じぶん探訪

遠出はできないと思っていたけど、一生に一度はね。ということで。

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その7-5.イタリア紀行X 「晴れてさらに輝くベネチア」

ベネチアのメイン観光もミラノと同様、半日だけであり、ホテルの近くの乗り場から30分程度のゴンドラ遊覧と、サン・マルコ広場に出て、ドゥカーレ宮殿とサン・マルコ寺院を見学すればほぼ終了。ガラス工房を少し見て、お決まりのベネチアングラスショッピングの後、昼食で解散。午後は自由行動となる。
自由行動といっても、昼食を終えたのが2時を過ぎており、とくに行き先を決めてないわたしたちは、とりとめもなくまたサン・マルコ広場に戻って土産物を選んだりしているとすぐに日が暮れかかってきた。前日より、夕食の店選びに悩んでいたわたしたちは、ほかの多数のツアー客と同様、結局、添乗員の案内する店に行くことになる。
少し慣れてきたいまは、あのときは自分たちでどこか探していくべきだったかなと思うが、あとの祭りではある。
夕食が済めば、夜道はもとより地理に不案内なわたしたちは寄り道もできずそのままホテルに戻ることになり、せっかくの自由時間があったといっても、新規にどこかを見て歩くということは結果としてはほとんどできずじまいに終わった。
でも、初めて体験したベネチアは素晴らしく、ちょっと物足りなさそうな娘はともかく、少なくともわたしたち夫婦はこれで十分満足ではあった。ベネチアは、時間の経過とともにますます美しく変貌していった。それは、必ずしも曇り空が晴れてきたからという理由だけではないような気がしている。

ゴンドラ遊覧

ゴンドラとは、ベネチアの伝統的な手漕ぎのボートのこと。ゴンドリエーレ(船頭)が舳先に向かって立ち、片方だけのオール(櫂)で押す力によって推進する。わたしたちはツアーに含まれていたので、5〜6人乗れる乗り合いタイプのゴンドラで6艘に分かれて乗ったが、普通は座席ももう少し豪華で並んで座れる2人乗りのものもあるようだ。島の各所に乗り場(緑の看板で「GONDOLE」と書いてある)があり、ゴンドリエールに声をかけて乗るということらしい。乗船料金(交渉制)はちょっと高めで50分程度で62〜100€、1万円前後は必要だが、時間によりいろいろ行きたいルートを選べるようだ。また、サングラス、スキンヘッドの一見、その筋かなと思うような風貌のお兄さんが、わたしたちが聞いたことのある「帰れソレントへ」「フニクリ・フニクラ」「オー・ソーレ・ミオ」「サンタ・ルチア」などのカンツォーネを何曲か唄ってくれる。これはチップとして5€ 程度必要。わたしたちのツアーにも唄がついていた。
ゴンドラ遊覧は、スライドショーで、わたしの目線で同じ体験をしていただこう。(音楽はつけないが・・・)

サン・マルコ広場とドゥカーレ宮殿

サン・マルコ広場

サン・マルコ広場

水の都ベネチアのシンボルともいっていいのが、島の南に東西に広がる広大なサン・マルコ広場(Piazza San Marco)。
ベネチアの広場は一般にカンポ(campo)と呼ばれるが、サン・マルコ広場は別格でピアッツァ(piazza)と呼ぶ。
サン・マルコの名は、ベネチアの守護聖人である福音記者マルコに由来している。新約聖書の「マルコによる福音書」の著者とされる人物である。
18世紀にベネチアに侵攻してきたナポレオンが「世界一美しい広場」と讃えたサン・マルコ広場。床には大理石の敷石が残っているが、高潮のときにはアドリア海の水位が上がってここが水浸しになることもあるという。そのときは水が引いたあとは結構汚れたりするものかななどと想像。

サン・マルコ広場へ

回廊のある建物に囲まれた広場の正面(東)には、高さ96mの大鐘楼を前に壮麗なサン・マルコ寺院、その右側にはベネチア共和国の政治の中枢だったドゥカーレ宮殿などがあり、ベネチアの観光スポットがここに集約されている。

