タヌポンの利根ぽんぽ行 小川芋銭と利根町

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小川芋銭と利根町 目次


本サイト構築9年目にして、ここにやっと小川芋銭の紹介が・・・。
遅くなった理由は、以下のようなことがあげられます。
・小川芋銭についてあまり知識がなかった
・サイト開設少し前に小川芋銭の展示会が行われ見逃している
・小川芋銭と利根町との関連が当初希薄に感じられた
・神社仏閣のように町内訪問して取材できるものが少ない

最近になって小川芋銭は本拠地が牛久であり、
芋銭研究の公式サイト 小川芋銭研究センター の存在も知りました。
しかし、利根町との関連についてはいまひとつ明確ではありません。

そんな中で、思わぬ資料が見つかりました。
芋銭が利根町と、実は想像以上に深いつながりがあること、
また、利根町の弓削宅(芋銭の長女の嫁ぎ先)にある芋銭の仕事場「老梅書屋」で、
数多くの名作が誕生していることなどを知りました。

その資料とは、「利根町小川芋銭研究会」に所属されている方お二人が、
当サイト開設前に生涯学習センター創立や芋銭展開催と時期を同じくして、
「生涯学習センターだより」に芋銭と利根町について連載寄稿されていたものです。

これは、tanupon が拙い知識と誤謬ばかりの拙文をここに掲載するより、
いっそ、その連載寄稿文を転載させていただこう、と。
「他人の・・・で相撲を」となりそうですが、相撲などとるつもりはなく、
tanupon のようにあまり芋銭を知らない利根町の皆様への情報提供がすべてです。

幸いにご両所は日頃、所属の会でお世話になっている方で、快く承諾を得ました。
また生涯学習だよりも教育委員会の管轄でこれも会に所属の方にお願いしました。
この場を借りまして、皆様に重ねてお礼申し上げます。

以下、1〜7が、利根町小川芋銭研究会 香取達彦氏、
8〜9が、同会 二見達夫氏 が担当されました。
当時の原稿はモノクロ1色刷りですが、写真等は、できる限りカラー化するとともに、
文面の補足となる芋銭の作品を追加掲載しました。

また、牛久市 小川芋銭研究センター 首席学芸員 北畠健氏の名論文
「文村横須賀と小川芋銭」も、香取氏を通じてWeb 掲載の快諾をいただきました。
望外のことで深謝いたします。


本サイトで使用している文章・画像等について、私的使用のための複製や引用など、著作権法上認められた場合を除き、無断での複製・転用を禁止します。なお、小川芋銭に関する詳細は、公式サイト 小川芋銭研究センター をご参照ください。出典と参考文献 はページ末に記しました。

ご注意
2015年秋頃、突然、小川芋銭研究センターが閉鎖され、公式HPも削除されました。
あれほど有意な施設をどうして牛久市は放棄したのでしょうか。不可解でなりません。
首席学芸員 北畠健氏も退任されたようで、実に残念というか、もったいない話。

現在、芋銭に関して北畠健氏が以下のサイトを立ち上げ活動されている様子です。
氏の活躍に期待したいところです。
小川芋銭研究


小川芋銭の略歴

小川芋銭家系図

左系図で、令孫の素一(もといち)氏は故人。芋銭展開催時点で、暢二(ちょうじ)氏が利根町横須賀の弓削家当主でご尽力いただきましたが、現在、故人となられました。暢二氏の従弟 小川耒太郎(らいたろう)氏も、芋銭展開催等に多大なご尽力をいただきました。(芋銭の兄弟、実子等は一部割愛)

芋銭自筆の略歴によれば・・・
明治元年二月東京赤坂溜池ニ生ル 仝十四年本多錦吉郎注1経営ノ彰技堂ニ入リ洋画ヲ斈ブ 亦市隠抱朴齊注2ニ就キ漢画ヲ問フ 後費漢源注3ノ画風鳥羽僧正ノ筆趣ニ傾倒シ南画及漫画ヲ描ク 大正六年日本美術院同人トナル

1868年2月18日生まれ。明治元年ですが、改元が9月8日なので厳密に言えば慶応4年江戸生まれなのですが、維新の太政官発令ではこの年を1月からすべて明治元年としたとか。(tanupon の個人的希望では分けたほうが理解しやすいのですが・・・。)没年は昭和13年(1938)12月17日。本名は茂吉。幼名は不動太郎。号は芋銭、芋銭子(多用されている)、迂泉、莒飧(きょそん)子、芋錢痴、牛里(俳号)など多数。画室として、天魚樓(牛久)、潮光庵(銚子)、烟霧樓(丹波)、老梅書屋(文村・横須賀)、雲魚亭(牛久・現 小川芋銭記念館)。菩提寺は、牛久の 得月院

小川芋銭略年譜

西暦 和暦 事項
1868 明治 元年 2月18日、赤坂潜池(東京)の牛久藩邸内に、武士の子として誕生。幼名不動太郎、後、茂吉と改める。
1871 4年 廃藩置県により、一家と共に牛久へ移住。
1878 11年 3月、牛久小学校(下等小学第六級)を卒業。
1879 12年 10月、牛久小学校(下等小学第三級)を卒業。ほどなく上京、親戚筋の店で働く。
1880 13年 10月、桜田小学校(小学尋常科第第三級後期)を卒業。
1885 18年 画学専門校「彰技堂」で洋画を学び、3月、全科終了。
この頃から、南画・日本画などに興味をいだく。
1890 23年 4月、尾崎行雄の依頼で、『朝野新聞』に内国勧業博覧会の景を描く。※絵を以て初めて職に就く。
1893 26年 牛久に戻り、農業に従事。その合間に絵を描く。
1895 28年 2月、牛久の黒須きい(こう)と結婚。
30年初頃 地方新間『いはらき』に送った作品(挿絵)が掲載される。以後、多くの新聞雑誌などに挿絵を描く。
1903 36年 1月、『読売新聞』の懸賞絵画に応募、「新年の意」が第一等に当選、元旦の紙面を飾る。
1904 37年 1月、『週刊平民新聞』に挿絵を描く。以後、社会主義紙誌『直言』『大阪平民新聞』他に挿絵を描く。
1905 38年 11月、『急先鋒』に挿絵を描く。
1908 41年 6月、最初の著書『草汁漫画』(日高有倫堂)を刊行。
8月、『国民新聞』に挿絵を描く。
11月、『宝船』に挿絵を描く。
1910 43年 4月、『ホトトギス』に挿絵を描く。
8月、会津方面へ旅行。以後、度々会津を訪れる。
1911 44年 この年、「田家四季草画」を描く。
1915 大正 4年 川端龍子らと、絵画団体「珊湖会」を結成。
1917 6年 日本美術院の同人となる。9月、再興第四回院展に「沢国五景」を初出品、以後同展へ継続出品。
1918 7年 9月、再興第五回院展に「峡谷朝靄」「峡谷秋葉」「陶土の丘」を出品。
1919 8年 9月、再興第六回院展に「樹下石人談」を出品。
1920 9年 年末、画室「天魚楼」完成。
1922 11年 9月、再興第九回院展に「沼地四(檜原)」他を出品。
1923 12年 3月、日本美術院第九回試作展に「白雲想」を出品。
同月、芋銭龍子十種展に「凩の家」「雪景」他を出品。
同月、銚子海鹿島へ旅行。以後、度々同地を訪れる。
7月、『中央公論』の口絵として「生々」を描く。
1926 15年 9月、再興第十三回院展に「丹陰霧海」を出品。
1927 昭和 2年 6月、東京会展に「水郷」を出品。
1928 3年 5月、東京会展に「山家慶福」を出品。
7月、現代名家竹百趣画幅展に「蘇東坡」を出品。
9月、『芋銭子開七画冊』を刊行。
1934 9年 5月、東京で「小川芋銭氏俳画展」を開催。
12月、名古屋で「小川芋銭先生小品展覧会」を開催。
1935 10年 10月、この頃から「河童百図」の制作を心がける。
10月〜12年9月、文村(現利根町)弓削宅に滞在。
1936 11年 9月、再興第二十三回院展に「聴秋」を出品。
1937 12年 2月、東京で「芋銭子小品画展」を開催。
9月、牛久に戻り、新築の画室「雲魚亭」に入る。
11月、東京で「小川芋銭翁古稀記念新作画展」を開催。
同月、『芋銭子開八画冊』を刊行。
1938 13年 1月、病に倒れ、右手に不自由を来す。
2月、『河童百図』を刊行。
12月17日、逝去。得月院(牛久)に眠る。

