タヌポンの利根ぽんぽ行 岸本調和と元禄句巻

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岸本調和と元禄句巻
目次


日頃懇意にさせていただいている豊島昌三さんのお宅に訪問したときのこと。
「こんなのがあります」と、見せていただいたのが、元禄時代に記された句巻。
近世になって複製されたものではなく江戸元禄期当時のまさに「ホンモノ」です。

俳諧にはまるで不勉強で、知識もなにもない tanupon ですが、
一見したところで、これは「ただものではない貴重な史料」と思いました。

利根町史編纂委員会に30年以上も前に、一時、預けられていたというのですが、
この存在はどこかに記されているのでしょうか。tanupon は聞いたことがありませんでした。
どこにもないとしたら、実にもったいない話です。

調べてみると、町史資料集の第2巻にも掲載されてはいません。
どこにも記されていないとしたらいったい編纂委員会はなにをしていたのでしょうか。

実はそれを町史6巻で偶然、見つけました。(それはいささか腑に落ちない論述でしたが・・・)
このおかげで、史料の鑑定等を依頼したという教授の論文の名前が判明しました。

教授とは、現聖徳大学教授中野沙恵氏。
その後、氏と tanupon は幸運にもコンタクトをとることができて、
氏より学会に発表された論文を拝見させていただくことになりました。
それによると、元禄句巻と題して、2013/06/10 付で第1稿を掲載したのですが、
相当な思い違いや誤謬があることを発見しました。

上記の結果を踏まえて、このページは、氏の論文にしたがって、叙述を再編成しました。

なお、「元禄句巻」とは論文前の仮称で、正式には、
論文では「元禄七年調和点前句俳諧」と呼ばれています。


「元禄七年調和点前句俳諧」発見等の経緯

この巻物は、昭和50年頃から、豊島昌三さんの父である浅吉氏から、利根町史編纂委員会に預けられていましたが、
その後、10年ほど経過した昭和60年(1985)に、同じ利根町の香取茂男家からも同様な文書が提出され、それを機に、
編纂委員会から、しかるべき学者先生に、これらの句巻・文書を調べてもらおうということになりました。
(しかし、このとき残念ながら浅吉氏はすでに他界されていたようです。もっと早くに・・・と悔やまれます)

一茶漂白などの著作で知られる井上脩之助氏(当サイト 小林一茶と利根町・一茶の布川行脚 でも紹介)の協力を得て、
近世の俳諧を専門に調査研究をされている日本女子医大国文学講師の中野沙恵氏に調査を依頼しました。
ちなみに、以下が中野沙恵氏の現在の略歴

中野沙恵(なかのさえ): 聖徳大学教授。1943年、東京都生まれ。東京教育大学助手、東京女子医科大学講師、秋草学園短期大学助教授を経て、現在、聖徳大学教授。NHKラジオ第二「古典講読」で「おくのほそ道」を全講。またNHK教育テレビ「古典への招待」で「俳句」の講師を務めた。著書に『氷柱の鉾』(永田書房)、共編著書に『新編芭蕉大成』(三省堂)、『芭蕉ハンドブック』(三省堂)などがある。(いきいきネット/先人の足跡を辿る『おくのほそ道』より)

中野氏は、これらを近々の学会で発表されるということを編纂委員会から豊島家へ報告があったようですが、
学会発表後の経緯については豊島昌三さんはとくに聞いてはいないようです。
直接の提供者である豊島浅吉氏が他界されていたこともあって、豊島家への最終報告に齟齬があったものと思われます。
中野氏からも、これについては「ご逝去後のため、お目にかける事ができませんでした」とメールをいただいています。

編纂委員会から豊島家に届けられた「中野沙恵氏論文前の考察資料」だけで、13/06/10 付で第1稿を掲載したのですが、
いま、論文をここに手にして比べてみると、俳諧の翻刻では、その資料と教授のものとでは何ヵ所か相違がみられます。
最初の翻刻資料は編纂委員会で行い、中野氏からは口頭での概論を付記して豊島家に報告されたものと思われます。
これでは、13/06/10 付のコンテンツには相当の瑕疵があると思われますので、追記よりも、再編成する必要を感じました。
豊島さん(+ tanupon )には、中野氏論文の発表時期も論文タイトルも、その前の時点では知らされていなかったのです。


当該論文名を知りえたのは、利根町史第6巻をたまたま別件で見ていたとき思わぬ記事が見つかったことからです。
それは、第2章「文化を担った人々」の第2節「諸家・口伝の人々」の筆頭で、「香取源右衛門」の項目でした。
要するに俳諧をテーマとした項目ではなく、単なる利根町文化人の人物紹介欄です。以下、引用します。

香取源右衛門清勝 元禄時代に江戸で活躍した前句付俳句の点者に岸本調和がいた。この人の提示した七七の後句に五七五の前句を吟じて投句し、点を競う仲間が布川村(現、利根町)に数人いて、香取茂男家や豊島昌三家にその清書帖や断簡が残されている。『俳文芸』(第三十三号)に中野沙恵氏が「元禄三年調和点前句付清書帖」、『東京女子医科大学看護短期大学研究紀要』第七号 には「元禄七年調和点前句俳諧」など研究成果を発表している。それによれば布川の人であることが明白な者だけでも清勝・調葉・葉菊・調覚 などがいたとあり、その内の清勝は香取家三代目の源右衛門清勝である。この清勝は布川村で名主を勤める傍ら、元禄三年(一六九〇)という早い時点で、前句付俳諧の普及にも一役かっていたのである。布川周辺に俳諧人目が多いのはこうした人の影響にもよろう。

後にも先にも、前句付俳諧について町史で論述しているのは、この部分だけです。紙面の都合もあったとは思いますが、
これはあまりにも短絡的で、とくに豊島家所蔵巻については「清書帖や断簡が残されている」だけの記述にすぎません。

これでは、tanupon が、『東京女子医科大学看護短期大学研究紀要』第七号を手に入れて紹介してやろうではないか、
そんな気持ちにもなるのは、当然ではないでしょうか。当時の編纂委員会のだれかはそれを受け取っているはずでは?
資料館にも残されてはなく、まして豊島家にも届けられていない。どこに消えたのでしょう?

