タヌポンの利根ぽんぽ行 下曽根の厳島神社

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厳島神社関連リンク


下曽根集会所に厳島神社があるということで当初その場所を探してみましたが、
ここも細い路地の途中にあり、利根町図書館からそれほど離れてはいないとはいうものの、
神社に特有な目印の鳥居も見当たりませんし、なかなか見つけにくい場所でした。
地名としては、下曽根新田、と呼ばれているようです。

しかし、ほかでも鳥居も社もなく、あるのは小さな石祠だけで、
それでも立派に「・・神社」と呼んでいるところもあります。
いままでにいくつかそういうケースを見てきたタヌポンはもう驚きません。

集会所入口すぐには、大師堂のほかに、
厳島神社の額が付けられた本殿らしき建物が建てられていますが、
中を覗いてみると神式のものは見当たらなく、仏像らしきものが安置されています。
また、集会所の奥に進んでみると、別の小さな祠の中にとても魅力的な女性の像が・・・。
仏式と神式が混在(混乱?)したようなこの神社はいったいどうなっているのでしょうか?

このコンテンツは、タイトルや構成など、内容を大幅に修正しました。
というのは、当初神社の額が掲載された建物を神社の「本殿」と紹介しましたが、
どうも神道ではなく仏像等を納めた堂宇のように見えることや、
敷地の奥にある祠がむしろ厳島神社としての本殿というべきものではないか、
そんな仮説に基づいて暫定ながら修正し、追記・再構成しました。
なお今後、新事実が判明すればさらに変更・修正を加える可能性もあります。(12/04/27 追記)

2014年、石造物関連を再調査。以前は判読できなかった銘文等を追記。(14/07/03・14 追記)


利根町西部マップ

厳島神社

外観

外観

左が、路地から見た集会所の敷地の外観。
いちばん右が大師堂で、その左隣りが問題の堂宇。
堂宇の前面には「厳島神社」の額が掲げられているのに
この中には地蔵らしき像が安置されているのです。
おかしいですよね。

堂宇の左隣は、下曽根の集会所の建物。

この写真では見えませんが、この集会所の建物の左奥に、
これも不思議な祠がひっそりと建っています。
当初のコンテンツでは、堂宇のほうを素直に、
神社の本殿として紹介しましたが、
今回は、この奥の祠を「厳島神社の本殿」と推定しました。

本殿は弁才天?の祠

集会所の前を過ぎて奥に向かうとひとつの祠が見えます。
その中を覗くととても優美な女性の琵琶を奏でる像が見えます。

祠の格子扉にはしっかりと鍵がかけられていますが、これは納得です。
利根町で見かけたもののなかでは、この像は、いままででいちばん魅力的に思います。
昨今、仏像関連の盗難が増えているようなので、もう少し厳重に施錠したほうがいいのではとすら思いました。

弁才天の祠 弁才天の祠正面
弁天像

この像のポーズを見ると 利根七福神
の弁財天とよく似ていますね。
(一眼レフだと格子窓にレンズが入らず
写真のように左に格子の桟が・・・)

像自体は町史には出ていませんが、
厳島神社ということですので、
弁財天が妥当かと思われます。

また、琵琶を奏でる女神なら、
財宝神としての弁財天というより、
音楽・芸術をつかさどる本来の
「弁才天」というべきでしょうか。
難字では「財天」ではなく、
才天」と記すのが正解。

写真で見ると大きく見えますが、
頭部から脚までの高さは
19cm程度です。

祭神もしくは本尊

ところで、厳島神社と言ったり、弁才天とか弁天様と言ったりするのはどうしてなのでしょう?
調べてみますと、弁才天とか弁天というのは宗像(むなかた)三女神(後述)等を祀ってはいるものの、
本来は大弁才天女とも呼ぶ仏教の天部の神で、金光明経を奉護する者を守る天神である、とされています。
その大弁才天女も元はと言えば、ヒンズー教の豊饒・農業の女神サラスヴァティーが、仏教に取り込まれた呼び名です。
明治以降に、弁天社という名前から厳島神社へと変更になったものが多いということです。
したがって厳密な意味では少々ニュアンスが異なるにせよ、弁才天・弁天様と厳島神社はほぼ同じものと考えていいでしょう。