(以上、『第三回小川芋銭展』図録、小川芋銭略年譜より)


[tanupon 補注]

  1. 本多錦吉郎:嘉永3年(1851)−大正10年(1921)没。明治初期からの洋画家。後進を育てた。1874年、川端玉章に入門、国沢新九郎の洋画塾の『彰技堂』に転じる。1877年の国沢の没後、彰技堂を継ぐ。弟子に、芋銭ほか丸山晩霞・下村為山・鳩山春子など。1933年に芋銭らが泉岳寺に建てた顕彰碑は現在寺の改修計画のため、解体され檀家墓地内にて一時保管されており、再建碑を待っている。(Wikipedia)
  2. 市隠抱朴斎:市中の画家か。
  3. 費漢源(ひ・かんげん):生没年不詳。清の商人・画家。名は瀾、字は漢源。号は浩然。江戸時代中期、日本に渡来し南宗画様式の画技を伝える。来舶四大家の一人。(Wikipedia)

では、次項目から、平成13年(2001)末より連載された『生涯学習だより』の芋銭特集を転載します。

1.利根町に縁の深い画家「小川芋銭」/旧文村横須賀の弓削家で円熟期の2年間を過ごす

 日本画家の小川芋銭(慶応4−昭和13)は、昭和10年(1935)10月から12年(1937)9月までの2年間、北相馬郡文村(現利根町横須賀)に寓居し、後世に残る数々の傑作を制作している。
 芋銭翁(うせんおう)の長女はなさんの嫁ぎ先が文村の弓削家であり、現当主の弓削暢二氏は翁の令孫で名前も翁が命名した。
 暢二氏は優しかった祖父芋銭翁のことは今でも鮮明に記憶しているという。

利根町弓削家の芋銭翁と長女はなさんと子供たち
▲ 利根町弓削家の芋銭翁と長女はなさんと子供たち

 昭和10年当時、仕事で弓削氏一家がしばらく横須賀の家を空けることになり、芋銭翁が留守番を買って出て利根町にやって来たとのこと。
 当時撮影された左のような写真が弓削家に残っている。

暢二氏の兄 素一氏
▲ 暢二氏の兄 素一氏

 一般にはあまり知られていないことであるが、このように芋銭翁は利根町とは大変縁の深い人であった。
 芋銭翁本名は茂吉(しげきち)、慶応4年/明治元年(1868)東京生まれ。明治4年(1872)一家とともに今の牛久市に移住した。
 芋銭翁は各地を旅行して画を描いた。山や湖のある日本の自然と農民を画題とし深奥な画賛を加えた作品が多い。
 一方、河童・狐・カワウソ・イモリなどの登場する超自然界の画も得意とし、なかでも河童を多く描いたので“河童の芋銭”と称され、全国にその名を轟かせた。

 芋銭翁は若くして東京に出て洋画を学び、その後更に日本画を学んでいる。
 修業時代を通して、描く対象を鋭く観察し、深く洞察する眼が培われていたことは、残された様々なスケッチを見れば窺い知ることができる。

 平福百穂注1や横山大観など当時の画家たちは、芋銭翁が一般に知られる以前に、翁が誰にも描けなかった独自の画を描いていることを知って高く評価し、最高の賛辞を送っている。
 芋銭翁は単に画が評価されただけでなく、心優しい人格でもあったので交流した人たちからは良寛のように尊敬されたといわれる。

▲ 以上、『生涯学習だより』第41号掲載/平成13年(2001)11月20日発行(利根町教育委員会生涯学習課)


[tanupon 補注]

  1. 平福百穂(ひらふく・ひゃくすい):1877年(明治10年)−1933年(昭和8年)没。画家平福穂庵の四男として、秋田県角館(仙北市)に生まれた。本名は貞蔵。1894年に上京、川端玉章の内弟子となる。1897年東京美術学校に入学。卒業後、无声会を結成、自然主義的写生画を目指す。1916年に金鈴社結成後は、中国古典回帰の作品を発表、1932年の「小松山」など、自然主義と古典が融合した作品を生み出す。一方で1903年頃からアララギ派の歌人としても活動、歌集「寒竹」を残す。(Wikipedia)

2.利根町ゆかりの画聖「小川芋銭」/弓削家に残る芋銭翁制作中の写真

湖上迷樹
▲ 湖上迷樹(茨城県近代美術館蔵)
「煙霧鎖湖上 水面突現出樹林 漁艇逢之無不迷乱 風来煙漸散 不留樹影 或云蜃楼之類歟」(右下画賛)

 芋銭翁がいつ頃横須賀に滞在していたか知らないまでも、かつて町の古老たちが「カッパのイモせん」などと親しく呼んでいたことを記憶している人は多い。
 翁本人は、‘いもせん’と読むよりはやはり‘うせん’だろうと云う意味のことを書いている。
 通説では昭和10年(1935)10月下旬に牛久から文村横須賀に移ったとしているが、それが何日であったか詳らかでない。(後日10月23日と判明)
 ただ、同年11月1日付で横須賀から丹波の西山泊雲注1氏に宛てた手紙に「はつかに筆とりはじめ申候云々」とあるので、実際には少なくとも10月中旬には横須賀に到着していたであろうことが知れる。

 利根町に滞在した2年間、作品年譜からみると制作した作品数は大小およそ60を数えることができる。
 その中のよく知られた名作に「湖上迷樹」、「桃花源」や近衛家の別邸山儀堂の杉戸画「古文水土宜・清夜吟」などの書画一体の大作がある。

桃花源
▲ 桃花源
古文水土宜 并 邵康節清夜吟
▲ 古文水土宜 并 邵康節清夜吟

 ほかに俳画などの小品も多数制作している。
 弓削家逗留中に同家の画室で撮影された写真が今も弓削家に残っている。

弓削家の画室で制作中の芋銭翁
▲ 弓削家画室で芋銭翁制作中の絵について解説する香取氏

 この写真のなかで芋銭翁が制作している絵が何であるか大いに興味がわく。
 コンピュータを使ってこの写真の絵を復元してみた。
 その結果、茨城県近代美術館所蔵の「早夏人馬之野」に一致することが確認できた。

