つれづれ道草

すべてはどこかで繋がっている...

第20段 舌つづみに舌打ち

以前に秋葉原の読み方について雑文を書いたが、最近、もうひとつ耳障りな言葉をテレビなどでよく耳にする。

それは、「舌つづみ」という言葉である。

いつの頃からかテレビのアナウンサーが、なんとかのひとつおぼえのように、一斉にこのように唱えだした。(局で、そう言うように指導しているのだろうか?)

それはあたかも「舌づつみ」はまちがいで、舌が打つ鼓(つづみ)だから「舌つづみ」が正しいのである、とでも言っているようだ。

もしそんな理由だとしたら、愚か者の仕業というほかない。

確かに語源というか、舌が打つ鼓であり、漢字では舌鼓と書く。だが、読み方は、断じて「舌つづみ」ではなく「舌づつみ」なのである。

それには、「勉強嫌い」を「勉強きらい」とは読まないのと同様の明らかな理由がある。

それを知らないで言いづらい「舌つづみ」を連呼しているのなら、滑稽の極みである。

日本語には、もともと2つの言葉が重なったときに、後ろのほうの濁音は前に移動する、という古来からの発音形態があるのだ。

この舌づつみがその典型的な例である。(実はほかの例は思いつかないが)

このことは、どの言語学者の著作だったか、また、小・中学校、高校時代のいつだったかは定かではないが、国語の時間で習ったことことだけははっきりと覚えている。

このほうが格段に言いやすく、発音としては自然な流れなのだ。

連濁の法則

これは、「連濁」という、日本語を覚えようとする外国人には理解しがたい不規則な法則にも関連している。

連濁とは、複合語において、後に続く語の頭の子音が k、s、t、h のときに、それぞれ k → g、s → z、t → d、h → b に変化する現象をいう。

この例は無数にあり枚拳に暇がない。
以下にひとつずつ k → g、s → z、t → d、h → bの例をあげた。
日本人なら、確かに(  )内の読みでは言いづらいと思う。

木々(きき)、小笹(こささ)、豆狸(まめたぬき)、押し花(おしはな)。

しかしながら、これらには例外もまたたくさんあり、これまた日本語を学ぶ外国人を悩ませている。

その苦労から生まれたのか、外国人が見つけた「ライマンの法則」なんてのもある。
たとえば、小鈴(こすず)などのように、後にくる言葉にもともと濁点がある場合は連濁とならない、というものである。こずずとはならないということである。

ちなみに、ベンジャミン・スミス・ライマン(Benjamin Smith Lyman)は明治初期にお雇い外国人として日本に招かれたアメリカ人で、言語学者ではなく鉱山学者である。日本通だったのか「来曼」という和名もある。

タヌポンの法則

さて、連濁の法則やさきほどの舌づつみのように、濁音が繰り上がるという法則を考えたとき、秋葉原の読みは、実に面白い変化を示している。

当初「あきばはら」だった秋葉原が「あきはばら」となったいきさつをその後、調べてみると、やはり、駅名を「あきはばら」、としてしまったことに原因があるようだ。

その当時までは、「あきばはら」と秋葉神社(あきばじんじゃ)のある現地のひとは呼んでいたのである。
ちょうど駅ができるときが、あきはばらへの移行が行われている最中だったと推測できる。
たまたま命名担当者周辺があきはばらとすでに呼んでいたのだろう。

これはすなわち、「秋葉」に「hara」がついて「秋葉 bara」と変化する連濁の法則そのものに思える。

だが、ちょっとちがう。
前の語句にすでに濁音が入っている。

こういうケースには突然変異が行われるのではないか!?
などと、わたしはまた勝手な法則を創り上げてしまう。

秋葉原は連濁の法則が、2重に繰り返されたと同時に、 濁音の繰り上がりではなく繰り下がりとなってしまったケースのようだ。

つまり、まず、「秋」と「ha」で、連濁の法則により「あき ba 」となる。
そしてこの「秋葉」という言葉にもうひとつ h の子音が冒頭にある言葉 hara がくっついたケース。
これは、連濁の法則が、2重に繰り返されたように思われる。

しかし、秋葉原の場合「あき ba 」+「はら」の組み合わせ。
ライマンの法則は、後続にもともと濁音がある場合だが、秋葉原は、前の語句のほうに濁音が入っている。しかもそれは連濁の法則によって誕生した濁音である。

このような稀なケースのとき、前の濁音は消滅し、後ろの濁音が新たに発生する。
つまり、濁音は、頭のほうから後のほうに移行する。

これを、タヌポンの法則、と命名することにしよう(笑)。

浸透すれば、それが正統派?

さて、舌つづみ、と平気で言っている人は、舌の鼓が語源であるという、そのレベルでの浅はかな知識をひけらかしているような気がしてならない。
ここのところ、あまりに「舌つづみ」と言う人が増えて、またかと舌打ちするほどである。

そんななかで、何を誤解しているのか「どちらでも正しい」なんていう輩も出てきたらしい。
わたしは寛大だから舌づつみも正しいことにしてやろう、なんていうところか。

あきれた話だが、言いづらくともそれが浸透していけば、いつしか「正統派」となってしまうのかも知れない。

まてよ。
そうすると、いちばん最初、鼓がこの世に誕生した直後に、舌鼓の言葉を創り出した人は、「したつづみ」だったのかも知れない。

そうすると、わたしのほうが邪道なのか。(笑)

(10/02/01)

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