遠出はできないと思っていたけど、一生に一度はね。ということで。
さて、次はベネチア。ミラノ市内観光の午後、一路南下ではなく東進してイタリア北東部、アドリア海に面するベネチアに向かい、夕方着。ちなみにミラノからベネチアまで約150km。
本格的なベネチア観光は翌日になるが、本編7-4はベネチア到着時から記述する。ベネチアで泊まったホテルは狭かったのだけれどわたしはとても気に入った。その話と翌朝のまだ観光客が街に出歩いていない早朝散歩時のカットまでを本編で紹介することにする。(散歩後の本格的なベネチア観光については続編の7-5で紹介する予定)
余談だが、このコンテンツを作成中の帰国後の現在(4/29)、豚インフルエンザで世界は警戒レベル4の騒ぎとなっている。イタリアはまだ日本と同様、感染者はでていないが、時間の問題なのかも知れない。メキシコはもとより、カナダ・アメリカ・スペインへの渡航の制限や、ツアーの延期、キャンセルも出ていることから、わたしたちはテポドン騒ぎや地震等もあったが間隙を縫ったいい時期に旅行してきたのかも知れない。あっ、いまレベル5に上がっちゃった!(4/30)
ベネチア(ヴェネツィア、ヴェネーツィア、ヴェネチア、ベネツィア、ベネティア、ヴェネティア)の予備知識
「水の都」としてあまりにも有名なベネチア(Comune di Venezia)は、中世イタリアを代表する海運王国「ベネチア共和国」の首都として栄えた。ほかに別名「アドリア海の女王」「アドリア海の真珠」などをもつ。よく聞くベニス(Venice)は英語。フランス語でヴニーズ(Venise)、ドイツ語でフェネーディヒ(Venedig)と呼ばれる。
特徴は、水の都の名のごとく、運河が発達していること、また自動車が利用できないため、主な交通機関は必然的に船になる。水上路線バスの「ヴァポレット(vaporetto)」や水上タクシーの「モトスカーフィ(motoscafi)」などがある。ベネチア本島内は、自動車での移動が不可能なだけでなく自転車の使用も一部の例外を除いて禁止されている。
118もの小島から成り、礼拝堂、リアルト橋、市場に至るまで世界遺産となっている貴重なイタリアの観光資源ではあるが、地球温暖化によって海面上昇が今後加速されれば、島全体がアドリア海に水没してしまうことも懸念されている。
ベネチア生まれの歴史上人物では「東方見聞録」を残したマルコ・ポーロ(1254生まれ)がいる。ベネチア最大のサン・マルコ寺院、サン・マルコ広場のマルコとは別人、もちろんちびまる子でもない。ほかに、18世紀の音楽家、ビバルディもベネチア生まれ。
ベネチアといえばビスコンティの映画「ベニスに死す」が有名だが、観光地での疫病の発生や一見、同性愛映画ととられそうなストーリー展開など必ずしもベネチアの街としての美しさを表現したものではない。映画ではほかに、キャサリーン・ヘプバーン主演の「旅情」や「リトル・ロマンス」でもベネチアが舞台となっている。
イタリア本土からベネチア島までは鉄道とそれに沿った道路が通っているが、わたしたちはバスで、リベルタ橋(ベネチア島と本土のメストレ地区とを結ぶ全長3850mの道路橋)を渡り、ベネチアの入口にあたるローマ広場(写真下)に着いた。ここから水上タクシーに乗ってホテルのある本島まで行くことになる。
この広場から運河を挟んで対岸にサンタ・ルチアという名の鉄道駅がある。鉄道でベネチアに来るときの終着駅になる。
このことを知って、わたしはあれっ?と思った。サンタ・ルチアはナポリではなく、ベネチアにあるの?
サンタ・ルチアは小学校か中学校かの音楽の時間でナポリ民謡としてわたしたちは習ったはずである。
これはどういうことだろう?