茨城県近代美術館蔵「早夏人馬之野」
▲ 茨城県近代美術館蔵「早夏人馬之野」
无描所(むびょうしょ)
▲ 无描所の落款

 左上の画賛注2には「朝靄将に晴を放たんとす」とある。
 早夏の高原を行く人馬の一隊を描き、朝靄から解き放たれる陽光がまばゆいきらめきを見せる微妙な一瞬を捕らえようとしたものであろうか。
 この絵は、昭和10年あるいは昭和12年頃の作とされているが、昭和12年の春に同家での写真撮影が確認されたことで作品の制作年もまた確定した。
 この作品には、右下に翁の最も好んだ白文長方印「无描所(むびょうしょ)」が押されている。
 芋銭翁の芸術は、一見して誰にでも分かる夢のように美しい絵が多いが、内容は奥が深く見かけほど単純ではない。
 翁得意の画賛を加えたものには判断の難しいものがあり、読みこなして出典などをつき止め、完全に理解するのは至難の作品が多いのである。

▲ 以上、『生涯学習だより』第42号掲載/平成14年(2002)1月20日発行(利根町教育委員会生涯学習課)


[tanupon 補注]

  1. 西山泊雲(にしやま・はくうん):俳人。兵庫県生。名は亮三。野村泊月の兄。高浜虚子に師事する。「ホトトギス」同人。句集に『泊雲句集』。昭和19年(1944)没、68才。丹波の地酒小鼓で知られた酒造家。大正15年/昭和元年(1926)8月初旬、芋銭は初めて丹波を訪れ長期滞在。以後、芋銭と泊雲は親交を重ね、芋銭の三男と泊雲の娘を、泊雲の長男に芋銭の二女をそれぞれ結婚させ、小川家と西山家は親戚関係に。(kotobank ほか)
  2. 画賛(がさん):山水画・禅画などの画中の余白に書き添えた詩・文章。讚。(kotobank)

3.利根町の画仙「小川芋銭」/カボチャの色紙と茨城県近代美術館所蔵作品

弓削家に残るカボチャ画
▲ 弓削家に残るカボチャ画

 小川芋銭翁が昭和10年10月から同12年9月まで、2年間の利根町横須賀弓削家に滞在を終えて、同家に残していったものの中にカボチャを描いた色紙がある。
 この絵は落款を欠くが作風から見て翁本人が描いたものに違いない。
 色紙にはカボチャの葉や実がしっかりと描かれているが、花の部分の描き方は形と色彩があっさりしている。上方に伸びた蔓は風に揺らめいているようだ。
 カボチャの花は2つ描かれている。1つは葉と葉に挟まれた中央の狭い所に隠れるように、もう1つは右側に小さく描かれていて共に花の細部などは省略されている。
 一体この絵はどのような経緯で描かれたものか。

茨城県近代美術館所蔵のカボチャ画と色紙 茨城県近代美術館所蔵のカボチャ画と色紙
▲ 茨城県近代美術館所蔵のカボチャ画と色紙
「文月ハ陰暦をこそ待たるれ 文月ハ未だきに小さ芋葉の露 豊葦原の草稲の國の渺々と 浅茅生や欝金明らかに花カボチャ」

 ところでこの色紙によく似た翁のカボチャ画が茨城県近代美術館に所蔵されている。
 同館所蔵作品はカボチャの実や葉などのほか、花は1つだけ大きく描かれ、周囲にゆとりもあり、花芯も描かれていて落款と「无描所」印があって落ち着いた印象である。
 これには対になった色紙がある。つゆ草の絵に重ねて画賛が書かれ、最後に「浅茅生(あさじう)や鬱金(うこん)明らかに花カボチャ」の句が添えられている。
 二枚のカボチャ画を並べて仔細に比べて見ると面白い。
 想像するに、弓削家の色紙では葉やカボチャを自由に描き、後から花の置く位置に苦慮したかのようである。
 鮮やかなウコン色のカボチャの花と季節感を画中に捉えようと試みる過程で、未完のまま残されたものであろう。弓削家の色紙は翁の心の動きを伝える貴重な一枚である。

弓削家画室。右は俳句誌「ちまき」主宰の川村柳月
▲ 弓削家画室。右は俳句誌「ちまき」主宰の川村柳月
川村柳月主宰の俳句誌「ちまき」
▲ 俳句誌「ちまき」(小川芋銭研究センターHPより)

 県美術館では所蔵のカボチャ画の制作は昭和12年〜13年頃としているが、両作品はよく似ているので翁が牛久に戻る昭和12年9月中旬までの利根町滞在中の一時期に描かれたものと推定される。

 因みに県美術館所蔵のカボチャ画の裏面には「昭和12年八月ちまき 第十回俳画と俳句」と記録されている。
 「ちまき」とは芋銭翁と親交の深かった川村柳月(かわむらりゅうげつ)主宰の俳句誌のことである。
 この色紙のほか弓削家には他の作品との関連が指摘できる画稿などが残されている。

▲ 以上、『生涯学習だより』第43号掲載/平成14年(2002)3月20日発行(利根町教育委員会生涯学習課)

4.利根町の画家「小川芋銭」/弓削家画室に残る杉板の欄間(らんま)

 芋銭翁が弓削家滞在の間に多くの傑作を制作した画室の名は「老梅書屋(ろうばいしょおく)」である。
 翁の作品「反照(はんしょう)」の共箱の蓋の裏に「昭和丙子蝋月注1(ろうげつ)於北総横須賀老梅書屋」とあることから、横須賀において昭和11年旧暦12月に老梅書屋と記したことが分かる。
 弓削家には当時から梅の木が多く、令孫の弓削暢二氏によると翁はことに梅の花を好んだという。
 ところで翁が牛久へ戻った後、「老梅書屋」には翁が杉板に描いた一枚の絵が残った。

弓削家画室の欄間(部分)
▲ 弓削家画室の欄間(部分)

 その絵は後に土地の一工人によって、欄間に仕立てられた。いま弓削家に残るのはその欄間である。
 制作後長い年月を経たので、くり抜かれた一部は割れて欠落している。周囲には何かの紙を剥がした跡もある。
 その欄間は一見して、中央左寄りに山と雲あるいは波の如きものが判別できる。
 左側は松の木、右側は水鳥の群れか。更に右端には、頂点から上に突き出した支柱のある柄の無い傘のような不思議な形をした大小二つの図がある。

謎の図形(部分)
▲ 謎の図形(部分)
「芋銭」(部分)
▲ 「芋銭」(部分)

 その一方の傘の中に「芋銭」と落款があった。
 この奇妙な二つの図は何か。同じ形を翁の作品のなかで探してみた。
 昭和10年作「霞ヶ浦」や同年作「江村六月、雲巒注2烟水(うんらんえんすい)」には竿に掛けて干した漁網が描かれている。それらは上から円錐形をなして裾の辺りで広がり、全体の形状は欄間の図形によく類似する。

霞ヶ浦(茨城県近代美術館蔵)
▲ 霞ヶ浦(茨城県近代美術館蔵)
「予毎見霞浦 想望古騰波淡海 覚好古之念無極 此圖画夢中適所見 是元非騰波江 現時霞湖似 茫々之景趣也」(左下画賛)