ゴンドラ遊覧のあと、ここへは、ホテルの南を400〜500m歩けば、広場への入口が、回廊のある建物の下に見えてくる。

回廊のある建物。新旧の行政館

旧行政館と野外レストラン 旧行政館と野外レストラン

北からの入口のある回廊の建物は旧行政館と呼ばれ、12世紀に建てられたもので当時の行政官の執務室や事務所、住居などが入っていた。現在、その1Fには老舗のカフェや高級ブランド店が立ち並んでいるが、建物の前の広場には楽団演奏付きの野外レストラン(写真上)もある。

土産物露店 土産物露店と男女カップル

広場には土産物の露店もあり観光客でにぎわう。わたしたちも午後、再度ここにきてTシャツなど買ったりした。
写真右上は外国ではありがちな風景だが今回の旅行ではこんなシーンはこれだけ。いまはむしろ渋谷あたりのほうが多いのかもしれない。イタリアは歴史を残しているが、日本は変わった。

新行政館

広場を挟んでその真向かいにあるのが17世紀に増築された新行政館で、その1Fも同様に回廊となっていて各種の店が並んでいる。(写真左)
この回廊の建物に向かって左にはこれから紹介する大鐘楼やサン・マルコ寺院などがあるわけだが、では右はどうなっているのかというと・・・。
実は撮り逃してしまったのだが、同様に回廊のある建物があり、コッソーレ博物館となっている。14〜18世紀のベネチアの歴史、風俗、女性のファッションなど、ほかに絵画など展示・紹介してあるということだが、この中は見学していない。

大鐘楼

大鐘楼

16世紀初頭に建設。見張り台と灯台の役割をもっていたが、1902年にいちど崩壊し、10年後に再建されている。
現在はエレベーターのある見晴らし台でビュースポットとなっているが、観覧券を持っていながらあまりスケジュールに余裕のないわたしたちのツアーではここはパス。
鐘楼の鐘は1902年の崩壊時に倒壊を免れて、いまもベネチア中に鳴り響いているということだが、わたしは聞いていないね。
写真に写っている棒のようなものは、脇のサン・マルコ寺院の前に立てられているポール。
また、鐘楼の天辺には、風向きによって回転する黄金の天使像「ガブリエレ大天使像」がのせられている。が、ちょっと写真では見づらい。

サン・マルコ寺院

サン・マルコ寺院

ベネチア商人によってアレキサンドリアから運ばれた守護聖人、聖マルコの遺骸を安置するために建てられた教会。建設は828年だが、増築などされて11世紀に再建され現在に至っている。東方イスラムのモスクを思わせる5つのドーム屋根や各所の黄金のモザイクなど、海運王国ベネチアの繁栄がしのばれる。
(しかし、撮影は中途半端。建物の頂上には聖マルコ像があるということだが、ちょうど切れて撮れているし、もっと全容を写さないとねえ。これは、あとで再撮影したものを掲載)

サン・マルコ寺院とイギリス観光客

上の写真を補って、サン・マルコ寺院の左方を撮ったというより、これはイギリス人の観光客を撮ったもの。
ベネチアは、日本人の団体ばかりではないということをわたしはいいたかったわけだ。
それにしても、チェックのタータンが分かりやすい。こんなにも愛着があるわけ?
でもイギリス人はやはり紳士的というのは当たっているように思う。それに対し、アメリカ人は陽気だけど、マナーがよくないね。今回も、ローマのホテルロビーではうるさいことうるさいこと。昔の日本人のおじさん団体以上じゃあないかなあ。