さて、町史では、下曽根の厳島神社の祭神として、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が記されています。
でも、安芸の宮島で有名な厳島神社は、全国にたくさんありますが、その祭神は一般には、宗像の三女神、
つまり市杵島姫命と、田心姫命(たごりひめのみこと)および湍津姫命(たきつひめのみこと)となっています。
わが利根町では、ほかに 加納新田の厳島神社 も同様に、市杵島姫命のみが祭神です。

まあ、三女神か1柱かどうかは別として、では、厳島神社ではなく弁財天(弁才天)の場合はどうかといいますと、
なんとこの場合は、祭神とは呼ばずに、本尊が「大弁才功徳天」となり、仏式に変化してしまいます。
これは、表向きは、厳島神社(弁財天)と括弧付きで混合して呼称しておきながら、厳密にその本質をただすと、
神道に寄れば、祭神:宗像の三女神(もしくはその1柱)、仏式に寄れば、本尊:大弁才功徳天、ということになるわけです。

というわけで、下曽根のこの祠を厳島神社と呼ぶ限りでは、
弁才天の名にぴったりに見える例の女神像は、大弁才功徳天ではなく、市杵島姫命と呼ぶのが妥当ということになります。
このあたりもなにか釈然としませんが、それほど厳島神社と弁財天は混合・混同・・・習合されたものと考えられます。

本殿とも言うべき祠は流れ造り、祭礼としては、正月20日に行われているということですが、その他由緒沿革等は不詳です。

地蔵堂

ここが厳島神社としての敷地であるならば、メインの本殿は、どうしても左下のこの建物と考えてしまいます。
なぜならば、建物の上部に、かすれてはいますが「厳島神社」と記された額が掛かっているからです。
これが、そもそもの誤解の元のように思います。なぜならば・・・。

地蔵堂 額
地蔵菩薩

左は、この建物の内部を格子窓から撮ったもの。
これはどうみても神社の本殿内らしくありません。

蓮台に、円形の輪光、そして錫杖・・・。
これらはまさしく地蔵菩薩そのものです。
したがって、この建物は、本殿というより、
仏式の堂宇と呼ぶべきでしょう。

また町史には、境内堂宇として、 「観音堂」と記されていますが、 「地蔵堂」と呼ぶべきではないでしょうか。
地蔵の右にあるのが観音像なのかも知れませんが・・・。

この厳島神社の本殿・堂宇の謎?等は、
いつかはクリアされると思っています。

以前の地蔵堂

以下、余談になりますが・・・
左は、2005年に撮ったもの。
上の2012年の写真と比べると、ちょっと違います。
1つだけはずされている格子のガラスの位置が下にあります。
現在では、これが高い位置にあるので、内部の撮影が困難です。
タヌポンに撮らせまいとしているのでしょうか(笑)。

また、全景を撮るとき、ふつうの立ち位置では
撮る人間がガラスに写って恥ずかしいので、
思い切りしゃがまないといけませんし、結構苦労します(笑)。
あと、右の大師堂の格子が新築されているのが分かりますね。

連名額

連名額

堂宇の向かって右サイドの上部に、
多くの人名が記された額がかかっていました。

文字がほとんどかすれていて読めませんが、
内容が解読できれば、堂宇や神社の由緒が
少し判明するかも知れません。

高所にあるので目測ですが、
幅185cm、高70cm程度ありそうです。

大師5番?