なんたるちあ、というだじゃれがあるものだから、サンタルチアはサンタル・チアと誤解している人もいるかも知れないが、「聖ルチア」という意味で、サンタ・ルチアが正しい。イタリアの美しい街、ナポリを守護していると言われる聖女、Santa Lucia (聖ルチーア)の名である。聖ルチーアは、2世紀の終わり〜3世紀の初頭にイタリアはシチリア島のシラクーサという町に実在した人物で、当時のローマ帝国の下で殉教し、聖人に列せられた。ナポリの守護聖人だが、「目の神」「光の神」としてイタリアの様ざまなところに Santa Lucia の名前のついた地名や教会、通りなどがあるということだ。
したがって、ナポリのサンタ・ルチアは港の名前であり、ベネチアのサンタ・ルチアは、駅とその近くにある教会の名前ということになる。本家本元はナポリだが、いまやサンタ・ルチアはベネチアの歌と呼んでもいいくらいに浸透しているとのことだ。
さて、以下は、水上タクシー(モトスカーフィ)乗り場。
水上タクシーからの景色
水上タクシーは、タクシーというくらいだから、乗車賃は安くはないらしい。金額は調べてないので分からないが、日本のタクシーと同様、基本料金があり、一定の距離によって料金が加算されていくシステムである。初乗りが10€ 前後、1,000円以上かかりそうである。
1台に12、3人は乗れそうなので、わたしたちは35人のツアーだから3台に分かれて乗ることになった。
わたしはひと組の最後のほうに乗ったため、座席が船の後部となったが、そこは逆に頭上が開けており、立ち上がると進行方向の景色を眺めることができた。
細めの運河を抜けると、大河のような見晴らしのいい場所に出た。カナル・グランデ(大運河)である。
下の左の写真に見える橋が単一アーチの「白い巨像」と呼ばれるリアルト橋。
この橋は、13世紀にこの大運河カナル・グランデに最初に架けられた橋で、当初は木造だった。現在の石造りの橋は16世紀にダ・ポンテにより再建されたもの。長さは48m、幅22m、水面からの高さは7.5m。欄干の両脇には土産物店などが並んでいる。
ここはベネチアを紹介するためには最適の景色なのだが、あいにくと少し前から天気は、下り坂というほどではないが、曇ってきてしまった。夕刻に近づいているせいもあって、これでは、写真もいまいちである。
この曇り空は結局、翌日午後まで続いてしまったが、雨は降らずに済んだ。ガイドの話によると、ベネチアは前日が土砂降りで、ここ1週間はよくない天候だったという。
目的地にはとうに着いていたのだが、大運河を少し旋回するように遊覧して、再度リアルト橋に向かい、それに近い桟橋で水上タクシーは停まった。
ここから南に少し歩いてホテルに向かう。
歩くしかない。ほかに交通手段はないのだ。
でも、このベネチア本島は、ほとんど歩いて周れるほどの広さなのである。
ホテルに行く途中、まるで京都の先斗町のような小路が網の目のようになっているのを見て、なにか迷路探検のわくわくするような思いを抱いた。
Bonvecchiati (ボンベッキアーティ)とは1回聞いただけではとても覚えられない妙な名前だが、わたしは今回の旅行で泊まったホテルではここがいちばん気に入った。
さすがベネチアングラスが特産の都市ということで、以下のロビーのシャンデリアや部屋の照明もなかなかのものだったが、わたしが気に入ったのはそのことではない。
シャンデリア
ロビーでチェックインを待つ。広いとはいえないむしろ狭いともいうべきロビーだが、雰囲気はいい。
ベネチアは島全体の面積が広くないから、建物の内装等効率的に設計されているのだろうと想像した。
このホテルもカードキーではなく旧式だったが、むしろここではそのほうが合っている気もした。
さて、わたしたち家族は、添乗員から2部屋のキーを渡されたのだが・・・。
ミステリアスな回廊
ルームナンバーはいずれも600番台なのだが、実は6Fではなく1Fなのだという。(ただし、イタリアでは日本で言う1Fは0Fとして数えるから1Fは日本での2Fにあたる)
ところがその部屋に行くためには、まずエレベーターに乗り2Fへ行かなければならない。
そして回廊を進んだ先で階段を降りてやっと到達するというのである。
これでは、迷路ではないか。
幅が60cm、奥行きが2m程度、わたしたち家族3人が乗ればそれでいっぱい、というなんとも小ぶりなエレベーターに乗り、No.2のボタンを押す。
そして、エレベーターを降りて、部屋番号表示のある→方向の通路に向かおうとしたとき、前方に見えたのが、この写真の景色。
これを初めてみた瞬間、ぞくっとした。
いいじゃない!