サン・マルコ寺院

これは寺院の右方、というほどでもないか。2つ前の写真のもう少し下方のカット。
見学用の入口にたくさんの外国人観光客が並んでいる。
これは10時半ころだが、このころから観光客がどんどん増えだした。したがって見学するための順番まちの時間が結構かかることになる。寺院内には、奥のドゥカーレ宮殿から先に見たあとで寄ることになるのだが、ドゥカーレ宮殿内も混雑して時間が押してしまい、さらに寺院ではちょうどイースター(復活祭)の時期にあたりミサが催されているせいもあって混雑し、見所をいくつかカットされることになる。しかも、撮影禁止の箇所が多いため、この紀行では紹介するところが少なくならざるを得ない。
混雑といえば、日本語が上手なイタリア人女性ガイドがスリが多いといっていた。後ほど寺院に入るために並んでいたとき、彼女がわたしの目の前で、ある男を指し、「カメラやバッグなど何ももたない手ぶらのこの人が怪しいですね」と指摘。確かに彼は入口で追い払われるように締め出され、また改めて後尾から列に並びなおす、という行為を繰り返してガードの甘い観光客を狙っていたようだ。

ムーア人の時計塔

時計塔

寺院に向かって左隣、旧行政館の建物奥にあるのが時計塔。
コンドゥイッチにより15世紀に建てられたもので、屋上には、2体のムーア人の像があり、鐘を鳴らしているということだ。写真では屋上の手すりの陰になって見えにくい。
その下に有翼の獅子像がある。これは、広場の随所にあるが、聖マルコと街のシンボルでもあるということだ。
→ ということは、この日の早朝散歩で見た「ガーゴイル像か?」(イタリア紀行Wで紹介) というのはこの有翼の獅子像なのかも知れない。
なお、この時計塔は、リアルト橋方面への出口の目印ともなっている。

小広場と2本の円柱

小広場と2本の円柱 テオ・ドール像と有翼の獅子像

大鐘楼の右手、ドゥカーレ宮殿の前は小広場と呼ばれ、共和国時代は「海の玄関口」としてにぎわった。
奥の海から見て、入口に立つ2本の円柱の頂上には、左に守護聖人であるテオ・ドール像、右に街の象徴でもある有翼の獅子像が立っている。(陸地から見たこの写真では左が獅子像)

小広場と有翼の獅子像 小広場からアドリア海方面を
小広場からアドリア海方面を

海のほうにはなにか幻想的な建物が見える。もっと近づくとともにいろいろ撮ってみたかったが、観客はさらに増えてきて、次の場所への移動をガイドから催促されるハメとなる。

サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会

サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会

前後するが、上記のアドリア海に浮かぶ幻想的な建物を、ドゥカーレ宮殿を見学中に回廊から撮影することができた。
ここはコース外なので、ガイドからの説明はなく、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会という名前であることは後で調べて分かったこと。別名「海辺の貴婦人」とも呼ばれている。
なるほどその名にふさわしい優雅なたたずまい。天候がよければもっと美しくとも思うが、このほうが意外と雰囲気があるかも知れない。
1630年に完成。

ドゥカーレ宮殿

ドゥカーレ宮殿

さて、本日メインのドゥカーレ宮殿の見学。広場のいちばん奥の建物である。
ドゥカーレ宮殿は、ベネチア共和国の中枢の建物で、総督の住居としても使用された。9世紀に創建され、14世紀にはゴシック様式に改築、16世紀にはベネチア派の画家たちが壁画や天井画を華麗に描いた。法廷など撮影禁止の箇所が多い。
記憶が錯綜しているが、ここの入場も混雑していてスムーズではなかったような気がする。ガイドは午後のスケジュールが詰まっているのか、あるいはいちばん後の定番のベネチアングラス・ショッピングに遅れさせまいとしているのか、後の寺院での混雑時も含め、相当あせっているようだった。結果、当初予定していた案内スポットをいくつかカットしてしまうのだが、ショッピング時間のほうを少なくするということはないからなあ。だれも買わないような店でもそうなんだから困ってしまう。

[美しい回廊と黄金階段]

ドゥカーレ宮殿2Fの美しい回廊 金のモザイク

左上は宮殿2Fの美しい回廊。ここから、天井が金のモザイクの階段(黄金階段)をのぼり、宮殿のさらに奥に行く。黄金階段は、建築家サンソビーノ作。

[世界最大の油絵がある大評議会の間]