10年も委員会に預けられっぱなしのうえ、「香取家の資料」が提出された時点でやっと鑑定にまわす。その結果、
提出者が亡後のためか、豊島家には中野氏論文の報告もなにもなし。その上、町史での記述は単に上記引用文だけ。
編纂事情があったのかと思いますが、なにか豊島家に対する当時の編纂委員会の姿勢には納得できないものが・・・。

その詮索はともかくとして、なんとか、約30年前の論文をここに手に入れ、広く紹介できることになりました。
在庫の枯渇した論文をわざわざコピーしていただき、送ってくださった中野沙恵教授に感謝するほかありません。

ちなみに、香取家の「元禄三年調和点前句付清書帖」も、その詳細は町史では触れていません。もったいない話です。
また、香取源右衛門についても、蛟蝄神社関連など別の功績等があるはずであり、この項目はいかにも希薄な紹介です。

貴重な文献

中野氏は、豊島家の「元禄七年調和点前句俳諧」について、論文冒頭で以下のようにのべています。

 タテ17.5cm、ヨコ4m46cmの本巻は、10枚の懐紙を貼りあわせてあり、点者は岸本調和。奥書に「調葉雅丈」とあるので、清書巻と思われる。ただし、宮田正信氏が『雑俳史の研究』(昭47、赤尾照文堂)で紹介された、天理図書館綿屋文庫蔵の、調和の元禄16年11月20日興行の豪華な清書帖とは異なり、表装のない質素なものである。
 調和の点した、元禄7年12月20日興行のこの清書巻は、前句付俳諧から雑俳へ移る過渡期のものとして、当時の資料の欠を補う注目すべき点もある と思われるので、ここに翻刻し、解説を加えるゆえんである。

以下、以前の資料等あわせて、「元禄七年調和点前句俳諧」の特筆すべき点をまとめます。

付け句(つけく)とは
連歌、俳諧連歌における遊戯的な文芸のひとつ。連歌、俳諧連歌は本来、発句から始めて参加者が交互に下の句を続けていく集団文芸であるが、逆に下の句(七・七)のお題を用意し、気の利いた上の句(五・七・五)を考えて技巧を競う(前句付け)。付け句から発展した文芸が川柳である。(Wikipedia)

岸本調和と前句付俳諧

「元禄七年調和点前句俳諧」の内容紹介の前に、その点者であった岸本調和および前句付俳諧について説明します。

岸本調和とは

中野氏の論文では、点者の岸本調和は、不角と並んで元禄期の江戸での前句付俳諧(点取俳諧)の点者の雄として活躍した人物。その勢力は江戸のみならず、甲州・羽州・越後・駿府・加州・備中・摂津など広範囲にわたった とあります。

以下は、kotobank より抜粋転載

寛永15年(1638)−正徳5年(1715)。江戸前期の俳人。別号に 壺瓢軒、士斎。奥州浅香山あたりの出身で、寛文中期ごろ、江戸に出る。芝、日本橋1丁目、浅草山谷と転居。俳諧は荻野安静門と伝えられるが、石田未得との関係が深く、また内藤風虎文学サロンの一員でもあった。延宝7年(1679)『富士石』刊行以後、延宝期には江戸を代表する宗匠となる。貞享・元禄期(1684〜1704)には蕉門の台頭により影が薄くなるが、加点俳諧に専心して『洗朱』『十の指』などの前句付集を刊行。元禄期の江戸における俳諧宗匠のあり方を示唆する、典型的な俳人。<参考文献>荻野清「岸本調和の一生」(『俳文学叢説』)

調和の落款と壺瓢軒の印

壺瓢軒の印

句巻の巻末手前に記されたのが、これらの画像。
左は調和の号の「壺瓢軒」印。下左は、調和名と、落款の「不明の字」。
この字はキヘンの榧(かや)をにんべんにした文字のようです。
いずれにせよ、まさに岸本調和関連のものに間違いないでしょう。

下右は、調和の 清書所名「觚堂」
ちなみに「清書所」の実態については、
tanupon の浅学な知識・調査では、「觚堂」と「調和」との関係、
点者(選句者)と清書所の関連がいまいちよく分かりません。

清書所とは、点者・選句者に、依怙贔屓なく正しい評価をさせるために、
作者名抜きにした句の清書をまず行い、点者(選句者)に渡す、
選定後に作者を書き込んでそれをまた清書して懐紙に記す、
そういう役割のものと解釈しましたが・・・。
公明正大な選句をするとしても「清書所」と点者(選句者)とは、
いずれにせよ、密接な関係があったと思われます。

調和の落款 調和の清書所名「觚堂」

前句付俳諧

調和の前句付俳諧(まえくづけ・はいかい)の興行について、中野氏は以下のように説明しています。

元禄句巻の奥書き

前句付俳諧の各興行で1・2位になった作者名と、両朱の点を得た句を集めた 勝句集を、元禄11年(1698)に『五句附洗朱』2巻として刊行、以後『三評風姿十の指』(元禄13年)、『十指追加風月の童』(同13年)、『附句相鎚』(同15年)、『附句続相鎚』(同16年)、『新身研上』(宝永2年)と刊行したことが知られている。そしてこれらの勝句集によって、貞享4年(1687)7月に始まった興行が、宝永2年(1705)1月に至るまで、月並に行なわれたこと、その興行の結果をほぽ洩れることなく示していること、調和の活動が次第に活発になったこと等を知ることができる。貞享(4年=1687)から宝永(2年=1705)にいたる間、元禄7年11月から元禄12年8月、同じく14年5月から同年9月までの期間の資料は欠けている。豊島家蔵の清書巻には「元禄七甲戌年十二月廿日切[右画像参照:元禄7年(1694)年12月20日切]と奥書きにあって、まさにこの 欠の一部を埋める資料 であるといわねばなるまい。

▼ 勝句(かちく)とは、高点句、高い評価を受けた句の意。
1位・2位など、総合点では当然、序列が付くことになります。

▼ 「五・七・五」の前句には「七・七」、「七・七」の前句には「五・七・五」の付け句を。
したがって、後者は「七・七・五・七・五」で詠むことになります。前句はたえず前句で、後句になるということはありません。

五句付から三句付への移行

上記によれば、元禄11年(1698)に「五句附洗朱」2巻を刊行、として突然「五句附」という言葉が出てきます。これは、
前句、つまり点者の出題する第目として5句ある興行という意味のようです。豊島家蔵の清書巻もそうだったのでしょうか。
これについて、中野氏は、岸本調和の刊行した内容について、以下、解説しています。

