つれづれ道草

すべてはどこかで繋がっている...

第5段 アレフと無限(後)

アレフの話を続けよう。

数学用語でアレフは無限の数の集合体を表す。
それには段階(レベル)があって、

2א  1א  0א

の3レベルがある。

無限という概念にレベルがあるとは奇妙な気がするが、次のように考えれば意味が少し理解できるかも知れない。

たとえば、0を含めて1や2、3、4・・・・という自然数の数列を取り上げてみよう。
これは無限である。それはわかるだろう。
nを自然数とした場合、n+1も自然数で、1を加えるという操作は無限に続けることができる。
ゆえに自然数は無限にあるということになる。

この自然数の無限集合体を

0א  (アレフゼロ) と呼ぶのである。

集合論の創始者、ゲオルク・カントール(Georg Cantor, 1845 - 1918年、ロシア生まれのドイツで活躍した数学者)がこの用語を案出した。

では次に、かりに0から1までの間の数値を取り上げてみよう。
えっ、どんな数値があるの?
なんて、わたしの妻や娘のような質問はしないでもらいたい。

そういう人たちには目に見える喩えで示すとわかりやすい。

30センチの定規をとりあげてみよう。
0から1、2、そして30まで数値が刻まれている。
そしてほとんどの定規はその1センチ毎の目盛りをさらに10に刻んでミリ単位のメモリをつけている。

cm.の単位でいえば、これらは1.1センチ、1.6センチなどと呼ぶ。
同じようにミリのメモリをさらに10で割っていけば
1.01とか1.85とかになる。
このこともまさに無限に行える。
これでわかるように自然数の0と1の間には「無限」に数がある。

いっぽう先ほどの自然数1・2・3・4に対してその偶数倍、たとえば2・4・6・8という数列の集合を考えてみると、それらは自然数と1対1で対応していて自然数の集合と同じ量の無限があるように考えられる。

これらは加算集合と呼び、自然数と同様、アレフゼロ、つまり無限レベル1の集合と称されている。

しかし、

0א = 0א + 0א

であり、わたしたちが算数の基本で習った1+1=2 という風にはならない。

これが無限の不可思議なところである。また、

0א = 0א × 0א

である。
掛け算をしても結果はやはりアレフゼロのレベルの集合とみなされる。

上記の式の両辺を 0א で割って

1 = 0א

というわけにはいかない。
ふつうそういかない場合は割るほうの数値がゼロのときだが
アレフゼロは0ではない。

このように無限とは一筋縄にはいかないのだ。

人知を超える高濃度の無限

ここで、さきほどの0から1までにある少数などの無限の数の集合を考えるとき、それらが同様に1から2、2から3まで・・・のそれぞれにあることを考えると、これらの総合は自然数の集合である0א より相当大きな集合のように思われる。

カントールは、このように「線分上のすべての点を集めた集合」は自然数の無限集合と1対1対応させることができず、それよりも大きい、いわば、それよりも無限のレベルが深いこと、さらにこのような無限のレベルの深さにも無限の段階があることを発見した。
この無限のレベルの深さを無限の濃度あるいは基数という概念をもって説明している。

無限の濃度は低い順に  2א  1א  0א  となる。

2א がいちばん濃い、濃度が深いわけである。

2א とはいったいどんな無限をさしているのだろうか。

ここで、無理数というものを取り上げてみよう。無理数とは分数には表し得ない数のことである。

分数にできるものはたとえば
1/7=0.142857142857・・・・
と無限に続いても必ず何桁か(1/7は142857の6桁)で循環(循環小数と呼ばれる)する。
そうすれば複雑でここでは説明を割愛するが1対1対応の応用が可能なのである。

だがそうでない無理数
√2=1.41421356....
などはもうどうしようもない。

この世にはこういう数値がこれまた無限にあり、その数を考えると自然数とは比較にならないくらい多いということが実感できるだろう。
これらをアレフゼロより濃度が高い無限とするのである。

これらの集合をアレフ1もしくは2であると考えてもらってもいいだろう。

1と2のちがい、またアレフ3以上はどうなるのか?

アレフ2はたとえば

π=3.14159265358979.....

のような数値の集合とでもいっておこうか。

アレフ3以上は人知を超えるので無限ではなく無、存在しないと考えてもいいだろう。

話はもどって、無限+無限=無限 すなわち、前述の

0א = 0א + 0א

この式が示すように、そもそも部分と全体が等しいとはいったいどういうことだろうか?

無限の集合論の不可思議さにはカントール自身も戸惑い、友人のデデキンドに「我見るも、我信ぜず」と話したという。
デデキンド(Julius Wilhelm Dedekind)は「デデキンドの切断」で有名なドイツの数学者(1831-1916年)でガウスの弟子でもある。なおデデキンドはデデキントと濁らずに呼ぶ場合もある。
カントールはついには精神病に冒される。

宇宙は有限か

さて、難しい話はこれまでにして、わたし自身のことを話そう。

物心つくころから思っていたこと。

それは死んだらどうなるのかということ。
もうひとつは、この宇宙の果てはどうなっているのかということ。

このどちらも「無限」という概念にたどり着く。
「死後の世界」については別の機会に触れよう。

「宇宙の果て」。
それは、一見、無限のように思われる。
しかし、果たしてそうなのだろうか。

昔、地球が丸いことを知らない時代。
人はもし自分の前の道をまっすぐ歩いていけば(海や障害物をないものとして)やがて同じところに戻ってくると信じられただろうか?