集会所の入口すぐ右手に建てられているのが四郡大師の堂。しかし、ちょっと奇妙なことがあります。
堂の上部に額が飾られているのですが、そこに手書きで「下井5番」と書かれているのです。
これは本来の番号なのでしょうか?それならなぜ下井なのでしょうか?ここは下曽根地区です。
下井地区は遠くはありませんがもう少し南にあるのです。下井から移したのでしょうか?
でも実は、下井の集会所にも大師があることを後で発見しました。そうなるとこの「下井5番」の意味がよく分かりません。
ただし、町史では、大師堂5番札所となっていますので、下井はともかく正式な札所番号なのかも知れません。

大師堂 額

以下は、堂の中の大師像。左がもちろん新しい写真。約7年の差がありますが、大分変わりましたね。
衣装だけでなく、背景の壁もちがうということは、前面の格子扉だけでなく、全体的に改築されたようです。
まとっているものや帽子のせいか、前より細面に見えますが、大師像本体そのものは変化ないようです。

大師像 旧大師像

本体: 高31cm、幅28cm、厚19cm。台石: 高10cm、幅34cm、厚22cm。

大師堂脇の石塔

大師堂の両脇に石塔が1基ずつ立っています。いずれも大師や四国・秩父などの巡礼に関連するもののようです。

巡拝塔1

巡拝塔1

大師堂の左にある石塔。
真ん中に「南無大師遍照金剛」。もちろん弘法大師、空海のこと。
右に「昭和十年五月五日発起」。
昭和10年(1935)5月5日に、
お遍路に出た記念として建てたということでしょうか。

左には「四國八十八ヶ所霊場順拝」や「鈴木吉治 六十二歳」。

本体: 高54cm、幅31cm、厚18cm。

巡拝塔2

これは当初、刻まれた文字が読みづらく不明としていましたが、再調査のとき、水をかけたり指でなぞったりしてなんとか。
以下、左から、正面、左側面、裏面写真ですが、建立年が見当たりません。右側面をまた見忘れたかも?

正面は、上に「種子のサ」「東西國五番」とあります。これは坂東と西国の5番札所を巡拝したということでしょうか。
これらはともかく、前述の「下井5番」の札所と連動していると考えることができます。
ちなみに坂東の5番札所は、飯泉山 勝福寺 /所在地は、神奈川県小田原市飯泉1161
西国の5番札所は、紫雲山 葛井寺 /所在地は、大阪府藤井寺市藤井寺1丁目16-21

巡拝塔2 巡拝塔2左側面 巡拝塔2裏面

ところが左側面では、「秩父十番札所」とあります。秩父だけどうして5番ではなく10番でなくてはならないのでしょうか。
このあたりが、なんとも不可解です。3か所とも5番にし、石塔正面に「西国坂東秩父五番札所」とすればすっきりするのに?
ちなみに秩父10番札所は、万松山 大慈寺 /所在地は、埼玉県秩父郡横瀬町川西5151

石塔裏面は、「爲 妙變禅定尼 起光童子」。ちょっと辛い事情がありそうな刻銘です。

本体: 高55cm、幅22cm、厚16cm。

巡拝塔2再撮

上記正面からの写真。
数日後に別件で訪問した時、文字がこんなにも読みやすく見えました。
前回、水で洗ったからなのか・・・、というより、
この日は午前中の光の加減で読みやすくなったようです。
石仏の細かく読みにくい文字も、こうした太陽光の当り加減で、
意外と判読しやすくなる場合もありそうです。
この塔は東向きで、朝の光がよさそうです。
今後は、朝早くに別の個所も調べてみるといいかも知れません。
(14/07/14 追記・14/07/12 撮影)

集会所裏の石塔類

下曽根集会所

下曽根集会所

看板も掲出されてなく、特筆することもありません。

この建物左奥にポイントがあります。

集会所裏、正確に言えば左サイドに5基の石塔が並べられています。どれも風化が進んだ年代物という感じです。
町史には庚申塔として、寛文8年(1668)ほか6基、とあります。この数が現地と実際、合わないことが多いので当惑します。
集会所の壁とは間隔が狭いので、真正面からの撮影はちょっと難しい感じですね。
→ 再調査では、完全に真横に寝転がって撮影しました。タヌポンでは無様な姿というしかありません(笑)。

集会所裏の石塔 集会所裏の石塔

以下、石塔5基の写真。左から紹介します。寝転がって撮っただけの成果はありました。

稲荷大明神

石祠中央に「稲荷大明神」。右側面に「文政六未 二月吉日」で文政6年(1823)2月の建立。
左側面には、「下曽根 村中」とあり下部に5名ほど名前が彫られています。これも厳島神社の「境内社」なのでしょうか。