 最初の勝句集『洗朱』によれば、上巻の巻頭に次のごとくある。

  自貞享四卯秋至元禄七戌冬八年興行
  同自戌中冬遷三句附侭亦俟追板者也。

巻末の3つの前句

 貞享4年(1687)秋から五句附の前句付俳諧をはじめ、元禄7年(1694)冬まで足かけ8年間の興行分についての勝句集であること、元禄7年11月から三句附にうつったこと、三句附にうつった以降の分については追板をすること 等がわかる。その「追板」については、現在のところ該当する集はわかっていない。

『洗朱』巻頭に記されたように、五句付から三句付への移行が行われたが、
その内容を示す肝心の「追板」が不明になっているというのです。
しかし、ところが、として、ここに豊島家蔵の清書巻が登場することになります。
以下、中野氏の解説。

 ところが、本清書巻は前述したように、元禄7年(1694)12月の興行であるうえ、正しくその三句附の興行形態なのである。上位高点者五名の名前を順にあげた後に、「わかれわかれて・・・」「人々の・・・」「にきやか成か・・・」 という3つの前句を記し、それぞれに対する調葉の高点を得た付句があげられているからである。『洗朱』に記された通り、元禄7年11月から、調和は、五句附を止めて三句附にかえていたのだ。それは、おそらく、応募者や応募句が増大したため簡略にせざるをえなかったからなのであろう。

なんと、豊島家清書巻は三句附の興行形態に移行した当初の貴重な文献になる、というわけです。

右上画像が巻末の「わかれわかれて・・・」以下3つの前句と調葉の付け句ですが、
巻末 で本画像を再掲しながら内容について後述します。(→ 前句3題と調葉の付け句3句

▼ 余談ですが、改定前は、三句附・五句附を知らず、「付け句」の題として「にきやか成か・・・」のみ判明と思っていました。
巻末の「わかれわかれて・・・」「人々の・・・」が、三句附の前句(題)の一部であるとはとても想像できませんでした。
豊島家清書巻の冒頭、82句が散逸していたためでもありますが、そもそもの句巻の構成が理解できていませんでした。

勝句集の刊行状況

さて、さらに、中野氏は、前述の調和の勝句集の刊行状況を以下のようにまとめています。

勝句集名 刊行状況(備考)
洗朱 貞享4年(1687)7月5日〜元禄7年(1694)10月20日
(欠) (「追板」の可能性あり。また、それに豊島家清書巻が入れられるべきものと推定)
十の指 元禄12年(1699)9月20日〜同13年3月20日
風月の童 元禄13年(1700)4月5日〜同年9月20日
(欠) (「追板」の可能性あるが、未発見)
相鎚 元禄14年(1701)10月5日〜同15年5月20日
続相鎚 元禄15年(1702)6月5日〜同16年3月5日
新身研上 元禄16年(1703)3月20日〜宝永2年(1705)1月20日

・・・『十の指』以下は半年ずつ月並の興行をまとめて上梓していたことが窺える。現在欠けているところも、おそらくは上梓されていたのではないか。『洗朱』と『十の指』の聞の欠についても、おそらく同様に、調和のいう「追板」が出されていたとみて誤りあるまい。とするなら、本清書巻は、第一勝句集『洗朱』と次の『十の指』の間の欠を補い、調和のいう「追板」に入れられるべき資料の一部ということになるのではなかろうか

と、中野氏は論じています。この指摘はまさに的を射たもののように思われます。

▼ 些末なことで、ひとつ tanupon が気になるのは、
「元禄7年11月から、調和は、五句附を止めて三句附にかえていた」ということですが、この項目冒頭で、
元禄11年(1698)に「五句附洗朱」2巻として刊行・・・というくだりがあり、すべてが三句附に移行したのかどうか。
この「洗朱」だけは、1巻に引き続いて2巻も「五句附」とした例外なのかもしれません。

句巻の構成と「調葉」

元禄句巻つまり「元禄七年調和点前句俳諧」の構成ですが、残念なことに、本来の冒頭の一部が欠損しているようです。
句巻(豊島家清書巻)の冒頭から七・七の句が52句並んでいるのですが、前が欠落しているため肝心の「題」が不明です。
でも、中野氏論文によれば、巻末に記された3つの前句から「にきやか成か・・・」以外がそれに相当すると想定されます。
しかし、その2種の前句は、後半の言葉(以下の・・・部分)が省略されているので、いずれも全体としての句は不明です。

句巻の構成

上記を踏まえて、散逸した部分(推定)も含めて、句巻全体の構成を以下、紹介します。

  1. (散逸部分:81句、前句は、「わかれわかれて・・・」および「人々の・・・」)
  2. 「人々の・・・」を前句とする付け句52句(七・七)
  3. 「にきやか成か家の幸ひ」の前句
  4. 「にきやか成か家の幸ひ」の前句に対する付け句40句(五・七・五)
  5. 奥書1「調和の印・落款と、総合採点記録(両朱10、両長53、増朱110の朱書き)」
  6. 奥書2「元禄七甲戌年十二月廿日切」と「清書所」および調和の清書所名「觚堂」の印
  7. 奥書3「調葉雅丈」銘
  8. 奥書4「1番〜5番勝の褒章記録」
  9. 奥書5「4番勝調葉に関する三句附の句の列記」

以下は、句巻冒頭の散逸部分等に関する中野氏のコメント。

・・・残念なことに、豊島家蔵清書巻は前半が欠けているようだ。本文には、〈賑やか成が家の幸ひ〉という第3番目にあたる前句がみえる以外に、前句は記されていない。現存の付句は92句で、53句目〈三の津は牛馬の蹄鵆足 連夕〉の前に、上記の前句が記され、以下五・七・五の長句が並ぶ。1句目から52句目まではいづれも七・七の短句であるから、第2番目の〈人々の・・・〉という前句に対する付句であろう。付句は52句残ったが、その前句〈人々の・・・〉と(あるいはその付句の一部)、第1番目の前句〈わかれわかれて・・・〉とそれに対する付句とが、散逸したのであろうと思われる。もっとも、奥書の、調和の朱の書き入れによれば、両朱10、両長53、増朱110とあって、この三句付で増朱以上の高点を得た句が合計173句にのぼることを示している。したがって、半分よりやヽ少ない81旬が散逸し、92句が残ったことになろう。ともあれ、この清書巻の全容は不明ながら、三句付にうつった当初の様相を窺わせる資料であることは間違いなかろう。

これについては、本コンテンツ改定前に tanupon が調べた以下の記述と合致しましたので、再掲します。

調和点「両朱・両長・増朱」

両朱・両長・増朱は、調和の採点?

