タヌポンの利根ぽんぽ行 下曽根の路傍

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下曽根地区の路傍。いかにも何かがありそうな雰囲気の場所です。

大きな樹が2本立っていてその下にはベンチが置いてあります。
標識が見当たらないのですが、ここは町の福祉バスの停留所となっているようです。

その樹木の陰に4基の石祠がひっそりと立っていました。

そこからさらに早尾方面へ少し歩いていくと右手に路地がカーブするように分かれています。
その細道に入って行くとまもなく、民家の間に
利根町のほかの大師よりも大きな大師堂が建っていました。すぐ先右手に公民館があります。

本コンテンツは2015年3月に、約8ヵ月ぶりでサイト更新したものです。


利根町西部マップ

旧松木村の道祖神

懐かしい光景

2本の大樹とベンチ

まさに田舎のバス停という感じです。

利根町役場の裏手の道を北上、
利根フレッシュタウンを縦断して、
信号を越え、早尾方面に向かった
途中の右手に見えてきます。

ここは昔、松木村と呼ばれていました。
(現在は利根町下曽根)

この陰に石祠が隠れているとは
長い間知りませんでした。
なぜか散歩のとき反対側ばかり
歩いていたのです。不思議ですね。

『利根町史』の1992年の写真では
背景が水田になっています。
いまは畑でしょうか。

左のほうは何か建物が建つのか工事中のような感じですが、8年経った現在でもこのまま、変化がありません。
2015年現在も工事中ではなく、よく見るとどうもこれは自動車関連会社?敷地の単純な塀のようです。

松木村の変遷

『広報とね―利根町の歴史散歩(第259号)』によれば・・・。

寞文3年(1663)9月から行われた新利根川の御普請によって、
押付からみのわだ(地名)までの道のり八里八丁(約三十三キロ)が堀り割られました。
利根町では、松木村、行徳村、中田切村、下曾根新田等が、川敷の代替え地として
印旛沼畔(現在の千葉県本埜村)に移転しました。
その後、中田切と下曾根新田は新利根川が廃川になって戻って来ましたが、松木村と行徳村は立ち返ることなく、
今は松木という字名のみが道祖神とともに残っています。

道祖神の石祠4基

『利根町史第五巻』には、この場所に道祖神以外で、十六夜念仏供養塔(明治9年)と記されていましたが、見当りません。
また、道祖神の石祠でも、「本社 明治二十六年(1893)建立」とありますが、それも見つかりませんでした。

石祠4基

4基並んだ石祠が見えます。

いずれも道祖神で、
祭神は久那戸神(くなとのかみ)

ただし、道祖神と読めるのは、
左から1基目と2基目の石祠。
残りの2基はまったく読めません。

もっとも、道祖神は、
表面に刻銘されていないものも
多いのですが・・・。

左から、
本体: 高44cm、幅23cm、厚20cm。
本体: 高43cm、幅28cm、厚23cm。
本体: 高60cm、幅39cm、厚32cm。
本体: 高54cm、幅38cm、厚20cm。

不明な建立日など

以下が2番目の石祠の左側面で、「午」の字が読めそうですが、明治26年の干支=癸巳とは符合しません。
いちばん上の文字も「大」に見え、これが「天」だとすると、天保5年甲午(1834)3月吉日と推定できます。
いずれにせよ明治とは読めません。右側面には「押付新田」とあり、願主・施主の出身地でしょうか。

不明な建立日 押付新田
不明な建立日2

左は、4基のうちメインと思われる、
右から2基目の大き目の石祠の側面ですが、
これも、明治年代ではなく、
文化六巳三月吉日」銘となっています。
文化6年(1809)9月の建立です。

表面は文字が読めませんが、
道祖神が風化して消えたのかどうか・・・。

そうなると、町史の明治26年等は、
いったいどれが該当するのでしょう。

いずれにせよ「十六夜念仏供養塔」は、ありません。

道祖神の逸話

2本の大樹とベンチ

松木村の道祖神には、ちょっと怖い逸話があります。
ただ現在の道祖神の石祠というより、
ここに昔あったご神木に関連する話ですが、
松の老木は枯死したようですが、現在残っている
欅と榎が、ご神木なのかも知れません。
そして、怖い逸話とは・・・ここからすぐ東にある、
泪塚押付新田の鶴殺し事件 に関連する話です。


前述の『広報とね―利根町の歴史散歩(第259号)』には
松木村の道祖神と題して以下の文が・・・

道路に沿って、四基の道祖神の石塔が建てられています。
『松木村に祈り道祖神という小社があって、怨敵のあるものは、この社の御神木に相手の似姿を描いて、釘で打ちつけてお祈りすると、たちまちその人が死ぬとのことであった。』(毛吹草から)
大きな欅と榎があり、松の老木は枯死して切り株のみを残しています。