ドゥカーレ宮殿内絵画 ドゥカーレ宮殿内天井画

絵画や天井画が描かれた部屋を見る。上右が、正面にティントレットの「天国」が描かれている大評議会の間(Sala di Maggior Consiglio)。ここは撮影禁止、だったと思う。

さて、ここから、裁判室(法廷)や、牢獄拷問部屋独房などの紹介となるのだが、これらはほとんどが撮影禁止であるとともに、独房などは時間がなくて見ることができなかった。(あとで妻に聞くと、ツアー戦列を離れ、独房を見てきたという勇士がいたらしい)
また、溜め息の橋というドゥカーレ宮殿の尋問室と牢獄を結ぶ役割りを果たした橋が、宮殿東側の小運河に架かっているのだが、これは海側のバリア橋やゴンドラなどの船からでないとうまく撮影できないようだ。
橋の名は、刑に処せられる前に、橋に設けられた石の窓の外からベネチアの美しい景色を見られるのは最後、ということで囚人が溜め息をつくというところから、19世紀にジョージ・バイロンによって名づけられた。
ここから見た海側の景色が、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会の写真 だったかどうかは記憶があいまいだが、囚人の見た景色はその反対側の街の方角だっただろうか。

この後、宮殿内の中庭を経由して、その間にあるギリシャ神話の神々の彫像などを見ながら、いったん外にでて、さきほどの長蛇の列のサン・マルコ寺院内への見学に移る。

2F回廊から中庭を見る 中庭の奥に入口の列が
中庭。彫像の正面から

左上は2Fの回廊のバルコニーから中庭を見下ろしたところ。
彫像の背後から中庭奥に宮殿入口に並ぶの人の列が見える(右上)。
左は、中庭に降りて2つの彫像を正面から見たところ

宮殿から出ると、青空が・・・

青空が広がる リアルト橋への出口

ドゥカーレ宮殿から出ると、ようやく待ち望んだ青空が広がり始めた。時刻は11時半。昨夕18時ころからの曇天がやっと解消される。さきほどの 時計塔の頂上の2人のムーア人 を今度は写すことができた(左上)。
右上は、時計塔の右横(サン・マルコ広場の北東)、リアルト橋への出口に通じている。

青空とともに増えていく観光客

広場に集まる人々 広場に集まる人々 広場に集まる人々

寺院の中はほとんど撮影不可

サン・マルコ寺院

さて、サン・マルコ寺院の見学だが、これはほとんどが撮影不可。さらに、内部ではミサが催されていたことや、観光客がどんどん増えてきたため、入口で入場制限が行なわれていた。
その係員が頑としてわたしたちの一行を2Fへ通じる1Fのコーナーへ通そうとしないので、ガイドは「どうしてなんでしょう?わたしたちは優先券を持っているのに!1Fの無料で入れるところは空いているのに、そこへすら通そうとしないのはなぜなんでしょう?」と憤慨、苛立っていた。わたしは、もしかして人種差別かな、とちょっとその係員をにらんだが・・・。
やっと、入ることができ、2Fへの登り階段を見たとき、「ああ、これでは仕方ないな」と思った。
細くて急な階段。わたしのようなデブだと降りてくる人とはすれちがうことも厳しいような按配。おそらく2Fも観光客であふれているのだろう。係員は、危険のないように降りてくる人数を数えながら一定数の人数を通していたのだろうと思った。
なお、寺院正面の美しい画はもちろんすべてモザイクである。

2Fに登ると、バルコニーが寺院の周囲を取り囲んでいて、そこからはサン・マルコ広場等が一望できる。
正午には雲はすっかり消え、快晴となった。

サン・マルコ広場一望 サン・マルコ広場一望
時計塔と馬の銅像

ここからも時計塔のムーア人が見える。
手前の馬の銅像(現在置かれているものはレプリカ)は計4頭いるが、ちょうど寺院の正面入口の上に置かれている。これは、もともとコンスタンティノポリスの競馬場にあったもので、1204年の第4回十字軍のときに略奪され、ここに運ばれたという。
せっかくだから、寺院2Fバルコニーから撮った大鐘楼の写真も掲載。