壺瓢軒印と調和落款との間に、それまでに選句されたものの
評価総数と思われる数値が3段階朱書きで記載されています。
数からみても、以下の順位で高い得点になるものと推定されます。

両朱 十
両長 五十三
増朱 百十

この総数を見てみると、合計で、173となります。
これは、句巻で見える句の総数52+40=92より81も多い数。
つまり、81句が欠落しているということになります。

下はその内訳表です。

両朱 両長 増朱 句計
全句数 10 53 110 173
前句不明※1 11 39 52
前句有り※2 13 25 40
差引欠句 29 46 81

※1: 52句中に前句は記されていませんが、〈わかれわかれて・・・〉の次の2番目の前句〈人々の・・・〉に関連するものと思われます。
※2: この40句の直前に3番目の前句〈にきやか成か家の幸ひ〉が記されています。

四番勝「調葉」は豊島家の先祖

なお、句巻の構成の「7. 奥書3」の「調葉雅丈」とは、この句稿の宛先人で、句会の発起人とも言える人。
中野沙恵氏によれば、この「調葉」とは、豊島家の先祖であるとされています。以下「調葉」に関する中野氏の論述。

 ・・・調葉は有力な作家だったらしく、『洗朱』によれば、元禄3年(1690)午正月17日の興行では2位 に「布川調葉」として名があり、〈膝を直せはいとも座に入〉という前句に〈世間も他人のなくは狭からん〉と付けた句が両朱を得て掲出されているほか、同年9月9日にも1位元禄7年(1694)正月25日にも1位 に名があがっている。ちなみに、布川には、調葉 のほかに、調覚葉菊 といった作者がいたことが『洗朱』の勝句者の所付から浮かんでくるが、この両名も、豊島家の清書巻に作品がみえている。この3名を中心に、布川に前句付のサークルがあったらしいことは、本清書巻とは別に、布川に、調和点の清書巻や不角の批点した断簡などが存し、人物が重なることからも推測される。

調葉むろん雅号ですが、「元禄7年(1694)年」時点では、実は、来見寺を開基した豊島家は、断絶しています。
寛永5年(1628)8月の 豊島明重の刃傷事件 のためですが、一部末裔は各地に散在していったことが分かっており、
密かに布川近辺に残ったものも数多くいたのではないかと推定しています。

こうした貴重な文献が代々残されていることや、豊島昌三さんから、いろいろ様ざまなお話しをお聞きすると、
確実とは言えないまでも、豊島昌三家が、豊島頼継の流れを汲む子孫であると思わざるを得ないという気がしています。
tanupon が、お世話になっているからというのでは決してありません。膨大な「豊島浅吉ノート」の存在や、
本サイトでは、まだ言及していない「状況証拠」的なものがいくつかあり、いつかまとめてみたいと思っていますが・・・。

豊島家に残された句巻は、「調葉」の四番勝のものですが、中野氏調べにある元禄3年正月興行の2位、同年9月の1位、
さらに、元7年正月の1位と華々しい活躍をしています。これを記した句巻も本来は存在していたとも思われます。
これが中野氏論文に明記されているわけですから、「豊島調葉」の名で、利根町史に紹介されるべきではないでしょうか。
第2章「文化を担った人々」の第2節「諸家・口伝の人々」の筆頭は、「香取源右衛門」ではなく「豊島調葉」として。

それでは、冒頭が散逸してはいますが、現存している「元禄七年調和点前句俳諧」の巻頭から翻刻を見てみましょう。
今回は、上記の構成表に沿って、以下、紹介します。ただし、難字が多く Web では表記できないものもあります。
また、仮に表記できたものでも、tanupon では読み下しができないものや、意味的にまったく不明のものもあります。
これらは、如何ともしがたいのですが、残念ながら、分からないものは分からない、と記すしかありませんね。

なお、Web では表記不能な文字、および現代文での読み下しで、誤謬がありそうな部分は黄色の地色で示しました。
また、現代文平仮名での読み下しは、中野氏の論文にはなく、すべて tanupon の「迷解読」です。
したがって、この部分は、かなりの誤読がありそうですが、その節はご容赦ください。

句巻冒頭

巻頭から七・七の句がいきなりずらり52句並んでいます。それぞれに、朱書きで 両朱両長増朱 が記されています。
その隣りに、これも 朱書き・縦長で記号のような2本の線 がひかれていますが、前句を想定したものなのでしょうか?
このラインの意味が中野氏の論文を見た後も不明ですが、俳諧の勝句集等を見慣れた人には常識のことかも知れません。
→ 「批点」というものらしいですが、点者により異なる様式があるようです。

この前の81句が欠落し、そこに1番・2番の前句が記されていたと推定されます。52句内に前句が記されていないので、
必然的にこの52句はすべて、2番目の〈人々の・・・〉を前句として詠まれたものということになります。

〈人々の・・・〉の・・・部分が不明ですが、どんな言葉がくるのか想定できればそれも一興。ただし、付け句が七・七なので、
〈人々の・・・〉は、〈人々の・□□□□□□□・□□□□□〉と、後半の七・五が不明ということになります。
同様に、すべて散逸している第1番目の前句と付け句については、前句が〈わかれわかれて・・・〉と語調では七・七と推定。
したがって第1番前句は〈わかれわかれて・□□□□□□□〉であり、後半七が不明。付け句は五・七・五と推定されます。

1-7.両朱1・両長1・増朱5

1-7.両朱1・両長1・増朱5
番号 読み下し 作者
両長 文字の泉に事の涌 もじのいずみに・ことのわくふで 司到
両朱 須弥を鞠に蹴る天地 かっそうしゅみを・まりにけるてんち 湖鳰
増朱 御調に高麗の鳳凰の雛 みつぎにこまの・ほうおうのひな 一宇
増朱 死に花を替(モキ)の首 しにばなをかえる・もきつきのくび 和吟
増朱 硯の海は智恵の用水 すずりのうみは・ちえのようすい 友蛙
増朱 酒中花うかふ殿の金盞 しゅちゅうかうかぶ・とののきんせん 吟夢
増朱 名のミ耕古御前の井戸 なのみたがやす・ふるごぜのいど 仰栄

※ 活僧(かっそう): 知恵のゆたかな、生き生きとした僧。頼りになる僧(日本国語大辞典)
※ 須弥: 須弥山(しゅみせん)の略。古代インドの世界観の中で、世界の中心にそびえるという高山。(Kotobank)
※ 御調(みつぎ): 貢ぎと同。支配下にある国や人民が服従のしるしとして君主に献上する物品。みつぎもの。
※ 扱付: 底本(原本)の「扱」の字に「モキ」とルビがあるが、意味不明。「扱」が「极」(木ヘン)の字と仮定しても不明。