 干し網を描く翁の筆使いは繊細である。板をくり抜いてそれらを表現するには余りに細工が難しい。そこで輪郭のみをくり抜いて出来上がったのがこの欄間にある不思議な図形であろう。
 改めて見るに、この欄間の画題は富士山を望む海辺、千鳥の群れ飛ぶ松林の砂浜に高く干し網を掲げた風景たとえば三保の松原であろうか。
 翁の描いた元の姿はどのようなものであったか。
 今欄間を仔細に調べてみても筆の跡を確認することは出来ない。ただ「芋銭」の文字から翁が忍ばれるのみ。

江村六月、雲巒烟水 江村六月、雲巒烟水
▲ 江村六月、雲巒烟水(茨城県近代美術館蔵)
「予讀常陸風土記 想像古騰波淡海畫 頓懐之甚 似夢中往々見煙波 此圖似霞浦 實不同霞浦 或似騰波耶 蓋雲巒煙水送龍見 髣髴梦裏観也 昭和乙亥新秋八月」(左下画賛)

▲ 以上、『生涯学習だより』第44号掲載/平成14年(2002)5月20日発行(利根町教育委員会生涯学習課)


[tanupon 補注]

  1. 蝋月:陰暦12月の別称。蝋(臘)は、古代中国で、冬至の後の戌の日に一年の狩り納めの猟をすることから、12月の異名になったもの。また、この季節に咲く梅のことを「蝋梅」と呼ぶことから、芋銭の画室をその音をとって「老梅書屋」としたという説も。弓削家に「蝋梅」があったかどうかは定かではないが、梅の木は現在も多数存在している。
  2. 雲巒:巒は、山々や峰の意。したがって、雲巒とは雲が山の峰のように連なっている様の表現。

5.利根町の歴史「小川芋銭」/旧栄橋開通記念に配られた一対の扇子

 昭和14年(1939)発行の「美術・小川芋銭号」に童謡の作詞家として有名な野口雨情の次のような一文が載っている。

・・・布川と布佐の間を流れる大利根に橋がかゝった。布川の町長は小池赫山(こいけかくざん)と云う人であるが、突然私の宅へやって来て、「利根に橋がかかりましたから、その唄を作って下さい。布川町の唄も作って下さい。芋銭先生をよく知って居るから、寄附をしてくれた人へ記念のため扇子へ絵を書いて貰って配るのです。先生の唄と共に一対にして配りたいのです」とのことであった。私は芋銭先生の絵をけがすといけないからと、お断りすると、絵と字とは違うから、二本一対にしたいとの希望があったので、一本は絵で一本は唄で、これは印刷して配られた・・・

 ここに云う橋とは、支柱姿の美しかったつり橋の旧栄橋のことである。
 この橋は昭和5年(1930)に竣工し二日間にわたる盛大な祝賀式が行われた。
 そのとき野口雨情作詞の「大利根小唄注1」とその踊りが披露されている。
 旧栄橋は布川と布佐が共同で架設した賃取橋で、当時の総工費は十八万三千円余、渡り賃は人間3銭、自転車5銭、馬車は15銭であったという。
 記録に残る芋銭翁と雨情翁の扇子はどのようなものか、容易に目にすることの出来ない幻の扇子であった。
 このたび町の所蔵家のご好意で計らずも観覧することが出来たので、ここに紹介させて頂くことにする。

旧栄橋落成記念の扇子
▲ 旧栄橋落成記念の扇子

 左の写真がそれである。2本の扇子は長い年月を経て黄ばみ、扇子としての形を失ったが軸装として保存されていた。しかも芋銭翁の扇子の方は額装の原画も残っており、良好な状態で保管されていたことは大きな驚きであった。

芋銭の龍の扇子の原画
▲ 芋銭の龍の扇子の原画

 絵柄は芋銭翁には珍しい龍である。墨で輪郭を書き、鮮やかな赤に色付けしてある。
 右端に「さかえ橋開橋式祝賀記念」左に「芋銭子」の文字と「无描所」印がある。
 雨情翁の扇子には「大利根の水は流れるつばめの鳥よ布佐と布川が近くなる 開橋記念 雨情」と大利根小唄1番が趣ある字で書いてある。
 歌詞は8番まであり、藤井清水の作曲、梅若の歌でレコード盤が出されている。
 この二本の扇子は町の歴史を語る貴重な一資料である。

 

▲ 以上、『生涯学習だより』第45号掲載/平成14年(2002)7月20日発行(利根町教育委員会生涯学習課)


[tanupon 補注]

  1. 大利根小唄:旧栄橋開橋・大利根小唄等は、利根川百景「共に栄える栄橋」 にて詳説。

6.利根町と「小川芋銭」/文村横須賀弓削家との交流

 昭和10年10月下旬から芋銭翁が横須賀弓削家に長期滞在する以前にも、幾度か利根町に来ていたことが想像されるが、それを裏付けるような資料がある。左は弓削家の画室借用を頼む手紙である。
 以下読んでみる。

芋銭の手紙 その1
▲ 芋銭の手紙 その1

『暑中皆々御無事と案じ居り候 素一も勇健日にいたづらざかりと存じ候 陳(のぶ)れば小生来月早々展覧会の仕事にとりかゝり候に付ては拙宅にては来客多く困却致候に付き来月六七日頃より先き月一杯だけ御宅を御借り申度存候が如何に候哉
小生明日より三四日の予定にて福島県須賀川へ参り来一二日頃に帰宅いたすべく候右予め貴意を得置き度存じ候 本日は例祭にて御招き申所なれど福島県より泊りの来客あり又婢(はしため)は病気にて立帰り居りごたごたいたしおり候に付御招きの便も上げずに悪しからず先は御願迄     草々
 二十七日    小川
 弓削玄三郎様』

沼四題 小鰕網
▲ 沼四題 小鰕網(こえびあみ)

 上の手紙は封筒を逸失しており年月不詳であるが芋銭の年譜によると、大正11年(1922)6月に須賀川の禅刹長松院を訪れ座禅を行ったとあるので、文面から察するに同時期のことであろう。当然、翁の画室借用願いは聞き入れられて文面通り大正11年7月6日〜7日頃から7月末までの期間、弓削家に滞在して作品を制作したものと思われる。
 この年の9月、再興第9回日本美術院展覧会に名作「沼四題」を出品している。

 次にもう一通引用する。

芋銭の手紙 その2
▲ 芋銭の手紙 その2

『二十一日の大風以後大分春めき候 そちら梅は今真盛りと存じ候こちら梅はなけれど月見草の若苗紅く緑に美しく鶯も朝々なき申し候御宅皆々丈夫にて御くらしのよし珍重(ちんちょう)に候 自分事も今月は少し持病にてなまけ候らえども昨今はよろしく候御放神くださるべく候 素一も本年は中学入り暢二も小学入りにてめでたく存候 封中のもの少々なれど学校用品にても御もとめくださるべく候 自分も来月中ごろ一寸(ちょっと)牛久へ帰る途中立寄りたく存候 以上
草々
 三月二十五日      小川
 弓削玄三郎様』

