つれづれ道草

すべてはどこかで繋がっている...

第11段 イヌとネコ

わたしの郷里(石川県金沢市)では、東京とはまったく正反対のイントネーションとなる言葉がある。

その顕著な例がイヌとネコである。

これがまったく逆の発音なのだ。
東京ではイヌは [inú] もしくは [inu] なのだがこれが北陸だと [ínu] になる。
またネコのほうも [néko] が [nekó] もしくは [neko] になる。

ネコのほうはようやく東京アクセントに慣れてきたのだが、イヌのほうはときどき間違える。
しかも、イヌのほうは妻とつきあってから初めて指摘されたことで、上京して10年間ほどまったく気がつかなかったくらいである。
ぬ」じゃないでしょ「い」でしょ、[ínu] だと去んでしまえの去ぬ(古語)になるでしょ、と言われた。
なるほど、わかったよ。[inú] と言えば、いいんだろ。田舎者で悪うござんしたっ!

わたしはネコが好きなので、ネにアクセントがあるほうがなぜかずっとかわいく聞こえるから [néco] は好んで使っている。郷里の人間と話すときもこれで通すつもりでもいる。また [nekó] は化け猫などの場合に適合するような気がする。そう言えば [bakenéko] とは言わないし、この場合 [bakeneko] になるのも不思議だ。泥棒猫の場合は少し愛嬌があるせいか [dorobounéko] である。

このように地域によるイントネーションの逆転も面白いと思うのだが、人のイヌとネコの好みを見てみるとこれも興味深い。

動物ならみんな好きというムツゴロウさんのような人は別として、イヌとネコ、どちらが好きかでその人の性格が少し分かる。もちろん例外があることは当然であるが。

ネコ好きは概してやさしい性格、人に奉仕するタイプ。ネコは腹が減ると擦り寄ってくるが満たされるとフンと言って(本当にそう言っていると思う)去っていってしまう。こんなネコがかわいいというのはサービス精神のある人だろう。
イヌが大好きでかつネコ嫌いは、すなわち自分の命令をよく聞く、なんでも従う、律儀なイヌ、つまり奴隷が好きと言っているようなもので、他人に君臨したいと望む人であるから当然、わがままでおうへいでごうまんで鼻持ちならない、とてもいた・・・・たたたた、妻が怒っている。彼女はイヌ好きで、ネコは少し苦手なのだ。
とにかく男性のイヌ好きでしかもネコ嫌い、とくに大きな猟犬を何匹も飼っているお金持ちはわたしの苦手のタイプが多い。

主婦の多くはネコ嫌いである。
水を入れたペットボトルを敷地のまわりにきれいに並べている。あんなものネコはまったく平気で軽々とまたいでいるのだが、実は奥様、それが効果がないことは先刻、ご承知のことなのだそうだ。ご近所のネコ好きな飼い主に、「わたしはネコは大々嫌いなんですからねっ」という意思表示をするためにあえてそうしているという説もあるそうだ。まあ庭の芝生で見つけたよその家のネコの糞はとくにきたなくて臭いからねえ。

イヌもネコも両方好きな女性なら、まあやさしい人かも知れない。
ネコだけが大好きという女性はほんとに溺愛で、恋人よりネコが好きなんだろうと思う。
しかし小さな鶏小屋的日本家屋に、近所の顰蹙を何万匹分も「飼っている」おばさんもちと困り者ではある。
ネコだけが大好きな若い男性は人とのコミュニケーションが苦手なオタクが多い気もする。

わたしは、くんくん言ってる子犬は好きだが、とくに毛のないタイプでなぜかわたしを見ると必ず「がるるー」と綱を引きちぎらんばかりのやつは怖くていけない。
ネコは好きなのだが、そうかといって、糞便後、自分の尻を舐めて掃除している(その光景をつい最近目の当たりにしてびっくり仰天した)そのネコとキスをするほど好きではない。太ったヒマラヤンがころころ歩いているのを見ているのはとても愛くるしくていい。キティちゃんもかわいいし絵がヘタなわたしでも描きやすいからハローである。その程度である。イヌネコというより、ミニチュアが好きなのかも知れない。メタルスライムのぶんちんも持っているし。

ポメラニアンのチョコ

この雑文を書いたあとで、
自宅で飼いはじめたのは、
ネコではなく、イヌのほうだった。
しかし、小型犬のポメラニアンである。


関東の発音が関西化?

さて、イントネーションの話にもどるのだが、金沢と東京ということではなく、大きく関東と関西で面白い傾向が発生していると考えられる。

北陸も言語に関しては関西圏であり、東京中心の文化から見れば「地方」であり、東京の発音のほうが洗練されているように一見、思えるわけである。

ところが、昨今、関東圏に限って、イントネーションが変化している、つまり関西圏化している傾向があるように思える。
とくに若者の間でそれが見られる。

イヌとネコはそれに該当しないが、たとえば本来、言葉の頭にアクセントがあるものが、逆転とまではいかないけれど、平板なイントネーションに変化している例がある。

その顕著な言葉が「彼氏」である。
金沢では昔から [karési] という。また彼女も [kanójo] と発音する。
これがなかなか田舎臭い。
東京に来て彼 [káre]、彼女 [kánojo]と三人称で呼ぶのはとてもかっこよく聞こえたものなのだが・・・。

ところが、である。
最近、恋人である「káresi」を「karesi」と平板に呼ぶ。[karesí] などとどんどん最後のほうを強調して言う場合すらある。[káresi」とは間違っても呼ばない。もはやそれはダサイのである。

あと社員なんかも [∫áin] と発音せずに [∫ain] と平板に呼ぶ。これではまるで「社」ではないか。

この平板化発音傾向はなぜなのだろうか。

出典は忘れたがだれか言語学者がこのことを論述していたような気がする。
文化が発達するとイントネーションが言葉の頭から後ろに移動する、という説である。

関西は、歴史的に見て関東より昔から文化が発達していたと言える。
家康が江戸幕府を開いてから文化の中心は東京に移ったが、京都人からみれば粗野な東男だったであろう。(現代もそうか?)
とすれば、一時的にかっこよく、また洗練されたものに聞こえた「東京言葉」は、実は文化的未成熟な言葉であった、と考えてみるのも面白い。

その東京言葉が平成の世になってようやく若者たちから関西の域に近づき始めた、とすると、なんとなく痛快ではないか。
生粋の阪神ファンなら、膝を叩いて同意してくれるかも知れない。

(04/10/30)

前段|第11段|次段

前段|第11段|次段