『毛吹草』とは、「利根町の鶴殺し伝説」という副題で、蜀 亭という人が物語風に事件の経過を綴ったものです。
では、当該項目を以下、もっと詳しく引用紹介します。

第二十章 治部九郎乱心の事
      附り(つけたり) 権左衛門死去の事
 易に凡龍悔あり、という言葉がある。これは己れの威をほこっても、それに随ってくれる賢人がいなければ、つまりは後悔するという心をあらわしたものだ。
 治部九郎もまた、自分の立場に威をほこって、組下の者を奴僕よりも軽く取扱いすぎた。このため、のちのちにいたって人の妬みを受け、村中一致して諸帳面調べを受けたところ、ことのほかの強欲ぶりがあらわれ、名主を辞めさせられている。その翌年の夏には、さらに疫病にかかって家内七人の者がつぎつぎに死んだ。生き残った治部九郎自身も、病気がなおってみると気が狂っていた。
 ヤレ、火の玉か転げる。ソレ火の玉が自分を追いかけてくるのと、そのあたり一帯を叫び歩いて、世の中の人から『火の玉法師』と呼ばれるようになった。
 そののち牛堀という所で、他人の家に火をかけて焼き、自分も、そこの堀に身を投げて死んだという。
 一方、松木村には祈り道祖神という小社があった。怨敵あるものは、この社のご神木に相手の似姿描いたものを釘で打ちつけて祈ると、たちまちその人が死ぬとのことであった。もっとも、祈りをした人にも少なからぬ災いがあるという。
 その帰り災いも引き受ける覚悟でやるとすれば、よほど深い怨念なしにはできるものではない。ある目、権左衛門の絵姿描いたものに数百本の釘を打ちつけ、例のご神木にはりつけてあるのを村人がみた。何者がやったのか怖しいことであった。村人は、それを見つけたからといって、権左衛門にそう告げるわけにもいかず、そのままだまって見すごしていた。やがて、権左衛門も、自然自然につまらぬことに悩み、そして苦しむようになった。そんなある日、権左衛門の縁者が、例の絵をみつけ出して、あわてて偉い坊さんを招き、祈祷をしたうえで、その釘を抜きとった。しかしそのしるしもなかった。
 後には歩行も容易ならぬようになり、言う言葉もわけがわからなくなった。そして、理由もない事に腹を立て、家中のものを叱りつけてはわめきちらした。
 そんなある日、何ものかに誘い出されるように縁側までいざり出て、げらげらと笑いつづけた。その笑いも長くはつづかなかった。急に笑いやめると、目をつりあげて門口をにらみつけ、ヤレ、ソレと夢中でせきたてていたが、おそろしや、アレ鬼よ、火の車よ、と声を限りに叫びながら、奥へ逃げもどろうとした。しかし、ひざが立たず、そばに掛けてあった棕梠ぼうきを取ると、それを振りまわして追い払い、打ちはらいしながら、わあっとばかりに庭に倒れ落ち、そこで血を吐き、目玉を剥いて死んだのである。
  このありさまを見て、心深く動かされぬものはなかった。

ちなみに、乱心して死去した治部九郎は行徳新田名主、怨念により狂い死んだ権左衛門は松木村の名主。
いずれも、この事件の悪漢役、山崎群平の手下となって動いた者です。

「大師・観音」堂

「大師と観音」堂

旧松木村の道祖神から早尾方面に
200mほどさらに北上すると、小路が
右手に分かれてのびています。
その小路に入ってしばらく進むと
道は二股に分かれていますが、
直進せずに右のほうに行くと、右手に
四郡大師のお堂が見えてきます。

よく見る大師堂より大きな建物です。
でもよく見ると、祀られているのは、
大師だけではないようです。

新築寄贈額

寄贈

堂の上部に掲げられた額。
この堂の新築に関するものです。

平成六年三月吉日」とあり、
平成6年(1994)3月に
右記の人たちによって
寄贈されたことが
記されています。

一、鈴木茂雄
一、鈴木貞夫
一、山田克己
一、直井祐一
一、湯原 明
一、河村義一
一、吉浜 功
一、河村 ョ
一、山田由紀子
一、直井たか
一、河村工務店


さて、では、右の扉から開けて、中を見てみましょう。

大師70番

大師70番

祠の右が四郡大師堂です。
大師像が安置されています。

番号札は70番となっています。

本体: 高37cm、幅23cm、厚15cm。
台石: 高9cm、幅29cm、厚22cm。

札所70番

如意輪観音塔

如意輪観音塔

次に、左の扉を開けると・・・。

他の地区の大師堂にはない
観音像が安置されています。
一見、子安観音かと思いましたが、
赤子を抱いていないし、
半跏思惟の独特のポーズは、
如意輪観音の場合が多いです。
よくある供養塔の顔とはちがうので、
迷いましたが、ここでは、
「如意輪観音塔」としておきます。

もっとも、十九夜塔造立などでは、
当初の如意輪観音から、次第に、
子安観音へと変化していくという
調査結果もあるようです。
女人講中など女性にとっては
身近な観音様ではありますね。

賽銭箱も大師とそれぞれにひとつずつあるのはご愛嬌でしょうか。それとも、神様は嫉妬深いのかな。
ちなみに、さきほどの二股のところを直進すると別の 観音堂 があります。

像の右側面には、「文政十亥三月吉日」。文政10年(1827)3月の建立が記されています。
また、左側面には、「上組 女人講中」とあります。この「上組」とは、現在位置で考えれば、下曽根の「上組」でしょうか。
それにしても、光背がせっかくあるのに表面になにも刻銘されていないのは・・・。あっと、もしかして裏面に?また宿題?

如意輪観音右側面 如意輪観音 如意輪観音左側面

本体: 高68cm、幅30cm、厚18cm。


(15/03/20・12/07/03 追記再構成) (06/04/20) (撮影 14/06/23・12/06/23・12/06/15・09/03/29・07/05/05・06/09/10・05/08/20・05/04/17)


本コンテンツの石造物データ → 下曽根の路傍石造物一覧.xlsx (11KB)