスまでまた徒歩で向かう。その位置は後で調べてみたが地図上でどこにあたるのかよく分からない。いずれにせよ、5:45ころに店を出てバス停まで10分ほど歩き、6時過ぎに街の西にあるホテルに着いた。その間のアルノ川の景色と、ハプニングを以下。

アルノ川の景色

アルノ川の景色 アルノ川とバス停

鳥の大群

スターホテル ミケランジェロ

ローマもそうだったのだが、フィレンツェのホテルもミラノと同系列のホテル。ミラノは少し失望したのでどうかと思っていたが、設備そのものはまあまあだった。

ホテル外観
ホテル外観
フロント
フロント
ロビー
ロビー
廊下
廊下。ここもなかなか

ルーム
部屋は清潔、ベッドも広い
バスルーム
バスルームもまあまあ
緊急アラーム
やはり日本語アラームが
TVと歌手
名前は知らない歌手

この日はホテルのレストランで夕食。メニューは、ファルファッレトマトソース(蝶の形をした乾燥パスタ)、ビステッカ(牛の骨付き肉を炭火でグリルしたもの)、ミルフィーユ、コーヒー。
ビステッカの調理の演出があり、ミルフィーユなどの味もまあまあだったのだが・・・。

ビステッカの調理の実演
ビステッカの調理の実演
なぜかわたしのところは大盛り
なぜかわたしは大盛り
ミルフィーユ
ミルフィーユは美味

日本人客のテーブルだけクロスが裏返しの陰湿ないやがらせ。

それほど気にもしてないのだが、いちおう記しておこう。
わたしは最近、よく食べこぼしをするので、あるとき思い出してテーブルナプキンを手にした。
シルク地の淡いピンクのナプキンで妻もシルクかしら、と手にとってみたときにテーブルクロスとコーディネートされていることに気がついた。そこで、なにげなくクロスをさわってみたら、なんと裏返しになっていることに気づいた。
最初はセッティングのときにこのテーブルだけ間違えたのかなと思ったのだが、なにか妙に予感みたいなものがあって、少し席をたってそれとなく他のメンバーのテーブルまで確かめにいってみた。
するとまたしても裏返しなのである。4〜6人ずつ分かれてすわっているのでわたしたちのツアー客だけで6つほどテーブルがあるのだが、その4つまで調べてそうなっている。残り2つはもう調べずに、わたしは次に、少し前にチェックを済ませて席をたった外人客のテーブルまで行ってそれがどうなっているのか確かめてみた。
ちゃんと表になっている!
それを見た瞬間、なぜかわたしは酔いのせいではなく顔が熱くなるのを感じた。
これは作為があきらかである。テーブルには旅行社の名前を記したカードが置かれている。そのテーブルだけが、すべてクロスを裏返しにされているのである。
怒りというより、悲しい気持ちになった。わたしたちがそんなことをされるいわれはない。あるとすれば、過去に日本人の団体客がいかにここで狼藉を働いたかということだろう。
ワインもっと注げ。酌をしろ。日本酒はないのか。おしんこはないのか。どうしてタバスコがない。パスタをずるずる。高吟放歌。ワインをこぼす。ナイフを音を立てて落とす。ねーちゃんヨージがないか。ゲロを吐く。放屁する。げっぷする。つぶれてイビキをかく。外人客にからむ。金ならあるぞと威張る・・・etc.
まあオーバーにいってみたが、わたしたちの先輩でそういう不埒なことをした者がいるのかも知れない。
そして、金は持っているがマナーの悪い日本人はいつも心のなかでは軽蔑されているのかも知れない。
ローマに行ったときこのことを添乗員に話したら顔色を変えていた。
旅行社に文句などいうつもりはまったくなかったのだが、考えてみれば、ホテルとの契約でなんとでもなる話である。
わたしはどうにもならない欧米人と日本人との壁を感じたのだが、よくよく考えてみるとそんな陰湿ないたずらをするイタリア人も尊敬できるものではない。イタリア人全部がそういう卑劣な者たちとは限らないだろう。逆の立場になれば、急に金持ちになった韓国人が、銀座の高級寿司屋で何十万円も使っていたら、わさびを思いっきり利かせてやりたくなるという程度のことかも知れない。そういう意味では、韓国人も日本人もまだまだ成り上がりものなのだろう。フィレンツェのあの圧倒的な歴史の重みがそういっているような気がする。
夜になってこんな事件があったが、ここで記すからさも重大なことに見えるが、その日は概してわたしは機嫌がよかったのである。美しいフィレンツェを十二分に堪能したのだから。( イタリア紀行Ⅷ に続く)

(09/05/20) (09/04/11撮影=現地時間)