8-14.両朱1・両長3・増朱3

8-14.両朱1・両長3・増朱3
番号 読み下し 作者
両朱 綸旨に洗て下すさかつき りんじにあらいて・くだすさかづき 心悦
両長 壽命酒とは乳の陶(トックリ) じゅみょうしゅとは・ちちのとっくり 一枝
10 増朱 賄賂箱の銘は金柑 まいないばこの・めいはきんかん 風任
11 増朱 餘情の長は鍬の行列 よじょうのちょうは・くわのぎょうれつ 無直
12 両長 松風の的に沢庵の釜 まつかぜのまとに・たくあんのかま 陸船
13 増朱 守敏の砂を止空海 しゅびんのすなを・とどむくうかい 竹夢
14 両長 欲に與する火編の俗字の酌 よくにくみする・ちんどくのしゃく 花麿

※ 綸旨(りんじ)とは、蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書。(Wikipedia)
※ 守敏(しゅびん): 平安時代前期の僧。出自については不詳。弘仁14年(823)嵯峨天皇から空海に東寺が、守敏に西寺が与えられた。翌天長元年(824)畿内が大旱のとき、空海と雨乞の祈祷を競った。空海と守敏とは何事にも対立していたとされる。(Wikipedia、中野氏略注)
※ 鴆毒(ちんどく): 底本では、鴆は火編の俗字になっているが Web では表現できない。鴆という毒鳥のもつ毒。羽を酒に浸して飲めば死ぬということから、転じてその酒、また、その酒にて毒殺することもいう。(中野氏略注)


15-21.両長1・増朱6

15-21.両長1・増朱6
番号 読み下し 作者
15 増朱 空より空を探る卜士(うらカタ) そらよりくうを・さぐるうらかた 和卜
16 増朱 死の使いには開(アク)不老門 しのつかいには・あくふろうもん コリ
17 増朱 女賣買ふ嵯峨の花市 おんなうりかう・さがのはないち 利伯
18 増朱 代々の記録を歳に耕 よよのきろくを・としにたがやす 一木
19 増朱 一の字打は開く唐箱 いちのじうちは・ひらくからばこ 閑也
20 増朱 高麗の御調の當何やら こまのみつぎの・あたりなにやら 掉流
21 両長 氷室に農を慮(ハカル)年占 ひむろにのうを・はかるとしうら 重之

※ 「空より空」は、空は、そら、から、くう、等読み方が多種あるので、この句もどう読むのが正しいか不明。
※ 不老門(ふろうもん):中国、洛陽の城門の一、もしくは、平安京大内裏の豊楽院(ぶらくいん)の北門の意だが、ここでは、それを利用して、文字通りの「不老」の門の意と解釈。


22-28.両長3・増朱4

22-28.両長3・増朱4
番号 読み下し 作者
22 増朱 亞相の光駕不明の字子盛殿 あしょうのこうが・ちょうしもるとの 茂孝
23 両長 冠曲ぬ御嘉定の餅 かんむりままぬ・ごかじょうのもち 櫻枝
24 増朱 妻子は俗の家の居石 さいしはぞくの・いえのすえいし 路行
25 増朱 父母は礼義に懸る秤目 ふぼはれいぎに・かかるはかりめ 林雀
26 両長 豊の民掘濫妨の金 とよのたみほり・らんぼうのかね 如言
27 両長 風月の撫る遠刕の鉦 ふうげつのなでる・えんしゅうのかね 東獣
28 増朱 放下に陶釣る藁の不明の字 ほうかによろこぶ・つるわらのしべ 巴水

※ 亞相(あしょう): 丞相に亜(つ)ぐ意。大納言の唐名。(三省堂大辞林)
※ 光駕: 光臨・来駕に同じ。他人を敬って、その人が訪ねて来ることをいう語。(中野氏略注/kotobank)
※ 22の文字: 金偏に地と記された文字に見えるが、その場合、読み方も意味も不明。
※ 曲のここでの送り仮名、読み方は不明。
※ 嘉定: 嘉定喰(かじょうぐい)。陰暦6月16日に行なわれた行事。16個のもちまたは菓子を神に供え、それを食べて疫病を払った。『日次紀事』(貞享2年)の6月16日(公事)に「今日、公家・武家、同じく嘉定の祝儀あり。中古より今日まで、良賤、嘉定銭16枚をもって食物を買ひ、これを食す」とある。嘉祥と同様。(中野氏略注)
※ 居石:すえいし、と読む。他に、おりいし、など苗字に用いられる。
※ 秤目(はかりめ):1 秤竿(はかりざお)に刻んである目盛り。2 はかった重さ・分量。量目(りょうめ)。(goo 辞書)
※ 濫妨(らんぼう)とは、暴力を使って物を奪い取ること。乱暴と同じ意味?これが語源?
※ 放下(ほうか): 田楽から転化した大道芸。品玉(しなだま)・輪鼓(りゅうご)などの曲芸や手品を演じ、小切子(こきりこ)を鳴らしながら小歌などをうたったもの。室町中期に発生、明治以後、名称は絶えたが、その一部は寄席芸・民俗芸能として今日に伝わる。(goo 辞書)
※ 28の文字: 蘂ずいの俗字。花のしべ。花の内心。(中野氏略注)


29-35.両長3・増朱4

29-35.両長3・増朱4
番号 読み下し 作者
29 増朱 命砕(ワリ)出す温公か瓶 いのちわりだす・おんこうがかめ 挙石
30 両長 砥石にのせぬ四尺正宗 といしにのせぬ・ししゃくまさむね 柳燕
31 両長 薬師の瑠璃の壼の煉薬 くすしのるりの・つぼのれんやく 文水
32 両長 要石より印判の法 かなめいしより・いんばんのほう 遊夢
33 増朱 王子にあらす産は不明の字 おうじにあらず・さんはてつまる 寸要
34 増朱 禁裏へ捧く民の初米 きんりへささぐ・たみのはつまい 一彳
35 増朱 瀬戸のふり袖千貫の札 せとのふりそで・せんがんのふだ 沢水