大鐘楼 大鐘楼
大鐘楼へ登る人々

これは、大鐘楼へ登るために入口に並んでいる人々。
この入場料も払い込み済みなのだが、時間がなくて登れないのは前述。
エレベーターならいいけど階段ではちょっとね。
ベネチア3泊ぐらいあれば・・・。

入場チケット半券

さて、寺院内ではほかに金と宝石等で飾られたきらびやかな装飾や、至宝の数かずを見たわけだが、残念ながら撮影禁止でここに掲載するわけにはいかない。しかし、混雑のため時間不足で、聖マルコの遺骸が安置されている場所等々は撮影の可否以前に見学そのものがコースからカットされてしまった。わたしはさほどではないが、妻はちょっと残念そうである。

入場チケット半券裏

写真はここの入場チケットの半券の表(左)と裏(右)。Musei Civici Veneziani とはベネチア市民博物館。
(09/05/25追記)
以上で、本日のガイド付き観光はほぼ終了で、以下は、ショッピングと食事、自由行動となる。
あっと、ガラス工房の見学があったが、まあこれはショッピングの前のイベントである。

ベネチアングラス工房、ラグーナ・ムラノ・グラス

グラス工房へ

サン・マルコ広場からリアルト橋方面の出口を出て、まっすぐ西に向かうと、グラス工房へ行くための専用の橋が前方に見えてくる(写真左)。

橋を渡るとすぐがラグーナ・ムラノ・グラスと呼ばれるグラス工房だ。
ここで、グラス造りの実際を見学したあと、ショッピングとなるのだが、支配人らしき中年のイタリア紳士が、流暢な日本語でベネチアングラスの商品説明をしてくれる。
それは、大道芸人さながらのユーモアを交えた上手な語りで、観客を笑わせるテクニックはなかなかのものがあった。
商品もさすがに700年の歴史があるイタリアの伝統芸術というだけに素晴らしいものだが、いちばん高価なものでも数十万円程度と、思ったほど高価ではない。もちろん、だからといってそれを買う気はない。というより、立派過ぎてとてもわが家の調度には合わないというのが真実のところだ。豪華な応接間があり賓客が絶えない家なら妥当な商品ではある。
それならばと紳士はだんだんと安価なグラスを紹介していくが、とくに欲しいというものがない。彩色はいいのだが、わたしは薄いグラスが好きでその観点で選ぶから、そういう意味ではベネチアングラスへのこだわりはない。

ベネチアングラス工房 ベネチアングラス工房

グラス作りの歴史は古く紀元前4千年に遡る。フェニキヤ人がシリコンとソーダを混合して作ったのが始まりで、後にエジプト人が吹きガラスや色ガラスなどの技術を発達させ、ローマ帝国時代に高度な技術が花開く。当時、グラス製造の中心地アクイレアは蛮族の侵入によりその職人たちがアドリア海岸を南下、ついにはベネチア本島から北東約1.5kmにあるムラノ島に定着した。ベネチアングラスをムラノグラスとも呼ぶのはこのため。ムラノとは日本人の村野さんが語源だと面白いがまさかね。

グラス工房前の運河 グラス工房前の運河とゴンドラ

上は、グラス工房前の橋から撮った風景。やっぱり太陽が出たときのほうが美しいなあ。
右は、2人乗りのゴンドラ。中年でも外人はさまになるね。

昼食と自由行動

昼食はミラノより数段上

グラス工房からレストランへ向かう

グラスショッピングを終えて昼食へ。この時点で、時刻はもう13:15を過ぎている。昼食を終えればおそらく14:30ころになるだろう(実際は15時過ぎとなった)。ここまでが、ツアーの団体行動。
それから夕食のホテルでの待ち合わせ時間は18:00だから、自由行動は、正味3時間半である。
左は、レストランまでの途中。もう細い通りは人でいっぱいだ。