 昭和9年(1934)3月銚子より文村横須賀の弓削玄三郎氏に宛てた手紙である。末尾には帰宅途中横須賀へ立ち寄るとあり、また孫の素一氏と暢二氏には入学祝いを贈っている。

▲ 以上、『生涯学習だより』第46号掲載/平成14年(2002)9月20日発行(利根町教育委員会生涯学習課)
この発行直後の10月26日〜11月4日に、「小川芋銭展」が利根町歴史民俗資料館で開催されました。

7.文村の「河童の芋銭」/利根町の小川芋銭展開催を廻って

 「利根町で過ごした芋銭翁の日々を探る」と題した小川芋銭展は平成14年10月26(土)用から11月4日(月)までの10日間、生涯学習センターの落成を期して開催された。
 会場となった利根町歴史民俗資料館には、本展が新聞等にも紹介されたことから熱心な愛好者が町外遠方からも多数来館し大盛況であった。
 開催の一端を担わさせていただいた者として少しく経過を振り返ってみたいと思う。
 今回の展示は表題のとおり芋銭翁が利根町に逗留した2年間に的を絞って、およそ1年かけて準備されたものであったが、次々と作品・資料が増え、図録等の組み枠えと校正に追われて準備期間が不足するほどであった。

河童百圖
▲ 河童百圖

 展示中呼び物の一つとなった『河童百圖』の原本と推定される資料(下図参照)が開催近くになって芋銭研究会メンバーによりもたらされた。
 専門の研究者にもその存在さえ知らされていなかったもので『河童百圖』が102図からなる写真を基に編集されたこと、芋銭翁自身が題名と掲載順を記していたこと、その成立時期は昭和12年頃の利根時代と見てよいことなどが判明した。『百圖』成立の謎を解く新資料であり本展に花を添えることとなった。
 担当者一同欣喜雀躍したことは云うまでもない。

『小川芋銭河童百圖目録』表紙と102図
▲ 『小川芋銭河童百圖目録』表紙と102図

 開催に際して、作品・資料等の出品のご協力とご指導を頂いた 茨城県近代美術館(財)常陽藝文センター・小川耒太郎氏・弓削暢二氏並びに町内外の個人所蔵家の方々に深甚の謝意を表したい。
 また 牛久市 小川芋銭研究センター 首席学芸員 北畠健氏には快く特別講演を引き受けて頂き、数度に旦る来町しての講義から展示の指導に至るまで誠に感謝に堪えない。氏には更に最新の調査研究に基づく芋銭年譜の編年、諸資料の提供等々全面的助力を仰いだ上、「文村横須賀と小川芋銭」と題する論文を寄せて頂いた。その見事な名文は、本展へのこれ以上望み得ない賛辞であった。また、氏が来町の折には担当者が宿泊先にまで押しかけ、明け方近くまで親しくご指導頂いたことなど忘れ難く謝すべき言葉もない。
 この度の展示に際しては町内外の多くの所蔵家の方々にお目にかかり、貴重な作品や資料等を開示頂き、展示にも快諾を頂いたことは誠に有難いことであった。残念なことにそれら全てを網羅して展示するにはあまりにも会場のスペースが足りず断念するに至ったことは担当者の心残りとなった。ご好意に謝し、後日に期すこととしたい。

利根町小川芋銭研究会 香取達彦

▲ 以上、『生涯学習だより』第47号掲載/平成14年(2002)11月20日発行(利根町教育委員会生涯学習課)

8.『小川芋銭河童百図目録』利根町へ

 昨年(2002)10月から11月にかけて小川芋銭展が開催されました。その際展示された『小川芋銭河童百図目録』が、所有者の好意でこの度利根町に寄贈されました。これらのいきさつについて、多少かかわりを持った者として少し述べて見ます。
 孤高の篆刻家に山田正平※1という人がいました。この山田正平の出版に携わった時、紹介の原稿依頼に正平の高弟、小木太法(こぎだいほう)先生宅にお邪魔しました。先生は永らく東京学芸大学の教壇に立たれ、又、独立書人団の重鎮として、書・篆刻の分野で活躍されている方です。仕事の話が一段落し、雑談の中、たまたま小川芋銭のこととなりました。芋銭には私も私淑していましたし、芋銭関係の書籍も多少集めていることなど、話が進んだ時、先生が、珍しいものがあるといって、書庫から一冊の古い本を取り出してきました。厚さ5、6センチはあろうか、分厚いA4版ほどの本でした。題簽※2(だいせん)には『小川芋銭河童百図目録』とあり、和紙を二つ折りにし、上部に芋銭の絵の写真、その下に芋銭の字と思われる書き込みがされていました。神田の古書店で30年程前に手に入れたそうです。話は小川芋銭と山田正平が中心となり、2時間程で失礼した記憶が残っています。

正面ケースに展示された『小川芋銭河童百図目録』
▲ 正面ケースに展示された『小川芋銭河童百図目録』

 平成13年11月、利根町に小川芋銭研究会が発足し、私も縁あって二回目から参加、月一回の研究会を楽しみにしていました。その後、小川芋銭展の開催も決まり、何回目かの会では、芋銭研究者として着実な仕事を続けておられる北畠健先生の話を聞く機会に恵まれました。その中、『河童百図』と利根町の深い関係を知り、会の終了後、研究会のメンバー香取さんに『小川芋銭河童百図目録』の件を話しましたところ大いに興味を示されました。借りられればそれに越したことはないが、写真だけでもということで、その日は終了。小木先生に、後輩という時には都合の良い立場を利用して電話を入れたところOKの返事。数日後、カメラ二台をかついで府中のお宅に伺いました。と、撮影するまでもなく「持っていきなさい。展示も自由にどうぞ」ということで拝借。そのまま夜九時過ぎに香取邸に持参、小一時間程二人で眺めておりました。
 10日間の展示の後、会員の強い要望を受けて『小川芋銭河童百図目録』を利根町にの交渉を小木先生にいたし、快く了承していただきました。
 昨年(2002)11月25日、生涯学習課長野口氏、担当奈良氏、香取さんと小生四人にて感謝状他を持って府中行。『小川芋銭河童百図目録』を受け取り、無事利根町に到着しました。
 奈良氏の小木先生に対する印象、「野武士の風貌」とのこと。以上が『小川芋銭河童百図目録』利根町への顛末です。

▲ 以上、『生涯学習だより』第48号掲載/平成15年(2003)1月20日発行(利根町教育委員会生涯学習課)


[tanupon 補注]

  1. 山田正平(やまだ・しょうへい):明治32年(1899年)−昭和37年(1962年)没。新潟県出身。昭和の代表的篆刻家。篆刻家の木村竹香の次男として新潟市古町に生まれる。本名は正平、字も号も正平。16歳の時上京し、山田寒山の娘婿となる。19歳のとき、漢学私塾二松學舍(現二松學舍大学)にて三島中洲に漢学を学ぶ。二十代に中国に遊学し呉昌碩・徐星州に篆刻や画を学ぶ。小川芋銭と出会い交流する。元東京学芸大学講師。(Wikipedia)
  2. 題簽:古本用語。(1)和漢書の表紙に書名を記して貼りつける細長い小さな紙や布。外題紙(げだいがみ)。(2)書物の表紙につけられた題名・題字。(Weblio辞書)