いまなら、なるほどと思うが、地球の引力というのもなんとなく得体が知れない。
地球の裏側、アルゼンチンにいる人が、いま、わたしと比べて逆さまになって立っているのを想像するとなんとなく不思議な気がする。
建物も何もかも地面にくっ付けてしまう引力なのに、なぜこうも易々とわたしの足は持ち上がるのか?(最近は、易々ではないが)

地球が球であることを知った時から人間はそれまでの2次元的思考から3次元の思考が可能になった。(1次元から2次元か?)

少年時代、なるほど地球上から正確にまっすぐ前に進むということは、大地をそのまま歩くのではなく、本当は、地球を真横から見たときの円に対してその接線方向に進むことだと理解した。
それは地上から少しずつ空に向かって登っていくことになるわけだ。

これなら地球をぐるりと回って元のところに戻ることはなく、空に向かって無限に進むしかない・・・ように思う。

しかし・・・。
この納得も、実は次元の低い思考から来るのかも知れない。

光が曲げられることを知った。
空間が曲がっていることも知った。
宇宙は有限なのかも知れない、という。

現在、宇宙は星の赤方偏移というドップラー効果により、すべての星がお互いに遠ざかっていて、それゆえに果てしなく膨張しつづけていることがわかった、といっている。(遠くの銀河ほど速い速度で遠ざかることはエドウィン・ハッブルによって発見された、これをハッブルの法則という)

それを過去にさかのぼって、1点に集約させて、宇宙の始まりというビッグバンの存在を断定したわけだ。

そして、宇宙には中心がなく、つまり中心というある1点から均等に膨張しているのではなく、すべてが一様に膨張しているという。

膨張するというと、膨張する先の空間が膨張する前からすでに存在していたような感覚があって、「では、それはなんなの?それも元々あった宇宙の一部ではないか」という疑問があった。

それをうまく説明してくれたのが次のような比喩だった。

たとえば、風船を膨らましている状態を想定する。
その表面を宇宙と考えて見る。(ここが2次元的発想ではあるが)
表面にはどこも中心がなく(あるいはすべての点が中心ともいえる)、ある任意の1点をとりあげるとそこからすべてが膨張している。任意だからそれがすべてに対しての中心点ということではなく、それぞれがすべてお互いに遠ざかっていく。
この感じが現在の宇宙の姿なのだという。

これは2次元、つまり平面的な思考であり3次元的にはどんな比喩になるのかとても想像ができないが、意味はなんとなくわかった。

しかし、この得体の知れない「宇宙の膨張」の原因として、たったひとつの振動が聞こえたというだけで、ビッグバンがあったと決め付けているのだ。振動とは、どの方向でもほとんど同じ強さで宇宙を満たしているマイクロ波放射で、つまりこれがビッグバンの放射のかすかな名残なのだそうだ。

また、それなら今後果てしなく膨張しつづけるのかというと、そうではなく宇宙はあるときから収縮に向かうのだという。

あるとき、とは何だ。
そんな根拠などどこにあるのか。

ビッグバンという始まりがあったから終わりもあるだろう、というような勝手な推論に過ぎない。(と思う)

わたしも、もしビッグバンが本当にあったなら、この世は美しく数学的だと思うがゆえに終わりもあるとは思う。
始まりあれば終わりがある。
その場合、始めと終わりというのは、いわゆる有限の話であって無限の話ではない。

無限の解明

わたしは実はビッグバンなどなかったのではないかと思っている。
またそもそも赤方偏移というのもなんとなく胡散臭い。
マイクロ波放射が爆発の名残?そう決めるのは早計ではないのか?

その思う根拠は何もない。
直感だけである。どう批判されてもかまわない。
事実はそうではない、という気がしてならない。

だったらわたしは宇宙を無限のものととらえているのか?

実はそうではない。

いまのわれわれが考える無限のようなものではない、と思っている。
でもビッグバンそして収縮、のようなレベルの有限ではないと思っている。

宇宙の真の姿を知るためにはどうすればいいか。

それは、意外に身近なところにあるのではないだろうか。

「無限とは何かを解明することだ」
とわたしは思っている。

無限の概念は、人には不可知のことなのだろうか。
昔の人がどんなに考えても信じられなかった地球一周の輪廻のマジックのように。

大きく宇宙の外側からn次元の目で見据えなければ、その姿はわからないだろう。
n次元とまでいかなくても、4次元、5次元の目で見ることができれば・・・。

と思って、わたしはまた無限の壁にぶつかってしまった。

もし5次元の目・思考をもつことができたら宇宙の姿も別な形で見えるにちがいないのだが、そのとき人は必ず次の6次元的疑問を抱くであろう。
何百年の思考を経てその6次元課題をクリアしたとしても次に7次元の不思議が・・・。

ああ、これこそ、無限がなせる謀略だ。無限が仕組んだ陥穽だ。

無限を有限化しようとする人の試みは、永遠・無限に徒労に帰すかも知れない。

それならば・・・。

無限の実態を無限か有限かの択一ではなくもっと別次元でとらえるべきなのではないか?

アレフはアレフ2どまりにして、アレフnという発想を根底から捨て去り、無限をとらえ直す。

この無限の解明が人類最大の謎、死後の世界の不可知性を解き放ってくれるかも知れない。

そういえば、最近、スティーブン・ホーキング博士がホワイトホールの存在やブラックホールに関するこれまでの自説を否定したらしい。

そんなものさ。

(04/09/25)

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参考文献