イカ墨のリングイネ

ここのレストランの味はまあまあ。メニューは、イカ墨のリングイネ、クルマエビと平目のグリル、サラダ、ティラミスだが、欲をいえば、食べたことのないものにしてほしかった。
ずいぶん歩いてのどが渇いたのでビールがうまい!飲み物は各自別料金で、ビールは8€ (1,000円程度)と、ちょっと高い観光地価格。妻と娘がオーダーした「水」は5€、まあ仕方ないね。
ちなみに、イタリアのコーヒーは濃い目の味。わたしはこのほうが好き、というよりアメリカンをいまだかつておいしいと思ったことはない。アメリカンばかり一日に何杯も飲んでコーヒー党というのはちょっとちがうのではないか。

自由行動は、サン・マルコ広場に逆戻り

自由行動へ

今回のツアーでは、少ないがこれが初めての自由行動となる。まったくその計画を立てていなかったわたしたち(少なくともわたしと妻)は今後の行動について少し意見が分かれる。
リアルト橋のほうに行きたいと娘がいい歩き出したのだが、わたしは現在地と方角がはっきり分からず、どうも漫然と歩くのが気持ちが悪いので、いったんサン・マルコ広場に戻ることを提案。
サン・マルコ広場についてようやく朝の散歩のおかげで土地勘が出てきたわたしは、さあと思ったが、妻はここで少し買物がしたいといい、娘はやはりリアルト橋方面へ行きたいという。
海外旅行が初めての娘に単独行動をさせるのはちょっと気になるところだったが、では、5時までにホテルに戻るという約束で行かせることにした。ツアー最終日のローマでも同様に自由時間があり、娘を単独行動させることになったが、ちゃんと予定の時間に戻れるか心配した。それらはすべてが杞憂に終わったわけだが、海外では何があるか分からないのでこれくらい心配してもしすぎではないと思う。イタリア語は無論、英語も満足に話せないのだから。
それと、必要ないだろうとあえて海外用の携帯を用意しなかったが、こうした自由行動で家族が分かれて行動するときにはあったほうが便利だと思った。もし、トラブルがあったときに手の施しようがない。娘は、割とのんきに構えていたようだが、できれば単独行動は今後の海外旅行ではやめてほしいと願っている。
ということで、ここからしばらくは妻とわたしだけの行動になる。

サン・マルコ寺院全景と頂上の聖マルコ像

サン・マルコ広場とサン・マルコ寺院 サン・マルコ寺院頂上の聖マルコ像

ようやく寺院の全景と頂上の聖マルコ像、その下の有翼の獅子像を撮ることができた。

いちだんと明るくにぎやかなサン・マルコ広場

広場に集まる人々 広場に集まる人々 広場に集まる人々

旧行政館1F回廊でショッピング

旧行政館1F回廊西向き 旧行政館1F回廊東向き

ああでもない、こうでもないで、行ったり来たり。足が痛いのに買物時だけは妻は元気。もう時間がないよ。

娘と合流しホテル近辺を散策

ホテル近辺を散策
ホテルすぐ横の運河も 朝の散歩時 とは少しちがう。
ホテル近辺を散策
朝と同様、人通りのない小路も。ただしもう17:30。

マニン広場
市場発見。朝のマニン広場 と同じ場所かも。
マニン広場
いろんな食材がいっぱい。どれを選ぶ?