9.『小川芋銭と篆刻家山田正平』

 生涯学習だより第48号に「小川芋銭河童百図目録利根町へ」の一文を記しました(前記)が、今回はその時に触れた篆刻家山田正平と小川芋銭との関係を書いてみます。只、生前の芋銭、正平を知らない私ですので、手元にある資料を引用しての文になることをお許しください。
 芋銭は1868年(慶応4年・明治元年)江戸赤坂生まれ。そして正平は1899年新潟古町通りに篆刻家木村政平の次男として生まれました。16歳で上京。山田寒山(篆刻家)のところに寄寓、20歳で山田家の養子となり、寒山亡き後を継ぎました。
 さて、二人の接点ですが、小木太法先生の「山田正平論」の中に「若き日の正平を語るとき忘れることのできない人がもう一人いる。その人は小川芋銭である。『一六年間お世話になった』と聞いたから、大正九年(芋銭53歳、正平22歳)に知り、入門したのは大正十三年、その時から芋銭最晩年までとなる」とあります。そして、山田正平自身は、芋銭のことを「篆刻講義ノート」(教え子が中心になって遺稿等をまとめたもの)の中で次のように言っています。
 「芋銭翁に時々絵の御話を聴いたことを想ひ出して忘れ難いことが色々あるが、何よりも自分の感興に真実であれと云ふ一条には教へられるところが深かった−中略−真ジメと云ふこと、東洋で云ふ三昧境と云ふものとは違ふのであって、私はやはり、芋銭翁の時に触れて云ひ出された、作者の態度に関して『深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し』といふ言が忘れ難い」
 正平自身も生前に水墨画展を開いており、その絵の持つ格調の高さは、芋銭抜きにしては出なかったでしょう。

山田正平宛て小川芋銭の手紙
▲ 山田正平宛て小川芋銭の手紙

 又、「図説書道新講」(1972年、伊東参州著)に、山田正平宛の芋銭の手紙が載っています。それにまつわる話を次に示します。
 「昭和三十八年四月、私は山田正平先生宅を訪問した・・・芋銭の芸談に花が咲き・・御秘蔵の書幅を示され・・・」この書幅とあるのが写真で示した手紙です。
 雲光繞青峯(雲光青峯を繞[めぐ]る)
 忘牝牡驪黄(牝牡驪黄※1 [ひんぼりこう]を忘る)
 天工人拙
 白蘋※2 (ひん)世界
 遊雲魚   (以下省略)

雲光繞青峯
▲ 雲光繞青峯
忘牝牡驪黄
▲ 忘牝牡驪黄
天工人拙
▲ 天工人拙
白蘋世界
▲ 白蘋世界
游雲魚
▲ 游雲魚

 ここに書かれた五つの句は、芋銭没後ですが、正平の手によって印となって残されています。
 芋銭没後十年以上経て刻されたこれらの印には、正平の芋銭に対する熱い想いが込められているのでしょう。

利根町小川芋銭研究会 二見達夫

▲ 以上、『生涯学習だより』第49号掲載/平成15年(2003)3月20日発行(利根町教育委員会生涯学習課)


[tanupon 補注]

  1. 牝牡驪黄:「牝牡」はめすとおす、「驪黄」は黒と黄色の意味。外見にとらわれずに、本質を見抜くことのたとえ。秦の穆公は、馬の鑑識眼で名高い伯楽が推薦した九方皐に馬を探しに行かす。九方皐の「黄色い牝馬がみつかった」という報告を受け、使いをやったが黒い牡馬が連れ帰られる。穆公は「牡牝も毛色もわからないのか」と怒るが、伯楽は「あの男はそこまでになったか、見るところを見、見ないところは見ない」と感嘆。果たしてその馬は大変な名馬であったという故事からの語句。(四字熟語辞典)
  2. 白蘋:白い花をつける浮き草

なお、利根町に貴重な「小川芋銭河童百図目録」をご提供いただいた東京学芸大学名誉教授、「野武士の風貌」の小木太法氏は、昨年2012年10月29日に他界されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

北畠健氏特別転載 「文村横須賀と小川芋銭」

芋銭展にて発表された牛久市 小川芋銭研究センター 首席学芸員 北畠健氏の名論文「文村横須賀と小川芋銭」。
ぜひ本サイトへの転載をと、香取氏に相談したところ、すぐ北畠氏にお話ししていただき、快諾をいただきました。
以下、その内容を転載します。

文村横須賀と小川芋銭

弓削家画室の廊下にて
▲ 弓削家画室の廊下にて

 芋銭の長女が文村横須賀(現利根町横須賀)の弓削家に嫁いだのは、大正8年(1919)1月のことである。文村との機縁はここに始まり、折に触れて周辺の景が芋銭のスケッチ帳に収められるようになる。横山大観らの推挙を受け、日本美術院の同人となったのは大正6年(1917)のことであるから、芋銭が新南画を目指して本格的に活動を開始したのと、この機縁とは、ばぼ時期を同じくすることになる。この度の展覧会でも、周辺のスケッチが数点紹介されているが、そのいずれからも、画家としての基礎を洋画に学んだ芋銭の、確かな画技を十分に窺い知ることができる。また、その裏に豊かな情感も看取できるから、この地に親しんだ人たちにとっては、鑑賞の楽しみの他に懐古の念頻なるものがあるだろう。
 さて、深邃(しんすい)なる芋銭芸術と人とは、当時既に知れる方面には知られ、熱烈なる信奉者さえ存在していたのだが、それとてもごく限られた範囲の中のことであって、日本美術院内においてさえ、芋銭の芸術を解する者はほとんどいなかったのが実情である。芋銭の理解者・小杉放庵の回想録が、それらを良く伝えている。

 珊瑚会の展覧会を、横山さんと同行で見て、横山さん、芋銭子の絵に興を催し、それで二人の紹介で院展同人に迎えた、其秋出品、招待日に其の出品の前に行くと、誰であったか同人の一人、小杉君この絵はうまいのかい、と云ふ。紹介人わからず困った、まづいと心にとがめたのでは無く、先入の同人に反対あるを感じて困った(「芋銭伝」『美乃國』15−3 昭和14年)

 最晩年には、引きも切らぬ訪客を謝するため、玄関先に掲げた「面会謝絶」の貼紙さえ、珍重の余り持ち去られるという逸話が遺されるほど、芋銭芸術は受け容れられたのだが、院展内部に目を向ければ、状況はさして変わらぬようであった。

 その際 美術院の錚々たる人の多くが先生の御画境を解せざる事との意外なる話を聞き申し 今更ながら 画家は自分の画の尺度以上の事が解らぬものかと 嘆息仕り候(小川芋銭宛書簡 昭和11年1月20日付 池田龍一出)

 この辺りに芋銭芸術の特質があるように思える。縁りの地において、芋銭を敬慕する人たちにより、研究会あるいは同好会の類が、生まれては消えまた生まれては消えを繰り返し・・・今尚連続している。構成メンバーはと見れば多種多様で、職業絵描きが含まれることは、芋銭に面識があった者は別として、寧ろ例外に属するだろう。更に特徴的なのは、このような研究会が、絵画よりも芋銭の人そのものに魅せられて誕生しているということである。他の物故せる画家において、このような現象を見いだすことは困難であろう。またこれは文献においても同様であって、美術評論あるいは美術研究などを常時専門とする人により成った文献よりも、芋銭に魅せられるがままに纏められたものに、より多くの示唆を受け、共感をも覚える。この種の文献が断続的に刊行され続けているという現実は、芋銭の入が為せる業以外の何ものでもない。