※ 温公とは、中国の司馬光(しばこう、1019−1086年)。北宋代の儒学者、歴史家、政治家。神童伝説として、「温公の瓶割り」があります。子供のころ、友だちと遊んでいて、一人が誤って水瓶に落ちてしまう。他の子供はただおろおろしていたが、司馬光は石を投げて水がめを割り、仲間を救い出したというもの(Wikipedia)。この句は、その伝説そのものですね。
※ 煉薬(れんやく): 練薬と同。ねりぐすり。
※ 33の文字: 鐵の古文。(中野氏略注)


36-42.増朱7

36-42.増朱7
番号 読み下し 作者
36 増朱 米一蔵を印判に貸 こめひとくらを・いんばんにかす ノ二
37 増朱 内侍所は王法の規矩 ないしどころは・おうほうのきく 言口
38 増朱 筆に働啞の辨舌 ふでにはたらく・おしのべんぜつ 一鳳
39 増朱 半身畫我が真 はんしんえがく・われがしんそう 葉菊
40 増朱 事僧焼火の庫裏の十能 じそうしょうかの・くりのじゅうのう 調カク
41 増朱 雨月の誘ふ御所の景物 うげつのさそう・ごしょのけいぶつ
42 増朱 日本(クニ)の智恵見三韓の書(フミ) くにのちえみる・さんかんのふみ 朝嵐

※ 内侍所(ないしどころ): 内裏で神鏡を安置する場所。女官の内侍が守護。
※ 十能(什能、じゅうのう): 柄杓(ひしゃく)形の炭や灰を運ぶための農具。


43-49.増朱7

43-49.増朱7
番号 読み下し 作者
43 増朱 朝飯夕飯天地の恵 あさげゆうげは・てんちのめぐみ 未醒
44 増朱 忠義には討親の首箱 ちゅうぎにはうつ・おやのくびばこ 嵐松
45 増朱 愛子に六分わける千金 まなこにろくぶ・わけるせんきん 團子
46 増朱 不明の字(ホトリ)せぬ祖父か虫干 どうほとりせぬ・そふがむしぼし 荷渓
47 増朱 劔の中心方心の心 けんのちゅうしん・ほうしんのしん 仮吟
48 増朱 一生喰へは万石の糧 いっしょうくえば・まんごくのかて 山風
49 増朱 印判壹つむかふ万石 いんばんひとつ・むかうまんごく 風子

※ 朝飯夕飯: この場合、朝餉(あさげ)夕餉(ゆうげ)と読まないと破調になる。


50-52.増朱3

50-52.増朱3

52句までが、第2の前句「人々の・・・」の付け句です。
この直後に、第3の前句「賑やか成が家の幸ひ」が続きます。

番号 読み下し 作者
50 増朱 硯の気類活石の魂 すずりのきるい・いきいしのたま 調蒿
51 増朱 三千の寵伽羅の間の煤 さんぜんのちょう・きゃらのまのすす 柳石
52 増朱 景物誰か汲ん玉釣瓶(マリ) けいぶつたれか・くまんたままり 如艶

第3の前句「賑やか成が家の幸ひ」

第3の前句の直後から、五・七・五の付け句が列記され、これも、朱書きで 両朱両長増朱 の採点がされています。

前句と53-57.両長1・増朱4

前句と53-57.両長1・増朱4
番号 読み下し 作者
(第3の前句)    賑やか成が家の幸ひ にぎやかなりが・いえのさいわい 調和
53 増朱 三の津は牛馬の蹄鵆足 さんのつは・ぎゅうばのひづめ・ちどりあし 連夕
54 増朱 竈塗に盗め長者の庭の瘤 そうぬりに・ぬすめちょうじゃの・にわのこぶ 蛙水
55 両長 不明の字す十二の胸衣の土用干 うごめかす・じゅうにのころもの・どようぼし 凹水
56 増朱 昼寝せし百代生ても日の費 ひるねせし・はくたいいきても・ひのついえ 三松
57 増朱 僮僕と苦楽倶にす貨殖傳 どうぼくと・くらくともにす・かしょくでん 芦汀

※ 僮僕=童僕(どうぼく)。召使いの少年。
※ 貨殖傅: 『史記』の列伝の一。高名な富豪の伝記を記している。(中野氏略注)


58-64.両長2・増朱5

58-64.両長2・増朱5
番号 読み下し 作者
58 増朱 (セナ)笑ひ不明の字(ベツ)と阿和啞と三調子 せなわらい・べっとあわあと・さんちょうし 和凍
59 増朱 常不断明石齅鼻須磨見る眼 つねふだん・あかしかぎばな・すまみるめ 挙叟
60 増朱 禄繁る功名は我身の林 ろくしげる・こうみょうはわが・みのはやし 永田
61 増朱 摺小木は七福神の楽の撥 すりこぎは・しちふくじんの・がくのばち 不明の字
62 増朱 餅花も香はゝ集に讀込ん もちばなも・かははしゅう・よみこまん 鵬鵡
63 両長 哥なしに搗米喰ぬ嘉例にて うたなしに・つきごめくわぬ・かれいにて 浮水
64 両長 雛幟いはゝ一祖(ミオヤ)の神祭 ひなのぼり・いわばみおやの・かみまつり 無真

※ 58の文字: 口編に台の字( Web では表記不能)の本字。ここは、溜息をつく義のホットの意で用いたか。(中野氏略注)
※ 明石齅鼻須磨見る眼は、明石かぐ鼻は、赤しカギ鼻、すま見る眼は、眇め(すがめ)の洒落でしょうか。
※ みおや: 御祖。親や先祖を敬っていう語。多く、母・祖母をさす。(三省堂大辞林)


65-71.両長3・増朱4

65-71.両長3・増朱4
番号 読み下し 作者
65 両長 不明の字(サカホコ)の滴り潜子安貝 さかほこの・したたりくぐれ・こやすがい 不明の字
66 増朱 五節には熨斗て髪結里の尉 ごせちには・のしでかみゆう・さとのじょう 正秀
67 両長 御即位の旦は比叡も動く気味 ごそくいの・あさはひえいも・うごくきみ 山巻
68 増朱 二姪の粧ひ卯花牡 ふたひめの・よそおいうばな・ぼたん− 海車
69 増朱 桃さくら雛の饗の五百膳 ももさくら・ひよこのうけの・ごひゃくぜん 陸船
70 増朱 碓の十雷に鳴勝て からうすの・じゅうをらいに・なりかちて 未覚
71 両長 猿丸の不明の字くらゐ山 さるまるの・あかぎれいやす・くらいやま 文翁