これだよ、これ。この不規則感。
そう。なにもホテルの廊下をまっすぐにする必要なんてないんだ。こういう発想が、日本人にはないんだよなあ。
各部屋が遠くから見渡せないほうがいいんだ。
しかし、この光景にはなにかデジャヴュを感じる。
そうだ、ファイナルファンタジーのトリックダンジョンだ。
また、映画サスペリアUの1シーンにもなにか似ている。そういえばサスペリアはイタリア映画だ。
とにかくわたしは、すっかりこの回廊が気に入ってしまった。そして・・・。
しばらく行くと、目当ての部屋はここから階段を降りろ、というわけだ。いやいや楽しいね。まるで、ダンジョンだ。
敷地が狭いから便宜上、こうした造りになっているのかもしれないが、これならわたしは許せる。
細い路地といいこのホテルといい、ベネチアはちょっとミステリアス。
ただし、火事とか地震とか、そんな場合は・・・諦めるしかないか。
部屋は狭いがロマンチック
妻と娘のほうはわたしの部屋より広めで、やはり1人の場合は狭い部屋になるのか、と思ったら、あとでほかのツアー客が別の人と話しているのを聞くともなしに聞いていたら、どうも2人なのにこの部屋と同様の造りだったらしい。そういう意味では、妻と娘は運がよかったわけで、同じ料金でも当たり外れがあるというのが海外ということか。
新婚のカップルも数組いたが、仮にわたしと同様の狭い部屋だとしても、この雰囲気なら彼らには気にならないだろうね。
狭いベッドも新婚向き
ただし、ベッドの幅が狭いのはデブのわたしにはさらに熟睡を妨げるものになった。
相変わらず寝つきが悪いので寝返りをしばしばするのだが、どうもベッドから落ちそうになる。
そこで、どうかなと思いながら、そろそろと2つのベッドの中心にまでカラダを移してみたりした。
なんとか大丈夫かなと思った瞬間、重みでストンとベッドとベッドの間に落っこちてしまい、しばしもがく結果に。
熟睡しているときなら相当ダメージがあったかも知れない。おかげでベネチアは2泊とも一晩中、浅い眠りとなってしまった。
右の写真はベッドの前の部屋の調度だが、かなり高いところにもロッカーがある。身長160cm以下と思われるツアーの婦人が手が届かないのよねと笑っていた。
浴室は大理石。例のヒモも
ここは、水の都だからかどうか分からないが、水圧はOKで、まったく水周りは問題なく、また、タオルが各種ふんだんにあり(まあ2人分使えるせいもあるが)、十分快適だった。
例のヒモもやはり垂れ下がっていたが、ここはとくに日本人が多いというわけでもないのか、日本文字の警告はついてなかった。
不明のボタンまた発見
電話器の左下になにかヘンなものがある。
どうもボタンのような気もする。
上記のヒモをひっぱる誘惑はここでは起こらなかったが、この不明なボタンをどうかすると押したくなる衝動を抑えるのに苦労した。
これはいったいなんだろう?
ヒモの根元にあるもの(上の写真参照)とデザインが実によく似ているから、きっとこれも警報の類にちがいないと推理。
推理するとすぐ答えがほしくなるが、今回は妻がいるためもし問題を起こしたら、あとで叱られるとイヤなのでボタンを押して回答を求めることは自重することにした。(答えが知りたい!)
窓外は・・・
イタリアの窓の特徴は、緑の鎧戸。どのホテルもそうである。これがなかなか開けづらいものもある。
少々苦労して開けた窓外は、確かにここが日本でいうところの2Fであるなという様相を見せていた。
ホテルの食事は・・・
ベネチア第1日目の夕食はホテルのレストランで。写真はとらなかったが、スパゲティのボンゴレと白身魚、フルーツサラダというような感じで、ミラノの昼食よりはよほどましだが、特筆するほどでもなかった。朝食もミラノのホテルよりすこし上かというところ。
夜明けが待ちどおしくて5時過ぎには散歩の準備。外にでられるようになったのはようやく6時半ころ。
でも、空は、曇りか。大運河にでると、川霧というか運河霧と呼べばいいのかうっすらと立ち込めている。
このすっきりしない空は午後まで続いた。またベネチアを発つ翌朝も霧だったが、だいたい霧は晴れるといい天気になるのが相場。その通りになった。
とはいうものの、ガイドのついたメイン観光ではなかなか思うように写真が撮れないので、こうした早朝の時間が貴重なのだが、この霧と曇天ではねえ。
前日船着場を南下してホテルに着いたのだが、この後、メイン観光でさらに南のサン・マルコ広場等へ行くので、散歩は昨日の船着場へ戻ってリアルト橋など見てこようと思ったのだが・・・。方向音痴のくせに地図ももたずに出てきたわたしは、すぐにまちがえて西のほうに足を向けてしまう。どうも、昨日きたときの風景とちがうので、迷子になってはと、すぐ元来た道を慎重に戻り、何度か確かめながらようやく船着場方面に向かうことができた。なんのことはない、ホテルを出た直後の進路をまちがえていたのである。おかげで、暑くもない温度なのにけっこう汗をかいてしまった。
特筆すべきは、早朝だと、ほとんど人通りがないこと。
そのことは、そのとき当たり前のように思っていたが、午後からの山のような人出を考えると、この小さな島のどこにこんなにたくさんの人が隠れていたのだろうと、いまさらながらすごいギャップを感じる。
以下、見た景色をとりとめもなく・・・。(このイタリア紀行で掲載した画像はほとんどすべてがクリックすると800×533サイズに拡大できます)
ホテル近く |
大使館? |
小ホテルも点在 |
小運河の景色 |
灯りのついた店も |
こんな店も早朝に |
その先は大運河 |
大運河の船着場に |
霧のリアルト橋 |
対岸風景 |
石段のある建物 |
船着場とリアルト橋 |
橋と反対、西向きに |
小運河と建物 |
公衆電話 |
もう客? |
霧がさらに濃く |
後で乗るゴンドラ |
赤の建物 |
確か警察署 |
戻り道 |
ピンクは何の花? |
マニン広場の一角か |
獣はガーゴイル? |
抜け道? |
珍しいポスター |
ブティック |
通勤客もそろそろ |
この器械は? |
ホテル近くの運河 |
さて、無事ホテルに戻って朝食をとれば、いよいよベネチアメイン観光である。( イタリア紀行Ⅴ に続く)
(09/05/01) (09/04/10・09/04/09撮影=現地時間)