 この度、利根町主催の小川芋銭展が開催される運びとなった。少々関与させていただくことになり、担当の方々とお会いすることとなった。その折提示された資料をみて一瞬・・・末だにその時の記憶は鮮烈である。「弓削家の画室にて制作中の芋銭」という写真から、制作中の作品をコンピュータによって解析をし、「早夏人馬之野」ではないかという結論を導き出したというのである。このような手法は、芋銭研究において嘗て試みられたことがないし、第一写真の現況から推して、このような結論を得る司能性などは夢にも思っていなかったから、ただ驚くほかはなかった。「早夏人馬之野」は、当初昭和10年(1935)作とされていた。その後、美術雑誌の記事及び落款などから、山内春静堂新作画展(昭和12年4月29日〜5月1日〉の出品作「朝靄の中」と推測していたから、右の解析結果は誠に時宜を得たものであった。解析の詳細は本展図録を参照されたい。芋銭研究に新たな方向性を示して、誠に興味は尽きない。
 また、利根川に架けられた栄橋開通を記念して配られた扇子の原画が発見されたとも知らされた。栄橋は、茨城県側の布川と千葉県側の布佐を結ぶ橋で、昭和5年(1930)3月21日に開通した。記念行事が当日と翌日の2日間に亘り繰り広げられ、布川は嘗てない賑わいであったと、当時の新聞は報じている。この大事業への寄附者に対し記念品として配られたのが、本展の「龍図」を原画とする扇子である。野口雨情が「芋銭先生と私」と題する一文の中で、これらのことについて触れているので次に掲げておく。

 千葉県の布川(原文のまま)と布佐の間を流れる大利根に橋がかゝった!布川の町長は小池赫山と云う人であるが、突然私の宅へやって来て、「利根に橋がかゝりましたから、その唄を書いて下さい。
 布川町の唄も作って下さい。芋銭先生をよく知っているから、寄附をしてくれた人へ記念のため扇子へ絵を書いて貰って配るのです。先生の唄の扇子と共に一対にして配りたいのです」とのことであった。私は、芋銭先生の絵をけがすといけないからと、お断りすると、絵と字とは違うから、二本一対にしたいとの希望であったので、一本は絵で一本は唄で、これは印刷にして配られた。(『ちまき』11−1昭和12年6月)

 以上は、展覧会を担当する方々の熱意と博捜がもたらした結果で、地元開催の「小川芋銭展」を更に意義深いものにしている。また、この稿を終えようとしている時に、「河童百図」に関する新資料が見つかったとの知らせをいただいた。しかし、残念ながらその詳細を記す時間的余裕もないので、後の機会に譲りたい。あるいは、展覧会場で観覧可能になるかも知れない。

図1 一冬圃
▲ 図1 一冬圃

 昭和10年(1935)10月23日、芋銭は制作に没頭できる地を求め、長女の嫁ぎ先の弓削家に移った。ここから芋銭の文村横須賀時代が始まる。牛久沼畔の自宅は言うに及ばず、それまでの寓居・銚子海鹿島潮光庵も隠棲の地とは名ばかりで訪客多く、加えて、生来の虚弱体質が禍をし、作画に専心できる環境を得ることは中々難しかったようだ。
 そのためか、銚子を引き払い横須賀に移って早々、懇意の画商俳画堂宛の書簡に

 此地の寓居は已むを得ぬ方面の外 御知せ御無用に願上候(10月25日付)

 と念を押している。しかし、

 此地自分の考へには不便の所のつもりながら東京方面より来る者に近く便利よしと云はれ一驚いたし候・・・東京利便の為か矢鱈人来り閉口いたし候(西山泊雲宛書簡 11月1日付)

図2 暁烟
▲ 図2 暁烟

と述べるように、たかだか一週間の後には多くの人に知れるところとなり、既に隠棲の地と成り得るものではなかった。また同書簡中に芋銭は文村に移って早々の所見を、次のように記している。

 先便申上候 後丘赤松の下一榻を設け 倦む時は是に上りて暢慮罷在候 西の空にかゝる芙蓉殊に見事に候 茶色にかすむと凉袋の悪酒落其のまゝ田々の風景は洪水後の事とて色彩乏しく 灰色の田の面に 所々羊田の線も却而寂寥の感を誘い申候

図3 聴秋
▲ 図3 聴秋

寓居裏の小高い丘から眺める極めて変化に乏しい凡庸たる景も、芋銭によれば、このように文学的香り高いものへと変貌する。
 以後、文村周辺の景は、芋銭の絵画に相次いで登場する。先ず、その年12月発行『中央公論」の口絵「一冬圃」(図1)、翌年2月開催の改組第1回帝展出品作「暁烟」(図2)、更に半年後の院展出品作「聴秋」(図3)、またその年の暮の「田家瑞雪」(図4、新作日本画展出品)等々、皆これ疑う余地のない文村周辺の景である。その内の「夜雨始霽暁煙変幻之状と申すような風景水墨」と自ら語る「暁烟」は、後丘から眺めた景そのもので、同所付近に登れば、今でもその片鱗を確認することができるだろう。

図4 田家瑞雪
▲ 図4 田家瑞雪

 前掲の書簡にも「洪水後の」と記されているように、芋銭が文村に移るおよそ1カ月程前、関東一円は未曾有の水害に見舞われた。文村周辺とても例外ではなく、甚大なる被害は人々の生活を圧迫した。常々弱者や働く者へ同情を寄せていた芋銭ではあったが、水害がもたらした惨憺たる景は、芋銭の絵画に登場することはなく、描かれる作品は、大らかな平安に満ちた桃源郷のような景ばかりであった。

図5 貧しき人の最期
▲ 図5 貧しき人の最期

 壮年の一時期、弱者に対する同情という点で共鳴し、芋銭は初期社会主義関連の諸誌紙に、痛烈なる社会批判を込めた漫画を数多く描いた。その結果、芋銭は危険人物視され、周囲に官憲の監視の目が光ったこともあった。『週刊平民新聞』第40号に、「貧しき人の最期」(図5)という作品が掲載されている。貧しさ故蒲団さえ被ることができず、最期を迎えた人を悼む3コマ慢画である。2コマ目に描かれた燃え盛る炎が、芋銭の激情を現わして余りあるものがある。弱者に対する同情ばかりか、怒りさえも感じさせる作品である。やがて芋銭の絵画からはこの種の感情も陰を潜め、代わりに、画面に登場する人物には幸福が与えられている。それは、「あきらめ」の結果とでも言えばよいだろうか。

図6 小六月
▲ 図6 小六月(茨城県近代美術館蔵)

 今回は現物展示が叶わずパネルで紹介となったようだが、農民の生活を描いた最晩年の傑作「小六月」(図6、これも文村周辺の景であろう)を見ていると、この「あきらめ」というものを感ぜずにはいられない。3才まで育つかと危ぶまれるほどの虚羽体質を以て生まれた芋銭は、農業に従事すれば、翌日床から這い出るのがやっとだったという。今からでは想像もつかない激労働を強いられる農業というものを、芋銭は熟知していた。だからこそ「小六月」には、収穫の時を経、激労働からも開放された人間の喜びが充満しているのである。