※ 五節: 1 奈良時代以後、大嘗祭(だいじょうさい)・新嘗祭(にいなめさい)に行われた五節の舞を中心とする宮中行事。例年陰暦11月、中の丑(うし)の日に帳台の試み、寅(とら)の日に殿上(てんじょう)の淵酔(えんずい)、その夜、御前(ごぜん)の試み、卯(う)の日に童御覧(わらわごらん)、辰(たつ)の日に豊明(とよのあかり)の節会(せちえ)の儀が行われた。のちには大嘗祭のときだけに行われた。ごせつ。《季 冬》2 「五節の舞」の略。3 「五節の舞姫」の略。◆五節の名は「春秋左氏伝」にみえる、遅・速・本・末・中という音律の五声(節)に基づくといわれ、舞は天武天皇の吉野の滝の宮で、神女が袖を五度翻して舞った故事によるという。(Kotobank)


72-78.両長1・増朱6

72-78.両長1・増朱6
番号 読み下し 作者
72 増朱 玄孫も八十か内の鼡算 やしゃごも・やそがうちの・ねずみざん 友志
73 両長 不明の字(トウマル)は鳳凰犬も我麒麟 とうまるは・ほうおういぬも・わがきりん コリ
74 増朱 妻子囃せ我大黒の置頭巾 さいしはやせ・われだいこくの・おきずきん 不明の字
75 増朱 人青葉の紅葉花木の実 おわるひと・あおばのもみじ・はなきのみ 林雀
76 増朱 日の不老花鳥月に雪は順 ひのふろう・かちょうづきに・ゆきはじゅん 東獣
77 増朱 披搆する花鳥風月の四方不明の字(ミセ) ひこうする・かちょうふうげつ・のよもみせ 忠郷
78 増朱 替て阿吽と釜の呻やう いえかえて・あうんとかまの・うなりよう 風瓢

※ 置頭巾(おきずきん): 近世、袱紗(ふくさ)の形をした布を二つ折りにして頭にのせたもの。また、丸頭巾のこと。(Kotobank)


79-85.両長3・増朱4

79-85.両長3・増朱4
番号 読み下し 作者
79 両長 婦の媚海棠の酒はやし はしための・こびかいどうの・さけはやし 白鴎
80 増朱 同苗は吉野よし原吉田町 どうびょうは・よしのよしわら・よしだまち 政直
81 両長 鸞臺の曲ぬを世の不明の字 らんだいの・まがり□まぬを・よのまこと 銕卜
82 増朱 雞犬の扶持米分て五十石 けいけんの・ふちまいわけて・ごじゅっこく 不明の字
83 両長 長官は七神主の七のほり ちょうかんは・ななかんぬしの・ななのぼり 柳燕
84 増朱 屠蘇嘗て飛や囀れ紙の蝶 とそなめて・とべやさえずれ・かみのちょう 不明の字
85 増朱 よろこふを柱の角に拾ひけり よろこぶを・はしらのかどに・ひろいけり 文水

※ 鸞臺(らんだい): 宏壮美麗な楼台。(中野氏補注)この句は後半がさっぱり不明。


86-92.両朱2・両長2・増朱3

86-92.両朱2・両長2・増朱3
番号 読み下し 作者
86 両朱 七福と丁ど七藏七竈 ななふくと・ちょうどななくら・ななかまど 味和
87 両朱 蓬莱の菓に秋の季をもたず ほうらいの・かみにあきの・きをもたず 一咲
88 増朱 牛飼もなまめくけふの入内君 うしかいも・なまめくきょうの・じゅだいくん 朝嵐
89 両長 節米や立臼三から九人搗(ヅキ) せつまいや・たちうすさんから・くにんづき 未醒
90 増朱 宇治橋を渡り始て菩薩号 うじばしを・わたりはじめて・ぼさつごう 誘志
91 増朱 四木よりけふ餅花の八重さくら よつぎより・きょうもちばなの・やえざくら 山風
92 両長 骨牌(カルタ)名に梨壺の五人 かるためす・なになしつぼの・ごにんづめ 調蒿

※ 秋は、偏と旁が左右反対の異体字になっています。
※ 梨壺の五人(なしつぼのごにん): 天暦5年(951)村上天皇の命により、平安御所七殿五舎のひとつである昭陽舎に置かれた和歌所の寄人。昭陽舎の庭には梨の木が植えられていたことから梨壺と呼ばれた。『万葉集』の解読、『後撰和歌集』の編纂などを行った。以下の5人。大中臣能宣・源順・清原元輔・坂上望城・紀時文。(Wikipedia)


最後にやっと 両朱 が2句、登場しました。うーん、あなたの評価は、どうでしたでしょうか。読めない字が多かったですね。
採点以前に、意味不明な記号のような文字もあり、なかなか難しいです。81句目は|□など、まったく手に負えません。

奥書

さて、以下は、奥書・巻末部分ですが、上記の92句目の〈骨牌召ス名に梨壺の五人詰〉の直後が以下の画像。

前述 句巻の構成 の奥書1〜3の部分ですが、これについてはすでに説明しましたので解説は省略します。

5. 奥書1「調和の印・落款と、総合採点記録(両朱10、両長53、増朱110の朱書き)
6. 奥書2「元禄七甲戌年十二月廿日切」と「清書所」および調和の清書所名「觚堂」の印。
7. 奥書3「調葉雅丈」銘

奥書

巻末

前述奥書の「調葉雅丈」銘直後から巻末までが以下の画像。前半1〜5で紹介されているのは、
総合点数の高かったランキングで、「調葉雅丈」が「四番勝」になったことを示すものです。
そして、その後に続く一連の句は、前述した三句付による興行においての前句3句とそれに答えた「調葉」の付け句です。

1位ではない4位の「調葉雅丈」の句だけが、なぜここに記されているのでしょうか。
ちなみに、3番前句〈賑やか成〜〉に対する「調葉」の付け句は、一文字の「朱」の評価点ですが、
前述40句には入れられていません。ほかの2句も散逸部分があったとはいえ、重複を避けたのか見当たりません。

「調葉」が、この句会興行の主催者であったから、というのが妥当なそれらの理由かと当初、思いましたが、
中野氏が、これについて興味深い解説をしています。以下。

清書巻は高点者への褒美

 次に、本清書巻か、どのような性恪かを考えてみたい。宮田正信氏(前掲書)によれば、天理図書館蔵の調和点の清書巻3巻一部からみて、調和は、各興行毎に 一番勝句の作者に、高点順に清書した選句帖とその作者所属の取次所別の句稿の清書帖に加点したもの、の2点を褒美として与えた、という。そのほか、二番以下五番(のちには十番)までの勝句作者にもそれぞれ褒美が出された らしい。本清書巻は上のうちの第3番目にあたるのではなかろうか。