稲荷大明神 稲荷大明神右側面 稲荷大明神左側面

本体: 高45cm、幅34cm、厚25cm。小ぶりな石祠です。

稲荷大明神左側面下部拡大

後日、左側面下部の拡大写真を撮ってきました。
中ほどが一部剥落して読めませんが、
願主
渡部源之助
直井□右エ門
□□□右エ門
□□五左エ門
直井伊左エ門
という顔ぶれのようです。(14/07/14 追記・14/07/12 撮影)

廻国塔

廻国塔 廻国塔左側面

上に阿弥陀三尊の種子(キリーク・サク・サ)、
中央は「奉納大乘妙典日本回國」。
回國は、廻国と同じです。
大乗妙典とは法華経の経典のこと。
それを書写し日本全国66ヵ国を巡礼して
収めて廻る宗教者が六十六部廻国聖です。

左右に「天下和順 日月清明
安永八己亥 十一月吉日」。
つまり、安永8年(1779)11月の建立。
ほかに「當村願主 淨清心□□」、
左側面には「先祖代々二親菩提」とあります。

本体: 高60cm、幅27cm、厚15cm。

「天下和順 日月清明」は大乗仏教の経典のひとつ『無量寿経』(むりょうじゅきょう)の一節で、以下のような決まり文句。
天下和順(てんげわじゅん)/天下和順し(世の中が平和になり)
日月清明(にちげつしょうみょう)/日月清明なり(日も月も清く澄み)
風雨以時(ふうういじ)/風雨時を以ってし(風も雨も時にかなって適度に)
災癘不起(さいれいふき)/災癘起こらず(天災疫病起こることなく)
国豊民安(こくぼうみんあん)/国豊に民安くして(国は富み、民は豊かになって)
兵戈無用(ひょうがむよう)/兵戈用うること無し(兵や兵器を用いることなく)
崇徳興仁(しゅとくこうにん)/徳を崇め仁を興し(徳を尊び仁を尊んで)
務修禮譲(むしゅうらいじょう)/務めて禮譲を修す(礼節や謙譲の道を守るように)

大乗妙典日本廻国供養塔

ちなみに、石塔の上部に記されているのは梵字で阿弥陀三尊を表しています。
上部の文字は阿弥陀如来、左下は勢至菩薩、右下は観世音菩薩、
梵語の読み方は順にキリーク、サク、サです。

読誦塔

読誦塔

中央上部に、阿弥陀如来をあらわす「種子・キリーク」
奉修三千九百萬邊供羪」と刻まれた読誦塔です。

左右に「寛政六歳 寅十一月日」、寛政6年(1794)11月の建立です。
また、「下曽根村 同行廿七人」とあります。

それにしても、百万遍供養とは聞いたことがありますが、
三千九百万遍とは、どういういわれのある数値なのでしょう。
「なむあみだぶつ」を唱えて、全員の念仏が百万回に達した、
それを記念して建てられるのが百万遍供養塔です。
ならば、そういう人たちの集まりが39あれば、
3900万になりますが、まあ、細かい話は抜きにして、
何度も何度も、みんなで唱えたということでしょうね。

本体: 高64cm、幅27cm、厚18cm。

庚申塔1

庚申塔1

中央真横に表面が削られたように欠損していますが、
文字はなんとか読めそうです。

文字塔の「庚申塔」です。
上部に、定番の「日月」のレリーフが施されています。

左右に「慶應元丑年 十月吉日」は、慶応元年(1865)10月の建立。

下部が欠損しているのか、コンクリートで固めるときにめり込んだのか不明ですが、
実際の高さはもう少しありそうです。

本体: 高45cm、幅25cm、厚14cm。

庚申塔2

庚申塔2

最下部に文字のようなものが見えますが
判読できません。

本体: 高99cm、幅55cm、厚24cm。

これは庚申塔でもかなりユニークなものと言えます。
中央に一面六臂の「青面金剛」の刻像、「邪鬼」を踏みつけています。
通常「三猿」のところ「二猿」で、右の猿は「御幣」を持っています。
青面金剛の左右に「童子」がいますが、
そのいっぽうが「ショケラ」を提げています。
通常ショケラは青面金剛が提げているのですが・・・。
下部には「二鶏」が見えますが、日月は見当りません。