ホテル近辺を散策
ウィンドウショッピングもまた楽しい。
ホテル近辺を散策
こんな演奏も。フルートというのが日本とは少し・・・。

夕食はリアルト橋近くの居酒屋風レストラン

リアルト橋

7時にホテルに集合して夕食に。
添乗員のお勧めのリストランテは、はからずもリアルト橋を渡ってしばらくの店。
おかげで、橋からのカナル・グランデ大運河の夕景などを撮ることができた。

大運河夕景

夕食がこの橋の近辺でなかったら、この風景は2度と見られなかったかもしれない。
そういう意味では添乗員に感謝。
レストランは、新橋の一杯飲み屋の雰囲気。一品一品が大盛りでとても1人では食べきれない量だが、その分、料理の質は荒削り。しかも勘定が思ったより高い。
わたしは概算でほぼ正確な値段を計算できるのだが、サービス料を加えたとしても20〜30€ ほどちがうように思う。ほかの客と分け合って食べたせいもあって、他の人の注文したものもついていたのかも知れない。まあ、いいか。

大運河と岸辺のレストラン リアルト橋の土産物店

ベネチアは本日までで、明日はフィレンツェへ。
いい忘れたが、ベネチアは、運河のなかに大量の丸太の杭が打ち込まれている。それは建物の土台となっているようで、ベネチアを逆さまにすると森ができるとまでいわれている。運河の岸でよく見かけたが、船の桟橋程度に思っていた。
そのことも驚異だが、この本土から4kmも離れた島に、こんな大掛かりな世界遺産の数かずを建造する、その莫大なエネルギーに驚嘆する。石材にしろ何にしろもともと島にあった資材はむしろほんの一部だろう。莫大なエネルギーとは、莫大な権力であり、莫大な奴隷たちの血と汗ともいえよう。
あと、これはイタリア全土にいえることだろうが、各観光地では、何かしら歴史的建造物の補修工事が行なわれている。みなスケールの大きいものなので、1ヵ所の補修が終わるころに同じ建造物の別の箇所を補修しなくてはならなくなるらしい。したがって、美しい建造物を無キズのままで撮影することは難しいかも知れない。サン・マルコ寺院でもミラノのドゥオーモでも、工事がいろいろ行なわれていた。( イタリア紀行Ⅵ に続く)


番外。スリの話

ガイドからイタリアはスリが多いとさかんにいわれていたが、そんな気配はいちども・・・なんて思ったら、ついにそのときが。
夕方。ホテル前で妻と話しているときだった。
ちょっとふいを突かれた感じで、お互いの目線の死角のほうからするするとそれは近づいてきた。
びっくりして振り向くと、ジプシーの子どもが何かいいながらチューリップのような茎の長い花を高く持ち上げ、それをわたしたちの目元に突きつけようとしながらどんどん近づいてくる。咄嗟にわたしは花に気をとられてはいけないと急いで辺りを見回すと、4〜5人の子どもたちがわたしたちを取り囲むように一斉に近づいてきた。
わたしは大声で「Non!」を繰り返し、左手で自分のカバンを押さえ、妻のカバンに触ろうとしている子どもを右手で払いのけた。
自分でも意外なその素早さに子どもたちはたじろぎ、身を引いた。わたしはなおも回転しながら自分たちに近寄らせまいと手を振り回したので、子どもたちはあきらめたのか、けらけら笑いながらみんないずこともなく去っていった。
もくろみが外れたという感じなのだろう。
初めての体験に妻はポカンとあっけにとられたような顔をしていた。わたしのほうは、無事だったとはいえ、ターゲットにされたことが無性に腹立たしかった。もちろん鞄等はたすき掛けにし、しかも前に持つという風にふたりとも備えていたのだが、それでも狙われたとは心外である。
しかし、そのときは話に夢中になって一瞬、スリなどのことを失念していたときでもあった。そこを突いてきたとは敵もさるものである。
暴力をふるうつもりはなかったが、払いのけたとき、もし1人でも捕まえていれば怒りで殴りつけていたかもしれない。
ふいを突かれたことが少しショックだったからである。それまではいつも注意を払っていたというのに。
しかし、今回の旅行でわたしたちが遭遇したスリ関連の事件はこれ1回のみだった。何も経験しなかった娘は、いよいよ甘く考えているかもしれない。


(09/07/08追記) (09/05/07) (09/04/10撮影=現地時間)