 調葉が四番勝であったことは、本清書巻の巻末にある通りである。ところで、『十の指』などには、「右五番迄懐紙褒進之」(元禄12年9月20日興行の条)とあって、一番から五番までの高点勝句者に褒美として「懐紙」が与えられた旨みえるが、その「懐紙」にあたるのがこの清書巻 なのではなかろうか。「懐紙」は文字通りの懐紙を指すのではない。応募句の増加につれて、高点勝句者に「家々之秀逸小冊」を配った(『十の指』元禄12年11月5日興行の条)、とも記されている。「家々之秀逸小冊」を、潁原退蔵博士は勝句集とは別に添えた板行の小冊(「雑俳川柳史考」『潁原退蔵著作集』14巻)と考えておられたようだが、むしろ、本清書巻の形を「懐紙」といい、もしくは「家々之秀逸小冊」といった のではないだろうか。おそらく、元禄期のはじめは「懐紙」とよぶにふさわしい、本清書巻のごとく、懐紙を貼りあわせ、増朱以上の高点句と作者名を清書した形であったのが、応募句の増すに従い、小冊の形になっていったのではないか、と思われる。
 また、「家々之秀逸小冊」という表現は、本清書巻が、増朱以上の付句ばかりで、無点の句がない、という事実にも符合している。

※ 潁原退蔵(えばら・たいぞう、1894年2月1日−1948年8月30日)は、日本の国文学者。元京都大学教授。文学博士。専門は近世文学。俳諧の研究を中心とした実証的学を確立した。(Wikipedia)

なるほど、この句巻は、四番勝の好成績であった「調葉雅丈」に褒美として与えられた、
「懐紙」(もしくは「家々之秀逸小冊」)であった、ということですね。
「調葉」は、前述したように、ほかの興行で1位・2位など数回獲得しているそうです。
それらの褒美の「懐紙」が現存していれば・・・と残念に思います。

大懐帋 一 木撨
同 長以上 二 無真
朱以上 三 東獣
増以上 四 調葉
両長以上 五 野狐

左の序列の肩書ですが、「大懐帋」と「同 長以上」はともかくとして、
「朱以上」「増以上」「両長以上」は順序が逆では、と思ったりします。
この言葉のそれぞれのもつ意味合いもよく理解できません。

ちなみに、五番勝の「野狐」の句は清書巻には見当たりません。
おそらく第1番前句での付け句が好成績だったのでしょう。
三番勝「東獣」は、27番で両長、76番で増朱と2句掲載。
二番勝「無真」は、64番で両長の1句だけ。
一位の「木撨」は、16番で増朱、73番両長と2句あります。

本清書巻に名が見える作者は、ほかの興行でも活躍。また所付で興行が広範囲の広がっていることを中野氏が指摘。
また、作風が、概しておだやかであることから、この時点ではまだ前句附俳諧が盛んであったということです。

 なお、本清書巻を、『洗朱』にみえる勝句者名と照合すると、両方に名前のみえる作者は19名に及ぶ。そのうち、たとえば、本清書巻で〈砥石にのせぬ四尺正宗〉〈長官は七神主の七のほり〉の2句の作者 柳燕 は、『洗朱』の元禄3年4月19日興行で1位、同6月6日の興行で両朱を得た米沢の柳燕と同一人物であろうし、三番勝の 東獣 は甲府、五番勝の 野狐 は葛西の作者と思われ、同様に『洗朱』の勝句者名と所付から、 未醒 (駿府)・ 葉菊 (布川)・ 沢水 (甲州・駿府の両方の所付あり)・ 蛙水 (越後高田)・ 林雀 (葛西)・ 白鴎 (甲州)・ 政直 (甲府)・ 雁木 (米沢)の所付が判明、布川以外のかなり広範囲に広がっていることが認められる。
 作風は、おおむね穏やかで、潁原博士が「まだ前句附が俳諧の一方便たる態度を十分保ってはゐる」(「雑俳前史」『潁原退蔵著作集』13巻」と概評された如くである。

巻末

前句3題と調葉の付け句3句

       ワかれワかれて -------- 四番勝 調葉
両朱 子の女郎ハ上京を売也木幡柴 このじょろうは・じょうきょうをうるなり・こばたしば
       人々の --------
不明の字荷の夜は空(カラ)も燈蓋 □□□のよは・からもとうだい
       にぎやか成か --------
孫出来て又破魔弓に千代の朶(エタ) まごできて・またはまゆみに・ちよのえだ

第3前句はすべてが分かるのですが、第1・第2の前句は、------------と後半省略されているのがなんとも残念です。
これまでに出てこなかった「朱」一文字の評価点が付けられていますが、「増朱」以下の得点なのかどうか不明です。
付け句1句目は、読み方が不明で、素直に読んだら破調になってしまいます。高得点のようですがこれでは・・・。
2句目は冒頭1文字が解読できず、谷偏に包という字は漢和辞典でも見つかりません。したがって意味も不明。
3句目だけがなんとか理解できますが、四番勝というのに、教養の無さのせいかどうも消化不良で困ったものです(笑)。

古文書雑感と編集後記

感想としては、古文書の解読は難解であると同時に、仮に文字が判明したとしても、意味が不明であるとか、難物です。
そして、tanupon にとって最大の難関は、Web 上で文字が表現できない場合が多いということです。
これらは、将来、解決していくことなのでしょうか。中国の簡体字やハングル文字のことを思うと、
文献解読作業自体が、時代のIT化に逆行しているような印象すら覚えます。
でも、昔より表現できる漢字も増えましたが・・・。異体字や変体かなもワープロで簡単に出せるようにして欲しいと・・・。

さて、思い切って中野沙恵教授にコンタクトをとって幸いにも、論文を拝読させていただきました。
いまから思えば、前の原稿はあまりにも誤謬が多く、赤面の至りです。
改訂作業をやりながら、早く修正原稿をUPしたいと、気ばかり焦っていた次第です。
もう少し、自力で肉付けできるところを研究して・・・と思っていますが、
とりあえず、教授の論文にしたがって大幅に修正し、ここに掲載します。

問い合わせたその日に論文の送付を快諾いただいた中野沙恵教授に、改めてお礼申し上げます。(13/07/29)


(13/09/19・13/08/29・13/07/29 追記再構成) (13/06/10) (撮影 13/06/08)