左には「寛文八申 十一月十五日 下曽根村
寛文8年(1668)11月とかなり古い建立です。
右に「奉建立庚申供養安楽敬白」が見えます。

庚申塔2左拡大 庚申塔2右拡大

下曽根共同墓地

神木?焼失

下曽根の厳島神社には、隣接して共同墓地があるのですが、そこに立派な公孫樹の大木がありました。
しかし、聞くところによると2012年3月の2回の火事により、焼失してしまったということです。
1回目で消えたと思っていたら数日後に内部の残り火が燃え出してしまったと聞きました。
最初の火災の原因はなんだったのか、聞き忘れてしまいましたが、老木で、焼失前から枯死の噂もあったようです。

そういえば風の強い日があって、夜中に下曽根で火災が・・・という役場の放送を聞いたような気もします。
幹周4m50cmで、1本立ちの公孫樹では来見寺の公孫樹に次ぐ利根町で第2位の大きさだったのに残念ですね。
ただし、厳島神社の神木であったのかどうかは未確認です。地蔵堂に付属するものかも知れませんし・・・。

※ 幹周のデータ等は利根タブノキ会「利根町の巨木とタブノキ」によります。

神木 焼失した神木

渡辺寛楽庵筆子塚

墓地に入りすぐ左手に渡辺寛楽庵の筆子塚があります。下中央右から寛楽庵の戒名「普雅院然譽良天楽奏咸清居士」、
諦念院奏譽良然貞咸大姉」。最後は左側面で「然 安政三丙辰年十二月十六日」「奏 文政四辛巳年四月十七日」。

渡辺寛楽庵筆子塚 渡辺寛楽庵筆子塚正面碑文拡大 渡辺寛楽庵筆子塚左側面

本体: 高83cm、幅37cm、厚36cm。
台石上: 高15cm、幅48cm、厚48cm。台石中: 高30cm、幅56cm、厚56cm。台石下: 高26cm、幅79cm、厚79cm。

渡辺寛楽庵筆子塚右側面 渡辺寛楽庵筆子塚右側面拡大

左は、碑の右側面とその左下の拡大です。
六十六齢 寛楽庵 七十一才死」。

前記の没年安政3年(1856)時が
71歳だったというわけで、
生前の66歳時、嘉永4年(1851)に
この碑が建てられたということになります。

つまり生前中に門弟たちによって建てられた、
「寿蔵碑」ということになります。
寛楽庵も満足したようで、碑文の歌は、
終へに行所を爰と二三子の
造りおかれる墓ぞうれしき
」。
(二三子=にさんしとは、数人の弟子の意)

渡辺寛楽庵は、俳諧なのか吟哦の師なのか
不明ですが、読み書きそろばんの類の
寺子屋・私塾を営んでいたと思われます。
(13/09/25 追記・13/09/19 撮影)

隣接墓地の仏塔など

神社境内と墓地との境界ブロック裏にも
いくつかの石塔が並んでいました。
1基だけなら、町史のつごう6基と数が合うのですが、
どうもそうはいきません。
仏塔関連のようですが、詳細はここでは割愛します。

不明の石碑

集会所前の路地のすぐ右斜め前に民家があるのですが、その庭というか畑の一角、垣根の内側に
路地に背を向けて石碑が立っているのを見つけました。
個人所有の墓碑のように見えますが、何かいわれがあるのかも知れません。

不明の石碑 不明の石碑

(14/07/14・14/07/03・13/09/25・12/04/27 追記・再構成) (05/10/23) (撮影 14/07/12・14/06/30・14/06/23・13/09/19・12/04/24・05/08/20・05/07/10)


本コンテンツの石造物データ → 下曽根の厳島神社石造物一覧.xlsx (14KB)