 このような芋銭の性格を見透かし、煩雑な依頼事を持ち込む者が跡を絶たなかった。しかし、芋銭はそれを承知で常に真撃に応じた。「小川芋銭新作小品画展」(束京高島屋 昭和12年2月1日〜6日)も知人某の教済が目的であった。展覧会は大成功、作品は完売、その収益は某氏を救済するに充分であったという。出品画は総て俳画であり、「馬」「焚火」「漁夫」「富士」等々は文村周辺の景を俳画に昇華させたものである。俳画は蕪村によって確立されたが、蕪村以後最も傑出した俳画家といえば芋銭といえるだろう。「俳画といえば吾本領中の本領なれば」の言からも自信の程が充分窺える。蕪村は芋銭の傾倒した人物の一人で、「草汁」という牛久の居庵号も、蕪村に典拠を求められる。上の「吾本領中の本領」という言に注目しても、蕪村の「はいかい物之草画凡そ海内に並ぶ者覚無之候」に重なり興味深い。この度の展覧会でも、蕪村の句を賛とする「雛」が紹介されている。

 さて、芋銭の横須賀での毎日は、どのようなものだったのだろうか。美術雑誌『美之國』の今井繁三郎の訪問記が、その一端を垣問見せてくれる。

 駐在所前で降りるとすぐ芋銭先生の宅。コルタール塗の塀があって玄関迄ずっとひっこみ、梅の木があり、草が生へ田舎の子供が三四土いぢりをして遊んでいる。・・・先生はタ食を済ましたところらしい。部屋に入ると先生は後姿をみせて茶を飲んでいらっしゃる。二十五六の男が着る様なタオルのパジャマを着て坐つた先生の後姿、そして「美之國からかね」と少しこちらに向けられた先生の顔には、乃木将軍の様な鬚がモツソリと生えている。この印象は・・・私は仙人に会った様な。田舎屋の座敷に客はかしこまり主は無表情である。そして画室はと、見れば、これは鼠の巣の如く、或は蚕でも飼っている農家の如く、巻かれた紙が足の踏む場所もない程、散乱して、絵を描く場所は何処であろう。敷布の上に筆が二三本転がっている。(「小川芋銭氏を訪ふ」『美之國』13−7 昭和12年7月)

小川芋銭
▲ 小川芋銭

 芋銭の古稀を記念し個展「古稀記念新作画展」が企てられた。当初は6月初旬開催の予定であった。しかし、前年暮から翌年(12年)にかけて大腸等を病み、同年2月の初旬に漸く床を離れるという有り様であったから、個展を意識しながらも筆は一向に進まずにいたことになる。加えて、5月にはまたまた半月以上も床に伏したのだから、展覧会は必然的に更なる延期を余儀なくされた。右はそのような時期の訪問記である。約60点の作品をたかだか数ヵ月で制作しなければならないのだから、「足の踏む場所もない程、散乱して」とか「絵を描く場所は何処であろう」と訝る記者の言は至極当然のことであったろう。そのような迫い込まれた状況にあった筈なのに、この訪問記からは、逼迫感などとは無縁の悠然たる芋銭像が見て取れるから面白い。特に「客はかしこまり主は無表情である」からは、相対しながら遅々として会話が進展しない様が想像されて、甲わず頬が緩む。また、描き続けている内に自身の居場所がなくなり、遂には部屋の隅の僅かに空いた所に布団を敷いて休むのを常としていたという。

 かうして描いていられるうちに、段々場所がなくなって後へ行かれる、とうとう部屋中席がなくなって、隅の方へ布団を敷いて休まれるということになるのが、何時ものことだったそうだ。(『美術』14−2 小川芋銭追悼号 昭和14年2月)

 それからほどなくの9月19日、芋銭は横須賀から牛久へ帰った。ここで芋銭の文村横須賀時代は終わる。

 芋銭は、牛久居宅脇に新築成った画室「雲魚亭」で、更に個展のため制作に邁進したであろうが、約60点の出品画の大凡は、横須賀で描かれたとみて大過ない。出品画を見てみると、河童あり風景あり道釈人物あり、はたまた芋銭本領の俳画あり書ありで、その総てが遊戯の気に横溢し、芋銭芸術ここに極まれりの感がある。文村横須賀時代は、芋銭芸術の最円熟期と位置づけられるだろう。
 同年11月25日(〜27日)、東京日本橋東美倶楽部にて、「古稀記念新作画展」が開催された。同展に対し批評界は賛辞を惜しまなかった。それを証すように、初日早々売約が殺到したという。

 公開第一日に於て同好者の競って買約を急ぎ候事 之又天下の盛歓 欣喜雀躍に堪えず候(小川芋銭宛書簡 昭和12年12月31日付 澤田竹治郎出)

 展覧会は大成功であった。しかし、作品制作に専心する余り、芋銭は持てる全精力を使い果たしてしまった感がある。年が改まった一月末、芋銭は脳溢血で倒れ、以後、ついに絵筆を持つには至らなかった。小康を得て穏やかな日々を送るその年の暮、令銭は、俳誌「ちまき』の主宰者・川村柳月の訪問を受け親しく談を交わした。それは、「或る日の魚雲亭」と題し、同誌(昭和14年1月発行)に掲載された。

 最後に私は、今まで書いた絵に対する態度を話さう。この前にも話したと思ふが、それは、人格を出すと言うことである。私の言う人格は、宗教的に言うのではない。また道徳的に言うのでもない。白分の言うものの真実な現れ、偽らぬ現れで、その現はれによつて描いてゆくのである。これは字でも同じで、私は弘法大師の筆蹟を少し習つたが、結局は私自身の現はれの書であつて、絵を描く時と同じ気持である。俳旬もさうであると思ふ。この身体の様子では、暖かくなれば、「ちまき」の色紙も描けるであろう、もう大きなのはやめて、俳画をこれからたのしみに書いてゆきたい。年内の正月のように私は、今日気分がとてもよい・・・静かだ。(昭和13年12月3日、牛久沼に小川芋銭画伯の談話を筆記す。文責柳月)

 その月の17日、画聖は七十一年の生涯を静かに閉じた。(牛久市 小川芋銭研究センター 首席学芸員)


注) 「弓削家画室の廊下にて」 「図4 田家瑞雪」 「図6 小六月」 「小川芋銭」 は tanupon 編集にて画像を追加させていただきました。

小川芋銭全作品集

2013年3月、芋銭研究の決定版ともいうべき、素晴らしい内容の作品集が誕生しました。
上記特別寄稿の牛久市 小川芋銭研究センター 首席学芸員の北畠健氏が編著者となり、
利根町からは、小川芋銭研究会の香取達彦・二見達夫両氏が編集員として、尽力されました。

永年の研究により、日本全国津々浦々の芋銭作品をもれなく掲載しています。
贋作が数多く作られた芋銭ですが、その真贋を高い精度で見極めた珠玉の逸品、
芋銭ファンなら見逃せない作品集です。

小川芋銭全作品集

出典と参考文献


(13/07/14) (撮影 11/06/19)